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isis_chanとisil_kun(ムスリムの子供達)その22 スリランカ

2015-08-22 15:52:14 | 日記

スリランカは、北海道の約8割(65,607平方キロメートル)という国土に6つの文化遺産と2つの自然遺産の計8つの世界遺産が点在する観光資源に恵まれた国です。内陸部には、スリランカの歴史上重要な時代を彩ってきた5つの世界遺産が集まっているエリアがあり、「文化三角地帯(Cultural Triangle)」と呼ばれています。

また海のシルクロードとして栄えた南西海岸周辺には要塞都市ゴールがあり、文化三角地帯の南側の手つかずの自然が残る地域には、熱帯雨林に覆われた固有種の宝庫であるシンハラージャ森林保護区とスリランカ中央高地という2つの自然遺産があります。

ゴール旧市街とその要塞群は1988年に世界文化遺産に登録されました。中東と中国を結ぶ「海のシルクロード」の中継地点として古代から栄えた港町で、大航海時代に入ると、ポルトガルやオランダの手によりこの地に堅固な要塞が築かれ、香料貿易の拠点として街は多いに栄えました。要塞の中には、コロニアルな街並みが広がり、時計台やオランダ教会灯台などが当時の面影を残しています。

2004年12月26日のスマトラ島沖の大地震により、インド洋からの大津波が襲いかかったとき、この旧市街は一人の犠牲者も出しませんでした。植民地時代の城壁が街を守ったためで、以来「奇跡の世界遺産」と呼ばれています。

現地の人の食事はカレー尽くしといったところですが、植民地であったところから西洋料理はありますし、中国の進出により中華料理店も増えているといいます。日本料理も食べられるようですから、インド風のカレーが苦手な方もご安心を。

スリランカの観光地は世界遺産だけではありません。世界遺産ポロンナルワから車で約1時間30分ほど東に「パシクダー」と言う場所があり、モルディブと同じように美しいビーチリゾートなのだそうです。

 

ヒンドゥー教の神話ではインド亜大陸とはラマと呼ばれる橋で結ばれていたといいます。実際にアダム橋と呼ばれる所々海面に顔を出す石灰岩礁が連なり、その昔完全な天然の陸橋でしたが、1480年の嵐で壊れたとのことです。

2012年時点では総人口約2027万人のうちシンハラ人(仏教徒)は1,517万人 (74.9%)、タミル人(ヒンドゥー教徒)は311万人 (15.4%)、ムーア人(ムスリム教徒)が187万人 (9.2%)でした。公用語はシンハラ語、タミル語で、インド同様イギリスの植民地でしたから、英語を理解する人も多いです。

スリランカの歴史は、紀元前5世紀: シンハラ人の先祖に当たる人々が北インドから移住して王国を作ったとされます。紀元前3世紀アショーカ王の王子マヒンダが仏教を伝えたとされ、これ以後上座部仏教(テーラワーダ仏教)を主体として仏教が興隆し、シンハラ人の多くは現在までその信仰を守って来たのです。

一方、ヒンドゥー教徒のタミル人は紀元前2世紀以降南インドから移住者してきた人たちです。また、ムスリム教徒のムーア人は9~10世紀頃に島に住み着いたアラブ系の人々を主体とするスリランカ・ムーアと、インドから移住してきたインド・ムーアに分かれます。

昔はインドと繋がっていたので、移住者が多かったのかもしれません。

その後、16世紀にはポルトガルの植民地なり、17世紀にはオランダの植民地となります。18世紀にはイギリスの進出が始まり、1802年イギリス本国の直轄植民地となるのです。

1946年にイギリス連邦内の自治領(英連邦王国)として独立しました。

サンフランシスコ講和会議において、セイロン代表として会議に出席していたジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナ蔵相(後のスリランカ第2代大統領)が「憎悪は憎悪によって止むことはなく、憎悪を捨てることによって止む」という仏陀の言葉を引用して、対日賠償請求を放棄する演説を行ったのをご存知の方はあまり居ないかもしれません。

1983年にシンハラ人とタミル人との大規模な民族対立が起こって、全土にわたって暴動が繰り返されました。シンハラ人とムーア人の対立、シンハラ人内部の対立も激化していきました。

仏教徒とヒンドゥー教徒とムスリム教徒の紛争、そんな内戦が終結したのは、2009年のことです。26年の長期にも及ぶ内戦でした。現在のスリランカは治安も安定してきているようで、シナモン、天然ゴム、茶といった作物の輸出や食品加工で経済も順調だといいます。

 

「憎悪は憎悪によって止むことはなく、憎悪を捨てることによって止む」という仏陀の言葉、同じ様な言葉はどの宗教にも見られます。

中東や世界各地で起こっている様々な紛争、それは憎悪の連鎖の結果なの知れません。

紛争を止めるためには、憎悪を捨てることが必要なのでしょう。

相手への憎しみを捨てる、それは簡単なことではないのかも知れません。でも、相手への憎しみを心に秘めたままの紛争終結では、またいつか紛争が再発します。

子供たちが、そして大人たちも笑顔で暮らせる時が長ければ長い程、相手への憎しみが薄れて行くのでしょう。

中東や世界各地の紛争地域で憎悪の連鎖が止まりますように。

そして、子供たちが相手への憎しみを持たなくとも良い世界になりますように。

 

このプログの画像はisis_chanプロジェクトに参加されているイラストレーターの方々からお借りしています。isis_chanプロジェクトの目的は、ISが発信する残酷な画像のインターネットでのヒット率を低下させることだそうです。isis_chanプロジェクトにはガイドラインがあり、ムスリムと彼らの信仰の尊重、暴力的・性的表現・政治的主張の禁止等々決められています。私のプログは極力このガイドラインに沿って書いているつもりですが、抵触していると思われたら、それは私の文章力の無さから来るものだと思います。

もしisis_chanプロジェクトに興味を持たれたら、こちらをクリックして見てください。

<公式ホームページ>

http://isischan.web.fc2.com

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isis_chanとisil_kun(ムスリムの子供達)その21 レバノン

2015-08-02 16:10:45 | 日記

レバノンは北から東にかけてシリアと、南にイスラエルと隣接し、西は地中海に面してます。面積は1万KM2、人口は4.2百万人程ですから、静岡県と山梨県を足した程の中東の小国です。

この地域は紀元前3000年ごろには、フェニキア人と呼ばれる人々が一連の都市群で生活をしていたそうです。そのころのレバノンは、内陸部には鬱蒼としたレバノン杉の森が茂っていました。フェニキア人は、当時レバノン山脈全域に自生していたレバノン杉を船舶の建造材として使用し、地中海貿易で繁栄したといいます。

レバノン杉は長年の伐採がたたり、現在は1200本程度が残るだけになっていますが、その名残が、世界遺産のカディーシャ渓谷と神の杉の森です。

レバノン杉は名前に「スギ」が付いていますがマツ科なのだそうです。

 

この地は紀元前10世紀アッシリア帝国に飲み込まれた後、新バビロニア、マケドニア王国とその後継のセレウコス朝シリア、古代末期にはローマ帝国と支配者が替わっていきます。

そして、7世紀には東ローマ帝国を破ったアラブ人に征服されてイスラム世界に組み込まれました。

1918年にはフランスに占領され、1923年9月にフランス委任統治領大レバノンとなります。シリアの地もこのときフランス委任統治領シリアとなるのです。

1941年6月に、亡命政府となった自由フランスがシリア、レバノンの独立宣言し、1941年9月にシリアが、同年11月にレバノンが独立を布告しました。連合国として自由フランスを支援していたイギリスは独立布告後すぐに独立を承認し、ドイツ軍の侵攻に備えて1942年初期に軍人を両国の公使に派遣し両国を支援したそうです。

宗教はムスリム教諸派が55%、キリスト教諸派が40%、それぞれが様々な宗派に分かれます。レバノンには18の宗派が存在し、各宗派に政治権力配分がなされ、大統領はマロン派(マロン典礼カトリック教会)、首相はスンニ派、国会議長はシーア派と決まっているそうです。

しかしPLOの流入によって微妙な宗教宗派間のバランスが崩れ、1975~76年にかけて内戦が発生し、イスラエルとシリアの侵攻も受けました。

内戦以前の首都ベイルートは「中東のパリ」と呼ばれ、中東のビジネス・金融センターとして繁栄していましたが、内戦によってシステムが崩壊してしまいます。1990年の内戦終了以後、経済復興が進められており、ベイルートの街並みなども再び整備されてきていますが、2006年のイスラエルとヒズボラの武力衝突で国家全体のインフラ被害などが生じていることもあり、復興道半ばといったところです。

 2005年2月にラフィーク・ハリーリ元首相が暗殺されて以降、国内ではムスリム教シーア派のヒズボラなど親シリア派と故ハリーリ元首相の次男サアド・ハリーリ氏を中心とするムスリム教スンニ派のグループなどの反シリア派が激しく対立してきましたが、2009年6月に実施された国会総選挙で、反シリア派が引き続き議席の過半数を確保する勝利を収めると、同年11月にはサアド・ハリーリ氏が首相に就任し、親シリア派も含めた「挙国一致内閣」を樹立しました。

 

ようやくたどりついた内戦終結なのですが、平穏な日々が続いているとは言いがたいようです。18の宗派間の対立という中で、綱渡りのような状況なのでしょう。

それでもレバノンの人々は、内戦再発だけは避けたいと努力しているようです。

いつかベイルートが再び中東のパリと呼ばれ、地中海有数の国際的リゾート地として、数多くのホテルが立ち並ぶ程復興したら、是非レバノン杉を見に行きたいと思います。

カディーシャ渓谷で、18の宗派の子供達が手を取り合って遊んでいるところを見ることができたら、とても素敵だと思います。

そんな日が早く訪れますように。

 

このプログの画像はisis_chanプロジェクトに参加されているイラストレーターの方々からお借りしています。isis_chanプロジェクトの目的は、ISが発信する残酷な画像のインターネットでのヒット率を低下させることだそうです。isis_chanプロジェクトにはガイドラインがあり、ムスリムと彼らの信仰の尊重、暴力的・性的表現・政治的主張の禁止等々決められています。私のプログは極力このガイドラインに沿って書いているつもりですが、抵触していると思われたら、それは私の文章力の無さから来るものだと思います。

もしisis_chanプロジェクトに興味を持たれたら、こちらをクリックして見てください。

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