拝啓 陸の孤島から

いいことがあってこその 笑顔じゃなくて
笑顔でいりゃいいこと あると思えたら それがいいことの 序章です

選ぶということ③

2006年01月23日 20時25分56秒 | 日々の話
では、現代の仕組みというのは悲観的なものなのか。
否、そうではあるまい。というか、そうであって欲しくない。


その可能性を語るのにまたゲームの話で恐縮だが、
つくもはおよそ2年ほど前に「ファイナルファンタジー11」に夢中になっていた。
ゲームの騒音でアパートの隣の部屋から苦情を受けるほど夢中になっていた(苦笑)。

一応「FF11」について説明しておくと、
FFシリーズ初のオンラインゲームで、
PS2、Winに対応し、日本人のみならず台湾人やアメリカ人も参加する、
まさに世界的な広がりを見せたゲームである。
プレイヤーはヴァナディールという世界を旅する冒険者であり、
オンラインを介して出会う他のプレイヤーらとパーティーを組み、
協力しつつ敵を倒したり、ミッションを消化したりするゲームである。

世界的な広がりを見せた、と言いながら、
つくもは職員室の隣の席の先生という、
非常にマクロな所から誘われてヴァナディールの世界に立ったのだが、
その時の衝撃は今なお忘れられない。
ヴァナディールというヴァーチャルな世界にホントに〝ぽとん〟と産み落とされたような感覚だった。
簡単な世界観の説明があった後、
突然自分一人だけがその世界にぽつねんと立っている。
はっきり言って何をして良いかわからない。
誰に会えばいい? どこに行けば? 武器は? 魔法は?
それまでの手取り足取り、プレイヤーを導いてくれるFFに慣れきっていたつくもは非常に困惑した。


そんなつくもを救ってくれたのは数多くの「見知らぬ人」だった。
自分のレベルも見極めず敵と戦闘をしてくれていたつくもに、
後ろから突然ケアルをかけてくれ「がんばれ!」と応援してくれた人。
無謀な戦いで死んでしまったつくもに、
通りがかりの白魔道士がレイズをかけてくれたこともあった。
(つくもも後に白魔道士となってレイズを覚えたが、唱えるのに非常に時間がかかるのだ)
また、ある時は自分と同じように一人でウロウロしている赤魔道士に声をかけて、
後で思えば非効率的だったけど、二人でぎゃあぎゃあ言いながら敵と戦ったり、
まだ行ったことのない場所にどきどきしながら行ってみたりもした。
初めて船に乗って見知らぬ大陸に行ったときは、
それを告げると船中の人が祝福してくれた。
(その直後に、「甲板には上がるな!」と怒られたが)
感動的だったのは、サポートジョブというものを習得するためには、
なかなか手の入りにくいアイテムを入手する必要があったのだが、
その「見知らぬ人」はつくものために3時間もの時間をアイテム収集に費やしてくれた。

そんな風にして、つくもはヴァナディールで顔も知らない「見知らぬ人」と、
数多くの楽しい時間を過ごさせてもらった。
今思えば、つくもはものすごくみんなに迷惑をかけた。
つくものミスのせいでパーティーが全滅したこともあった。
(死んでしまうとせっかく貯めた経験値がなくなってしまうのです・・・)
そんな時でもパーティーの人たちは、
「気にしなくていいですよ~」とか「みんな通る道だからw」とか、
「たまにはこうして地面に倒れて青い空を見るのもいいもんですよ」などと慰めてくれた。
そのひと言ひと言が今でも忘れられない。
あのヴァナディールで出逢ったたくさんの「見知らぬ人」は今も元気でいるだろうか・・・。
(このようなヴァナディールの「ちょっといい話」をまとめたサイトがあるので、興味のある方は是非)

正直、つくもはそれまでヴァーチャル世界というものを軽蔑していた。
『顔も知らない人間と、一体何のコミュニケーションがとれるというのか』

しかし、つくもが実際に体験したヴァーチャル世界には数多くの「いい人」が存在した。
もしかしたら、ヴァーチャルがゆえに良好なコミュニケーションが築かれていたのかもしれない。
だが、それは言い換えれば人間の持つ良心がそこには結晶としてあったのではないか。
たとえ、面と向かってしまえばギスギスした人間関係になる可能性を持っていたとしても。

つくもは思うのである。
このヴァナディールにいた間は与えられた選択肢を選んでいたのではなく、
選択肢をその世界のさまざまな人々と創出し、その上で選んだり選ばなかったりしていたのではないかと。
あれをしなさい、これをしなさい、と言われて、それを選びこなしていくのは、
面倒くさいことではあるが実は容易い。
今、自分は何をしたいのか? 今、自分は何をしなければならないのか?
それを自分自身で考え、自分自身に命令して実行するのは時に辛く苦しいことであろう。
その際に選択肢の前で、いや、選択肢の形すらまだ成していない道標の前で立ちすくむ自分を救ってくれるのは、
(月並みではあるが)この世界に息づくあらゆる人々ではないか、と思う。
それは親であり、兄弟であり、先生であり、先輩であり、友人であり、そして数多くの「見知らぬ人」ではないか。

前に、現代の子は「誰か」にいろいろな選択をさせられている、と書いた。
その「誰か」と共に選択肢を考え吟味し、よりよい選択をできるような社会になって欲しいし、
そんな関係性を生み出すことのできる社会人として育って欲しい。
そしてその希望は、批判されがちなヴァーチャル世界の一枚裏側に、
人間が本来持つと信じたい良心とともに遠慮がちに息を潜めているのではないか。

もちろん、手放しでヴァーチャル世界を賞賛するわけにはいかない。
ネット世界に於いて問題が続発するのは周知の通りだし、
つくもがヴァナディールから足を洗ったのも、
レベルが上がると共に次第にシステマティックになっていった、
レベル上げやイベント消化に嫌気がさしたからだ。
レイズやテレポを覚えた辺りから便利屋のように扱われ始め、
誘われてパーティーに参加してみれば、
「白さん(=白魔道士のこと)はケアルだけしていて下さい」なんて言われる始末。
プレイ初期には確かにあったドキドキ感や、
ポリゴンのキャラクターを通して感じられる人間の温かみが段々感じられなくなって足が遠のいた。

しかしそれでも、現代の「選ぶ」(実際には「選ばされている」)生活を見直すカギは、
根本として人と人とのコミュニケーションの力にあって、
情報がテクノロジーと過度に密接した現代に於いては、
ヴァーチャルを否定するのではなく、そこに新たな可能性を見いだしてみてもいいのではなかろうか。
いや、見いだしてみたいのである。

(やっとおわり)