ISIS_chanとISIL_kun(ムスリムの子供達)その73 南アフリカ共和国
南アフリカ共和国は、面積が122万平方キロメートル(日本の約3.2倍)、人口が5,495万人(2015年:世銀)、アフリカ大陸最南端に位置する共和制国家で、イギリス連邦加盟国です。
南アフリカ共和国はサブサハラアフリカ(Sub-Saharan Africaアフリカのうち、サハラ砂漠より南の地域)の中で第2位の経済大国として、アフリカ経済を牽引しています。アフリカ唯一のG20参加国でもあります。因みにサブサハラアフリカ第1位の経済大国はナイジェリアだそうです。
首都はプレトリアですが、立法府がケープタウン、司法府がブルームフォンテーンに分散させています。プレトリアには行政府があります。
民族は黒人(79%)、白人(9.6%)、カラード(混血)(8.9%)、アジア系(2.5%)で、人口の約80%がキリスト教徒です。
一人当たりGNIは6,080米ドル(2015年:世銀)で108位、ペルーやタイと同水準ですが、白人と黒人の所得格差が激しいのだそうです。金やダイヤモンドの世界的産地であり、民主化後の経済発展も注目されています。
かつては有色人種に対する人種差別で知られ、それはアパルトヘイトと呼ばれる1994年までの合法的な政策によるものでした。
南アフリカ共和国は、少し前まで治安も悪くあまり旅行先として人気が有ったわけではないのですが、治安も落ち着いてきており、人気が出てきたようです。
ケープタウンのテーブルマウンテン、アフリカ大陸最南西端の喜望峰、ゾウやキリンがロッジに遊びに来るらしいクルーガー国立公園などが人気の観光地、そして、ナイアガラの滝、イグアスの滝と並んで「世界三大瀑布」に数えられる「ビクトリアフォールズ(ビクトリアの滝)」は、ザンビアとジンバブエの国境に位置していますが、南アフリカから訪れるのが一般的だそうです。
また、ギネスブックで「世界一の豪華列車」に認められたブルートレイン。こちらはヨハネスブルグとケープタウン間を27時間1泊2日かけて、極上のサービスを受けながら移動します。「慌ただしい日常を考えると、何より贅沢な体験ができる」とのことですが、一人で乗車すると安いデラックスでもZAR 23,250.00(約20万円・ZAR:南アフリカランド)とかなりの高額です。もっとも、日本でも豪華列車が走り始めていますから、「この程度の値段だったらリーズナブル」と考える人も居るのかも知れません。
むしろ南アフリカのヨハネスブルグへ行くには、アジアかヨーロッパの都市の乗り継ぎで約19時間以上かかるのが、ネックになるのかと思います。
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この地にはじめて人類が出現したのはおよそ300万年ほど前で、南アフリカの人類化石遺跡群においてアウストラロピテクスの化石が発見されています。人々は主に狩猟生活をしていたのですが、1050年から1270年ごろにかけては、国土北端のマプングブエにおいて高度な都市文明が栄えていたのだそうです。この地域に始めてヨーロッパ人が到達するのは1488年、バルトロメウ・ディアスが喜望峰に到達しました。やがてヴァスコ・ダ・ガマがダーバン沖に来航し、到達した日付にちなんでこの地をナタール(ポルトガル語でクリスマス)と名づけたのだそうです。
1652年4月6日、ヤン・ファン・リーベック率いるオランダ東インド会社の4隻の船がテーブル湾に上陸し、補給を目的とした入植地を建設しました。ここはケープタウンと名づけられ、以後の開拓の拠点となったのです。1657年には最初の自由移民がケープに入植し、1683年には内陸部初の拠点としてステレンボッシュが建設されました。
また、1688年から1689年にかけて、ナントの勅令以後迫害されたフランス人プロテスタントの200家族がケープに移住し、以後少しずつ入植が進んでいきました。移民たちはオランダ人とは異なる民族集団を形成していきました。
南アフリカのケープタウンに移住したオランダ人や,フランス人プロテスタントの亡命者の子孫はボーア人(アフリカーナ)と呼ばれるようになりました。
ヨーロッパでナポレオン戦争が勃発するとともに、オランダのケープ支配は終わりを告げました。イギリスは1795年にケープを占領し、1803年に前年結ばれたアミアンの和約に基づいて一度バタヴィア共和国にケープを返還したものの、1806年に再度占領し、1814年には正式にイギリス領ケープ植民地が発足しました。
ケープ植民地においては、イギリス人とボーア人の対立が表面化していきます。ケープの公用語は英語となり、1820年には最初の英国系移民がケープに到着します。
1834年、ピーター・レティーフら東ケープのボーア人(アフリカーナ)有力者がグラハムズタウンに集結し、イギリスの力の及ばないナタールへの移動を決定し、1835年に移動を開始した。これを、グレート・トレックと呼ばれる事件です。
その後この地には4つの白人系政府(トランスヴァール共和国、オレンジ自由国、ケープ植民地、ナタール植民地)と、いくつかの黒人王国が並立するようになりました。
しかし、その後ここでダイヤモンド鉱が発見されたためイギリスの侵略を受け,第一次・第二次ボーア戦争を経て、1902年イギリスの支配下に入り、1910年5月31日に南アフリカ連邦が成立します。
南アフリカ連邦の最も重要な課題は白人間の人種問題でした。富裕でリベラルなイギリス系と貧しく保守的なボーア人(アフリカーナ)はあちこちでいざこざをおこしましたが、やがて黒人を犠牲にすることによって両人種はともに経済成長を達成し、1948年までには両人種間の経済格差はほとんどなくなりました。
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南アフリカ連邦政府は1948年に法制として確立された人種差別政策を実行に移し始めます。この政策は人種ごとに分離(アフリカーンス語でアパルトヘイト)して発展するもので、世界の国々から批判を浴びる政策でした。
反アパルトヘイト運動の中心人物の一人であったネルソン・マンデラは、1964年に国家反逆罪で終身刑となりました。
国際社会がアパルトヘイトに反対して、文化交流を禁止し、経済制裁に動くなかで、日本は逆に、南アフリカの最大の貿易相手国となり、翌1988年2月5日に国連反アパルトヘイト特別委員会のガルバ委員長はこれに遺憾の意を表明しました。
国内外からのアパルトヘイト批判はさらに厳しくなって行きます。
1989年9月に大統領に就任したフレデリック・ウィレム・デクラークはこれまでの政府の方針を転換し、1990年2月11日ネルソン・マンデラを釈放し、1991年2月には国会開会演説でアパルトヘイト政策の廃止を宣言。アパルトヘイトは撤廃され、ネルソン・マンデラは1993年12月10日にはデクラークとともにノーベル平和賞を受賞しました。
1994年4月27日に南ア史上初の全人種参加選挙が実施され、マンデラは大統領に就任し、民族和解・協調を呼びかけ、アパルトヘイト体制下での白人・黒人との対立や格差の是正、黒人間の対立の解消、経済制裁による経済不況からの回復に努めました。
マンデラ2013年12月5日、ヨハネスブルグの自宅で死去、95歳でした。
南アフリカでは、黒人への富の再配分の実施は遅れ、失業は増加し、社会犯罪は激増しました。このことが先進諸国からの投資や、企業進出を妨げる要因となり、黒人の新政権への不満が高まります。
また、黒人経済力増強政策がとられ、各企業に一定数の黒人登用を義務づけたのですが、これにより黒人の中流層が勃興する一方で、アパルトヘイト時代に不十分な教育しか受けることのできなかった大多数の黒人はこの恩恵を受けることができず、貧富の差は拡大しました。
でも、マンデラが民族和解・協調を呼びかけ、アパルトヘイトという苦難の歴史を克服し、復讐ではなく和解を追求した南アの国民は、敬意をもって「七色の国民(レインボー・ネイション)」と呼ばれています。
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アパルトヘイトとは何だったのでしょう。
それは、黒人を犠牲のもとで白人間の人種問題を解決する政策だったのだと思います。
人と人との間の軋轢を解決するために、第3者を犠牲にすることは、アパルトヘイト以外にも人間の日常に存在するものかも知れません。
アメリカ合衆国建国から南北戦争までの黒人奴隷から現在に至る人種差別、第二次世界大戦時のドイツにおけるユダヤ人迫害等々、起こった事象は異なっても、その根っこにあるものは同じ様に思えます。
現代でも、アメリカ合衆国におけるムスリムや黒人、メキシコ移民に対する一部の人々の対応は、白人間の経済格差という軋轢から目をそらすためのものの様に見えますし、ヨーロッパで移民に対する感情が変化しつつあるのも、根底には同じことが見え隠れします。
人と人との間の軋轢を解決するために、第3者を犠牲したら、その第3者が憎しみを覚え、それが憎悪の連鎖を呼び、犯罪やテロの温床になるのかも知れません。
「肌の色や出自や信仰の違う他人を、憎むように生まれついた人間などいない。人は憎むことを学ぶのだ。そして、憎むことを学べるのならば、愛することも学べるだろう。愛は憎しみよりももっと自然に、人の心に根付くはずだ。」
と言う、マンデラ元大統領の言葉は、確かに人々の心を打ったのですが、
人々はマンデラ程、成人君主では無いということなのでしょうか。
人は自分が幸せでないと他人に優しくなれない、
そういうことなのかも知れません。
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このブログの画像はisis_chanプロジェクトに参加されているイラストレーターの方々からお借りしています。isis_chanプロジェクトの目的は、ISが発信する残酷な画像のインターネットでのヒット率を低下させることだそうです。isis_chanプロジェクトにはガイドラインがあり、ムスリムと彼らの信仰の尊重、暴力的・性的表現・政治的主張の禁止等々決められています。私のプログは極力このガイドラインに沿って書いているつもりですが、抵触していると思われたら、それは私の文章力の無さから来るものだと思います。
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