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ISIS chanとISIL kun(ムスリムの子供達)その51 パラオ

2016-06-19 13:00:16 | 日記

パラオは、488平方キロメートル(屋久島とほぼ同じ)、人口221,097人(2014年、世界銀行)、太平洋上のミクロネシア地域の島々からなる国です。

首都はマルキョクで、最大の島、バベルダオブ島の東岸に位置します。2006年10月7日にコロール島にありパラオ国民の過半数が住む旧首都のコロールから遷都しました。

首都マルキョクやロマン・トメトゥチェル国際空港のあるバベルダオブ島と旧首都のあるコロール島とはKBブリッジ(Koror Babeldaob Bridge)と呼ばれる橋で結ばれています。

1977年に建設された旧KBブリッジは1996年に突然崩落、同時に電気、水道などのライフラインも失われたため旧首都のコロールの都市機能は麻痺し、パラオは非常事態宣言を発令しました。コロールからマルキョクに遷都した原因の一つです。

現在の橋はパラオからの求めに応じ、日本が無償援助にて建設、2002年に開通したもので「日本・パラオ友好の橋」と呼ばれています。

パラオは南北およそ640Kmに渡り200以上の島々が散在しますが、このうち人が住んでいるのは9島のみで残りの大多数は無人島です。地質はおもに火山島と隆起サンゴ礁による石灰岩島を含み、隆起サンゴの島々は長年の侵食によりマッシュルーム型の奇観を造りだし、ロックアイランドとして広く知られています。「ロックアイランド群と南ラグーン」は2012年に、ユネスコの世界遺産の複合遺産に登録されました。

複合遺産は、約1,000件ある全物件数のなかで30件程と、非常に少なく、自然環境と、そこでの人間の文化的営為が、ともに顕著に普遍的な価値を有するものと認定されることが必要なのだそうです。

マッシュルーム状の緑の島々や紺碧の海が織りなす自然美、さらにマリンレイクと呼ばれる汽水湖の一種を世界で最も多く擁する固有種の多い生態系や、絶滅危惧種を含む生物多様性などが評価されると共に、気候変動や人口増加による資源の枯渇に直面した人類の足跡をとどめる考古遺跡なども評価されました。

マカラカル島のジェリーフィッシュレイクは、タコクラゲの仲間などが多く棲息しています。結構有名ですので、ご存知の方も多いかも知れません。

また、ロックアイランド群を囲むラグーンには、多くの海洋生物が生きており、シュノーケリングやスキューバ・ダイビングの名所として知られています。

パラオは国内に多く残る遺跡などを研究した結果、約4000年前から人が住んでいたと推定されているそうです。

1500年代スペイン人がミクロネシアの島々に来航し、その後ポルトガル人、イギリス人等がやってきました。ヨーロッパ人による天然痘が流入したことと、現地人に対する搾取が原因でパラオの人口は90%程度減少したとされています。

パラオは1885年にスペインの植民地下に入ったのですが、1899年スペインがミクロネシアの島々を独に売却します。

1914年から始まる第一次世界大戦で日本はパラオを含む独領ミクロネシア(南洋群島)を占領し、1920年国際連盟から日本の(パラオを含む)ミクロネシア(南洋群島)委任統治が認められ、1922年南洋群島全体を管轄する南洋庁本庁がコロールに設置されました。

日本の統治が始まってからは、ドイツの統治下ではほとんど進んでいなかった学校や病院、道路など各種インフラストラクチャーの整備が行われました。これにより1920年代頃になるとコロールは近代的な町並みへとその姿を変貌させたのだそうです。

多くの日本人が住み着いたものの、彼らはパラオ人に対して極力差別がない扱いに努めました。

また、日本統治の開始にともない日本語による学校教育が現地人に対しても行われるようになりました。日本統治時代に教育を受けたパラオ人は、日本語で不自由無く意思疎通ができるレベルに達している者が多いのだそうです。

そんな経緯から、日本との関係は深く、日本に好意的な人が多い親日的な国です。

2015年の天皇皇后訪問の際には街中のいたるところに日の丸が掲揚され、インタビューに対し「日本人が大好き、日本が大好き」、「みんな日本が大好きです」と回答している様子が報道されていました。

因みに、1993年から2001年まで2期大統領を務めたクニオ・ナカムラ(中村 國雄)はペリリュー首長部族の娘アリール・ベトックと三重県伊勢市大湊町出身の船大工・中村善七との間に生まれた日系人だそうです。

第二次世界大戦(太平洋戦争)が始まると、コロールは海軍の重要な基地として北西太平洋方面の作戦拠点となりました。

そのため、西方のフィリピン戦線の状況と連動して連合軍の攻撃対象となり、1944年にはペリリューの戦いなどで両軍に多くの戦死者を出します。なお、ペリリュー島の戦いではパラオ民間人の死者はなかったとされていますが、日本国籍を持たない現地人であっても、パラオ挺身隊などに軍属として動員されることはあったそうです。

第二次世界大戦終結後の1947年に、国際連合の委託を受けアメリカ合衆国はパラオを信託統治下に置きました。

1965年にミクロネシア議会発足しパラオも代表を派遣するのですが、1978年には住民投票の結果、パラオはミクロネシア地域の統一国家からの離脱を決定、1981年には憲法発布し自治政府が発足します。

1982年には米国との間で自由連合盟約(コンパクト)案を合意します。

1983年2月、1984年9月、1986年2月、1986年12月、1987年6月及び8月、1990年2月の7回住民投票が実施されましたが、75%以上の賛成を得ることが出来ず不承認となりました。

1993年に第8回目の住民投票によりコンパクト案承認され、1994年10月1日コンパクトが発効し独立ました。

コンパクトとは米国の国連信託統治から独立する際に、米国との間で締結した自由連合盟約のことで、有効期間は50年間とされ、1994年から2009年までの15年間、米国から財政支援を受ける一方で、国防と安全保障の権限を米国に委ねることとなります。

尚、2010年9月改訂コンパクトに署名し、2010年から2025年までのさらに15年間、引き続き米国が財政支援を行うこととなりました。

IMFの統計によると、2013年のGDPは2億4,600万ドルです。一人当たりのGDPは14,022ドルで、世界平均を30%ほど上回ります。漁業とココナッツなどの農業、観光が主産業で、歳入のほとんどがアメリカ合衆国からの無償援助だそうです。

観光や軽工業の振興を奨励していますが、その多くはフィリピン人労働者で維持されているのだそうです。パラオ人の多くは公務員で、その他もホワイトカラー指向であり、教員や看護師などの専門技能を持つ人たちは、給与格差などの理由で1990年代にサイパンへ移住した人も多いのだとか。

アメリカ合衆国からの無償援助の弊害なのかも知れません。

台湾でも親日的な方が多いのだそうです。それは、戦前日本が台湾のインフラ整備や教育制度の充実に力を注いだからという人もいます。

また、ブルネイが親日的なのも占領時代にインフラ整備を行ったためだそうです。

日本の戦前・戦中の行いは、負の側面が伝えられているのではないかと思います。

負の側面は充分言い伝えられていく必要はあるのですが、現地の人々の役に立ったのは何なのか、理解する必要はあるのだと思います。

資金の支援はとても重要なことだと思います。

それは、病気の治療でいえば、病原菌に立ち向かう西洋医学的な治療のようなものなのでしょう。

一方、インフラ整備や教育制度の充実などは、病気になりにくい体を作る東洋医学的な治療のようなものだと思います。

今の日本が世界に対し、何ができるのか、何をすべきなのか、親日的な方が多いパラオ、台湾、ブルネイに戦前・戦中の日本がどう対応していたのかという点にも、ヒントが隠されている気がします。

もちろん、彼の地を支配することや、鉄道建設の見返りに鉄道沿線の権益を確保するというようなことではありません。「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして報いを求めぬよう」という気持ちで、「日本・パラオ友好の橋」のように人々の役に立つインフラを整備したり、教育制度を充実させ、技術指導を行ったり、人材の育成に力を貸したりすることが重要なのだと思います。

ヨルダン川西岸地区では、スイカは主要な農産物のひとつでしたが、病害虫の発生により、一度はパレスチナ産のスイカは市場から消えました。

以来、イスラエル製の安価なスイカが市場に出回り、パレスチナではイスラエル産のスイカに依存するようになっていたのですが、JICAが行ったプロジェクトにより、スイカの接ぎ木技術が伝わり、病害虫に強く、苗を導入した農家はかつてのような品質の良いスイカを収穫できるようになり、パレスチナ産のおいしいスイカが復活しているそうです。

今は混乱のさなかにあるシリアやイラクの地でも、そんな支援が行える日が早く来ると良いのですが。

シリアやイラクの地はメロンの産地だったとか。子供たちがうれしそうにメロンの収穫を手伝っている、そんな姿を早く見てみたいと思います。

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ISIS chanとISIL kun(ムスリムの子供達)その50 リトアニア

2016-06-05 14:32:28 | 日記

リトアニアは、約6.5万平方キロメートル(東北地方ほど)、人口291.6万人(2015年3月:リトアニア統計局)、バルト海東岸に南北に並ぶバルト三国の中で最も南に位置します。

西はバルト海に面し、北はラトビア、東はベラルーシ、南はポーランド、南西はロシアの飛び地カリーニングラード州と国境を接しています。ソ連の構成共和国の一つでしたが、現在はEUの加盟国です。

リトアニアの一人当たりGDPは15,694ドル(2013年:IMF)、国連の分類によれば、平均所得の高い国に位置づけられており、鉄道、空港、4車線の高速道路などの近代的なインフラが整備されています。

しかしそれでも一人当たりGDPはEU加盟27か国平均の半分ほどで、2004年のEU加盟時には所得の高い国への移住が増加したそうです。

首都のヴィリニュスは東ヨーロッパで最も古い旧市街の一つとして、世界遺産に登録されています。

そのほか中世のゴシック建築が数多く残っている第二の都市カウナスは、第二次世界大戦前に日本領事館があり、杉原千畝が「命のビザ」を発給した地です。

もうひとつの世界遺産であるクルシュー砂州は、バルト海とクルシュー・ラグーンを隔てる全長98 km の細長く湾曲した砂州です。

2000年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されたのですが、観光客の増大による海洋と海岸線の汚染やロシア側の油田の採掘基地石油漏れによる汚染の懸念が問題となっているようです。

「リトアニア」の国名が歴史的な文書に最初に登場するのは1009年です。

リトアニアの宗教は現在ローマ・カトリックが大勢を占めるのですが、元々は独自の多神教信仰を持っており、東西のはざまに位置していたため様々な文化や宗教が入り混ざっていたそうです。

リトアニアは建国以来、ドイツ騎士団等西方からの攻撃を受けていた一方、他方で東方へと勢力を伸ばしていき、14世紀末にはベラルーシ全域、ウクライナ全域、ポーランドの一部、ロシアの一部を領土とする、ヨーロッパ最大の国家となりました。

ヴィリニュス、カウナスはその頃の栄光を今に残す遺産なのでしょう。

1569年、ポーランド王国とのあいだに制度的同君連合であるルブリン合同が成立し、ポーランド・リトアニア共和国が誕生しヨーロッパの歴史上最大の国家となったのもつかの間、

1655年から1661年の北方戦争において、リトアニアの領土や経済はスウェーデン軍によって破壊されます。

領土や経済が復興途中であった1700年 から1721年にスウェーデンと反スウェーデン同盟(北方同盟)が争った大北方戦争が起こり、リトアニアは再び荒廃します。

リトアニアはこの時期、戦争、疫病、飢餓によって人口の約4割を失うこととなったそうです。

スウェーデンが敗退した後、ポーランド・リトアニア共和国はロシア帝国、プロイセン王国、オーストリア大公国に分割されてしまいます。

リトアニアは第一次世界大戦後の1918年、リトアニア共和国として、ロシア帝国より独立したのですが、1940年にソビエト連邦から、翌1941年にナチス・ドイツからも侵略されました。その後、ソ連の構成共和国の一つとなり、ソ連の崩壊により1990年、独立を回復しました。

戦乱により人口の約4割を失い、ロシア帝国、ドイツ、ソ連と支配者が代わって行ったリトアニアは1868年から1914年までのあいだに、約635,000人、人口のおよそ20%がリトアニアを離れたそうです。

第二次世界大戦中、ドイツ軍侵攻に伴い隣国ポーランドから迫害を逃れて流入してきた大量のユダヤ人に対し、当時在カウナス日本領事館に領事代理として赴任していた杉原千畝は、本国外務省の意向に反し、ユダヤ人に対して日本通過を可能とした査証(ビザ)及び渡航証明書を発給して欧州からの脱出を支援しました。

その間発行されたビザの枚数は、番号が付され記録されているものだけでも2,139枚にのぼったそうです。

「命のビザ」を得たユダヤ人は、次々に極東に押し寄せる難民に困惑した外務省によりウラジオストクで足止めされます。

この事態にウラジオストク総領事代理・根井三郎は「一度杉原領事が発行したビザを無効にする理由がない」と抗議し、本来漁業関係者にしか出せない日本行きの乗船許可証を発給しました。

杉原千畝と根井三郎は2人ともハルビン学院の卒業生でした。

後藤新平が制定した同校のモットーは、「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして報いを求めぬよう」というものであったそうです。

この辺りの経緯は2015年の唐沢寿明主演の映画『杉原千畝 スギハラチウネ』を見て、ご存知の方もいらっしゃるかと思います。

なお、千畝同様に上司や本国の命令を無視して「命のビザ」を発行した外交官として、在オーストリア・中華民国領事の何鳳山や、在ボルドー・ポルトガル領事のアリスティデス・デ・ソウザ・メンデスがおり、ともに「諸国民の中の正義の人」に認定されています。

「諸国民の中の正義の人」とは、ナチス・ドイツによるユダヤ人絶滅、すなわちホロコーストから自らの生命の危険を冒してまでユダヤ人を守った非ユダヤ人の人々を表す称号で「正義の異邦人」とも呼ばれており、22,211人(2008年現在)認定されていますが、日本人としては杉原千畝ただ一人です。因みにリトアニア人は761人が認定されています。

現在ではイスラエル最高裁判所判事の一人が長を務める委員会が「諸国民の中の正義の人」の名誉ある称号を授与する責務を負っているそうです。

また、1991年(平成3年)9月、杉原の功績を讚えるため、首都ヴィリニュスにある通りの一つが「スギハラ通り」と命名されました。

杉原千畝のビザで命救われたユダヤ人とその子孫の中には、現在イスラエルに住んでいる人も多いようです。

ヨーロッパで迫害を受けたユダヤ人が、パレスチナの地でムスリム教徒から土地を奪う、

それは、レコンキスタによりイスラム教徒に占領されたイベリア半島をキリスト教徒の手に奪回したスペインが、インカ帝国を侵略し財宝を略奪した歴史と重なる気がします。

どちらも、迫害、支配された過去を忘れたわけではなく、迫害、支配された過去は伝えられ、教えられており、その上での行為だったのだと思います。

人は忌まわしい過去を振り切るため、攻撃的になるのかも知れません。

でも、ハルビン学院で「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして報いを求めぬよう」と教えを受けた杉原千畝と根井三郎は、外務省本省の指令に背き、ユダヤ人を救いました。

本当の教育というのはそういうものかも知れません。

ノブレス・オブリージュ(高貴さは(義務を)強制する)という言葉は、本来、王族、貴族に対して使われた言葉ですが、最近では、主に富裕層、有名人、権力者が「社会の模範となるように振る舞うべきだ」という社会的責任に関して用いられています。

ハルビン学院の教えは、当時日本に根付いていなかったノブレス・オブリージュということだったのだと思います。

日本は150人のシリア難民を留学生として受け入れるそうです。たった150人かと思う方もいるでしょう。

でも、留学生たちがヒロシマ・ナガサキを経て焼け野原になった日本が経済大国となったこと、

震災で瓦礫の山となった東北の震災地が復興しつつあること、

それを実際に見て、祖国に帰った後子供たちに伝えてもらえたらと思います。

その話を聞いた子供達が、いつかはこの地を元通りの居心地の良い地にしようと思ってくれたら、

素敵だと思います。

このブログの画像はisis_chanプロジェクトに参加されているイラストレーターの方々からお借りしています。isis_chanプロジェクトの目的は、ISが発信する残酷な画像のインターネットでのヒット率を低下させることだそうです。isis_chanプロジェクトにはガイドラインがあり、ムスリムと彼らの信仰の尊重、暴力的・性的表現・政治的主張の禁止等々決められています。私のプログは極力このガイドラインに沿って書いているつもりですが、抵触していると思われたら、それは私の文章力の無さから来るものだと思います。

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