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isis_chanとisil_kun(ムスリムの子供達)その30 リビア

2015-10-24 15:43:23 | 日記

リビアは面積が176万平方キロメートル(日本の約4.6倍)人口6百万人ほどの国で、面積の大半を砂漠が占める国です。

石油の埋蔵量はアフリカ最大といわれており、一人当たりのGDPはアフリカでは最上位レベル、先進国クラスなのだそうです。イスラム教(スンニ派)が大多数を占めます。

古代からこの地はフェニキア人、カルタゴ、古代ローマ、東ローマ帝国、アラブ人のウマイヤ朝と支配者が変わっていきました。その後16世紀にオスマン帝国に併合され、途中で一時的に独立するのですが、再度オスマン帝国に併合されます。

20世紀初頭の伊土戦争により、1911年にはイタリア王国がリビアを植民地化し、多くのイタリア人が入植したそうです。第二次世界大戦中には連合国(イギリス)と枢軸国(イタリア、ナチス・ドイツ)の間で激戦が繰り広げられ、イタリアの敗戦により、戦後は英仏の共同統治領とされました。

1951年にリビア連合王国として独立したのち、1969年カダフィによるクーデターが起こり、カダフィによる独裁政権が始まりました。

2010年12月に始まったチュニジアのジャスミン革命に影響され、2011年カダフィ政権に対する反政府デモがリビア全土で勃発します。

カダフィ政権と、リビア国民暫定評議会を中心とする反体制派間の数か月にわたる武力衝突を経て、反体制派が首都トリポリを制圧。

カダフィ政権は崩壊します。

 

その後は制憲議会が民選されましたが、軍閥化した各地の反カダフィ派民兵の権力争いが激化したことで、政権移行プロセスが頓挫してしまいます。

2014年夏には制憲議会に代わる議会を選ぶ選挙が行われました。

しかし、新議会の正統性を認めない西部ミスラタの有力軍閥や、イスラム原理主義のムスリム同胞団系、東部ベンガジを拠点とする国際テロ組織アルカイダ系などのイスラム勢力が「リビアの夜明け」連合を結成し、首都トリポリで独自の政府を打ち立てます。

これに対し、国際的な承認を受ける新議会側は、拠点を東部トブルクに移しシンニー首相を選出。シンニー氏は、カダフィ政権で軍高官だったハフタル将軍や西部ゼンタンの軍閥と連携し「リビアの夜明け」側と対立し事実上の無政府状態となってます。

これまでISは、宗派対立に起因する政情不安が続くイラクや内戦下にあるシリアなど、国家権力が機能していない地域に狙いを定めることで勢力を急拡大させてきました。リビアでもその勢力を拡大しつつあるのです。

人質となっていたエジプトのコプト教徒21人が殺害され、エジプト軍が報復のためにリビアの拠点を空爆もしたのは、ごく最近のことでした。

そんな中、リビアの対立する有力民兵組織が、ISの進行を食い止めるため、実利的な停戦協定を結び、共同戦線を張っているとのことです。

 

リビアは観光資源も豊富なのだそうです。

紀元前12000年頃から西暦100年頃に至るまでに描かれたタドラルト・アカクスの岩絵。

サハラ交易において重要な役割を果たした、世界遺産のオアシス都市ガダミス。

そして、地中海貿易の一旦を担っていた証でもあるキュレネ、サブラタ、レプティス・マグナの古代都市遺跡。

いずれも世界遺産に登録されています。

本来、リビアの地はアフリカ最大の石油の埋蔵量を誇る、豊かな国でした。

カダフィ政権時では、アフリカ有数に治安が安定している国として知られていましたが、現在では、急速に治安が悪化してしまい、観光に訪れることもためらわれる国になってしまいました。

カダフィ政権を倒すこと、それは望ましいことだったのかもしれませんが、その結果治安が悪化してしまいました。

今、シリアで起こっている紛争。その終結の仕方次第では、新たな紛争の始まりになってしまうような気がします。

紛争が終わり、治安がもどり、その平和が長く続くこと。

そうすれば、子供たちが住んでいた町にもどり、笑顔で暮らせるようになるのだと思います。

いつかはシリアの地でも紛争が終結するのでしょう。

でも、その紛争の終結が新たな紛争の始まりになりませんように。

 

このブログの画像はisis_chanプロジェクトに参加されているイラストレーターの方々からお借りしています。isis_chanプロジェクトの目的は、ISが発信する残酷な画像のインターネットでのヒット率を低下させることだそうです。isis_chanプロジェクトにはガイドラインがあり、ムスリムと彼らの信仰の尊重、暴力的・性的表現・政治的主張の禁止等々決められています。私のプログは極力このガイドラインに沿って書いているつもりですが、抵触していると思われたら、それは私の文章力の無さから来るものだと思います。

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isis_chanとisil_kun(ムスリムの子供達)その29 ブルネイ

2015-10-18 16:48:44 | 日記

ブルネイはボルネオ島の北西部にある小さな国です。

面積は5,765平方キロメートルですので日本の三重県とほぼ同じ大きさ,人口は約40万人です。

公用語はマレー語ですが,英語も広く通用し,中国系住民の間では中国語もある程度用いられおり、イギリス連邦加盟国です。

国土はマレーシア領となっているリンバン川流域によって、二分され、全土が熱帯雨林気候下にあります。東側のテンプロン川流域は、海岸付近を除き、ほとんどが未開発の密林で、広大な自然公園となっていますが、自然公園に行くには一旦マレーシアに入国することになります。

イスラム教が国教ですが、イスラム教 67%、仏教 13%、キリスト教 10%、先住系諸民族固有の信仰とその他 10%とのことです。

信仰のクリスマスも国民の休日になっています。キリストはイスラム教でも預言者の1人なのだそうです。また、週の休日は金曜日と日曜日です。

王様の権力が強く、石油と天然ガスで潤っているお金持ちの国。ブルネイ国民であれば、医療費(公立病院)や教育費(公立学校)は無料で個人の所得税もかかりません。

東南アジアの一国なのですが、観光旅行先として話題に上がることも少く、ブルネイツアーは秘境の旅扱い、観光資源としては豪華なモスクとボルネオ島の自然、豪華なホテルといったところでしょうか。

代表的なモスクは、前国王、オマール・アリ・サイフディンが総工費US$500万をかけて建設、1958年に完成したマール・アリ・サイフディン・モスクと、現ボルキア国王の即位25周年に合わせて、8年の歳月をかけて1994年に完成したジャメ・アスル・ハッサナル・ボルキア・モスクです。

どちらも豪華ですが、歴史的な建造物ではありません。月日が経てば、また別の価値が出てくるのでしょう。

ボルネオ島の自然といっても周りはマレーシアなのですから、ボルネオ島の自然を満喫する為にブルネイに行く必要もないのかと思います。観光資源に乏しい国で、観光客も少ないため、秘境の旅扱いなのでしょう。

 

ブルネイの人たちは、一般的に大変温和で穏やかであると言われています。やはりお金持ちであるということが大きいのでしょう。

またイスラム教が社会に根付いており信仰心が厚く、ハラル認証は政府が行っているのでブルネイのハラルは信頼度が高いと言われています。

伝統的なしきたりや儀式的な行事を重んじるとともに、国王や王族への尊敬心が深いことでも有名です。

日本とブルネイの皇室と王室は良好な関係を築いてきましたし、多くのブルネイ王室の王族たちも何度も日本に訪れています。

対日感情は良好で最近では若者を中心にマンガやアニメなど、日本のポップカルチャーへの関心も高まっているとか。

東日本大震災の際にはブルネイ政府から100万米ドルの寄付だけでなく、民間からの義援金の他、天然ガスの緊急調達が行われるなどの支援を受けました。

今、ブルネイの経済は石油・天然ガス頼みとなっています。

ブルネイ政府は将来の石油資源枯渇に備え、豊富な資金を背景に国外へと積極的に投資しており、イスラム銀行などの金融業や観光業の育成が図られています。

また、その他の国内産業育成のために、ブルネイ内務省の要請により大分県県職員が、一村一品運動に関する指導や講義などを行いましたが、まだまだ定着していないようです。

産油国からの脱却を目指し、勉強中ということでしょうか。

 

イスラム教が社会に根付いており信仰心が厚いので、国民はお酒を飲みませんし、国内で販売もしていません。ただ、外国人のお酒の持ち込みは問題ないそうです。

お酒の持ち込み自体禁止されているパキスタンとは違って、「自分達は飲まないけど、貴方達は宗教が違うのだからお酒を飲んでも良いですよ。」と言うことなのでしょう。

相手の教義を尊重し、自分の教義を押し付けない。ブルネイはそんな国のようです。

イスラム教とキリスト教とユダヤ教がせめぎ合う中東地域。イスラム教の中でもシーア派とスンニ派の争いもあります。お互いの違いを認め合う、それが紛争終結の第一歩なのだと思います。

中東地域でもレバノンの様に、様々な宗教宗派の人々が暮らしている国もあります。

やはり、ブルネイのように、相手の教義を尊重し、自分の教義を押し付けないことが重要なのでしょう。

 

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isis_chanとisil_kun(ムスリムの子供達)その28 モロッコ

2015-10-12 14:29:56 | 日記

モロッコ王国大使館のモロッコについての紹介では次の通り書かれています。

「モロッコ王国はアフリカの北西部に位置しています。北部はジブラルタル海峡と地中海、西は大西洋に面しています。 東部はアルジェリア、南部はモーリタニアに隣接しています。モロッコの領土は約710,850平方kmです。 海岸線は3,500kmに達し、大西洋岸が2,000km、地中海沿岸は500kmです。」

海岸線の残り1,000kmは何処にあるのか謎ですが、大西洋岸と地中海沿岸の間の海峡部分が1,000kmということなのでしょう。

これだけではモロッコがどこにあるのかイメージが沸かないかも知れません。エジプトから西方に、リビア・チュニジア・アルジェリア・モロッコの順に並んでいます。チュニジアとモロッコどちらがどっちか判らない方、チュニジアがアルジェリアの右側、モロッコはアルジェリアの左側です。因みに、海峡を挟んで向かい側がスペインです。

公用語はアラビア語とベルベル語です。ベルベル語はご存知ない人も多いかもしれませんが、ギリシャ語で「言葉がわからない人」を意味するバルバロイに由来しているそうです。

因みに、ベルベル人は、北アフリカの広い地域に古くから住み、アフロ・アジア語族のベルベル諸語を母語とする人々の総称です。

北アフリカ諸国でアラブ人が多数を占めるようになった現在も一定の人口をもち、文化的な独自性を維持する先住民族です。宗教はイスラム教で、遺伝子的には白人と黒人の混合人種だそうです。

古代から地中海沿岸では交易が盛んでしたから、民族の融合も進んでいたのでしょう。

ベルベル人は東はエジプト西部の砂漠地帯から西はモロッコ全域、南はニジェール川方面までサハラ砂漠以北の広い地域にわたって分布しており、その総人口は1000万人から1500万人ほどです。モロッコでは国の人口の半数がベルベル人だそうです。

 

19世紀以降、北アフリカ(マグレブ)地域はフランスによる侵略と植民地支配を受けました。

ベルベル人の一部はフランスの植民地支配に協力的な知識人層を形成し、フランス支配の中間層として働いたそうです。

一方で植民地支配に対する抵抗も継続し、このときベルベル人はアラブ人とともに植民地支配者のフランス人に対抗して、ムスリムとしての一体性を高めました。しかし、独立後のマグリブ諸国では、近代国民国家を建設しようとする動きの中で、ベルベル文化への圧迫とアラブ化政策がかつてない規模で進められ、人口比の関係からもアラビア語を話す者が増えたため、20世紀後半にはベルベル語と固有文化を守っていこうとする運動が起こりました。

モロッコの地は、古い歴史に彩られています。 

先史時代にベルベル人が現在のモロッコに現れ、古代には沿岸部にカルタゴのフェニキア人の港湾都市が築かれました。

8世紀初頭に東方から侵攻したウマイヤ朝の軍隊がモロッコを征服し、モロッコのイスラーム化とアラブ化が始まりました。

アラブ人はモロッコを拠点にジブラルタルを越え、イベリア半島の西ゴート王国を滅ぼし、アル=アンダルス(スペインのアンダルシア地方を中心とするイスラム勢力統治下のイベリア半島一帯のことを指す呼称)のイスラム化を進めました。1492年にカトリック両王の下で誕生したスペイン王国がレコンキスタを完遂し、イスラム勢力をイベリア半島から駆逐します。

その後、モロッコの地ではいくつもの王朝の興亡を経て、1660年に現在まで続くアラウィー朝が成立しました。

1757年に即位したムハンマド3世はヨーロッパ諸国との友好政策を採り、デンマークを皮切りに各国と通商協定を結び、1777年には世界で初めてアメリカ合衆国を承認したそうです。

モロッコは民主的な立憲君主国です。2011年の2月から4月にかけて、アラブの春の影響でデモが発生し、憲法改正が承諾され、同年7月、憲法改正により国王の権限が縮小されるとともに、首相の権限強化されたそうです。

地中海に面する北部は温暖な地中海性気候。4000メートル級の山があるアトラス山脈には十分な降雨、また積雪もあります。南部一帯は砂漠性気候です。

モロッコ王国大使館のモロッコの魅力紹介では、食文化について次の通り書かれています。

「モロッコ料理は香辛料で食材のうまみを引き出す調理法で、鶏、羊、牛などの肉やイワシ、ヒラメ、カレイ、鯛、あじ、えび、かきなどの魚介類をオリーブ油であっさりと調理するので、日本人好みの料理です。イスラム国ですが、フランス統治下にワインの醸造法が伝えられ、メクネス産のワインは逸品ぞろいです。」

宗教の自由は保障されているとはいえ、99%がイスラム教徒、メクネス産のワインの全てが輸出または観光客向けとは思えません。やはり、ゆるやかなイスラム教徒ということなのでしょうか。

世界遺産は豊富です。

その一つ、テトゥアンはモロッコ北部にある町で、モロッコの地中海側にあり、北に40kmほどのところには地中海と大西洋を分かつジブラルタル海峡があります。

15世紀、スペインから逃れてきたイスラム教徒によって建造されました。モロッコとアンダルシアの交易の重要地点として栄えたそうです。イスラムとアンダルシアの建築様式が調和した美しい街なのだそうです。

その他にも、最古の都フェス、ウダイヤにあるアンダルシア庭園、モロッコ美術館など見所がいっぱいの首都ラバト、気候のよさと美味しい水が有名なメクネス、ブーゲンビリア、ミモザ、ジャスミンの花々が一年中咲き誇る街並みに、万年雪の大アトラス山脈の雄大な景色が特別な雰囲気を作っている花の都マラケシュ等々一度は見ておきたい場所が沢山あります。

中世の一時期、世界の中心の一つであった証なのでしょう。

 

モロッコ最大の都市カサブランカは人口約400万人、モロッコの首都ラバトの南西約90キロメートルに位置し、モロッコの商業・金融の中心地であると共に観光地です。

この地を舞台にした映画カサブランカは第二次世界大戦にアメリカが参戦した1942年に製作が開始され、同年11月26日に公開されたハンフリー・ボガート主演のラブロマンス映画です。お相手は、イングリッド・バーグマンです。

アメリカも参戦した第二次世界大戦における国際的な問題を中心に置いて製作された作品であることもあり、プロパガンダ的要素がふんだんに含まれているとも言われています。

1943年1月には、アメリカ大統領フランクリン・ローズヴェルトとイギリス首相ウィンストン・チャーチルによってカサブランカ会談が行われました。この後、蒋介石も出席したカイロ会談、スターリンも出席したテヘラン会談を経て、ヤルタ会談が開催され第二次世界大戦の終結と東西冷戦へ繋がるのです。

モロッコに限らず、中東から北アフリカ(マグレブ地域)の歴史的な背景は複雑で、それはヨーロッパ諸国も無縁ではないのだと思います。

何が正しく、何が間違っているのか、この地域の歴史を調べれば調べるほど、迷路にはまってしまいます。

今を生きている紛争地域の子供たちの為に、紛争が終結してくれたらと思います。

ただ、その紛争終結が新たな紛争の始まりとなっては、何の解決にもならないのかも知れません。

子供たちが住んでいた町に帰るためには、暫く紛争は起こらないという安心感が必要です。

永遠の平和の実現は、無理なのかも知れませんが。

 

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isis_chanとisil_kun(ムスリムの子供達)その27 ラオス

2015-10-04 17:10:24 | 日記

タイの北端にチェンセーンという町があり、その北約9kmにコールデン・トライアングルという場所があります。タイ・ラオスを隔てるメコン川と、タイとミャンマーを隔てるルアク川が合流する地点です。タイ側の川の合流地点にはぎっしりと土産物屋が並んでいます。

ここから、小船でラオスに渡ることができます。国境を越えるのですが、ビザは要りませんし、パスポートチェックもありません。

ラオス側では土産物屋が並んでいる場所に着きます。船着場近くは舗装されていますが、土産物屋が並んでいる道は舗装されていません。正直お客さんはあまり居ませんし、店員も売る気があるようにも思えません。

品物の値段はタイと比べると充分安いのですが、値切ると少し困った顔をしながら値を下げてくれます。ひょっとすると最初に店員が言った値段がぎりぎりの値段だったのかも知れません。

土産物屋の他は檻に飼われたクマと、コンクリート製の鹿の像が森の中に並んでいます。土産物屋が並んでいる道を進むと森の向こうに延々と続く草むらが見渡せます。

草むらの中の一本の悪路を時折、ボロボロのバイクに乗った人が通ります。農機具を積んでいますからたぶん農民なのでしょう。

タイ国境近くにあるミャンマーのタチレクという町はタイからの買い物客で賑わっています。

ひょっとすると、ここはラオスの人たちが「タチレクみたいになったらいいな」と思い、彼らなりに精一杯背伸びをして作った場所なのかもしれません。そう思うと少し悲しくなるのですが、その一方で心が穏やかになって行く自分が居るのです。

なぜだろうと思うのですが、流れている空気が違うとしか思えません。タイもミャンマーも日本人にとって充分癒される国なのですが、ラオスはそれ以上に自分の心が穏やかになって行く国です。

ラオスはASEAN加盟10か国中唯一の内陸国。面積は23.9万km2日本の約6割に相当し、6.2百万人が暮らしています。国土の約70%は高原や山岳地帯で、北は中国、東はベトナム、南はカンボジア、タイ、西はミャンマーと国境を接しています。主な産業は農業と水力発電の近隣諸国への売電だそうです。

主な観光地としては、北部の古都ルアンプラバン、メコンに浮かぶ4000の島と滝が売りのパクセ、そして首都のヴィエンチャンでしょうか。

ラオス情報文化観光省のサイトにはこう書かれています。

「アンコールワットのように壮大な遺跡があるわけでなし。エメラルドグリーンの海が広がっているわけでもなし。タイのトムヤンクンのような名の知れた料理があるわけでもない。

かつて、ランサン王国として統一されたこの国は、その後、フランスのインドシナ連邦に編入された。フランスによる統治やインドシナの戦火に巻き込まれるという歴史を経て、1975年「ラオス人民民主共和国」は誕生した。

今もなお、海外からの経済援助に頼っているが、この国で暮らす人々の心は豊かさで満ちており、溢れんばかりの微笑みで、いつも私達を迎えてくれる。」

ラオスが歴史に登場するのは14世紀中頃。ランサン王国(ランサンとは百万頭の象という意味)がルアンパバーンに王都を定めた頃からです。

今で言えば、戦車100万台の軍事大国ということでしょう。

16世紀には絶頂期を迎えました。その後ヨーロッパとの交易が行われイタリア人伝道師らに、ヴィエンチャンは当時の東南アジアでもっとも荘厳な町であると評されたそうです。

18世紀にはいると王位争奪の争いから、ランサン王国はヴィエンチャン、ルアンパバン、チャンパサックの3つの国に分裂します。それぞれタイやカンボジアの影響下に置かれ、両国の争いに巻き込まれる形で戦乱が続きました。

ちなみにタイのバンコクのワット・プラケーオにあるエメラルド仏は、1777年トンブリー王朝(シャム)のタークシン王がビルマ(コンバウン王朝)と繋がっていたヴィエンチャン王国へ侵攻すると、1779年にラーマ1世(当時はタークシン王に仕える将軍)がヴィエンチャンから略奪してトンブリー(現在のバンコク)へと持ち帰ったものです。

後にラーマ1世がチャクリー王朝を開くと、エメラルド仏は1784年からラーマ1世が設置したワット・プラケーオに安置される事となり、そのまま今日まで至っています。

でも、そのことはラオスの観光案内には書かれていません。また、タイ東北部は元々ラオスでした。紛争の中でタイに割譲されてしまった土地です。

その後1893年フランスのインドシナ連邦に編入され、ランサン三国はラオ族のラオを複数形にしてラオスと呼ばれるようになりました。

その後も、右派、中立派、左派の対立による抗争と、列強の介入により拡大するベトナムの内戦に巻き込まれ、政治的混乱の時代が続きます。そして1975年12月、ラオス人民革命等の勝利により王制を廃止し、現在のラオス人民共和国を無血で樹立しました。

ラオスの人々は、エメラルド仏が元々ラオスに有ったことに言及することは有りませんし、タイ東北部が元々ラオスだったことに言及することも有りません。

ベトナム内戦の折、ホーチミンルート(北ベトナムの補給路)がラオスを通っていたことも有り、激しい米国の空爆を受けたのですが、米国に対する批判も聞かれません。

王政廃止と社会主義国への移行もだれの血も流れませんでした。ラオスの人々の穏やかな性格がそうさせているのだと思います。

ラオスの人々がなんでそんな穏やかな性格なのか判らないのですが、やはり、この国に流れている空気がそういう国民性を育てている気がします。

回りの国々に比べ観光資源に乏しいのですが、この国の観光資源はこの国の人々の穏やかさそのものなのだと思います。

中東の紛争地域の人々も本当は穏やかな人々なのだと良く聞きます。子供たちもとても素敵な笑顔をしていたそうです。

古代遺跡が破壊されたとしても、穏やかな人々が居る、子供たちがとても素敵な笑顔している。それだけで、訪れて見たいと思います。

中東の紛争地域の紛争が終わり、人々が穏やかな心を、子供たちがとても素敵な笑顔を取り戻す。

そんな日が早く訪れますように。

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