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ISIS chanとISIL kun(ムスリムの子供達)その34 ブラジル

2015-11-29 14:16:15 | 日記

ブラジルは851.2万平方キロメートル(日本の22.5倍)人口約2億人の南アメリカの国です。2016年にはオリンピックも開かれます。

また、2015年は日ブラジル外交関係樹立120周年にあたります。過去、日本からの移民も多かったため、日系人は約160万人、海外で最大の日系社会です。

経済の規模も、米・中・日・独・英・仏に次ぐ世界第7位ですが、一人当たりのGDPは先進国と比較すると低い水準です。

航空産業が盛んで、エンブラエルは現在、小型ジェット機市場の半分近いシェアを誇り、一大市場である欧米諸国や日本などのアジア各国をはじめとする世界各国へ輸出されているなど、その技術力は高い評価を得ています。

農業も盛んで、コーヒーの輸出量は、世界第1位です。

コーヒー生産は他の農産物に比べ労働力が必要です。ブラジルでは1888年に奴隷制が廃止された後、労働力不足を補うためヨーロッパからの移民を受け入れたのですが、その待遇を巡ってヨーロッパ諸国と対立します。

そんな背景もあり、1908年に笠戸丸による第一回目の日本人移民が行われました。

日本人が農業移民としてブラジルに入植して以来、日本人は「農業の神様」と呼ばれ、現在に至るまでブラジル社会における日系ブラジル人の高いステータスを確保する重要な礎になっています。

 

当初、移民の居住環境は悪く労働は過酷で、賃金の悪さなどの待遇が悪かったために、帰国のための貯金どころではなく借金が増える一方でした。

このため、日系移民の間で移民計画を「棄民」(日本国に棄てられた民)と揶揄する声がでたほどです。

1908年に外務省が行った調査では、当初契約したコーヒー園に定着したのは全渡航者の4分の1のみであったと報告されています。

コーヒー農園から逃亡した多くの日本人移民は、日本人移民同士で資金を出し合い共同で農地を取得しました。

ジャガイモやレタス、トマトやにんにくなどの、現在ブラジルで栽培されている野菜や果物などの農産物の多くは、農作物の転換を進めた日本人移民がブラジルへ持ち込み、品種改良などを通じてブラジルの赤土での栽培に成功したものなのだそうです。

ブラジルは移民が多い国であり、本来人種・宗教などで差別することが無い国なのですが、1930年代に入り増え続ける日本人移民とその成功や、満州事変や日中戦争など日本の対外侵攻が相次いだことを受けて、日本人移民に対する排斥の動きがにわかに高まります。

その背景には、日本人移民は日本人移民だけでコミュニティを作ってしまい、ブラジル社会に溶け込まないということが有ったようです。

一方、移民は子供の教育に力を入れた人が多かったようです。

日系ブラジル人2世、3世は、その勤勉さと教育程度の高さから社会的地位が高い職業についているケースが多く、政界や官界、経済界の中枢のみならず、医師、弁護士、技師、地質学者、教員、芸術、文化、スポーツ等を含む広範な分野に進出し、ブラジルの発展に大きく貢献したと高く評されています。

2世、3世の時代になって、ようやく日本人移民がブラジル人になったということかも知れません。

 

日本で、移民や難民受け入れに反対する論拠として、日本社会の特殊性・閉鎖性やヘイトスピーチを行う団体の存在をあげる人々がいます。

でも、本当にそうなのでしょうか。

ヘイトスピーチが行われているのは、日本の極く限られた特殊な場所のみだと思います。

確かに、学校でいじめに遭っている外国人の子供やハーフの子供達は居ます。ムスリムの子供達も学校でいじめに遭っていると聞きました。

でも、いじめに遭っている外国人の子供やハーフの子供達をかばっている子供達も多いのです。

そして、外国人を何かと手助けしている近所の人々も居ます。

また、多くの自治体でNPOの国際交流協会が設立されており、外国人を支援しています。

そんな現状を判った上で、日本社会の特殊性・閉鎖性やヘイトスピーチを行う団体の存在をあげ移民や難民受け入れに反対するのは、単なる言い訳なのではないかと思います。

日本の企業でも、社長が外国人である企業や、社員を採用する際に外国人を積極的に採用する企業も多いのです。社内の公用語は英語という企業もあります。

バブルの絶頂期に中小企業の労働者不足を救ったのは、東南アジアからの不法就労者でした。

中小企業の社長の中には、東南アジアからの不法就労者が日本人より真面目に働くと思った人もいるようです。

近年、中小企業が東南アジアに工場を移すことも多いのですが、取引先の大企業が東南アジアに工場を作ったという理由の他に、以前東南アジアからの不法就労者を雇った時の経験も、東南アジアに工場を移す理由の一つかも知れません。

日本の企業にとっては、日本社会の特殊性・閉鎖性というのは実感としてあまり無いのだと思います。

また、ある日本の衣料品販売の大手企業は以前からUNHCRを通じ、難民への衣料品・資金支援をしていましたが、今後は積極的に難民を雇い入れるそうです。

 

フランスでISのテロがあり、実行犯は移民の2世が大半だったそうです。

彼らは、差別と偏見の中で孤立感を深めて行ったようです。

フランスでも移民をサポートしている人々も多いのでしょうが、孤立感を深めて行った理由は何なのでしょう。

いじめに遭っている外国人の子供やハーフの子供達をかばったり、

近所の外国人を何かと手助けしたり、

難民を雇い入れたり、

私達にも出来ることはあるのだと思います。

一つ一つは小さなことですが、その積み重ねで移民や難民の孤立感を少なくすることが出来たら、

テロやISに参加する若者を多少なりとも減らせるのではないでしょうか。

そして、ブラジルの日系人の様にその国の発展に大きく貢献する2世、3世が出て来たら、移民や難民の子供達や子孫が、孤立感を感じることも無くなるのだと思います。

このブログの画像はisis_chanプロジェクトに参加されているイラストレーターの方々からお借りしています。isis_chanプロジェクトの目的は、ISが発信する残酷な画像のインターネットでのヒット率を低下させることだそうです。isis_chanプロジェクトにはガイドラインがあり、ムスリムと彼らの信仰の尊重、暴力的・性的表現・政治的主張の禁止等々決められています。私のプログは極力このガイドラインに沿って書いているつもりですが、抵触していると思われたら、それは私の文章力の無さから来るものだと思います。

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ISIS chanとISIL kun(ムスリムの子供達)その33 ウズベキスタン

2015-11-22 18:06:38 | 日記

ウズベキスタンは面積44万7,400平方キロメートル(日本の約1.2倍)人口2,930万人の中央アジアの国です。

旧ソビエト連邦の共和国の一つで、1991年のソ連崩壊によってウズベキスタン共和国として独立し、同時に独立国家共同体(CIS)に加盟しました。

首都はタシュケント、世界に2国しかない二重内陸国(海に出るために少なくとも2つの国境を越えなければならない国のこと)の一つです。

ちなみにもう一つの二重内陸国は、ヨーロッパの小国リヒテンシュタインです。

昔は世界第4位の大きさだったアラル海が海の代わりだったのですが、旧ソ連時代に行われた国土の風土に合わない無茶な綿花栽培のため、アラル海の面積は急激に縮小してしまいました。

現在は、領土の10%にも満たない灌漑農業用地や河川流域のオアシスに似た土地で集中的に農業が行われており、残りの領土は広大な砂漠(キジルクム砂漠)と険しい山々です。

 

シルクロードには様々なルートがあったのですが、そんなシルクロードの十字路とされているのが、ウズベキスタンです。

シルクロードのオアシスとも呼ばれていました。

ウズベキスタン独特の文化と歴史の深さはもちろんのこと、 シルクロードの繋がりやどこか懐かしさを感じたりもできる不思議な国です。

ウズベキスタンでは、現在4つ世界文化遺産に指定されています。

トルクメニスタン国境近くのヒヴァは「太陽の国」と呼ばれるホルズム地方中心の都市で、ホルズム地方独特の文化を持っています。城壁に囲まれた都市「イチャン・カラ」は1990年にユネスコ世界文化遺産に登録されています。

やはりトルクメニスタン国境近くのブラハはブハラ歴史地区として1993年ユネスコ世界文化遺産に登録されています。ブハラは、タジク人が約40%住んでおり、またユダヤ人も住んでいる多民族の街です。

ウズベキスタン南方で、トルクメニスタンとタジキスタンの中間地点にあるのが、シャフリサーブス。ウズベキスタンで英雄とされているティムールの生まれた街です。2000年にシャフリサーブス歴史地区として、ユネスコ世界文化遺産登録されています。

そして、その北方に位置するのが、サマルカンド。2001年、ユネスコ世界文化遺産に登録され、「青の都サマルカンド」と呼ばれ、シルクロードの中心的な都市として栄えてきた歴史的な街です。

サマルカンドは旧市街、新市街、アフラシャブの丘に分けられ、旧市街にはタジク系民族が多く住んでいます。紀元前4世紀頃から発展し、サマルカンドという名前になる前はマラカンダという街でした。

ウズベキスタンの英雄アミール・ティムールによって、荘厳で美しい建物が建てられ、繁栄しました。600年前から変わらないという美しい街です。

いずれの都市もシルクロードの中継点として発展した街です。

 

宗教は主としてイスラム教スンニ派ですが、衣食に関する戒律は緩やかであり、基本的に女性は頭髪や足首を隠しません。

しかし、ブハラなどイスラム色の強い都市では女性がパンツ(ズボン)を履くことに対して良く思わない傾向があり、多くの女性はスカートを履いているそうです。

少数ながらユダヤ教やロシア正教の信者もいますが、宗教対立はありません。

一方、アムネスティ・インターナショナルなどがウズベキスタンを「市民権が制限された権力主義国家」としています。

政府による宗教団体の会員、独立したジャーナリスト、人権活動家や禁止された敵対政党の党員を含む政治活動家などに対する人権侵害が頻繁に行われているとも報告されているそうです。

ウズベキスタンでは、イスラム原理主義の台頭を招かずに済んでいるのは、皮肉にも政府による高圧的な治世のおかげなのかもしれません。

でもそれは、現在のシリアと同じ状況をいつか招いてしまうのではないかと思うのです。

一方、ISのリクルートはウズベキスタンでも行われているようです。

近年は豊富な天然ガス関連の投資を多く受け入れており、比較的好調な経済成長を遂げているのですが、一人当たりのGDPは1,572ドルであり、世界平均の20%に満たない水準です。

少し古い数字ですが、2011年にアジア開発銀行が公表した資料によると、1日2ドル未満で暮らす貧困層は1248万人と推定されており、国民の40%以上を占めているそうです。

貧しい国の人々が外国に出稼ぎに行くのと同じ理由で、ISに参加してしまう人々も居るのだそうです。

 

自分の子供に、清潔な暮らしをさせてあげたい、美味しいものを食べさせたい、おしゃれをさせてあげたい、良い教育を受けさせてあげたい。

そんな気持ちから、貧しい国の人々が外国に出稼ぎに行くのだと思いますが、その出稼ぎ先がISであってはいけないのだと思います。

ISよりもっと良い出稼ぎ先があれば、きっとウズベキスタンからISに参加する人は少なくなるのかも知れません。

でも、本当にそれでよいのでしょうか。

それで幸せになれるのでしょうか。

もっと良いのは、貧しい国の人々が外国に出稼ぎに行かなくとも良い状況を作ることなのだと思います。

美味しいものを食べたり、おしゃれをしたりするのも良いのですが、お父さんが居て、お母さんが居て、兄弟姉妹が居て家族皆で談笑しながら食べた夕食の思い出って、素敵だと思います。

家族と離れなくとも生活していける。

そんな事が憎悪の連鎖を止めることが出来る気がします。

  

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ISIS chanとISIL kun(ムスリムの子供達)その32 ボスニア・ヘルツェゴビナ

2015-11-09 18:48:43 | 日記

ボスニア・ヘルツェゴビナは面積が約5.1万平方キロメートル、人口が約388.0万人、旧ユーゴ連邦を構成した共和国の一つです。北中部は内陸部のボスニア、南部はアドリア海沿岸のヘルツェゴビナです。

行政的にはクロアチア人およびボシュニャク人が主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、セルビア人が主体のスルプスカ共和国によって構成されます。

旧ユーゴ連邦の崩壊が進む中、1992年4月、独立を巡って民族間で紛争が勃発し、3年半以上にわたり戦闘が繰り広げられました。その戦闘での死者は20万人、難民・避難民は200万人とも言われ、第二次世界大戦後ヨーロッパで最悪の紛争と言われています。

民族浄化という悲惨な事件も起こりました。

クロアチア人とセルビア人とボシュニャク人はそれぞれの支配地域の拡大を試み、それぞれの支配地域から異民族を排除する目的で、虐殺や見せしめ的な暴行による追放を行う民族浄化を行ったのです。

1995年に国際連合の調停で紛争は終結しました。

民族浄化によって移住を強いられた人々の帰還支援や民族間の和解に向けた取り組みが続けられているのですが、住民の強い抵抗によって帰還は遅々として進んでいないそうです。

 

この地域は紀元前1世紀にローマ帝国の支配下に入り、その後、6世紀後半からスラヴ人が定住し始めました。この地域は地理的環境から、カトリックと正教会の対立の最前線となり、両宗教の激しい布教争いの場となったそうです。

15世紀後半までにはボスニア・ヘルツェゴビナの全域がオスマン帝国の支配下に入りました。キリスト教勢力から弾圧を受けていた人々の多くはこのときイスラム教に改宗しました。

54%を占めるボシュニャク人の多くはイスラム教、11.5%のクロアチア人の多くはキリスト教(ローマ・カトリック)、32.5%のセルビア人の多くはキリスト教(正教会)となっているのは歴史的経緯があるのです。また、少数民族としては、ロマなどが住んでいます。

旧ユーゴ連邦自体が民族・宗教のモザイク国家と言われていましたが、それを象徴する地域でした。

第二次世界大戦時、ボスニア・ヘルツェゴビナの大部分は、ナチス・ドイツの傀儡ファシスト国家であるクロアチア独立国の支配下に置かれました。

クロアチア独立国の支配下では、クロアチア人の民族主義組織によって、セルビア人はユダヤ人、ロマ、反体制派などとともに激しい迫害を受け、数万から数十万人が各地で殺害されるか、強制収容所に送られて殺害されました。

また、これに対抗したセルビア人の民族主義者によって、クロアチア人やボシュニャク人が大量に殺害され、この時代、フォチャをはじめとする各地で、クロアチア人の民族主義組織とセルビア人の民族主義者による凄惨な民族浄化の応報が繰り広げられました。

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で起こった民族浄化の遠因はそこまで遡るのだと言います。

 

第二次世界が終結し、ユーゴスラビア連邦人民共和国が成立すると、1946年にボスニアおよびヘルツェゴビナ地方には、ユーゴスラビア連邦の構成共和国の一つとしてボスニア・ヘルツェゴビナ人民共和国が誕生します。

長らく民族間の緊張の少ない状態が続き、都市部では多民族の混住、民族間の結婚なども進みました。1984年に開催されたサラエボオリンピックは宗教と民族の融和を象徴するものでした。

この地域でも、異なった宗教と異なった民族が仲良く暮らしていた時期は有ったのです。

その時代には、幸せな人が多かったのではないでしょうか。

何かのバランスが崩れ、宗教・民族間の争いの引き金を引いてしまったのでしょう。

人は、自分が幸せで無いと他人に優しくなれないのだと言います。

もし、人々が幸せだったら、第二次世界大戦時の民族浄化、それを遠因とするボスニア・ヘルツェゴビナ紛争での民族浄化も無かったのではないかと思うのです。

 

幸せな日々が続くことが、憎悪の連鎖を止めるのだと思います。

お母さんと一緒に町まで買い物に行って、ねだってお菓子を買ってもらった思い出。

お父さんが帰って来た時、玄関先まで駆け足で迎えに行った思い出。

お父さん、お母さん、兄弟姉妹と一緒に夕食を食べた思い出。

おしゃれをして、少しお姉さんになったような気がした思い出。

幸せとは、そんな何でも無い日々の思い出の積み重ねだと思います。

紛争地域や難民の子供達に幸せな日々が戻りますように。

幸せだった頃の思い出が薄れてしまう前に。

 

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isis_chanとisil_kun(ムスリムの子供達)その31 ネパール

2015-11-01 17:13:07 | 日記

ネパールは面積が約14.7万km、人口が約27.91百万人、多民族・多言語国家(インド・アーリア系の民族と、チベット・ミャンマー系民族)であり、民族とカーストが複雑に関係し合っています。また、宗教はヒンドゥー教が8割、仏教1割、その他はイスラム教やアニミズム等とその習合が混在だそうです。

北は中国、南はインドと接しています。どちらも一筋縄ではいかない国ですから、大変だろうと思いますが、中国といってもヒマラヤ越しで、チベット自治区という点がまだ救いなのかもしれません。

ネパールと日本の文化的な繋がりは、日本の禅僧で修業僧の聖職者河口慧海がチベットへ向かう途中にネパールを訪れた1899年にさかのぼります。

また、1902年初めてネパールの学生が海外に派遣されましたが、その留学先が日本だったのだそうです。

ネパールでは2015年4月25日にマグニチュード7.8の大地震が発生しました。死者は8000人を超えるとも言われています

日本は,ネパールとの伝統的な友好関係及びネパール政府からの要請を踏まえ,緊急援助物資の供与及び1,400万ドル(約16.8億円)の緊急無償資金協力の実施に加え,国際緊急援助隊(救助チーム,医療チーム,自衛隊部隊)を派遣し,被災者に対する緊急人道支援を実施しました。

また、アルピニストの野口健さんは、ネパール大地震に遭遇したヒマラヤのエベレスト付近の村で支援調査活動を続けています。

 

観光としては、西の都市ポカラを基点としたヒマラヤトレッキング、東にはサガルマータ(エベレスト)国立公園、ヒマラヤ山脈の自然を満喫できます。

また、首都のカトマンズはチベットとインドを結ぶ交易の中継地でした。この盆地は、昔、湖だったそうです。ブッダのお骨を祭っているお寺もあります。震災前は長期滞在者の観光客が多いことでも有名でした。

インド滞在で疲れきった旅人が、休息の為にネパールを訪れ、体調が回復したら、またインドに向かって旅立って行くのだとも言われています。真偽の程は定かではありませんが。

また、西部のインドとの国境に近いところに仏陀の生誕地ルンビニという町があります。

まだまだ、震災の復興途上なのですが、ヒマラヤ観光以外にも魅力的な場所は沢山あります。

 農業が主たる産業で、ヒマラヤ観光などの観光業も盛んですが、恩恵を受けているのは一部の人たちです。

人口の半分以上は、1日の収入が1米ドル(約円)以下という貧困ライン以下の生活を強いられています。

そのため海外への出稼ぎも盛んで、ネパール人の30%が海外からの送金を受領していると言われ、一家庭が年間受領する額は年間平均8万440ルピー(約8万400円)といいます。この額は南アジアで最も多く、世界でも5番目だそうです。

海外への出稼ぎ者の数は約300万人いると言われ、世界の48カ国でネパール人が働き、特に中東とマレーシアで数が多く、出稼ぎ労働者の80%が働いています。

その労働環境は劣悪なのだそうです

国際労働財団によれば、ネパールの若者の約1500人が毎日海外に出稼ぎとして出国している一方、海外で死亡した労働者の遺体が毎日3人ぐらい運ばれてくるそうです。

 ネパールは2008年までは王国でした。1972年即位したビレンドラ国王の下、立憲君主国に移行しつつありました。

1996年ネパール共産党毛沢東主義派(マオイスト)が王制を打破すべく、「人民戦争」を開始しました。ネパール内戦とも言われています。

2001年のネパール王族殺害事件により国民に信頼されていたビレンドラ国王らが殺害され、ビレンドラとは対照的にもともと国民に不人気であったギャネンドラ国王が王位につくと、ギャネンドラ国王は議会を停止。以後、国王・議会・マオイストによる混乱状態が続きます。

2005年12月には議会内の7党連合と議会外の毛沢東派が和解し、共にギャネンドラ国王の独裁と闘うことで合意しました。

その後2008年5月28日 、ネパール制憲議会が招集され、新たな政体を連邦民主共和制と宣言して正式に王制が廃止されました。ギャネンドラ国王は退位し、ここにネパールは終焉を迎えたのです。

ネパールの主な政党は以下の通りです。

ネパール共産党統一毛沢東主義派:旧・ネパール共産党毛沢東主義派、マオイスト、毛派とも。

ネパール会議派:コングレス党とも。社会民主主義政党。社会主義インターナショナルの正式メンバー。

ネパール共産党統一マルクス・レーニン主義派:日本では統一共産党の略称が一般的。

マデシ人権フォーラム:インド国境のマデス地方の人々の利益を代表する地域政党。

地域政党のマデシ人権フォーラムを除けば、共産主義・社会主義の政党です。建前上、中国は共産主義、インドは社会主義を掲げていましたから、間に挟まれているネパールも共産主義・社会主義の政党が主流になったと言う事なのでしょう。

ギャネンドラ元国王は詩を書いたり、祈祷、インターネットなどをして過ごし、近隣の森林を散策したりすることもあり結構優雅な生活をしているらしいです。

また、王政廃止を主導したマオイスト議長のプラチャンダは、不動産、ホテル、茶園業を営む実業家で個人資産数十億ドルの富豪であるギャネンドラに対して、国内に投資して雇用の創出をして欲しいこと、また、プラチャンダは政党を造って政界に進出しても構わないと申し出ているそうです。

他の国で国民に不人気であった国王を廃位し、共産主義・社会主義の政党が実権を握ったら、元国王に対しもっと厳しく対処していた気がします。

ネパール内戦は現在のシリア程ではありませんが、ISの問題を除けば状況は良く似ていたのかもしれません。

アメリカは国王を、中国はネパール共産党統一毛沢東主義派を、ロシア(ソ連)はネパール共産党統一マルクス・レーニン主義派を、インドがマデシ人権フォーラムを支援、イギリスの労働党などの欧州中道左派政党がネパール会議派を支持していました。

それが、混乱に拍車をかける結果になりました。

シリアでも、アサド政権を支援するロシア・イランと、反政府勢力・クルド民族を支援する欧米が合意することは難しいようです。

アサド政権と反政府勢力・クルド民族が対ISに限ってでも共闘できないものかと思うのですが、それも厳しいのかも知れません。

シーア派とスンニ派の対立、クルド民族問題、キリスト教国に対する反発、それが複雑に絡み合って、出口の見えない状況になってしまっているようです。

スリランカの回でも書いたように「憎悪は憎悪によって止むことはなく、憎悪を捨てることによって止む」という仏陀の言葉、同じ様な言葉はどの宗教・宗派にも見られます。

「憎悪を捨てる」とても難しいことだと思います。

でも、住んでいた町を後にし、笑顔を無くしてしまった子供たちの為にも、大人達が憎悪を捨てなければならないのだと思います。

子供たちの心が憎悪で一杯になってしまう前に。

 

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