拝啓 陸の孤島から

いいことがあってこその 笑顔じゃなくて
笑顔でいりゃいいこと あると思えたら それがいいことの 序章です

THE 有頂天ホテル

2006年01月31日 22時03分28秒 | お仕事の話
注:お急ぎの方は赤い字の部分だけお読みください。



昨日の午後、年休を頂いて「THE 有頂天ホテル」を観にいってきました♪


なぜ、平日の月曜にやすやすと年休が取れたか。
それを語ると、少し長くなります。

昨日、「2年生は修学旅行に出発した」と(白い字で)書きましたが、
ブログを更新していることからもおわかりのようにつくもは引率しておりません。
(ちなみにつくもは2年部の副担任をやっております)

ま、それだけなら良くある話なんですけど、
話がちとややこしいのは、
つくもを含めた99%の人間が、つくもも引率で行くと思っていた
という部分があるからなのです。

昨年度、現在の学校に赴任し、
新入生と共に学校に慣れつつ、苦楽をともにし、
自慢じゃありませんが、誰よりも生徒理解に力を尽くし、
生徒も、年齢が近いせいもあってか、つくもを信頼してくれました。
今年度になって職員室の半分が入れ替わるという大量異動の際にも、
まだ2年目なのに〝前からいる先生〟として、
動揺する生徒と新しい先生方との橋渡しをしてきたと自負しております。

故に、昨年末、自分が修学旅行に行かないと知った時、
なんか脱力したんです。
「ああ、俺って連れていってもらえないのね・・・」って。
行くつもりになっていただけに少なからずショックでした。

まあ、修学旅行に一緒に行かないことを「ひがんでいる」と言えばそれまでです。
行ったら行ったで寝る暇もないほど引率は大変だし、
遊びに行くわけではなく、連れて行く方の立場ですしね。

ただ、今年になって修学旅行が近づき、修学旅行ムードが高まるに連れ、
なんか自分だけが「蚊帳の外」みたいな気がしてきて、
「一生懸命に這いつくばってやっても、結局は組織の都合かよ」
なんて拗ねてみたりして。
「『教員と生徒の信頼関係が大事』ってお題目じゃん」みたいな。
そこに、今まで自分が尽くしてきたことに対する「見返り」として、
自分も修学旅行の引率に行って生徒と時間を共有することを求めていた自分に気付き、
激しい自己嫌悪に陥っていました。
「やりがい」とか「生徒のために」と言いながら、
綺麗事を言っていたのは自分だったわけですから。

でも、こういう時に自分の身分の軽さが嫌になりますね。
2年生に、
「一緒に来てくれたら、絶対にもっと楽しくなりそうなのに」とか
「飛行機代、500円までなら出すから後は自費で来て(笑)」とか
「来てくれなかったら一生恨む」とか言われると、
「そうか、そうか、愛い奴らじゃのお」と思うより先に、
「ごめんな・・・。」っていう気持ちが先に立ちます。
1年生や3年生に
「えっ、先生、修学旅行行ったんやねえん!?」とか
「先生が行かんで、じゃあ、誰が行ったん?」とか言われると、
「別に俺が行かないって言った訳じゃねえよ・・・」っていう気になります。
ま、こればっかりはつくもの責任なんでしょうけどね。

というわけで、2年部のつくもは今週、非常に暇なのです。
いや、ただ暇ならともかく、
つくもが心にぐっと秘めているはずのこのような想いは、
職員室の先生方も薄々感づいてらっしゃるのでしょう(皆さん、プロですから)。

というわけで、初めの話に戻るのですが、
おそらく、(つくもの努力と気持ちを察してくれる)先生方が気を遣って下さったでしょう、
「先生、授業ないんやろ? 休める時に休んじょきよ~」と、
ほぼ強制的に休みを取らされてぽっかりと時間が空いたわけです。

急に降って湧いた時間なので、久々に映画でも見ようと思い、
本当は「博士の愛した数式」が見たかったのですが、
「これは土・日でも空いているだろう」と判断し(←失礼)、
こんなくさくさした気持ちの中で、名作と名高い「有頂天ホテル」を見たわけです。



レビューについては団さんのサイトの記事に詳しいのでそちらをご覧ください。
つめたいよるに天使たちが「有頂天!」

どんな心境の時に観ても元気の出るいい作品です!!



〈追記〉
つくもの拙い表現力で名作をいじるより、
こういうやり方の方が意外と伝わるのではないかと思い、
敢えてこのような手法をとってみました。

まさかの二夜連続

2006年01月30日 21時48分52秒 | お仕事の話
またこんな事言うとサイト閉じなきゃいけなくなるんだろうけど、

<自主規制>

今日から2年生が修学旅行。
1年生が就業体験で、学校には3年生しかいないんですよね。

で、つくもは2年生を見送ったんですけれど、
異様にハイテンションで手を振るオッサン教師が一人。

「1年も2年もうるさいのがいなくなって、
 今週はハッピーウィークだなあ」

ですって。

そんなに生徒がいなくなって、
授業をするのが嫌なんだったら、

や め れ ば ?

今週は授業が少なくなってゆっくり休めるなあ、ぐらいならわからないでもないんだけど、
明らかにうっとおしい生徒がいなくなってせいせいした、みたいな言い方は虫酸が走る。
こんな人が管理職試験を受けたってんだから
(「こんな人」だから受けるのか?)
「踊る大捜査線」じゃないけど、組織ってやだなって思う。



</自主規制>

「教える」のではなく「育てたい」。
育てるためには信頼し信頼されなければならない。

されど、理想は遠い。果てしなく遠い。

自分の限界がどこまでを知るために
僕は生きてる訳じゃない
だけど新しい扉を開け海に出れば
波の彼方にちゃんと〝果て〟を感じられる

               ・・・・・・・MY LITTLE LOVER「Hello,Again ~昔からある場所~」

Ctrl+A

2006年01月29日 22時27分58秒 | お仕事の話
今日は部活が休みなので、久々の完全オフです。



<弱音>ただ、いざ休みになるとどこかに出かけるというわけでもなく、
部屋の掃除して、溜めていたビデオを見て、ちょっと散歩して……、
そんな記憶の片隅にも残らないようなことをしつつ休みは暮れてゆきます。


この場でこんな事を言ってもしょうがないのですが、
部活にはかなりのプライベイト時間を捧げております。

時間的な制約ももちろん生じるのですが、
大体昼過ぎには終わるので遊べないことはないし、飲みにも行けます。
正直、精神的な面でシンドイなあというのが本音です。
陳腐な言葉ですが、「心のゆとり」がないんですね。
遊んでいても飲んでいても「明日も部活だしなあ・・・」と思うと、
周りに対して申し訳ないと思うほど冷めてしまう自分がいます。


しかし、ここまで身も心も捧げても、
見返りという点ではほとんど何もないです。
金銭面では言うに及ばず、生徒にも果たして感謝されているのやら。
よしんば感謝されていたとしても、それもつくもが異動すればすぐに忘れられる・・・。
残るのは、年齢を重ねて友達が少なくなった自分だけです。


自分は教師に向いてないのかもなあ、と思うことはよくあります。
その中でも特に向いていないんじゃないかと思うのは、
生徒に対して「情」が移りすぎるという点です。
「情」が移ると言うと良い話のように思えますが、
教育のプロである以上、教育でお金をもらっている以上、
「情」をかけてはならない場面だってあるはずなのです。
冷たく突き放して挫折を味わわせたり、
人に頼らず自分で問題を解決させなければならない時だって必ずあるはずです。

でも、ダメなんですね。
辛そうな顔してたらひたすらに慰めようとしてしまう。
少しぐらいのわがままは聞いてしまう。
要するに「甘い」んですね。
これが親が我が子に対してのものならそれはそれでいいのかもしれないけれど、
職業人としてこれでいいのか、とよく自問自答します。
(つくもは親バカだろうなあ・・・と最近よく痛感します)
部活にしてみたってべったりくっついてりゃいいってもんじゃなくて、
時には自分たちだけで考えさせたり、
部活をやれるということは周囲に感謝すべきことなんだっていうのもわからせないといけないし。

そこまで「情」を傾けても、生徒のためになっていない。
つまりは自分の自己満足で、「優しい教師」を演じては、
その自分の姿に安心を求めているのだろうなあ、と思っては、
そこまでわかっていて自分を変えることのできない自分に腹が立ちます。

そして、そんな自問自答は思春期のうちに解消すべきだろうに、
30も見えてきたこの時期になってもまだそんなこと言っている自分が、
思春期真っ盛りの生徒に能書きを垂れているのを客観的に見るのは滑稽ですらあります。

今年掲げた目標は「余り考えすぎない」。
この目標はどうやら一月もたずに破れさりそうです。(苦笑)



ま、それでも、頼りない自分をどうにかこうにか信頼して、
種と水を蒔き続けるしかないんでしょうね。</弱音>


出会いの数だけ別れは増える
それでも希望に胸は震える
十字路に出くわすたび
迷いもするだろうけど                Mr.Children「くるみ」

大人(ADULT)

2006年01月28日 13時23分53秒 | 観た・買った・聴いた・読んだ
お待ちかね、東京事変の2ndアルバムです!
まだ、あんまり聴いていないのでレビューは野暮。
(聴いていても野暮だけど)

そこでちょっとしたこぼれ話。


「大人(ADULT)」発売の翌日、職員室での会話。


生徒:「先生、アダルト買った~?」


つくも:「お~、もちろんアダルト買ったよ♪」


生徒:「アダルト、貸してもらってもいいですか~?」


つくも:「いいよ、アダルト貸してやるよっ」


それを聞いていた隣の先生。


Σ(゜Д゜) アダルト!?


誤解を招きやすいタイトルです・・・。
でも、いいですね。好き。「教育」よりいい。

東京タワー

2006年01月26日 20時50分11秒 | 観た・買った・聴いた・読んだ
読んでいる間中、なぜかそわそわしてしまう作品。

         ・・・・・・・・・・・・(27歳 男性)





小説かと思っていたらそうではない。日記でもない。自伝でもない。
この作品はおそらくリリー・フランキーがオカンに言いそびれた長い長い「ありがとう」なのだろう


         ・・・・・・・・・・・・(似非文学評論家)




オカンが東京に上京してきたあたりから、
心臓を優しくわしづかみにされているような苦しさを禁じ得なかった。
その手はおそらく私の母親なのだろう。
・・・来年はもう、うちの母親も還暦か。


         ・・・・・・・・・・・・(独身男性)





この作品は圧倒的な普遍性を持つ。
すなわち、人間は何の例外もなく母親から生まれてくるというダイナミズム。
そして、程度の差こそあれ、その事実を背負っている限り、
この作品はあらゆる「子ども」に涙を流させるのだろう。


        ・・・・・・・・・・・・・(親不孝な息子)





作品は好きだけど、オビが嫌い・・・(なんかあざとい)

        ・・・・・・・・・・・・・(ひねくれ者)





職員室で泣いてしまいました。

        ・・・・・・・・・・・・・(国語教師)

2006年01月25日 20時53分07秒 | 歌詞の世界
ここ数年、やたらと「さくら」という語を含むタイトルの曲が発売され、
なんか、とりあえず日本人の美意識に問いかければ勝ち、みたいな感じがあるけど、
つくもはさくらといえば、
川本真琴の「桜」を思い出します。

桜になりたい いっぱい 風の中で いっぱい ひとりぼっちになる練習してるの
深呼吸の途中 できない できない できない できない
神様は創りかけて やめてしまった こんな気持ちわかんない ぜんぜん
あたしとあたしの手があなたにふれた時
できない できない できない


上手く言えないけど(言えよ)、
この曲は詞とメロディーが奇跡の調和を見せているんだよね。
畳みかけるようでいてクルクル回るようなメロディーは、
女の子が卒業によって離ればなれになるという現実を受け入れられない様子を上手く表現していると思われ。


類い希なる天才なだけに復活求ム。

地方公務員法 第33条違反の危険性。

2006年01月24日 23時16分43秒 | お仕事の話
先日まで3日間に渡って、
昨年末からちょこちょこ書きためていた雑感を掲載させていただいたんですけど、
アクセス数が普段よりかなり低くて、
やっぱ、ブログで長文はダメだな、と痛感(苦笑)。


さて、リスニング試験が話題にのぼることの多かった今年のセンター試験ですけど、
(あの機械って、事実上の買い取り処分なんですってね)
みなさん、挑戦してみましたでしょうか?
つくもは職業柄、とりあえず国語だけは解いてみるようにしております(当たり前か)
もちろん、今年も挑戦してみました。

挑戦したといっても、机に向かって80分集中して取り組んだわけではなく、
部活の指導をしながら2時間くらいかけてダラダラと解いておりました。
(こういう「言い訳」を準備している時点で負けなんだけど)


結果は・・・。


179点  ○| ̄|_
(内訳・評:42点 小:42点 古:45点 漢:50点)


いや、179点ならいいじゃん、って思ってくれる菩薩のように優しい方もいらっしゃるかもしれませんが、
一応、これで御飯食べてますからねえ。
(もちろん、センターができる=いい教員、ではないですけど)
現役の時は国語の教員になるだなんて夢にも思っていなかったのに、
200点をとることが当たり前だと思ってました(自慢?)
なのに・・・ちょっと焦りましたね。


勉強しよっと。


↓ぜひ昔を懐かしんで挑戦してみて下さい↓
「平成18年度センター試験 問題&解答」

選ぶということ③

2006年01月23日 20時25分56秒 | 日々の話
では、現代の仕組みというのは悲観的なものなのか。
否、そうではあるまい。というか、そうであって欲しくない。


その可能性を語るのにまたゲームの話で恐縮だが、
つくもはおよそ2年ほど前に「ファイナルファンタジー11」に夢中になっていた。
ゲームの騒音でアパートの隣の部屋から苦情を受けるほど夢中になっていた(苦笑)。

一応「FF11」について説明しておくと、
FFシリーズ初のオンラインゲームで、
PS2、Winに対応し、日本人のみならず台湾人やアメリカ人も参加する、
まさに世界的な広がりを見せたゲームである。
プレイヤーはヴァナディールという世界を旅する冒険者であり、
オンラインを介して出会う他のプレイヤーらとパーティーを組み、
協力しつつ敵を倒したり、ミッションを消化したりするゲームである。

世界的な広がりを見せた、と言いながら、
つくもは職員室の隣の席の先生という、
非常にマクロな所から誘われてヴァナディールの世界に立ったのだが、
その時の衝撃は今なお忘れられない。
ヴァナディールというヴァーチャルな世界にホントに〝ぽとん〟と産み落とされたような感覚だった。
簡単な世界観の説明があった後、
突然自分一人だけがその世界にぽつねんと立っている。
はっきり言って何をして良いかわからない。
誰に会えばいい? どこに行けば? 武器は? 魔法は?
それまでの手取り足取り、プレイヤーを導いてくれるFFに慣れきっていたつくもは非常に困惑した。


そんなつくもを救ってくれたのは数多くの「見知らぬ人」だった。
自分のレベルも見極めず敵と戦闘をしてくれていたつくもに、
後ろから突然ケアルをかけてくれ「がんばれ!」と応援してくれた人。
無謀な戦いで死んでしまったつくもに、
通りがかりの白魔道士がレイズをかけてくれたこともあった。
(つくもも後に白魔道士となってレイズを覚えたが、唱えるのに非常に時間がかかるのだ)
また、ある時は自分と同じように一人でウロウロしている赤魔道士に声をかけて、
後で思えば非効率的だったけど、二人でぎゃあぎゃあ言いながら敵と戦ったり、
まだ行ったことのない場所にどきどきしながら行ってみたりもした。
初めて船に乗って見知らぬ大陸に行ったときは、
それを告げると船中の人が祝福してくれた。
(その直後に、「甲板には上がるな!」と怒られたが)
感動的だったのは、サポートジョブというものを習得するためには、
なかなか手の入りにくいアイテムを入手する必要があったのだが、
その「見知らぬ人」はつくものために3時間もの時間をアイテム収集に費やしてくれた。

そんな風にして、つくもはヴァナディールで顔も知らない「見知らぬ人」と、
数多くの楽しい時間を過ごさせてもらった。
今思えば、つくもはものすごくみんなに迷惑をかけた。
つくものミスのせいでパーティーが全滅したこともあった。
(死んでしまうとせっかく貯めた経験値がなくなってしまうのです・・・)
そんな時でもパーティーの人たちは、
「気にしなくていいですよ~」とか「みんな通る道だからw」とか、
「たまにはこうして地面に倒れて青い空を見るのもいいもんですよ」などと慰めてくれた。
そのひと言ひと言が今でも忘れられない。
あのヴァナディールで出逢ったたくさんの「見知らぬ人」は今も元気でいるだろうか・・・。
(このようなヴァナディールの「ちょっといい話」をまとめたサイトがあるので、興味のある方は是非)

正直、つくもはそれまでヴァーチャル世界というものを軽蔑していた。
『顔も知らない人間と、一体何のコミュニケーションがとれるというのか』

しかし、つくもが実際に体験したヴァーチャル世界には数多くの「いい人」が存在した。
もしかしたら、ヴァーチャルがゆえに良好なコミュニケーションが築かれていたのかもしれない。
だが、それは言い換えれば人間の持つ良心がそこには結晶としてあったのではないか。
たとえ、面と向かってしまえばギスギスした人間関係になる可能性を持っていたとしても。

つくもは思うのである。
このヴァナディールにいた間は与えられた選択肢を選んでいたのではなく、
選択肢をその世界のさまざまな人々と創出し、その上で選んだり選ばなかったりしていたのではないかと。
あれをしなさい、これをしなさい、と言われて、それを選びこなしていくのは、
面倒くさいことではあるが実は容易い。
今、自分は何をしたいのか? 今、自分は何をしなければならないのか?
それを自分自身で考え、自分自身に命令して実行するのは時に辛く苦しいことであろう。
その際に選択肢の前で、いや、選択肢の形すらまだ成していない道標の前で立ちすくむ自分を救ってくれるのは、
(月並みではあるが)この世界に息づくあらゆる人々ではないか、と思う。
それは親であり、兄弟であり、先生であり、先輩であり、友人であり、そして数多くの「見知らぬ人」ではないか。

前に、現代の子は「誰か」にいろいろな選択をさせられている、と書いた。
その「誰か」と共に選択肢を考え吟味し、よりよい選択をできるような社会になって欲しいし、
そんな関係性を生み出すことのできる社会人として育って欲しい。
そしてその希望は、批判されがちなヴァーチャル世界の一枚裏側に、
人間が本来持つと信じたい良心とともに遠慮がちに息を潜めているのではないか。

もちろん、手放しでヴァーチャル世界を賞賛するわけにはいかない。
ネット世界に於いて問題が続発するのは周知の通りだし、
つくもがヴァナディールから足を洗ったのも、
レベルが上がると共に次第にシステマティックになっていった、
レベル上げやイベント消化に嫌気がさしたからだ。
レイズやテレポを覚えた辺りから便利屋のように扱われ始め、
誘われてパーティーに参加してみれば、
「白さん(=白魔道士のこと)はケアルだけしていて下さい」なんて言われる始末。
プレイ初期には確かにあったドキドキ感や、
ポリゴンのキャラクターを通して感じられる人間の温かみが段々感じられなくなって足が遠のいた。

しかしそれでも、現代の「選ぶ」(実際には「選ばされている」)生活を見直すカギは、
根本として人と人とのコミュニケーションの力にあって、
情報がテクノロジーと過度に密接した現代に於いては、
ヴァーチャルを否定するのではなく、そこに新たな可能性を見いだしてみてもいいのではなかろうか。
いや、見いだしてみたいのである。

(やっとおわり)

選ぶということ②

2006年01月22日 22時07分59秒 | 日々の話
さて、少々マニアックな話になって申し訳ないのだが、
(100万本以上も売れているからメジャーかな?)
「おいでよ どうぶつの森」というゲームがある。

このゲーム、特に目標はない。
世界が滅亡の危機に瀕したりしないし、お姫様も一切さらわれたりしない。
とある村に引っ越してきて、その村の住人として、
他の住人との会話を楽しんだり、
家具を収集して部屋の模様替えを楽しんだり、
ただひたすら釣りに興じてみたりと、
かなり「スローライフ」なゲームである。

ゲームが準備した選択肢を選んで進めていくRPGに慣れた人や、
何らかの目標に向かって邁進したいタイプの人には、
このゲームは結構辛いんじゃないかという気がする。
(このゲームは実際のカレンダーや時計に従って進行するが)
実際、ニンテンドーDSの内蔵時計を変更してまで、
イベント消化やアイテム収集を行っている人がいるらしい。
そこまですると「スローライフ」を掲げたこの作品の存在意義は何? と思ってしまうのだが。

思えば、ファミコン草創期のゲームはもっと自由だった。
基本的な設定と操作、それが作り手によって提供され、
受け手はそれを用いて自由に遊んでいた気がする。
たとえば、スーパーマリオブラザーズにおける「うんこマリオ」(下ネタ失礼)はその好例かと思う。
な~んの意味もない。
マリオが強くなるわけでもクリアへの近道でもない。
しかし、マリオの世界を存分に楽しんでいる行為ではないかと思うのである。

「どうぶつの森」には、今日のゲームに少なくなった「何をしてもいい自由」がある。
木を植えてもいい、鬼ごっこをしてもいい、ひたすら家具収集をしてもいい。
極端な話、なにもしなくてただ星空を眺めていてもいい。
「何をしてもいい自由」は「何もしなくてもいい自由」でもあるのだ。
しかしそれらは、裏を返せば「何をしていいのかわからない」という状態でもある。
「完全なる自由」は「選択できない不自由」でもあるというパラドックス。

不勉強にして不真面目なため、
大学時代に受講した近代文学研究の内容もうろ覚えなのだが、
坂口安吾や武田泰淳の作品というのは、「自由がゆえの不自由」というテーマがあるんだそうな。
戦時中、思想統制などで不自由を強いられていたが、
終戦によって「自由」が与えられた結果、
「『自由』って言われたって何をすればいいの?」という不自由を感じるっていう。
「縛られていた方が楽だったじゃん」みたいな。

現代の子はいろいろな機器に囲まれている。
ゲームや携帯電話、インターネット・・・。
しかし、それらはみな一様に誰かが作ったものであり、
誰かが作ったものである限り、その「誰か」にいろいろな選択をさせられている、と言えなくもない。

(なんと、もう少し続く)