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ISIS_chanとISIL_kun(ムスリムの子供達)その74 オーストリア

2018-01-06 16:11:45 | 日記

オーストリアに行ったのはかなり前のことです。

何か食べようと思い、ガイドブック片手に安そうな地元のレストランに入り、名物だと書かれているヴィーナー・シュニッツェル(子牛のカツレツ)を注文しました。

子牛という割には硬いなとか、ウスターソースをかけて食べたらおいしいだろうにとか、付け合わせのジャガイモの代わりに日本米とキャベツだったら良かったのにとか、もっと良いレストランに入った方が良かったのかな、などと思いながら食べました。

会計を済ませ終えて外に出るとガラガラの路面電車がゆっくりと通り過ぎて行きす。

この街は10年前も10年後も同じなのだろうなと思いました。

翌日はハプスブルク家の夏の離宮だったシェーンブルン宮殿に行ったのですが、何か寒々とした感じでした。行ったのは3月でしたから行った時期が悪かったのでしょう。

ウィーンへの直行便は、今は5月から10月の間だけ運行されているようです。

やはりこの時期に行くべきだったのでしょう。

https://isis-chan-photo.blogspot.jp/

オーストリアは、面積が約8.4万平方キロメートル(北海道とほぼ同じ)、人口約860万人、ドイツの南方、中部ヨーロッパの内陸に位置し首都はウィーンです。

1人当たりGDP39,999ユーロ/46,420.19 USD (1 EUR = 1.1608 USD)世界第10位で、経済的に豊かな国です。大企業はないものの、ドイツ企業の下請け的な役割の中小企業がオーストリア経済の中心を担っています。また、ウィーンやザルツブルク、チロルを中心に観光産業も盛んです。

民族は主としてゲルマン民族、言語はドイツ語、宗教はカトリック約63%でムスリムも約7%いるとのことですが、避難民の受け入れでもっと増えているかも知れません。

国名のオーストリア は、ドイツ語で「東の国」という意味で、フランク王国のころにオストマルク「東方辺境領」が設置されたことに由来するのだそうです。

1270年ハプスブルク家ルドルフ公、オーストリア王権確立、1918年第一次世界大戦敗北によりハプスブルク帝国崩壊、共和制開始、19381945年ナチス・ドイツによるオーストリア併合が行われ、1955年連合国との国家条約締結により独立を回復、永世中立を宣言、国連加盟、19951EU加盟というのがこの国のざっくりした歴史なのですが、ハンガリー女王、オーストリア女大公として17401020 - 17801129日この国を統治したマリア・テレジアを思い起こす人もいらっしゃるかと思います。

彼女はまた神聖ロ-マ皇后でもあり、ボヘミア女王、トスカーナ大公妃、パルマ女公でもありました。

中欧の殆どの地域を支配していたオーストリア帝国は、数多くの民族を抱える多民族国家であったのです。しかし支配階級はゲルマン民族であり、彼らだけが特権的地位を有していました。

オーストリアは第一次世界大戦の遠因となった第1次・第2次バルカン戦争にも地域の大国として関与していましたし、第一次世界大戦の引き金を引いたのは1914628日にボスニアの州都サラエヴォで起きた皇位継承者フランツ・フェルディナント大公の暗殺でした。

1次世界大戦後、オーストリアは共和制に移行するのですが、1938312日、ドイツ軍が侵入して全土を占領し、オーストリア・ナチスが政権を掌握、313日にはオーストリア出身のアドルフ・ヒトラーが母国をドイツと統一させました。

アドルフ・ヒトラーはオーストリア出身でした。オーストリアでもホロコーストによるユダヤ人の犠牲者は65,000人に上っているのだそうです。

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第二次世界大戦後、ドイツと同様にオーストリアもイギリス、フランス、ソ連、アメリカによって分割占領されオーストリア連合国委員会によって管理されました。また、ドイツ同様に分断される恐れがあったとも言いますが、紆余曲折の上、オーストリアはドイツに侵略され連合国によって解放された国として扱われることとなり、占領4カ国とのオーストリア国家条約が締結されて完全な独立を取り戻しました。19551026日にはオーストリアは永世中立を宣言しています。

オーストリアはドイツ同様、避難民に寛容な国の一つですが、それは、オーストリア帝国時代に他民族を支配し反感を買っていたこと、ドイツとの統一時代にホロコーストによるユダヤ人の犠牲者を多数出したこと、それらに対する贖罪という側面が大きいのだと思います。

ただ、オーストリアの難民受け入れは曲がり角に来ているようです。201710月に行われたオーストリア国民議会選挙では難民・移民の受け入れ厳格化を訴えるオーストリアの中道右派・国民党と極右・自由党による連立政権が発足しました。

両党の連立合意では、難民申請者から所持金を取り上げ滞在経費に充てることや、身元確認のための携帯電話検査など、厳格な難民対策が盛り込まれました。また「治安対策」として、一定の法的基準を満たさないイスラム教徒向け保育園や私立学校の閉鎖についても合意しているのだそうです。

オーストリアは人口約860万人の国ですから、もう受け入れは限界ということなのかも知れません。

でも、ドイツやオーストリアでは、難民受け入れに反対する人々ばかりではなく、難民受け入れを推進するべきとする人々も多いのだとか。

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今、多くの国々の中で富める人々とそうでない人々の格差が広がっています。

アメリカ合衆国でその数を増やしつつ有る白人至上主義者や、ムスリムを排除すべきとする人々の多くは、変革に取り残された中間層の人です。

ドイツでもオーストリアでも難民受け入れに反対する人々の多くも、そんな人々なのだと言います。

人は自分が幸せでないと、他人に優しくなれない、

そういうことなのだと思います。

ナチズムも、第一次世界大戦後のドイツやオーストリアという、敗戦国での困窮の中から生まれました。

人は自分が幸せでないと、自分が幸せになろうとすることに精一杯で、他の人々を思いやる余裕はないのだと思います。

そして、自分も他の人々同様に幸せになりたいと思う一方で、他の人々も自分と同じ思いをすれば良いのにとか、考えてしまうのかも知れません。

人は、人の命より大切なものが有ると言い戦争を始めるのだそうです。それはテロを引き起こす人々も同じなのでしょう。

それに加え、テロを引き起こす人々の心の奥底には、幸せで無い自分に対するやるせない気持ちが隠れていように思います。

ISとの戦いは終わりを告げつつあります。

でも、中東やその他の地域での紛争は止む気配はありませんし、避難民も増大する一方です。

避難民の子供たちそして大人たちの心の奥底にある闇が、

これ以上拡がらない内に、

人々が故郷に帰れますように。

そして、幸せに暮らせる日々が戻りますように。

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ISIS_chanとISIL_kun(ムスリムの子供達)その73 南アフリカ共和国

2017-09-24 10:44:34 | 日記

ISIS_chanISIL_kun(ムスリムの子供達)その73 南アフリカ共和国

南アフリカ共和国は、面積が122万平方キロメートル(日本の約3.2倍)、人口が5,495万人(2015年:世銀)、アフリカ大陸最南端に位置する共和制国家で、イギリス連邦加盟国です。

南アフリカ共和国はサブサハラアフリカ(Sub-Saharan Africaアフリカのうち、サハラ砂漠より南の地域)の中で第2位の経済大国として、アフリカ経済を牽引しています。アフリカ唯一のG20参加国でもあります。因みにサブサハラアフリカ第1位の経済大国はナイジェリアだそうです。

首都はプレトリアですが、立法府がケープタウン、司法府がブルームフォンテーンに分散させています。プレトリアには行政府があります。

民族は黒人(79%)、白人(9.6%)、カラード(混血)(8.9%)、アジア系(2.5%)で、人口の約80%がキリスト教徒です。

一人当たりGNI6,080米ドル(2015年:世銀)で108位、ペルーやタイと同水準ですが、白人と黒人の所得格差が激しいのだそうです。金やダイヤモンドの世界的産地であり、民主化後の経済発展も注目されています。

かつては有色人種に対する人種差別で知られ、それはアパルトヘイトと呼ばれる1994年までの合法的な政策によるものでした。

南アフリカ共和国は、少し前まで治安も悪くあまり旅行先として人気が有ったわけではないのですが、治安も落ち着いてきており、人気が出てきたようです。

ケープタウンのテーブルマウンテン、アフリカ大陸最南西端の喜望峰、ゾウやキリンがロッジに遊びに来るらしいクルーガー国立公園などが人気の観光地、そして、ナイアガラの滝、イグアスの滝と並んで「世界三大瀑布」に数えられる「ビクトリアフォールズ(ビクトリアの滝)」は、ザンビアとジンバブエの国境に位置していますが、南アフリカから訪れるのが一般的だそうです。

また、ギネスブックで「世界一の豪華列車」に認められたブルートレイン。こちらはヨハネスブルグとケープタウン間を27時間1泊2日かけて、極上のサービスを受けながら移動します。「慌ただしい日常を考えると、何より贅沢な体験ができる」とのことですが、一人で乗車すると安いデラックスでもZAR 23,250.00(20万円・ZAR:南アフリカランド)とかなりの高額です。もっとも、日本でも豪華列車が走り始めていますから、「この程度の値段だったらリーズナブル」と考える人も居るのかも知れません。

むしろ南アフリカのヨハネスブルグへ行くには、アジアかヨーロッパの都市の乗り継ぎで約19時間以上かかるのが、ネックになるのかと思います。

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この地にはじめて人類が出現したのはおよそ300万年ほど前で、南アフリカの人類化石遺跡群においてアウストラロピテクスの化石が発見されています。人々は主に狩猟生活をしていたのですが、1050年から1270年ごろにかけては、国土北端のマプングブエにおいて高度な都市文明が栄えていたのだそうです。この地域に始めてヨーロッパ人が到達するのは1488年、バルトロメウ・ディアスが喜望峰に到達しました。やがてヴァスコ・ダ・ガマがダーバン沖に来航し、到達した日付にちなんでこの地をナタール(ポルトガル語でクリスマス)と名づけたのだそうです。

165246日、ヤン・ファン・リーベック率いるオランダ東インド会社の4隻の船がテーブル湾に上陸し、補給を目的とした入植地を建設しました。ここはケープタウンと名づけられ、以後の開拓の拠点となったのです。1657年には最初の自由移民がケープに入植し、1683年には内陸部初の拠点としてステレンボッシュが建設されました。

また、1688年から1689年にかけて、ナントの勅令以後迫害されたフランス人プロテスタントの200家族がケープに移住し、以後少しずつ入植が進んでいきました。移民たちはオランダ人とは異なる民族集団を形成していきました。

南アフリカのケープタウンに移住したオランダ人や,フランス人プロテスタントの亡命者の子孫はボーア人(アフリカーナ)と呼ばれるようになりました。

ヨーロッパでナポレオン戦争が勃発するとともに、オランダのケープ支配は終わりを告げました。イギリスは1795年にケープを占領し、1803年に前年結ばれたアミアンの和約に基づいて一度バタヴィア共和国にケープを返還したものの、1806年に再度占領し、1814年には正式にイギリス領ケープ植民地が発足しました。

ケープ植民地においては、イギリス人とボーア人の対立が表面化していきます。ケープの公用語は英語となり、1820年には最初の英国系移民がケープに到着します。

1834年、ピーター・レティーフら東ケープのボーア人(アフリカーナ)有力者がグラハムズタウンに集結し、イギリスの力の及ばないナタールへの移動を決定し、1835年に移動を開始した。これを、グレート・トレックと呼ばれる事件です。

その後この地には4つの白人系政府(トランスヴァール共和国、オレンジ自由国、ケープ植民地、ナタール植民地)と、いくつかの黒人王国が並立するようになりました。

しかし、その後ここでダイヤモンド鉱が発見されたためイギリスの侵略を受け,第一次・第二次ボーア戦争を経て、1902年イギリスの支配下に入り、1910531日に南アフリカ連邦が成立します。

南アフリカ連邦の最も重要な課題は白人間の人種問題でした。富裕でリベラルなイギリス系と貧しく保守的なボーア人(アフリカーナ)はあちこちでいざこざをおこしましたが、やがて黒人を犠牲にすることによって両人種はともに経済成長を達成し、1948年までには両人種間の経済格差はほとんどなくなりました。

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南アフリカ連邦政府は1948年に法制として確立された人種差別政策を実行に移し始めます。この政策は人種ごとに分離(アフリカーンス語でアパルトヘイト)して発展するもので、世界の国々から批判を浴びる政策でした。

反アパルトヘイト運動の中心人物の一人であったネルソン・マンデラは、1964年に国家反逆罪で終身刑となりました。

国際社会がアパルトヘイトに反対して、文化交流を禁止し、経済制裁に動くなかで、日本は逆に、南アフリカの最大の貿易相手国となり、翌198825日に国連反アパルトヘイト特別委員会のガルバ委員長はこれに遺憾の意を表明しました。

国内外からのアパルトヘイト批判はさらに厳しくなって行きます。

19899月に大統領に就任したフレデリック・ウィレム・デクラークはこれまでの政府の方針を転換し、1990211日ネルソン・マンデラを釈放し、19912月には国会開会演説でアパルトヘイト政策の廃止を宣言。アパルトヘイトは撤廃され、ネルソン・マンデラは19931210日にはデクラークとともにノーベル平和賞を受賞しました。

1994427日に南ア史上初の全人種参加選挙が実施され、マンデラは大統領に就任し、民族和解・協調を呼びかけ、アパルトヘイト体制下での白人・黒人との対立や格差の是正、黒人間の対立の解消、経済制裁による経済不況からの回復に努めました。

マンデラ2013125日、ヨハネスブルグの自宅で死去、95歳でした。

南アフリカでは、黒人への富の再配分の実施は遅れ、失業は増加し、社会犯罪は激増しました。このことが先進諸国からの投資や、企業進出を妨げる要因となり、黒人の新政権への不満が高まります。

また、黒人経済力増強政策がとられ、各企業に一定数の黒人登用を義務づけたのですが、これにより黒人の中流層が勃興する一方で、アパルトヘイト時代に不十分な教育しか受けることのできなかった大多数の黒人はこの恩恵を受けることができず、貧富の差は拡大しました。

でも、マンデラが民族和解・協調を呼びかけ、アパルトヘイトという苦難の歴史を克服し、復讐ではなく和解を追求した南アの国民は、敬意をもって「七色の国民(レインボー・ネイション)」と呼ばれています。

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アパルトヘイトとは何だったのでしょう。

それは、黒人を犠牲のもとで白人間の人種問題を解決する政策だったのだと思います。

人と人との間の軋轢を解決するために、第3者を犠牲にすることは、アパルトヘイト以外にも人間の日常に存在するものかも知れません。

アメリカ合衆国建国から南北戦争までの黒人奴隷から現在に至る人種差別、第二次世界大戦時のドイツにおけるユダヤ人迫害等々、起こった事象は異なっても、その根っこにあるものは同じ様に思えます。

現代でも、アメリカ合衆国におけるムスリムや黒人、メキシコ移民に対する一部の人々の対応は、白人間の経済格差という軋轢から目をそらすためのものの様に見えますし、ヨーロッパで移民に対する感情が変化しつつあるのも、根底には同じことが見え隠れします。

人と人との間の軋轢を解決するために、第3者を犠牲したら、その第3者が憎しみを覚え、それが憎悪の連鎖を呼び、犯罪やテロの温床になるのかも知れません。

「肌の色や出自や信仰の違う他人を、憎むように生まれついた人間などいない。人は憎むことを学ぶのだ。そして、憎むことを学べるのならば、愛することも学べるだろう。愛は憎しみよりももっと自然に、人の心に根付くはずだ。」

と言う、マンデラ元大統領の言葉は、確かに人々の心を打ったのですが、

人々はマンデラ程、成人君主では無いということなのでしょうか。

人は自分が幸せでないと他人に優しくなれない、

そういうことなのかも知れません。

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このブログの画像はisis_chanプロジェクトに参加されているイラストレーターの方々からお借りしています。isis_chanプロジェクトの目的は、ISが発信する残酷な画像のインターネットでのヒット率を低下させることだそうです。isis_chanプロジェクトにはガイドラインがあり、ムスリムと彼らの信仰の尊重、暴力的・性的表現・政治的主張の禁止等々決められています。私のプログは極力このガイドラインに沿って書いているつもりですが、抵触していると思われたら、それは私の文章力の無さから来るものだと思います。

もしisis_chanプロジェクトに興味を持たれたら、こちらをクリックして見てください。

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ISIS_chanとISIL_kun(ムスリムの子供達)その72ノルウェー王国

2017-08-20 17:24:42 | 日記

ノルウェー王国は、面積が38.6万平方キロメートル(日本とほぼ同じ)、人口が5258317人(20161231日:ノルウェー中央統計局)、スカンディナビア半島西岸に位置する立憲君主制国家で首都はオスロです。

オスロは1624年の大火で多くの市民や町が失われ、デンマーク=ノルウェー王であったクリスチャン4世は、再建された都市を「クリスチャニア」と改名したのですが、ノルウェーの完全独立後の1925年、オスロの名に復しました。

首都のオスロは世界的な画家ムンクがその生涯のほとんどをすごしたところです。

主要産業は石油・ガス生産業や、豊富な水力発電を生かした電力多消費産業(アルミニウム、シリコン、化学肥料等加工産業)というところですが、皆さんにとってはスーパーでよく見るノルウェー産のサーモンやシシャモなど、水産業が盛んというイメージがあるかと思います。

一人当たりGDP71,500ドル(2016年、IMF)であり、世界でもトップクラスの豊かさです。

観光面でも、フィヨルド・オーロラ・白夜と見どころを数えあげたらきりがありません。アナと雪の女王の舞台にもノルウェーが選ばれたのだとか。

フィヨルドなら世界最大のスケールを誇るソグネフィヨルドに面した小さな村フロム。

ソグネフィヨルドの支流のひとつ、ネーロイフィヨルドは世界遺産にも登録されています。

オーロラ・白夜なら北極圏最大の町トロムソ。夏は白夜、冬はオーロラが楽しめます。

また、ハンザ同盟時代の美しい街並みが残る世界遺産の街ベルゲンも見どころの一つです。

ノルウェーへの直行便はないため、ヨーロッパ内の都市にて乗り換えが必要です。飛行時間は航空会社と乗り継ぎ時間にもよりますが、約12.515時間くらいです。

ノルウェーは9世紀の終わりにはハーラル1世が沿岸部を統一し、ノルウェー最初の統一王国が成立しています。11世紀にはデンマークのカヌート大王の北海帝国に併合されたのですが、12世紀末には独立を回復。最盛期にはその支配は、スカンディナヴィア半島の3分の2、アイスランド、グリーンランド、スコットランドの一部に及んでいました。

14世紀末には黒死病の流行とベルゲンを通じたハンザ同盟による経済的支配、スヴェッレ朝の断絶でノルウェー王国は衰微し、14世紀末のデンマークのマルグレーテ1世によるカルマル同盟のもとでデンマークの支配を受けるようになります。

1397年には北欧三か国(デンマーク・ノルウェー・スウェーデン)によるカルマル同盟が形成されるのですが、1523年、スウェーデンが、カルマル同盟を離脱すると、デンマーク=ノルウェーは、コペンハーゲンにいるデンマーク王の統治下となりました。

デンマークがナポレオン戦争で敗戦国になると、1814年のキール条約でノルウェーがスウェーデンへ割譲されます。

スウェーデンの立憲君主制のもとではスウェーデン=ノルウェー連合王国として独自の政府および議会を開く事を許されていました。

1905年にはノルウェーは同君連合の解消を宣言。国民投票での圧倒的な賛成とスウェーデンとの交渉の結果、無血の独立を達成しまとした。

1940年にナチス・ドイツに国土を占領されるのですが、第2次世界大戦後は独立を回復し、国際連合の原加盟国として初代国連事務総長トリグブ・リーを送り出しました。

ノルウェーを含む北欧諸国は平和を愛する国々という印象がありますが、それは第1次世界大戦、第2次世界大戦でも中立の立場を取り、積極的には参戦しなかったことによるのだと思います。

でもそれは、2つの世界大戦以前に大きな悲惨な戦争を経験しているからです。

その一つは1655年から1661年にかけて起こった、北方戦争。スウェーデンと周辺諸国との戦争です。スウェーデンとデンマーク=ノルウェーの戦争は1657年 から1658年にかけてと1658年から1660年にかけての二回起こりました。この戦いでデンマークの人口がスウェーデンの半分にまで減少した程の影響を残したのだそうです。

もう一つは1700年から1721年にかけて起こった北方大戦争です。

こちらもスウェーデンと周辺諸国(反スウェーデン同盟(北方同盟))との戦争です。

この戦いでは、ロシアの勢力拡大の危惧からオスマン帝国は171011月にロシアに対する宣戦を布告したことが北方戦争より大きな戦争となった一因です。

1716年から1718年にかけてスウェーデンはデンマーク領ノルウェーに攻め込み、一時はクリスチャンサン(オスロ)を攻略しましが、17181211日、オスロ東南にあるフレデリックスハルド を包囲していたスウェーデン国王ール12世は狙撃されて死亡しました。カール12世の死により、スウェーデン軍は直ちに撤退したのですが、猛吹雪の中の退却は苦難を極めて多大の損害を出し、「キャロリアン死の行進」と呼ばれています。

この戦いは、スウェーデンの敗戦で終わります。

北方同盟の盟主であったロシアは、スウェーデンのバルト海における覇権を奪い取り、ヨーロッパにおける列強の一員となり、また、この戦争で獲得した地に新都サンクトペテルブルクを建設し、1721年ピョートル1世が皇帝を名乗りロシア帝国となりました。

この二つの戦争から、ノルウェーを含む北欧諸国は戦争が悲惨であり無益であることを経験し、平和を大事にする国々に変わるきっかけになったのだと思います。

2011722日にノルウェーで連続テロ事件が発生しました。

ノルウェーの首都オスロ政府庁舎爆破事件とウトヤ島銃乱射事件が連続して発生し、政府庁舎爆破事件により8人、銃乱射事件により69人がそれぞれ死亡、両事件で77人が死亡しました。

ノルウェー国内において第二次世界大戦以降の最悪の惨事とされています。

犯人は極右思想を持つキリスト教原理主義のアンネシュ・ブレイビク(当時32歳)、共犯者は居なかったようです。彼は、「イスラムによる乗っ取りから西欧を守るため」を動機として「反多文化主義革命」に火をつけることをあげ、「非道ではあるが必要なことだった」と主張して、無罪を主張したそうです。

原理主義者はイスラム教だけでなく、キリスト教にも存在します。

そもそも原理主義(ファンダメンタリズム)はもともとアメリカ合衆国の保守的プロテスタント派が1920年代に使用したキリスト教の神学用語です。現在では他の宗教にも拡大適用されてヒンドゥー原理主義、ユダヤ原理主義といった言い方もされています。

原理主義者は、その信条・世界観や、政治的・社会的主張を、個人の宗教的な規範や価値観としてだけではなく、国家や社会の普遍的な規範や価値観として法制化し、その規範や価値観に基づいて国家や社会を統治すべき(つまり、他人にも強要・強制する)と主張しています。

違った宗教・宗派の原理主義者同士では、和解することはないのかも知れません。

原理主義者はどの宗教でも少数派です。宗教・宗派が違っても仲良く暮らしている国は多いのですから。

それは、レバノンの様に綱渡りのような状況かも知れませんし、アメリカの様に分断しつつあるのかも知れません。

どの宗教でも本来、信条・世界観・政治的・社会的主張を他人に強要・強制することは、その教えの中には無いのだと思います。

「肌の色や出自や信仰の違う他人を、憎むように生まれついた人間などいない。人は憎むことを学ぶのだ。そして、憎むことを学べるのならば、愛することも学べるだろう。愛は憎しみよりももっと自然に、人の心に根付くはずだ。」

南アフリカの故ネルソン・マンデラ元大統領の発言を引用したオバマ元大統領のツイートです。このツイートには816日現時点で300万件の「いいね」が付いており、史上最多を記録したそうです。

今、イスラム過激派に参加している若者は憎むことを学んだのかも知れません。でも、違う信条・世界観を持つ人々を愛することも学べるのだと思います。

そして、中東の紛争地域の子供たちが憎むことを学ぶ前に、愛することを学べたらよいのですが。

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ISIS_chanとISIL_kun(ムスリムの子供達)その71マラウイ共和国

2017-07-09 17:59:10 | 日記

旅行ガイドブックのロンリープラネットが選ぶ、世界で最もフレンドリーな国トップ10は、アイルランド、スコットランド、トルコ、アメリカ、フィジー、サモア、インドネシア、ベトナム、タイ、そしてマラウイだそうです。旅行ガイドブックなので各地域から選ばれています。

個人的には、ベトナムやタイよりラオスの方がフリンドリーな気もしますが、その国を訪れた時の経験も人により様々でしょうし、感じ方も様々なのだと思います。ただ、これらの国々がフレンドリーな国であることは確かなのでしょう。

これらの国々は地域も宗教もバラバラです。

豊かな国や豊かになりつつある国もありますが、決して豊かではない国もあります。紛争にあまり縁の無かった国もあればベトナムの様に壮絶な紛争を経験した国もあります。

フレンドリーな人々になるには一定の法則があるわけではなさそうですが、人は自分が幸せでないと他人にやさしくなれないと言いますから、これらの国々の人々は幸せなのではないかと思います。

ほとんどの国はご存知でしょうが、マラウイと言われて、どこに在るのか、どんな国か、言える人は少ないかも知れません。

マラウイ共和国は、面積が11.8万平方キロメートル(北海道と九州をあわせた面積)、1,721万人(2015年:世銀)、アフリカ大地溝帯に位置する内陸国です。北・北西をタンザニア、東・南・南西をモザンビーク、西をザンビアの国境と接してと国境を接しています。首都はリロングウェで、イギリス連邦加盟国です。

1964年にイギリス連邦内の英連邦王国の形式で独立、国際連合にも加盟しました。

マラウイは独立以降、一度も紛争はなく、平和で政治的に安定した歴史を経験しています。Warm heart of Africa」と呼ばれています。

一人当たりGNI350米ドル(2015年:世銀)ですから、決して豊かな国ではありません。

民族はバンツー系(アフリカ言語の大カテゴリであるバントゥー語群に属する多様な言語を使用しつつ1つの大きな言語集団を成す多くの民族の総称)チェワ族が主流ですが、40程度の民族集団が存在するそうです。

公用語はチェワ語、英語ですが各部族語でも使用されています。宗教は人口の約75%がキリスト教で、その他イスラム教、伝統宗教も信仰されています。

マラウイは、8 割近くが小規模農家として農業に従事する農業国で、主食のメイズや主要輸出産品であるタバコ栽培などの一次産品に依存していますが、雨水に頼る農業が中心です。近年、食糧事情は改善していまするそうですが、灌漑開発の遅れや低い農業生産性などから依然として経済基盤は脆弱なのだそうです。

JICAのマラウイ事務所長のあいさつでは、マラウイは次の様に紹介されています。

「マラウイはその大地溝帯の南西端に位置し、標高3000m級のムランジェ山と深度700mのマラウイ湖を擁しています。マラウイ湖は「湖のガラパゴス諸島」と言われるほど固有種が豊富です。地球の造山活動と生物の進化が生み出した、優雅なブルーの熱帯魚は、観賞魚として日本にも輸出されています。」

https://www.jica.go.jp/malawi/office/about/greeting.html

マラウイ湖は地球上にいくつか存在する古代湖の一つで、数万年以上前から存在するといわれ、アフリカで3番目に大きな湖で世界遺産にもなっています。

マラウイ湖国立公園は、80キロにわたって白い砂浜が広がる美しい風景が魅力なのだそうです。南部には標高3000m級のムランジェ山塊の壮大な景観が広がります。首都リロングウェの年平均気温は21℃、最高気温が27度ほどと過ごしやすいのも魅力なのだとか。

ただ、日本から行く場合、南アフリカのヨハネスブルクか、ケニアのナイロビか、エチオピアのアディスアベバ経由となりますので、正直これだけでは訪れる気にはなれません。

でも、「Warm heart of Africa」と呼ばれ、フレンドリーな国トップ10にも選ばれたというだけでも魅力的な国です。

シリアやイラクではISが終焉の時を迎えているようですが、その脅威はフィリピン南部をはじめ各地に拡散しています。まるで、手術しても転移していくガンのようです。シリアの内戦が終わった訳でもありません。

人は命より大切なものがあると言って、戦いを始めるのだそうです。

ISの幹部の人々や、シリアで内戦を推し進めている人々にとっては、そうなのかもしれません。

でも、海外からISに参加した多くの人は、幸せでないから人に優しくなれなかった、

そんな背景があるような気がします。

シリアの内戦が終わる気配がないのも、大国間の思惑もあるのでしょうが、人々が幸せになれないから、憎悪の連鎖か止まらないのかも知れません。

日本には紛争を止める力はないのだと思います。手術のような外科的措置をすることはできないのですから

できることは、痛みを和らげること。避難民の人々の痛みを和らげること。避難民の支援をすることなのでしょう。

もう一つ、できそうなことがあります。それは、人々が幸せだと思えるためのお手伝いをすること。

少し前のネットのニュースで、イラク北部のクルド人地区で日本のNPOの支援で学校が再開されたという記事を見ました。そこでは、子供に笑顔が戻ったということです。

とても素敵な話だと思います。

だって笑顔が戻ったっていうことは、幸せを感じているということですから

中東地域の人々は元々フレンドリーな人々だそうです。

この地域の人々に笑顔が戻れば、

ロンリープラネットが選ぶ、世界で最もフレンドリーな国トップ10にランクインするんじゃないか

そんな気がします。

このブログの画像はisis_chanプロジェクトに参加されているイラストレーターの方々からお借りしています。isis_chanプロジェクトの目的は、ISが発信する残酷な画像のインターネットでのヒット率を低下させることだそうです。isis_chanプロジェクトにはガイドラインがあり、ムスリムと彼らの信仰の尊重、暴力的・性的表現・政治的主張の禁止等々決められています。私のプログは極力このガイドラインに沿って書いているつもりですが、抵触していると思われたら、それは私の文章力の無さから来るものだと思います。

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ISIS_chanとISIL_kun(ムスリムの子供達)その70ルワンダ共和国

2017-05-14 17:00:42 | 日記

ルワンダ共和国は、面積が2.63万平方キロメートル(四国の1.5倍程度)、人口約1,210万人(2014年,世銀)、アフリカの赤道直下に位置するに位置する共和制国家です。内陸国で、西にコンゴ民主共和国、北にウガンダ、東にタンザニア、南にブルンジと国境を接しています。首都はキガリで、イギリス連邦加盟国でもあります。

一人当たりGNI732米ドル(2015年,IMF)ですから、決して豊かな国ではありません。

民族は国民の84%がフツ、15%がツチ、1%がトゥワで、公用語はルワンダ語、フランス語、英語で、宗教はローマ・カトリックが56.5%、プロテスタントが26%、アドベンチスト教会が11.1%、ムスリムが4.6%、土着信仰が0.1%、無宗教が1.7%だそうです。

ルワンダは、赤道直下にありながら平均標高が1,600メールであることから、年間を通じて平均気温が25度、適度な降水量もあり、穏やかな気候に恵まれた環境で、「千の丘の国」といわれるほど起伏に富んだ地形のため、低地は乾燥したサバンナ、高地は涼しい山岳気候です。

その恵まれた気候を生かし、観光業にも力を入れています。

マウンテンゴリラの生息地としても知られ、ゴリラ・トレッキングが重要な観光資源となっています。首都キガリから車で約2時間のところに位置するヴォルカン国立公園には、たくさんのゴリラが生息しており、そこではジャングルの中で暮らすありのままの姿の野生ゴリラに遭遇することができ、また、キガリから移動中の車の中からは、「千の丘の国」と呼ばれるルワンダの絶景も見ることもできるそうです。

行ってみたいとは思うのですが、日本からキガリへの直行便はなく、2回乗り継ぎで30時間程かかります。

前後のアクセスも含めれば、往復4日ですからそこが難点です。

ルワンダの主要農産物はコーヒーで、総輸出額の約25パーセントを占めています。

日本での知名度はまだ低いですが、「千の丘の国」と呼ばれる起伏のある土地や雨量などの環境が、コーヒー栽培の立地に適しているのだそうです。紅茶も高品質な茶葉を生産しているのだとか。

首都キガリは、アフリカの大都市としては治安も良く、ゴミは落ちておらず道も舗装されています。実はルワンダ人は、非常に綺麗好きなのだとか。月の最後の土曜日はウムガンダと呼ばれる国民奉仕の日があり、そこではコミュニティごとに清掃活動を行い、それにはJICA/青年海外協力隊の職員や現地在住の日本人も参加しているそうです。

ルワンダは世界一男女間格差の無い国とも言われています。国際的な議員交流団体「列国議会同盟」(IPU、本部・ジュネーブ)の世界182カ国の女性議員数を比較した調査では、女性議員の割合が最も高かった国は、アフリカのルワンダで、その比率は63.8%。女性議員3人に、男性議員2人という割合です。

因みに日本は11.6%142位です。

また、ICT(情報通信技術)技術の活用に力を入れています。

ダボス会議の世界経済フォーラム が発表した「グローバル・インフォメーション・テクノロジー・レポート2015」の中で、「ICTの活用促進に最も成功した政府」世界1位がルワンダで、因みに日本は27位でした。

経済成長率も6.9%(2015年,世銀)と高く、世銀の「Doing Business(投資環境ランキング)2015」では,全世界189ヵ国地域中46位,アフリカ第3位,東アフリカ共同体(EAC1位という高い順位を占めています。

そんなルワンダですが、悲しい歴史があるのです。

1962年の独立以前より,フツ族とツチ族の抗争が繰り返されていたのですが,独立後多数派のフツ族が政権を掌握し,少数派のツチを迫害する事件が度々発生していました。1990年に独立前後からウガンダに避難していたツチが主体のルワンダ愛国戦線がルワンダに武力侵攻し,フツ政権との間で内戦が勃発したのです。

19938月に和平合意が成立し,国連は停戦監視を任務とする「国連ルワンダ支援団(UNAMIR)」を派遣しましたが,19944月のハビヤリマナ大統領暗殺を契機に,フツ過激派によるツチ及びフツ穏健派の大虐殺が始まり,同年7月までの3ヶ月間に犠牲者は80100万人に達しました。

19947月,ルワンダ愛国戦線がフツ過激派を武力で打倒すると,ビジムング大統領(フツ),カガメ副大統領(ツチ)による新政権が成立しました。同政権は大虐殺の爪痕を乗り越えようと,出身部族を示す身分証明書の廃止(1994年),遺産相続制度改革(女性の遺産相続を許可)(1999年),国民和解委員会及び国民事件委員会の設置(1999年)等,国民融和・和解のための努力を行っています。

20004月にはカガメ副大統領が大統領に就任しました。

また、2003年には国会議員の3割以上を女性議員とする制度が導入されました。内戦で男性が減ったため、新政権が取った苦肉の策だったそうです。

フツとツチは元々同じ言語を使い、農耕民族であるか遊牧民族であるかという違いでしかなく、貧富の差がそれぞれの民族を形成するなど両者の境界は曖昧でした。遊牧業が主な生業であったツチは、牛を多数所有するなど比較的豊かであったそうです。

日本神話の海彦・山彦ほどの違いだったのでしょう。

ルワンダは第一次世界大戦まではドイツの植民地・ドイツ領東アフリカでした。

第一次世界大戦以降はベルギーの植民地となったのでずが、ベルギー植民地下では、少数派であるツチを君主及び首長等の支配層とする間接支配体制が築かれました。

ベルギー人をはじめとする白人による植民地支配がはじまると、鼻の大きさや肌の色などを基準に境界が作られ、多数派のフツとごく少数のトゥワは差別的な扱いを受けていました。

ツチは「高貴(ハム系あるいはナイル系)」であり、対するフツなどは「野蛮」であるという神話・人種概念を流布し(ジョン・ハニング・スピークのハム仮説)、ツチとフツは大きく対立し始めました。

植民地支配の道具としてツチの支配が形成され、1930年代にはIDカードの導入により固定化が図られ、フツとトゥワはあらゆる面で差別を受けました。いずれの民族に属するかの基準は、父方の血統をもとに決められたそうです。

その後植民地解放の気運が高まるとツチとベルギー当局との関係が悪化します。1959年、ツチによる君主制が覆り、報復を恐れたツチはウガンダに逃げ始めました。

ベルギー当局は社会革命としてフツによる体制転覆を支援したのだそうです。

そこからルワンダの泥沼の内戦と虐殺が始まったのです。

カガメ大統領は2010年の大統領選挙で再選され、汚職対策に力を入れています。ルワンダは他のアフリカ諸国に比べて,汚職の少なく,治安も良いのだそうです。

一方、カガメ大統領は強権的すぎるとの声もあるそうです。

でも、およそ30年にも及ぶ泥沼の内戦と虐殺の果てに訪れた平和です。民族間の軋轢も完全になくなったわけではありません。

悲劇を繰り返さないためには、大統領が強い指導力を発揮する必要があるのかも知れません。

日本のルワンダに対する援助額は、49.86百万ドルで第三位です。JICA/青年海外協力隊による様々なサポートも行われています。

それだけではありません。初の日本料理店を開いた日本人女性や初のタイ料理店を開いた日本人女性もいるそうです。

ルワンダの人々の口には合わないようですから、観光客向けなのでしょう。首都キガリには多くのレストランがありますが欧米系の料理が多いようです。観光にも力を入れているルワンダですから、観光客が食べられる料理に多様性があるのはとても良いことだと思います。

ルワンダで日本人が現地の人をサポートしたり、料理店開いたりできるのも、平和が訪れたからです。

ウムガンダと呼ばれる国民奉仕の日で人々が清掃活動などをしていますが、いやいやながらやっている子供も居るような気がします。

それは、学校の掃除の時間に言われるから、仕方なく掃除をする一部子供たち、その中には「何とかさぼってやろう」って考えている子供も居るのかもしれません。

でも、ウムガンダがちゃんと行われているのは平和が訪れ、その平和をみんなが大事に思っているからだと思います。

中東の紛争地域でも、平和が訪れたら日本に、日本人にできることは沢山あるのだと思います。

いつかシリアの街角で、清掃活動のボランティアが行われ、

「何とかさぼってやろう」って考えながら仕方なく掃除をする子供たちが走り回り、

一緒に活動している日本人ボランティアが「ちゃんとやってよ」って頭を抱えていたら、

なんか素敵だと思います。

それは、この地に平和が訪れたという、象徴のような出来事ですから。

このブログの画像はisis_chanプロジェクトに参加されているイラストレーターの方々からお借りしています。isis_chanプロジェクトの目的は、ISが発信する残酷な画像のインターネットでのヒット率を低下させることだそうです。isis_chanプロジェクトにはガイドラインがあり、ムスリムと彼らの信仰の尊重、暴力的・性的表現・政治的主張の禁止等々決められています。私のプログは極力このガイドラインに沿って書いているつもりですが、抵触していると思われたら、それは私の文章力の無さから来るものだと思います。

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