拝啓 陸の孤島から

いいことがあってこその 笑顔じゃなくて
笑顔でいりゃいいこと あると思えたら それがいいことの 序章です

選ぶということ②

2006年01月22日 22時07分59秒 | 日々の話
さて、少々マニアックな話になって申し訳ないのだが、
(100万本以上も売れているからメジャーかな?)
「おいでよ どうぶつの森」というゲームがある。

このゲーム、特に目標はない。
世界が滅亡の危機に瀕したりしないし、お姫様も一切さらわれたりしない。
とある村に引っ越してきて、その村の住人として、
他の住人との会話を楽しんだり、
家具を収集して部屋の模様替えを楽しんだり、
ただひたすら釣りに興じてみたりと、
かなり「スローライフ」なゲームである。

ゲームが準備した選択肢を選んで進めていくRPGに慣れた人や、
何らかの目標に向かって邁進したいタイプの人には、
このゲームは結構辛いんじゃないかという気がする。
(このゲームは実際のカレンダーや時計に従って進行するが)
実際、ニンテンドーDSの内蔵時計を変更してまで、
イベント消化やアイテム収集を行っている人がいるらしい。
そこまですると「スローライフ」を掲げたこの作品の存在意義は何? と思ってしまうのだが。

思えば、ファミコン草創期のゲームはもっと自由だった。
基本的な設定と操作、それが作り手によって提供され、
受け手はそれを用いて自由に遊んでいた気がする。
たとえば、スーパーマリオブラザーズにおける「うんこマリオ」(下ネタ失礼)はその好例かと思う。
な~んの意味もない。
マリオが強くなるわけでもクリアへの近道でもない。
しかし、マリオの世界を存分に楽しんでいる行為ではないかと思うのである。

「どうぶつの森」には、今日のゲームに少なくなった「何をしてもいい自由」がある。
木を植えてもいい、鬼ごっこをしてもいい、ひたすら家具収集をしてもいい。
極端な話、なにもしなくてただ星空を眺めていてもいい。
「何をしてもいい自由」は「何もしなくてもいい自由」でもあるのだ。
しかしそれらは、裏を返せば「何をしていいのかわからない」という状態でもある。
「完全なる自由」は「選択できない不自由」でもあるというパラドックス。

不勉強にして不真面目なため、
大学時代に受講した近代文学研究の内容もうろ覚えなのだが、
坂口安吾や武田泰淳の作品というのは、「自由がゆえの不自由」というテーマがあるんだそうな。
戦時中、思想統制などで不自由を強いられていたが、
終戦によって「自由」が与えられた結果、
「『自由』って言われたって何をすればいいの?」という不自由を感じるっていう。
「縛られていた方が楽だったじゃん」みたいな。

現代の子はいろいろな機器に囲まれている。
ゲームや携帯電話、インターネット・・・。
しかし、それらはみな一様に誰かが作ったものであり、
誰かが作ったものである限り、その「誰か」にいろいろな選択をさせられている、と言えなくもない。

(なんと、もう少し続く)