「プチット・マドレーヌ」は越えたので許してほしい

読んだ本の感想を主に書きますが、日記のようでもある。

ディルタイをそろそろと読んだ感想(2)

2023年07月31日 | 本と雑誌
 ディルタイの「精神科学序説」を引き続き読んでいるが、仕事などが溜まっており、なかなか読み進められてはいない。前回から十数頁しか進んでいないが、メモの代わりに記しておきたい。

 ディルタイは「精神科学」(現代でいう人文科学と社会科学を含む)の「自然科学」からの「相対的独立性」を証明しようとしている。したがってある面では、「精神科学から自然科学への依存の体系」を示すことになる。これは前回も書いた、「精神科学」でも「歴史学」に代表されるように、歴史的一回性の出来事が、歴史という普遍的な法則性の中でどのように体系化されているのかと問う場合、その一回性と普遍性との相互連関の体系の原理を解明しなくてはいけなくなる。このような一回性と普遍性を「体系」として構造化している原因は何かというと、認識論的な「心理学的法則」ということになる。これは単純な心の中というのではなく。「心理」の「法則性」こそが、この一回性と普遍性の「体系」を認識可能にしているという意味での、認識の条件に当たるものだと考えたほうがよい。そしてこの「心理学的法則」の「法則」を解明する際、ディルタイは自然科学的、あるいは「自然認識」の論理学を援用する。ディルタイは、「この体系ゆえに、精神科学は自然認識によって条件づけられており、したがって数学的基礎づけのうちで始まる構成のなかで最高で最後の部分を形成するのである。」(『全集1』p.25、以下同様)というのはそれを端的に表した言葉だといえる。

 これはフッサールの『論理学研究』にもつながる。フッサールはこの「論理学」を、心理学的なものから超越論的主観性の構造へと展開していき、ディルタイ的な意味での「心理学」は批判していくが、しかし、この『論理学研究』の論理学は数学的なものであった。この数学的な論理学の問題は、ハイデガーが批判するわけだし、後にはデリダが『幾何学の起源』の「序」で、この数学的論理学が「歴史性」に常に既に「汚染」されているという形で、現前性批判される問題ともつながるのだと思う。

 ただし、p.103でもそうなのだが、ディルタイは歴史が数学的基礎の論理学に「還元」されるとも言っていない。「歴史の経過を一つの定式または一つの原理の統一へと還元することはできない」といい、p.117でも、「精神科学は、自然科学とはまったく異なる基礎や構造を有している」という形で、「精神的現象を自然認識の連関に組み入れるというこの試みには二つのことが想定」されるとし、それらは「証明不可能」と「明らかな誤り」を招くとしている。つまり、「精神科学」は「自然科学」には「還元」できないわけだが、だとすれば、当初「精神科学」の「相対的独立性」と「精神科学から自然科学への依存の体系」とは何のことになるのだろうか。おそらくまだ100頁を越えたばかりで結論めいたことを言うのは慎まないといけないのだろう。この「精神科学」の「自然科学」への還元不可能性こそが、「精神科学」の「相対的独立性」になり、それが「歴史性」でもあるわけだが、しかしその場合の「精神科学」の法則性や論理性というのは、ディルタイが最初に予想していたような、数学的な論理性とは違うのだろうか?

 今後この矛盾、即ち「精神科学」の「独立性」がここから考察されていくのだと思う。おそらくディルタイは「精神科学」を「自然科学」に「還元」して解消しようとする性急さを戒めているのであって、「精神科学」が「自然認識」の論理学と何らかの関係性を持っており、それが「精神科学」の「独立性」を可能にもしているという、複雑な「体系」を明らかにしているのだろう。そういう意味では「精神科学」の論理性が「自然認識」「自然科学」「数学的基礎」の論理学とどのような差異を持ち、あるいは相互に依存しあっているのかを、観ていきたいと思う。カントの物理的な自然法則と自律的で内的な理性(法則)の関係のようなものである。ディルタイの議論は、当然のことであるが、現代において「文系」が大事か「理系」が大事かという、通俗的でわかりやすすぎ、そしてコストと効率だけを意識したくだらない論争より、恐らく実りある議論になるだろう。

ゲイル・サラモン『身体を引き受ける――トランスジェンダーと物質性のレトリック』(以文社)を読む

2023年07月30日 | 日記と読書
 ゲイル・サラモン『身体を引き受ける――トランスジェンダーと物質性のレトリック』(藤高和輝訳、以文社)を巡って友人たちと読書会をした。この本はちょうど去年の今頃(昨夏)に読了したもので、再読である。本の書き込みをたどりながら、読書会の発表者の詳細なレジュメと見比べていくと、思い出すところや新たな発見があった。

 サラモンは「序論」において、「身体の物質性(materiality)が直接的にアクセスできるものであり、認識論的な確実性をもつものであるという観念」に対して「異議申し立て」をするわけであるが、それはここでいうジェンダー・セクシュアリティをめぐる身体的な「物質性」とは現前的な存在者ではなく、「差異」だということである。身体的物質性としての「性的差異」は、なにか現前的な認識によって把握されるものではなく、それを逃れ出るものとして考えなければならないということだ。これは物質性に対するデリダ的な脱構築の論理と重なり合うものだといえる。現前的な認識論的な布置にとっては「痕跡」や「剰余」としてしか現れないもの、あるいはEsとして逃れ去るもの、それが差異であり、「性的差異」ということになるだろう。「性的差異」という「物質性」とはそのような現前の認識論的観念論的布置には還元や包摂されないという意味での「物質性」ということになる。

 デリダは固有性や自己同一性はそれ自体として存在するような現前的充溢の存在なのではなく、自らを自らが指し示すという、自己言及性の差異化の運動の効果によって存在するとした。つまり自己同一性は、自己(〈今〉の「僕」)が自己(〈今〉の「僕」に対して対象化、即ち記憶化され痕跡化された「僕」)を指し示すという、自己と自己の間に「間隔」を差しはさむ「差延」(差異化)の運動があり、その運動の効果によってはじめて、自己は自己として名指されることが可能になる、ということである。自己同一性は、自己が自己を指し示そうと近づく、それは即ち自己は自己から隔たりながら遠さを保持しているという、二重の「差延」の運動によって自己同一性を維持する。これは固有性や自己同一性という、一般的にはそれ自体の現前性、確実性を保証されている対象が、そのような「差延」という、自己自身の自己自身に対する差異化の運動なしには自分を自分では指し示せない、即ち象徴秩序に自らを書き込むことができないという問題となるのだ。だとするならば、「女性」や「男性」という二項対立として確実性と現前性を保持している「性的差異」も、それが自らの「性」を名指す、あるいは他者が名指す場合でも、それ自体との距離、「差延」が働いていることになる。例えば、僕が日常的には「男性」として自分を認識している場合、僕が僕を「男性」として名指し認識する場合も、「男性」との「間隔」とその「差延」の運動がなければ、僕の自分自身が「男性」であるという認識自体が成立しないのだ。僕が「僕は「男性」である。」という場合も、僕は常に「男性」に対して遠ざかり、そして同時に近づく、という「差延」の効果によって「男性」と名指し、自らの「性」を書き込むことを可能にする。僕は自らを「男性」という時、常に既に僕は「男性」に近づきながら遠ざかるという状態に置かれていることになるのだ。

 「女性」や「男性」という自己同一性や性的な自認もそういう意味では、常にこの「差延」の効果によって成立しているということである。ということは、性的な自己同一性もまた、その同一性は常に近づく=遠ざかるという「差延」としての移行の運動、いうなればtrans(移行・越えて)が内在していることになろう。それはシスジェンダーやヘテロセクシャルを自認している「男性」でも「女性」であっても、そこには常にこの「差延」としてのtransの運動が内在しているということに他ならない。理論的な側面に限って言えば、「性的差異」とは「差延」としてのtransの運動によってそれが可能になっているということだ。デリダの「差延」の論理を見れば、「性的差異」、それは支配的イデオロギーによって可能になっている「女性」と「男性」の秩序の同一性も、「差延」としてのtransの運動の効果によって作り出されているというべきである。ならば、異性愛者であっても同性愛者であっても、その他の様々な性的な諸関係も、「差延」としてのtransの運動がなければ成立しないことになる。「性的差異」が存在するのは、それが常に既にtransしているからに他ならない。

 異性愛主義で男根ロゴス中心主義はこのtransを抑圧することで成立する。何故ならば「差延」としてのtransの運動は、それ自体が「性的差異」を成立させる差異化の運動にも拘らず、可能性としては支配的な性的秩序を撹乱させる要因ともなるからである。異性愛中心で男根ロゴス中心主義を可能にしているものが、実はtransという「移行」や「越境」を指向する運動だとしたら、支配的な異性愛で男根ロゴス中心的な秩序の同一性を脅威にさらしかねないのだ。そのため、支配的な秩序である異性愛や男根ロゴス中心主義は、transを排除しようとする。自分たちの秩序の可能性の中心こそが、抑圧しなければならない当の異物だったのだ。この異物性こそ、サラモンのいう「物質性」といってよいだろう。transは「性的差異」の根源として存在しながらも、同時に抑圧されなければならないという、常に抹消記号の下でしか存在できないのだ。サラモンが本の中で、「性的差異」を思考する中で「トランスジェンダー」が常に排除の対象となるとしたのも、まさしく性的同一性や、性の自認という欲望は、常に既にtransを抑圧することでしか成立しない、という問題を明らかにするためのものであったのだろう。そういう意味ではtransとは「性的差異」の根源であり、抑圧されるべき欲望の原因そのものということになる。

 このtransの問題をサラモンはモーリス・メルロー=ポンティの『知覚の現象学』を引きながら、所謂「キアスム (Chiasme)」に引き付けている。この「キアスム」は二項対立に還元されない「交差性」を表しており、「差延」としてのtransの運動に引き付けられるものといえなくはない。「性的差異」のキアスム性を強調すれば、「女性」と「男性」という二項対立に還元されない、交差的で錯綜した性的欲望(欲動)や自己同一性から逃れ出ようとする「性的差異」の構造を際立たせることもできるだろう。しかしかつてデリダはその著書『触覚』において、メルロー=ポンティを批判していたはずなのだ。デリダはメルロー=ポンティの「キアスム」は確かに差異の構造を現前的な二項対立に還元されない形で保持しているが、それでも「キアスム」は結局は交差する者同士互いが〈接触=現前〉してしまっているのではないか、という批判である。デリダはむしろメルロー=ポンティの「キアスム」は、エトムント・フッサールの「感情移入」から考えても〈撤退〉している概念だと考えていた。「キアスム」は交差性と言いながら結局は〈接触=現前〉の欲望が直接的に現れているが、フッサールの「感情移入」は、「自我」と「他我」の間に常に「間隔」を前提としており、「感情移入」はその隔たりの中で他者を「類推」することでしかない。つまりフッサールの「感情移入」の方が、自己と他者との間の「間隔」と越えられない隔たりを認めており、これこそがデリダにとってのフッサールの方がメルロー=ポンティよりも、「差異」を安易な解決を図ることなしにラディカルに保持し続けたという証拠となる。このデリダの分析に対して、『触覚』を読んだ僕は、深く納得をしてしまった。身体性を確実な認識論的布置の下で、十全に「物質性」として認識することができるという現前性に対するサラモンが行った批判は、メルロー=ポンティに依拠した時に少し揺らぐのではないか、と考えた。身体性や「交差性」といったときその概念自体がものすごく充実したものになってしまう危険性である。

 レジュメ担当者による発表が行われた後、議論に移行したのだが、そこでは「トランスジェンダー」をめぐる議論もあった。僕は上記のtransの問題を踏まえた上で次のような議論をした。「女性」、「男性」、「その他の性的な在り方」という「性的差異」は、「差延」という差異化のtransの運動がなければありえない。しかし、どのようなキアスム的交差性を含んだ「性的差異」も、象徴秩序においてその性的な同一性や自認、欲望の同一性を維持するためには、transという象徴秩序の同一性を攪乱させる差異化の運動は抑圧しなければならない。そういう意味ではtransというのは、象徴秩序(象徴界)にとっての抑圧すべき剰余であり、その意味では欲望(指向)の原因であるとともに、ジャック・ラカンでいうところの「享楽」の場所といえるのではないか。そのため、交差性やキアスム的な性的多様性を認めるリベラルな者たち(結局は現前性を信奉している)の一部は、「トランスジェンダー」に対して、彼ら彼女らが「享楽」を独占しているような存在として、猥褻で猥雑な存在だと見做す。これは典型的な差別の構造といえる。「トランスジェンダー」は「性的差異」の根源であり、その「享楽」の場所に位置するがゆえに、交差性やキアスム的な性的多様性を認めるリベラルな者たち(結局は現前性を信奉している)の一部は、そこを特権的で猥雑な場として排除しようとする。これはまさしく、被差別部落の問題でも指摘される、差別の「美学化」と呼ばれるものだろう。「トランスジェンダー」が問題化されるとき、「公衆トイレ」や「公衆浴場」という象徴秩序を撹乱させ、猥褻にする〈原因〉として「トランスジェンダー」を差別するのも、まさしく象徴秩序がtransを抑圧する原理と同じはずなのだ。

 しかし「性的差異」の根源がtransにあるならば、本来「男性」が「男湯」に入っても、必ずそこには猥褻や猥雑の問題は発生する。それは不可避である。何故ならば「男性」は「男性」にtransして初めて「男性」だからである。同様に「女性」が「女湯」に入っているその時でさえ、「性的差異」の原理的な側面で考えれば、そこには「欲望」(指向)の問題、即ちtransとしての「トラブル」は常に発生しているはずである。ということは、「トランスジェンダー」に偏重した形で、彼ら彼女たちを象徴秩序を乱す存在とするのは、論理的におかしいと言わなければならない。シスジェンダーと自らを見做している者も、そのシスジェンダーという認識を可能にしているのは、「差延」としてのtransの運動である。そういう意味では、原理的には、シスジェンダーも常に既にtransを原理的に抱えているわけであり、性的同一性は攪乱された形で、「欲望」と「指向」の「トラブル」を常に抱えている「性的差異」ということになるはずだ。シスジェンダーも原理的にはtransを内在させ、そこに性的あるいは欲望の同一性を撹乱させ不一致にする「間隔」が開いているのであるから、「トランスジェンダー」に特化して「公衆トイレ」や「公衆浴場」に対する偏重した懸念を抱くことは、明確な意味で〈差別〉であるという必要がある。本来ならば、transを内在させるはずのシスジェンダー、ヘテロセクシャルも同様に問題視される必要があるはずだが、そのような支配的な「性的差異」は透明化され不問にされている。

 これに対してよくある反論なのだが、だったらすべての「性的差異」はtransなんだから、「男性」と「女性」の区別なしに「トイレ」も「浴場」も使えるんですね、というのがあるのだが、そんなことには実践上なり得ない。現在の異性愛中心で男根ロゴス中心主義の秩序でそんなことをすれば、「トランスジェンダー」のさらなる排除を煽り立て、猥褻で猥雑なイメージを強化することにしかならないからだ。そのような煽り立て自体が、支配的イデオロギーからの「トランスジェンダー」への抑圧の喚起であり、異性愛中心で男根ロゴス中心主義的な暴力の「トランスジェンダー」への行使の正当化にしかならないのである。差別的な人々が喜々として「トランスジェンダー」に投げかける、「トイレ」や「浴場」の猥褻な欲望の喚起は、異性愛中心で男根ロゴス中心主義の権力を背景に、その安心感の上で、虎の威を借る狐として、「トランスジェンダー」と「性的差異」を可能にするtransの抑圧をおこなっているだけのことである。そこには差別の意志しかないのではないか。

 だが、「性的差異」がtransによって可能だということならば、「男性」が「男性用トイレ」、「女性」が「女性用浴場」に入る時さえも、そこではtransが常に起こっている訳なので、気づかないだけで、あるいは日常生活に現状は支障をきたしていないという意味だけで、本来は「トラブル」や「攪乱」が生じているはずなのだ。人はそれをtransを抑圧するのと同じように、日々抑圧して生活している。この問題を理論的にラディカルに考えていく場合、この原理を実践にtransする場合、どのような象徴秩序への書き込みが可能なのか、あるいは社会設計が可能なのかということが、本当は問題にならなければならないはずである。その時、「男性」はなぜ男の格好で男湯に入らなければならないのかという意味が、根本的次元で問われなければならないだろう。それは「女性」の場合でも、また「その他の性の在り方」でも同じである。

 まだ言い尽くせないが、上記のことを含め、再読して議論したのは良かった。読書会後は友人と商店街の焼鳥屋に行き、徒歩で帰った。

ディルタイをそろそろと読んだ感想(1)

2023年07月27日 | 日記と読書
 ディルタイの「精神科学序説Ⅰ」(『ディルタイ全集1』、法政大学出版局)を読んでいる。ディルタイが「生」というものを様々なものの相互連関の構造それ自体として見ているのが面白い。ディルタイは自然科学と精神科学(この本の定義では今でいう人文科学と社会科学をカバーする)の差異を考察していて、自然科学的な論理学を借りながら、「精神科学」に現れる「生」の相互連関の論理性を明らかにする。それが結果的には精神科学の自然科学に対する相対的な独立を獲得することにもなる。これには、精神科学における個人や個別的文化事象の特殊性が、普遍的法則によって貫かれているさまを解明する必要があり、その個と普遍の弁証法的構造を、その相互連関の中に発見しようとするのである。つまり、その「生」の相互連関の構造は、精神科学における個と普遍の弁証法、あるいは個と普遍が調和して共存している構造自体を創り出している。そしてこの相互連関の構造は、「生」が「歴史」であることと同様である。「歴史」も個別的な事象や事件が、歴史法則によって貫かれている訳であり、その「歴史」の力動性はその相互連関の構造に内在しているものだといえる。それ故、「生」の構造と「歴史」の構造は、その相互連関性において相同的なものだといえるだろう。「生」の構造性とその法則性が「歴史」の法則性でもあるというのは、「生」が「歴史」でもあるということを明らかにしている。

 ディルタイはこの相互連関の構造を、人文科学の文学や社会科学の法の連関、あるいは国家や団体などの中に見る。文学や法や国家や団体は、その相互連関性の構造によって構築されているのであるが、ではその相互連関を作り上げ動かす力は何だというと、今読んでいる範囲では、認識論的な意味で「心理」ということになる。そのため、ディルタイにおいては、この心理学的法則を解明すれば、精神科学の相互連関の法則性を解明することに繋がっていくわけである。これを読んでいく中で、ディルタイは後に現れる、ゲオルグ・ジンメルやフランスだとエミール・デュルケムの社会学にすごく似ているなと思ったのだが、今ちょうど100頁当たりでの感想なのだが、ディルタイは社会学に言及し始めており、この相互連関性を「社会」の構造として読み解こうともしている。ディルタイも社会学に言及するわけだから、似ているのは当然ということだろう。この相互連関を創り出す心理学的法則というのは、後にフッサールやハイデガーが心理学批判をするわけで、フッサールならば超越論的主観性、ハイデガーなら存在として脱構築していく対象になるのだろう。

 この中で興味深かったのは、ディルタイのいう「社会」の相互連関性は国家よりも広く、いうなればインターナショナル性があるということだ。ディルタイは言うのだが、この「社会」というのは、「労働者階級の強い情熱」と「連帯」(p.92)と共に出てくる科学的な概念である。そういう意味では、「社会」はマルクスと共産主義の問題と深く関わっているということだろう。ジンメルもデュルケムも、マルクス主義の「下部構造」、これは経済的な相互連関性だが、これに対抗するために「社会」の相互連関性、「社会的事実」や「権力」、「集合的意識」の相互連関性を持ち出して対抗していたはずだが、これと重なる発想になる。ディルタイにとっての相互連関性の力動的な力は、心理学的法則の認識論的力になるわけだが、ジンメルやデュルケムもそれを、「社会的事実」や「権威」「権力」「集合的意識」の力動性として考えようとする。「社会的事実」や「権威」や「集合的意識」は、相互連関を創り出す力動であって、マルクスの経済的下部構造としての相互連関と対抗するわけだ。プロレタリアートというインターナショナルな下部構造の力に対して、社会学は「社会的事実」や「権力」、「集合的意識」の力動を持ってくる。これはディルタイが、心理学的法則の中に相互連関の力動を見出したことと重なる。以前、柄谷行人の『交換様式と力』の時も書いたが、観念的上部構造=心理学的法則(これに「社会的事実」や「権力」、「集合的意識」を加えてもいいだろう)の「力」に下部構造を変える力があると、ディルタイやジンメルやデュルケムは考えていたのだ。ディルタイは、当時の新カント派的な方法論とも重なる思想家でもあるはずなので、この観念の相互連関の力に「生」の歴史性と力を発見し、それが歴史を駆動させると見ていたのであろう。だがこれでマルクス主義を越えたことになるだろうか?ということは今後考えていきたい。またそれだけでなく、フッサールの現象学やハイデガーの存在論からも、この観念の力を心理学的法則としたことと、自然科学的な論理学、ハイデガーから見れば存在の論理学の派生物に過ぎない論理学に依拠していることを批判されることとなる。

 ディルタイの思索を追うのはまだわずか100頁であるが面白い。この時代のフッサールやハイデガーに批判される側の知見がたくさん入っているからだ。これを勉強するには、この「精神科学序説」は本当に良い。また、フッサールやハイデガーがどのようにディルタイに依拠し、それを暗黙の裡に取り込んでいるのかなども、追っていくと、新たな発見があるかもしれない。あと、現代においてマルクス主義の唯物論ではない唯物的なパワーを抜き出そうとすると、自然とこの社会学的な権力論や集合意識論になってしまうのではないか、という問題は考えておかなければならないだろう。マルクスの唯物論なしの唯物論を見出そうとすると、歴史的にはこのような観念的上部構造に依存しなければならなかった。それは現代においても同じなのではないか?ジンメルやデュルケムとのサンディカリズムとの関係などは、現代においても考えてもいいのかもしれない。アナキズムとの関係なども考えるべきだろう。ともかく、ディルタイの先は、『失われた時を求めて』くらい長い。ディルタイに対しては素人ではあるが、素人なりの読み方をしていくつもりである。『失われた時を求めて』は「私」と「ジルベルト」が「くみ打ち」をして少し進んだところくらい。

 今日は喫茶店で読書をしたのだが、半分はポケモンをしていた。

「マスク」について

2023年07月25日 | 日記
 マスクといっても、最近書いているイーロン・マスクのことではない。新型コロナウィルス感染症が広がる以前、僕はマスクをする習慣がほとんどなかった。した記憶といえば、小学校の時にまでさかのぼるかもしれない。学校の指導で、インフルエンザの流行時や、風邪をひいたときはマスクをしましょう、という指導で、試しに何日かマスクをして登校したことがあった。小学校ではその他、給食当番で配膳をするときは、マスクをしていたように思う。そのようなとき以外、生涯にわたってマスクはほとんどしたことがなかった。

 2019年の年始、そして春あたりから、今でいうところの新型コロナウィルス感染症が流行の兆しを見せ始め、メディアでも頻繁に報道されるようになった。僕はもしかしたら大規模な感染の事例になるかもしれないな、と思いながら、特に何ができるわけでもないので、傍観するに等しかったと思う。ちょうどそのころ田舎の両親から、東京はどういう状況か、という連絡が来たので話したことを記憶しているが、むしろ田舎の両親の方が楽観的で、2019年の夏には収まるのではないかと話しかけてきたが、僕の皮肉な性格からかもしれないが、僕は即座に否定し、恐らく数年続くし収束ということはしばらくはないと思うよ、というと、また嫌なことを言うやつだというようなかたちで、電話を切られた。とはいうものの科学的な知見があったわけではなく、だいたい人の希望的観測は裏切られるし、希望的観測という否認自体が本来は事態の大きさを物語っているのであり、それは嫌々でも認めていかないと、科学的な見解事態もそれと共に否認しかねないという警戒感を持っていたので、収束するとかそういう、安易な希望的観測は持つべきではないと考えていた。

 ただ、それとは別に、みんながマスクをし始めた時に、マスクをしたくないという意識も強くあった。つまりこの感染症は希望的観測によって収束するものではないと思いながらも、マスクに関しては、しばらく自分の意志でしないでおこうと考えていた。それはみんなでマスクをし始めるという傾向への反発もあった。外出する時も、職場へもしばらくはマスクはしていなかったが、徐々に僕に対する周りの目が厳しくなっていったのを意識し始めた。また、人が過密に集まっているわけではない屋外でも、二~三度怒鳴られたり、嫌みを直接投げかけられることもある。僕自身は新型コロナウィルス感染症を「ただの風邪」とは全く思っておらず、時と条件によっては危険な感染症だと認識していた。田舎の両親は高齢になってきていたので、注意をするように言っていたし、高齢者が自宅にこもることで戦略的に「塹壕戦」をしかけてウィルスと戦うことも、実践上、そして倫理上も正しく、もっともなことだと考えていたし、今も考えている。また、感染症の拡大を科学的な見地から考えるのであれば、中途半端に経済的な損失を考えるのではなく、きちんと都市封鎖をして、経済活動の停止分は政府が責任をもって補助金を出すべきだという考えを持っていた、というかこれも今も持っているし、今からでも金を出すべきだと思っている。その時期、特に病院と学校が、オリンピックに未練たらたらの政府をしり目に、厳戒態勢で自衛したのも、当然と考えた。そういう意味では、新型コロナウィルス感染症の脅威を不当に少なく見積もったり、マスクの効果を疑っての不使用ではなく、マスクをするのは自分の判断であり、なにかの雰囲気や希望的観測によってするものではない、と考えて不使用だったわけだ。僕の周りにはそのような考えの人が少なからずいたように思う。

 ただ、ある時期から僕もマスクをするようになった。それは職場でもしなくてはいけなくなったのもあるのだが、マスク不使用の者に対する厳しい目に堪えられなくなってきたのも事実であった。その時同じ理由でマスク使用を控えていた友人もマスクをしており、その時偶然外で会ってマスクについて話したら、マスクをしないということに対する周りからのストレスが、生活する上で無視できなくなり、それがマスクをしないことの意志を上まわり、気持ちが萎えて来た、というものであった。僕も同じであったので、やはりある行動を一貫してするというのはかなり難しいことだと思い知らされた。それからは、僕の職業柄は人と面と向かうものであるからマスクをしており、基本的に何かを食べているとき以外は、マスクをするようになった。また僕はその頃、病気で入院することとなり、ちょうど感染拡大の「波間」だったので運よく入院ができ、九死に一生を得たのだが、もちろん僕の同室の人々は命にかかわる重病の患者しかいなかったため、マスクはしていた。

 それ以来マスクをして数年、最近新型コロナウィルス感染症が「5類」となり、マスクからの解放が経済活動の再開と不当にも結び付けられて、今度はマスクをする人が徐々に減っていった。僕は実際それを苦々しく思っていた。なにも状況は変わっていない。感染症に対する知識や距離感は、当初よりは経験上得たものの、「5類」となっても基本的に感染症の状態は何も変わっていないはずなのだ。にもかかわらず、「5類」と分類され、マスクからの解放=経済活動の再開という大義名分のもと、これまでマスクをしない人や「県外ナンバー」が地元に入ってくることを非難していた人々が、あるいはこれは僕の田舎でも起こったことであるが、当初感染者には相当の差別をおこなった人々が(実際僕も田舎で東京から来たことをとがめられた)、今度はマスクをすることは経済をだめにするとか、ことさらに危機感をあおるものだと言って批判し始めたのである。これは感染症拡大の当初、マスクをしない人々に対して罵声を浴びせていた、あるいは白い目で見ていた人の論理が、「5類」という実際はその「移行」によって事態は何も変わっていないにもかかわらず、何か変わったように思わせる「法=無」によって反転しただけのものだろう。要は何も考えていないのだ。

 僕はそのような状態もあって、今度はしばらくはマスクをし続けようと考えている。これは僕への戒めでもある。新型コロナウィルス感染症で経済的にも身体的にも人々が苦しんでいるさなか、補助金による医療費や生活費の給付などの対策を何もせず、それをコストとすら考え、暗黙に感染症を差別と結びつける環境を作ることで、弱い人々をその雰囲気の中で排除し、さらに何の役にも立たないオリンピックを強行した「日本国民」を象徴しているものとして、しばらくマスクはするべきだと思う。連日猛暑で危険だ危険だと言いながら、しかしこれは経済活動を止めるなという意志が招いた気候変動であって、何が危険だとどの口が言うのだと思う猛暑の中でも、マスクは外さずにしている(結局富豪たちは涼しいところに金で「移行」するだろう)。最近僕は、上記のようなことを約めてある集まりで話したのだが、20代と思われる若者が、明らかに不快感を示して席を蹴ったことがあった。僕も僕自身偉そうに言えた義理ではないので、悪いなとは思ったのだが、実際何も変わっていないのに、マスクをしたりしなかったり、その場の雰囲気や憶測や希望的観測で、動いていることへの見解を言った方がいいのではと思ったのであった。

失われた「X」を求めて

2023年07月24日 | 日記と読書
 2023年7月24日の18時近く、Twitterを更新していると、突然ツイッター社のアイコンが「X」というロゴになった。その少し前から、経営者が「X」を予告していたので、このタイミングなのか、と思った。イーロン・マスクが経営のトップになってから、Twitterは、やはり少しメディアとしての性質が変わってきた。表示される呟きの傾向や、どういう目的でツイートをX社?が利用しようとしているのかなども、そこそこ変わってきている。僕がTwitterを始めたのは、「東日本大震災」の前年であった。Twitterをやる前からかなり長い間ネットだけで交流のあった友人から誘われて始めたのだが、こんなにも長く続けることになるとは思わなかった。当初は、友人から人文系の面白い呟きをしている人のアカウントを教えてもらい、それを登録していったのが始まりで、紹介してくれた友人には感謝している。そのおかげで、「東日本大震災」前後には、多くの人と知り合いになり、ツイートを通してかなり勉強させてもらった。所謂その道の専門家の人も気さくに話してくれて、読む本の傾向や考えるべき問題の周辺などが、見えるようになってきた。「東日本大震災」後は、国会へのデモに行く時も、情報交換をしたり、人が空いてそうな場所を教えてもらったり、かなり活用させてもらった。いい場所を教えてもらい、時間がなかったのでタクシーで国会前に行ったのだが、本当に良い場所だったようで、翌日の職場で同僚から、ニュースに映ってましたよ、と笑顔で話しかけられた。

 そういう意味では僕にとって、Twitterは非常に使いやすいメディアであったのだが、ここ数年はTwitter Japanの独立性などが問題になったり、あるいは「炎上」などで少しやりづらさを感じるようになった。勿論、「東日本大震災」前後のTwitterの状況を牧歌的に賛美するのは意味がなく、メディアはその下部構造とともに変化していくものなので、今は今の意義があるとは思っている。しかし、イーロン・マスク以降はさらに僕にとっては使いにくくなり、この変化についてこられないものは止めた方がいい、という形で加速主義的な傾向が強くなってきている。最近、意識的にTwitterを使っている人がいて、それはそれで状況に敏感、かつ鋭い人だとも思ってはいるのだが、しかし、今の状況は、以前と比べて相対的に発言力が強い人が、「公正」に「民主的」にツイートができる環境ではあるが、そのほかはその人たちの「資源」になるような形、「いいね要員」になってしまうのではないかと思っている。それは現状で生き生きとツイートしているアカウントを読めばある程度分かる。X社は、それをビジネスモデルにしているので当然なのだろう。それはそれで肯定するのが「強度」なのかもしれない。イーロン・マスク以降は、課金も含め、Twitterでの影響力がビジネスをするためのツールとなったのだろう。僕はそういう傾向は、ネットの「自由」とは逆向きだと思っているので、積極的には関わりたくない。まあ、それはともかく、数年前に、「いいね」と「リツイート」が僕自身では制御できないのではないか、と思い始め、「鍵」をかけることにした。この数年でフォロワーは100人以上いなくなった。40とか50とかリツイートされるキャラではないと思っていたので、それでよかったのだが、僕自身にツイートのリテラシーがなかったともいえる。

 さて話は変わって読書の話だが、やっと『失われた時を求めて』は、「スワン家のほうへ」を読了し、第二巻「花咲く乙女たちのかげに」に入った。読み切ってしまえば面白い小説だと思う。内容としては「雑談」だと思っている。しかしその「雑談」はヘーゲルの『精神現象学』や『(大・小)論理学』が「雑談」という意味での「雑談」だといえる。「近代」というのは「雑談」の空間だと思うが、それを見事に描いていると思った。まず読み始めで感じたのは、これは『精神現象学』の「感覚的確信」のような流れを書いているな、ということだ。そして感覚が常に人工と弁証法を起こしているということである。これは近代の欲望が人工と自然の「接ぎ木」で出来上がっていることと対応しているのだろう。欲望には常に感覚とそれを取り巻く人工という残余がある。そのように読むと、この「雑談」の弁証法は、欲望=精神の現象学としてリアリティを持ち始める。〈精神とは雑談である〉。また「コンブレー」という名は、今ちまちま読んでいるエルンスト・ユンガーの『In Stahlgewittern』とも呼応するフランスの地名で、プルーストとユンガーの交錯なども考えられる。『失われた時を求めて』はまさしく第一次世界大戦をはさんで執筆されているので、ユンガーの執筆と重なり合うだろう。ともかく先を読んでいかないといけない。

 これと今は『ディルタイ全集1』の「精神科学序説」を読み始めた。ディルタイは「精神科学」と「自然科学」の差異を、自然科学的な考えを援用しつつ明らかにする。ただし、「精神科学」の「科学」としての独自性を擁護するためにそうするのであって、自然科学的な方法に依拠しながら「精神科学」が扱う「社会」や「国家」を構想する、「生」の「相互連関性」の問題を解明するというものだ。確かハイデガーはディルタイが試みる、この自然科学的な、あるいは数学的論理学から「精神科学」の「相互連関」を取り出すことには批判的である。この「相互連関」の問題は発展させられて、ハイデガーの実存論的現存在分析(現存在という構造)に関わるので、一度読みたいと思っていた。まだ感想を言えるほど読んでないので、追々何か言えればと思う。