「プチット・マドレーヌ」は越えたので許してほしい

読んだ本の感想を主に書きますが、日記のようでもある。

ディルタイをそろそろと読んだ感想(1)

2023年07月27日 | 日記と読書
 ディルタイの「精神科学序説Ⅰ」(『ディルタイ全集1』、法政大学出版局)を読んでいる。ディルタイが「生」というものを様々なものの相互連関の構造それ自体として見ているのが面白い。ディルタイは自然科学と精神科学(この本の定義では今でいう人文科学と社会科学をカバーする)の差異を考察していて、自然科学的な論理学を借りながら、「精神科学」に現れる「生」の相互連関の論理性を明らかにする。それが結果的には精神科学の自然科学に対する相対的な独立を獲得することにもなる。これには、精神科学における個人や個別的文化事象の特殊性が、普遍的法則によって貫かれているさまを解明する必要があり、その個と普遍の弁証法的構造を、その相互連関の中に発見しようとするのである。つまり、その「生」の相互連関の構造は、精神科学における個と普遍の弁証法、あるいは個と普遍が調和して共存している構造自体を創り出している。そしてこの相互連関の構造は、「生」が「歴史」であることと同様である。「歴史」も個別的な事象や事件が、歴史法則によって貫かれている訳であり、その「歴史」の力動性はその相互連関の構造に内在しているものだといえる。それ故、「生」の構造と「歴史」の構造は、その相互連関性において相同的なものだといえるだろう。「生」の構造性とその法則性が「歴史」の法則性でもあるというのは、「生」が「歴史」でもあるということを明らかにしている。

 ディルタイはこの相互連関の構造を、人文科学の文学や社会科学の法の連関、あるいは国家や団体などの中に見る。文学や法や国家や団体は、その相互連関性の構造によって構築されているのであるが、ではその相互連関を作り上げ動かす力は何だというと、今読んでいる範囲では、認識論的な意味で「心理」ということになる。そのため、ディルタイにおいては、この心理学的法則を解明すれば、精神科学の相互連関の法則性を解明することに繋がっていくわけである。これを読んでいく中で、ディルタイは後に現れる、ゲオルグ・ジンメルやフランスだとエミール・デュルケムの社会学にすごく似ているなと思ったのだが、今ちょうど100頁当たりでの感想なのだが、ディルタイは社会学に言及し始めており、この相互連関性を「社会」の構造として読み解こうともしている。ディルタイも社会学に言及するわけだから、似ているのは当然ということだろう。この相互連関を創り出す心理学的法則というのは、後にフッサールやハイデガーが心理学批判をするわけで、フッサールならば超越論的主観性、ハイデガーなら存在として脱構築していく対象になるのだろう。

 この中で興味深かったのは、ディルタイのいう「社会」の相互連関性は国家よりも広く、いうなればインターナショナル性があるということだ。ディルタイは言うのだが、この「社会」というのは、「労働者階級の強い情熱」と「連帯」(p.92)と共に出てくる科学的な概念である。そういう意味では、「社会」はマルクスと共産主義の問題と深く関わっているということだろう。ジンメルもデュルケムも、マルクス主義の「下部構造」、これは経済的な相互連関性だが、これに対抗するために「社会」の相互連関性、「社会的事実」や「権力」、「集合的意識」の相互連関性を持ち出して対抗していたはずだが、これと重なる発想になる。ディルタイにとっての相互連関性の力動的な力は、心理学的法則の認識論的力になるわけだが、ジンメルやデュルケムもそれを、「社会的事実」や「権威」「権力」「集合的意識」の力動性として考えようとする。「社会的事実」や「権威」や「集合的意識」は、相互連関を創り出す力動であって、マルクスの経済的下部構造としての相互連関と対抗するわけだ。プロレタリアートというインターナショナルな下部構造の力に対して、社会学は「社会的事実」や「権力」、「集合的意識」の力動を持ってくる。これはディルタイが、心理学的法則の中に相互連関の力動を見出したことと重なる。以前、柄谷行人の『交換様式と力』の時も書いたが、観念的上部構造=心理学的法則(これに「社会的事実」や「権力」、「集合的意識」を加えてもいいだろう)の「力」に下部構造を変える力があると、ディルタイやジンメルやデュルケムは考えていたのだ。ディルタイは、当時の新カント派的な方法論とも重なる思想家でもあるはずなので、この観念の相互連関の力に「生」の歴史性と力を発見し、それが歴史を駆動させると見ていたのであろう。だがこれでマルクス主義を越えたことになるだろうか?ということは今後考えていきたい。またそれだけでなく、フッサールの現象学やハイデガーの存在論からも、この観念の力を心理学的法則としたことと、自然科学的な論理学、ハイデガーから見れば存在の論理学の派生物に過ぎない論理学に依拠していることを批判されることとなる。

 ディルタイの思索を追うのはまだわずか100頁であるが面白い。この時代のフッサールやハイデガーに批判される側の知見がたくさん入っているからだ。これを勉強するには、この「精神科学序説」は本当に良い。また、フッサールやハイデガーがどのようにディルタイに依拠し、それを暗黙の裡に取り込んでいるのかなども、追っていくと、新たな発見があるかもしれない。あと、現代においてマルクス主義の唯物論ではない唯物的なパワーを抜き出そうとすると、自然とこの社会学的な権力論や集合意識論になってしまうのではないか、という問題は考えておかなければならないだろう。マルクスの唯物論なしの唯物論を見出そうとすると、歴史的にはこのような観念的上部構造に依存しなければならなかった。それは現代においても同じなのではないか?ジンメルやデュルケムとのサンディカリズムとの関係などは、現代においても考えてもいいのかもしれない。アナキズムとの関係なども考えるべきだろう。ともかく、ディルタイの先は、『失われた時を求めて』くらい長い。ディルタイに対しては素人ではあるが、素人なりの読み方をしていくつもりである。『失われた時を求めて』は「私」と「ジルベルト」が「くみ打ち」をして少し進んだところくらい。

 今日は喫茶店で読書をしたのだが、半分はポケモンをしていた。