「プチット・マドレーヌ」は越えたので許してほしい

読んだ本の感想を主に書きますが、日記のようでもある。

引き続き『文学的絶対』を読み進める

2024年04月14日 | 本と雑誌
 さて、引き続き『文学的絶対』を読み進めている。シュレーゲルの『着想集(イデーン)』まで読んだので、ようやく半分を超えた所だろうか。「芸術の限界内における宗教」の所を読んでみて、やはりベンヤミンの『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』の議論と重なるところが多いと思う。ロマン主義には、先日書いたように「断片性」があるわけだが、この断片は「一即多」的な意味において、「制作的」に取り集められる。その取り集められ方が、カントにおける「構想力」と関わるのか、それともヘーゲル的な aufhebung(揚棄)と関係あるのか、という問題がある。シュレーゲルにはそれが、「道徳」と「宗教」の問題として現れる。「一」が「無限」の「断片」と関わる場合、そこには何らかの「制作」としての Darstellen が働いている。これを「構想力」としての生産的「発明」(デリダ)の作用として見るのか、 ヘーゲル的な「揚棄」と見るのか。かつてはヘーゲル的「揚棄」は統一や統合に向かい、「断片」の差異を無化してしまう危険があるので、「揚棄」なき「揚棄」としての「エクリチュールと差異」の問題があったわけだが、ヘーゲルも必ずしも差異を無化するようなことはいっていないはずである。ヘーゲルのいう「絶対精神」は『論理学』によれば「無限に差異化された統一体」という絶対的矛盾の統一であり、これはロマン主義的イロニーとすごく似ている。京都学派とか西田幾多郎的なものともつながるだろう。

 そういう意味で、「一即多」を繋ぐのは、「構想力」なのか「揚棄」なのか、それとも「道徳」と「宗教」という形式での、「無限」と「一」との接触を考えるのか、という問題がある。シュレーゲルはこの「一」と「無限」の接触と、それを一つのシステムとして bilden する作用は「(自己)犠牲」というある種の「神秘」的な用語で説明しようとする。僕なりに解釈すればこの「犠牲」とは、「無限」を前にした「無為」(無為の共同体!)ともいえるし、Ab-grund としての「無-底」への投機ということになろう。そのような「無」への献身、あるいは「無限」へと投機することで成立する「一」と「多」との関わり合いこそが、ロマン主義的イロニーということになる。シェリングの「無底」がロマン主義のイロニーに影響を与えるのは、この「真理」が「無限」という「断片性」であるということと関わっているからだ。

 このような「断片性」は、これも先のブログには書いたが、アジアという「断片性」がヨーロッパ的「真理」としての「無限」や「神」と触れ合う問題として「大東亜」の問題に繋がっている。その「一即多」を可能にしているのが、Ab-grund としての「天皇」と接続されるのだと思う。つまり、「断片」としてのアジアを「天皇」は「大東亜」として darstellen するのだ。それは日本の浪漫主義から、イロニーとしての天皇(制)を模索していたわけで、確か保田與重郎には「文化対策ないし文化建設」という評論があって、そこでは「文化」を守る「天皇」という問題があったはずである(このような論文だったかうる覚えで申し訳ない)。これはのちの三島の「文化概念としての天皇」の〈原型〉のような話であったと思う。このロマン的イロニーは、「天皇」という「Ab-grund」をどうやって、「大東亜」の存在の根拠とするかという問題であった。「大東亜」という言葉を仮に肯定する場合、この「天皇」というイロニーの問題は避けられないわけであり、話をぶり返すと、このイロニー抜きで民主主義下の軍隊が、「大東亜戦争」という言葉を安易に肯定してはいけないわけだ。「大東亜」というのはイロニーにおける「断片性」と「無限」を繋げる「天皇」という問題であり、天皇制的身分制度を民主主義的に排除している国が、今更何を言っているのか、ということだろう。「天皇」をイロニーとして護持したいという右派も、この自衛隊のなし崩しの〈愛国心〉は厳しく批判すべきだと思う。こんないい加減な俗情の愛国心は、「文化」のために百害あって一利なしだと。これは「天皇」というイロニーなしに京都学派のある西洋哲学的部分を愛でて、日本の哲学の国際性を強調するような〈愛国心〉にも批判的に言えることであると思う。京都学派を批判的にロマン主義の文脈で解釈するならば、やはり日本浪曼派とマルクス主義との競合の中で見定めないとだめだろう。文化主義的な京都学派観というのは、以上の意味で、「天皇」という政治的問題を否認してしか成立しないのではないだろうか。これは1980年代の文芸批評家たちがおこなった、京都学派への批判だと思う。これがなかったかのようになるのは、非常にまずい。

引き続き読んでいこう。

初めて『構造と力』を読み始める

2023年12月25日 | 本と雑誌
 浅田彰の『構造と力 記号論を越えて』(中公文庫)を買った。これはネットで話題になっており、しかも従来文庫化されることはないのではないか、と考えられていたようで、せっかく文庫化したのだから買ってみようということになった。恥ずかしながら浅田の著書を買ったのは初めてである。勿論雑誌掲載の論文やエッセイなどにはいくつか目を通したこともあるし、座談会なども読んだことはあった。しかしながら、浅田の「著書」という意味では全く読んだこともなかったし、ほとんど書店の立ち読みでも開いた記憶もない。かなり昔、Twitterで「浅田彰を全く読んだことがない」とつぶやいたところ、複数の既知のアカウントから、意外だといわれ、恐らくそれくらいは読んでおけよという意味も含まれていただろうが、そして、今(その当時)読んでみての感想を教えてほしいというコメントを頂いたのであるが、結局その時も読まず、今日に至るまで十年以上の時間を経てしまっている。

 別に何か意地になって読まなかったわけではなく、たまたま読まないままであったのだ。だが「ポストモダン」という言葉には多少の反発はあったように思う。僕の学生の時は自分の学部ではほとんど哲学や文学に関わる講義がなく、一般教養でも、中世の哲学しかなかった。そのため、他学部にモグリで聴きに行ったのだが、その頃は「ポストモダン」を哲学とか「(フランス)現代思想」という形ではなく、記号論とかテクスト論とか、文学研究に近い形で話されているのを聞くこととなった。これは僕の主観的な判断であるが、それらのモグリに行った講義において記号論などを聴く中で、その教師たちの「語り口」に反発を感じていたのは事実かもしれない。教師が、今でも覚えているのだが、「アンパンのように、言葉の中心部に意味があるわけではない。言葉には表面や内部というものはない」という、今思えば苦労して教師は例えてくれていたのだろうが、その頃プラトンの著作にはまって、イデアを信奉していた僕は、「真の意味」がないとはなんと軽薄な教えだ、と講義を聴きながら憤慨していた。しかも何を偉そうに「真の意味」などないといっているのだ。あるいは、「作家」と「作品」には必然的な繋がりはなく、「作品」とは〈テクスト=意味を生み出すコードの織物〉だと聞いて、その頃夏目漱石と、江藤淳の『漱石とその時代』を生半可に齧って、しかも漱石と江藤の批評(あくまで『漱石とその時代』のみ)を信奉していた僕は、作家と作品に関連がないとはなんという不遜極まりない態度だろう。お前に漱石の苦しみがわかるはずがない、という反発心を持っていたことも、事実である。

 ただ、幸運?というべきかどういうべきかはわからないが、僕は学生時代に一般化され始めていたインターネットで、「ポストモダン」を含め哲学書(特にフランス現代思想)を読む集まりに参加しており、そこでデリダや、ドゥルーズ=ガタリ、クリステヴァ、ラカンの著作に触れる機会があった。そのサイトにはおそらく、確認したことはないが、今では専門家になって教鞭をとっている人もいるのではないか、と思うくらいレベルが高かったように思う。そこに参加して、僕は管を巻いていたという方がいいかもしれないが、理屈だけは話していた。そのサイトでよく出会う人から著作を勧められて、『グラマトロジーについて』とロラン・バルトの一連の著作を読むようになった。そこにはバルトとデリダの研究者の卵が来ており、僕らに「指導」してくれていたのだ。その方々の名前も、今何をしているかもわからないが、「恩師」ということになろう。その影響もあって、『グラマトロジーについて』やバルトの一連の著作を読む中で、どうもモグリで聴いた、あの主観的には高圧的でエリート主義的に聞こえた教員の語る「ポストモダン」の内容に対して、デリダやバルトの著作をそのまま読むと、「話が違う」という印象が拭い去れなくなってきたのである。そこで、モグリで聴いた「ポストモダン」的な、「原因は結果から遡行されて構築される」(錯時性)などの高圧的、エリート主義的啓蒙に対する反発心がメラメラと燃え上がり始め、デリダやバルトの方が明らかにそのような啓蒙よりも「複雑」でアイロニカルな内容を含んでいるし、面白い。そこで昨今(当時)言われている「ポストモダン」なる軽薄極まりない高圧的な啓蒙は嘘であろうという信念のもと、漱石と江藤の批評に心酔し、プラトンのイデア主義者として、「真のポストモダン」のイデアを考えるべきだという、倒錯かつ不合理(見当違いともいう)な方向に進み始めた。


 おそらくそのような学生時代の「見当違い」の中で『構造と力』を忌避したのではないかと思う。確かに『構造と力』を読んだかという偉そうな先輩たちに反発したのも、そういう啓蒙の欺瞞をそこに嗅ぎ取っていたのかもしれない。とりあえず、「序に代えて」と「Ⅰ」章を読んだだけなので、まだ何かを言える段階ではないが、浅田は僕が嫌悪していた「啓蒙」に対する批判をしているのはわかった。そういう意味では「ポストモダン」批判だったのだな、と今は思う。僕の学生当時周りの人が〈浅田=ポストモダン〉であり、偉そうに講釈を垂れてきたのに反発する前に、読んでおいた方がよかったのかもしれない。ただ、確かに僕のいう意味での単純な啓蒙性はないが、2020年代に読んでしまうと、啓蒙批判という啓蒙性は脱していないのではないか、などとは考えてしまう。「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」という全く読んだことのない僕でも知っている、人口に膾炙した「セリフ」も、〈何か〉を回避して忌避している「賢さ」を感じてしまう。例えそれがアイロニカルな形で、そのような「賢さ」を馬鹿にしている書物だとしても、である。外山恒一が、浅田や東浩紀や宮台真司のいう「全共闘以後」の認識がおかしい、と批判することとも少し関係している気がする。

 さて、とはいうものの、わずかこれだけ読んだだけでも、昨今Twitterで語られている啓蒙主義的批評論や、批評を2020年代において「整理」しようというツイート、確かにTwitterで判断しては駄目だといわれそうだが、それでもそこで書かれている批評に対する呟きは、既に浅田がスマートにやってしまっているのだから、もうやらなくていいのではないか、という気持ちにさせられた。「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」という言葉の変奏だけが、ずっと批評では語り続けられているように思う。まあそれも時代の文脈の変化によって変奏させる意味はあるのかもしれないが、結局浅田の二番煎じであり、もっと言うとそれを悪くした害悪になりかねない。単純に批評的な講釈を高圧的に語り、エリート的な居直りを再生産することになりかねないからだ。何でも知っている浅田なら許されるだろうし、『構造と力』くらい啓蒙を商品として、そして商品を笑った本ならば、そのアイロニーはわかるが、このアイロニーなき時代の批評への俯瞰的位置取りというのは、単純に「知っている」というそれ自体が無知な居直りだけだろう。そういうことを気づかせてくれたという意味では、『構造と力』を文庫化して読んだのは良かったのかもしれない。読み終わったら『逃走論』も読んでみたいと思う。ともかく「なーんだ」と思わされた次第だが、僕がこれまで面白いなと思った批評家は、この浅田的啓蒙を不可避なものと見つつも、きちんとここから距離をとった人なんだろうなと思う。その距離の取り方は、たぶん、無様でも仕方ないので、ちゃんと小説やテクストを読もう、とした人なんだと思う。

 読書記録もつけておこう。『ディルタイ全集2』が読み終わった。「草稿」であるので完結はしていないが、ディルタイの思考の痕跡は辿れた。やはり、「心理」(=意識)の「論理学」の追及で、自然科学と精神科学の差異をそこから考えていくのが面白い。そして注目すべきは、この「心理」の「論理学」は「歴史」の「論理学」でもあるという点だ。「心理」に歴史性を、そして解釈学的「論理性」を付与したものとして、後にハイデガーの〈存在=歴史〉の「論理学」に繋がっていくであろう一端を垣間見ることができる。そして興味深いのは、ディルタイは「心理」に注目するので、この「心理」は超越論的地平や存在におけるフッサールやハイデガーと違って、自然科学との結びつきが表面に現れて来るのである。今で言うなら「脳科学」的なものとの接合になるのだろうが、このせいで今の視点で見てしまうと、疑似科学的というか胡散臭いなという所が感じられなくもない。勿論、「心理」と「歴史」の「論理学」は、カントのいう主観性(=心理)の構造でもあるので、この主観性と自然科学との関係を考えれば、繋がらないわけではないので、ディルタイは慎重かつ大胆に考えてはいると思う。

 『失われた時を求めて』は第五巻を進行中。外山の本も『最低ですか!』を読み終わり、『さよなら、ブルーハーツ』を読み進めている。「涼宮ハルヒシリーズ」も読んでいる。

『詩的モダニティの舞台』の再読と山本陽子の詩について

2023年11月04日 | 本と雑誌
 『絓秀実コレクション』(blue print)(以下、『スガコレ』)で絓秀実の批評をたどり直していると、『スガコレ2』に山本陽子論があるのだが、そこには『詩的モダニティの舞台』(論創社)にも山本陽子論があることが示唆されており、読んだはずなのだが内容を全く忘れており再読した。すると、たしか『重力』(「重力」編集会議)2号でも絓秀実、松本圭二、稲川方人、鎌田哲哉の「共同討議」で山本の詩をめぐって議論があったな、とさらに数珠つなぎで思い出して『重力』02の該当箇所を読んでみた。僕自身は元来詩がよくわからない。詩がわからないということ自体がナンセンスな言い方なのはわかるのだが、詩を読むということがよくわからないのである。小学生の時から教科書に載っている詩の意味が分からず、これはセンスがあって頭のいい人しかわからない言葉なのだ、という先入観が植え付けられ、詩に触れること自体をずっと避けてきたところがある。トラウマといえるかもしれない。そのような僕でも、山本の詩はゾクゾクというか、気味悪さというか、その気味悪さは、不可能なことだが山本陽子って人に会ってみたい、という思いと綯い交ぜになったような気持ちであり、恐らく山本陽子が現代にいても絶対会ってはくれないだろうな、という非対称ともいえる切なさを感じさせられる詩だったので、この非対称性にフェティシズムを覚え、山本の詩は手に入る範囲でちょこちょこ古本屋で買って集めていた。集めるというほどの量があるわけではないが、「視られたもの、うた」が掲載されている『あぽりあ』(あぽりあ同人会)の3号や、同誌8号に掲載された「遥かする、するするながらⅢ」が転載された、『現代詩手帖』(思潮社)の1970年10月号は、古本屋で比較的すぐ見つかり買って読んだが、よく言われるような「難解」な詩とは思わず、むしろ面白いと思った。先ほど言ったような非対称的な切なさを感じさせる詩だった。『青春―くらがり』(吟遊社)も別冊が欠けているばらけたものは手に入ったのは幸運だったのだろう。『山本陽子全集』(漉林書房)全四巻があるが、古本屋でも見たことがないし、高額というのもあり、図書館で借りて読んだ。

 さて、『重力』02では絓が、山本の詩のポエジーを肯定的に捉え、その山本の詩が持っているジャンクさとしてのポエジーが、人々を「革命」へと駆り立てた意義について話していた。これは僕自身山本の詩を読んで、山本に会ってみたいが、もし今いたとしても実際は絶対に会ってはくれないだろうという非対称に引き裂かれる経験と重なるような気がしたので、絓の意見は納得いくものであった。その「共同討議」では松本圭二が、山本の詩は死に接近しすぎだ、というようないい方で、その死に憑依されているニヒリズムというかシニシズムを絓の革命観にもつなげながら批判していたが、僕は山本の詩が死に近づくようなものとは全く思わなかった。山本の詩はむしろあっけらかんというか、シニシズムやニヒリズムのような抒情とは全く関係がない、文字通り何の存在にも関わりがないような、むしろ言葉自体にも関わらないような、ざっくばらんというか、誤解を恐れず言えば、何も考えていない人からするすると出てきた言葉(エクリチュール)のようで、ちょっとこの作者に会ってみたいなというような、〈興味本位〉で〈軽率〉な思いや行為を引き起こさせてしまうような、妙に意欲が湧いてくるものとして読んだ。たしかに、そこにアイロニーがないかといわれれば、ないとはいわないが。しかしそれは僕の問題だろう。

 山本の詩を読んでいて「僕」という一人称単数が出て来て、あれ?一人称単数って珍しいなと思って気になっていたのだが、今回の『詩的モダニティの舞台』を再読すると、絓はこの「僕」に触れていて、さすがだなと感銘を受けた。絓は「俺」にも触れていて、ああ、「俺」という言葉も使っていたかと再確認した。この「僕」や「俺」とは誰だろう、と考えると、『スガコレ2』の山本論でも、「女優」の山本陽子と〈この〉詩人の山本陽子を重ねて論じていて、山本陽子はジェンダー・セクシュアリティ的にも、現存在的にも二重の存在なのだということがよくわかった。山本陽子は「僕」でもあり「俺」でもあり「女優」…………でもあるのだろう。

 こういう山本のポエジーを絓の批評を媒介としながら読んでいると、最近の目的論的というか、自分の政治的倫理的目的に、正確かつ現前的に直結しながらネットで発言している人を見るたびに、この人たちでは人を〈興味本位〉で〈軽率〉に行動させ、扇動させることはできないだろうな、と考えるようになった。そういう〈興味本位〉や〈軽率〉さを、おそらく彼等/彼女等は駄目なものとして糾弾しさえするだろう。マイノリティをエンパワーメントし、民主主義を守り、正義を守る、そのような目的のために正確に目的に着くように書かれ続ける、正確で啓蒙的な言葉。しかし、そのようなポエジーがない(というポエジー?)エクリチュールには「(暴)力」があるのか?パワーがあるのか?正しさとは、あるところで〈軽率〉なものではないのだろうか。

ディルタイをそろそろと読んだ感想(6)+涼宮ハルヒシリーズ

2023年10月16日 | 本と雑誌
 『ディルタイ全集1』を読了し、「精神科学」と「自然科学」の差異と、その差異に働く「連関」の問題が興味深いものであった。昨今、「文系」や「理系」などの区別があり、今日も仕事帰りの喫茶店で、隣の大学生が、「文系就職」と「理系就職」の差異を話していた。その二人は「理系」らしいのだが、「理系就職」というのを初めて聞き、なんとなくニュアンスはわかるが、「理系就職」の方が、生涯年収が高いということを話し合っていた。それはともかくとして、ディルタイの「精神科学」と「自然科学」の差異と「連関」はそのような、「理系」や「文系」には還元できない問題を内在させている。しかもそこには知的刺戟に満ちた問題提起があると思われる。

 ディルタイは「精神科学」を形作る「連関」を、「自然科学」のそれとは違うものと見做す。「自然科学」は因果関係を「連関」として持つわけであるが、「精神科学」は「歴史」の「連関」として現れていることになる。ならば、その「歴史」の「連関」とはいったい何かということになるだろう。例えば「歴史」の「連関」と聞くと、ヘーゲルに見るような、精神の運動としての弁証法が思い浮かぶが、ディルタイはそうは言わない。ディルタイは「歴史」の「連関」を「心理(学)」、「意識」の認識論的な「連関」として見出すのだ。そのような「心理」や「意識」の認識論的連関こそが、「歴史」としての「生」の構造連関になっているわけである。このような「歴史」の「連関」こそが「精神科学」を「自然科学」から区別する差異ということになる。するとこの「心理」や「意識」の「連関」とは何か、ということになるのだが、これはカントのいう「主観」の構造と重なり合う部分を持っている。カントが「主観」の構造から、数学がなぜ可能なのか、「自然科学」がなぜ成立するのか、そして「自然科学」とは別の自律性を持つ道徳律がなぜ成立するのか、と問うたわけだが、この問いを応用しているように見える。

 「草稿」の時点でディルタイは「精神科学」に相当する言葉を「道徳-政治」の科学と呼んでいる。ということは、カントが「自然科学」とは別の自律性を持つとした道徳律の原理と「精神科学」の原理がアナロジーであるということになる。つまり、カントが「主観」の「連関」に、道徳律を成立させるような「連関」を見出したように、ディルタイも「心理」や「意識」の「連関」に、「自然科学」の因果性には還元されない、「精神科学」の自律性を保証するような構造連関を見出していたということになるだろう。そしてその「精神科学」の自律性は「歴史」の「連関」によって保たれているということになる。何故ならば「歴史」の自律性は、「心理」や「意識」の認識論的な「連関」それ自体であるからなのだ。ディルタイにとって「歴史」は「心理」や「意識」の認識論的「連関」であり、それが「生」の構造である。「精神科学」は「歴史」的なものといえる。

 ただ、「精神科学」は「自然科学」と全く別なのか、というとそうではない。ディルタイは、生理学や物理学などと「精神科学」の「連関」を比較していることからもそれはわかる。『全集1』ではっきりとそう言っているわけではないが、「精神科学」と「自然科学」を「心理」や「意識」の「連関」で区別しながらも、そこには重なり合う「論理」も存在する。そもそも「歴史」は「自然科学」も「精神科学」も歴史化し、「連関」として成立させているわけだから、その「歴史」の「連関」にとって「心理」や「意識」は超越論的な存在だといえるだろう。つまり「心理」や「意識」の「連関」こそが歴史認識を可能にし、「自然科学」と「精神科学」の差異を成立させているからだ。ディルタイもいう「心理」や「意識」の「連関」は即ち「歴史」であり「生」であり、その超越論的連関は、「自然科学」にも「精神科学」にも権利上〈先行する〉といわなければならないのではないか。

 このように考えると、ディルタイは「歴史」を「心理」や「意識」という認識論的な問題にしているのだが、ハイデガーはこれを「存在」の問題に引き付けたといえるだろう。ディルタイの「心理(学)」的な「連関」という認識論への還元は、ハイデガーから見ればカントよりも退行しているように見えるところがある。それはフッサールの「心理学批判」の対象にもなる。ハイデガーは、ディルタイが「連関」から存在者を理解していることと、それが「歴史」の構造になっていることを高く評価しているのだと思うが、しかし、ディルタイが認識論的「連関」にとどまってしまっていると見做したのだろう。ハイデガーは、ディルタイが「連関」を見出した「心理」や「意識」の領域を、存在者の「連関」を可能にする、〈存在=開け〉と読み換えたのである。そしてこの〈存在=開け〉の構造こそが、現存在の実存論的構造を可能にしている「時間」だといえる。ハイデガーはディルタイの認識論的「連関」を、存在者の「連関」とし、その「連関」を可能にしている「開け」こそ「存在と時間」なのだ。

 また、ディルタイは、「精神科学」の「連関」を説明する時、「比喩」を多用する。しかもそこで面白かったのは、「俳優」の「比喩」である。ディルタイは「精神科学」が普遍的な「連関」でありながら、同時に多様な「個性」や「文化現象」を表象可能にするのはなぜか、という問いに、「俳優」と同じで、同一人物という統一性が、違う役柄を何役も演じることができるという多様性と同居しているというように、このような「俳優」の〈表象=代行〉の構造こそが、「精神科学」を可能にしている構造の一つだとするのである。「精神科学」にはフィクションが憑依するという好例だろう。「精神科学」はフィクションによって成立しているといえるのだ。また、ディルタイは「精神科学」の自律性を保証する「心理」や「意識」の連関構造に、「構想力」を見ている。「構想力」とはまさしくフィクションの可能性の条件だが、カントのいう「感性」と「悟性」を媒介する〈図式性=フィクション(イメージ)〉の能力が、「精神科学」の自律性を形作っているというのは、大変面白い。例えば同じ新カント派に強い影響を受けているファイヒンガーが物語やフィクションとは無縁だと思われている「数学」にも、「als ob(かのように)」というフィクションの構造が内在しなければ、その学問が成立しないとしたように、やはりフィクションというのは「精神科学」だけではなく「自然科学」も貫いているのではないかといいたくなる。ディルタイは、そこに大きな問題を見ていたように思う。それをフッサールやハイデガーは批判的に継承していったのだろう。「自然科学」と「精神科学」を貫くフィクションの構造と「連関」。それを「文系」とか「理系」といって考えようとするのは頽廃以外の何物でもないのだろう。

 今日は喫茶店で、谷川流+いとうのいぢ『涼宮ハルヒの憂鬱』を読み終わった。次に『溜息』を読もうと思う。このままシリーズ全てを読破する予定。

10年前に買った北公次『光GENJIへ―元フォーリーブス北公次の禁断の半生記』のことを思い出して

2023年09月29日 | 本と雑誌
 Youtubeで80年代のトーク番組やバラエティ番組の録画を眺めていると、たまたまジャニー喜多川を揶揄している場面に出くわした。しかしもちろん、それは現在おこなわれているような、ジャニー喜多川による性的虐待(刑法上の犯罪でもある)に対する批判や抗議などではなく、「同性愛者」としてのジャニー喜多川を揶揄する内容であり、揶揄をおこなっていた芸能人の単なる同性愛者に対する差別意識の開陳以上のものではなかった。しかし、その揶揄をおこなっていた人物が典拠としていたのが、北公次の『光GENJIへ―元フォーリーブス北公次の禁断の半生記』(データハウス)である。Amazonの古本の値段は全く信用ができないが、今見ていると数は出ているのだが軒並み二万円以上の値段がついている。この本は現在は主に「元AV監督」として有名になっている村西とおるが、「ジャニーズ事務所」と対立していた成り行きから北公次に書かせたもので、また和歌山県の田辺市が舞台になっているということもあり、「紀州」としての中上健次や「大逆事件」などの〈文学的関心〉からも読んでみようと思い、10年ほど前に古本屋で数百円で購入した。内容としては、ジャニー喜多川による北公次への性的虐待を含む、北公次の半生記ともなっており、田辺市から上京してジャニー喜多川との出会い、「アイドル」となっていく過程が書かれている。本の内容を要約する意味はないと思うので書かないが、愛憎というか単純な糾弾とは言えない〈複雑〉なものとして読むこともできる。あとから知ったのだが、ジャニー喜多川はアジア・太平洋戦争中は勝浦町に疎開していたようで、和歌山と強いつながり(人脈)があったのだろうか? また、ジャニー喜多川は朝鮮戦争に「米軍」として従軍しているというが、この問題も恐らく考えなければならないことだと思う。

 ともかくそのような関心だけで読んだわけで、こだわってジャニー喜多川について調べたわけではない。あとは友人から勧められた、藤島ジュリー景子の父に当たる藤島泰輔の『天皇・青年・死 三島由紀夫をめぐって』(日本教文社)を買ったくらいである。藤島泰輔は上皇明仁の「御学友」であり、学校から言えば三島由紀夫の後輩ということになろう。ジャニー喜多川、ひいては一般的には「ジャニーズ事務所」と呼ばれる組織の問題は、勿論「性的虐待」、「性的搾取」という犯罪の側面から糾弾されなければいけないのは当然だとしても、「紀州」の問題として、また天皇制の問題からも解明しなければならないという思いを、最近はさらに強くしている。ジャニー喜多川の犯罪行為に対する糾弾は見えやすいが、それは同時に、「ジャニーズ事務所」という組織と「アイドル」の問題は、天皇制や資本主義的搾取、排除と差別の問題、中上健次や三島由紀夫の文学的な問題などからもアプローチされるべき事柄だと思う。そうしないと構造が見えてこない。芸能とヤクザの問題などもここには関係するだろう。これは多分に文学的エクリチュールの次元においても分析されなければならない問題である。ただ僕は北公次の著書を読んだだけで、それ以後継続的に何かを調べたわけではないので、現在はこのくらいの見解しかない。

 ただし、今巻き起こっているジャニー喜多川への糾弾と大手企業の「ジャニーズ離れ」や「自粛」、あるいは「自己批判」は不誠実なものだと言わざるを得ない。冒頭でも書いたように北公次や、またその他の所属「アイドル」からの告発も40年前からあったように、本当はみんな知っていたことなのである。そのような性的搾取の上に「アイドル」が成り立っていたことも、スポンサーは少なくとも知らなかったとは言えないだろう。それが〈表沙汰〉にならなかったのは、何も「ジャニーズ事務所」の力だけではなく、それが持ちつ持たれつの関係であったからだ。スポンサーもマスメディアも持ちつ持たれつで隠蔽したのであり、「知らなかった」とか「考えが甘かった」、「その頃はそれが犯罪という認識がなかった」というのは嘘で、ようは持ちつ持たれつの関係が壊せなかった、というだけのことで、そこには社会正義とか人権とか、そういうものはおそらく何も介在していない。それらはジャニー喜多川が死んだから明るみになっただけで、人権や被害者救済のために企業は態度表明をしているのではなく、単純に現在の資本主義の規範であるポリティカルコレクトネスとコンプライアンスに違反すると市場から締め出されてしまうため、ご都合主義的に謝罪や「ジャニーズ離れ」を表明しているに過ぎない。そしてこれこそがジャニー喜多川の問題を逆に隠ぺいするのではないか。要は責任を取るのではなく、市場からの締め出しを防ぐための画策であり、企業の自己防衛であり、「ジャニーズ事務所」の対応もそれに準じるものだろう。

 これは現在における「当事者性」や「ケア」という概念を作り上げてきた議論が、かつての〈加害者〉や〈被害者〉と呼ばれる一方向性の関係を複雑化し、人権の尊重と擁護を複雑なプロセスのもとで考えられるようにしたことの一方で、特に「ケア」などの概念が、資本主義的なマーケティングと重ねられてしまう問題なのではないだろうか。本来は「当事者性」や「ケア」の理論の次元は、〈被害者〉や〈加害者〉というそれまでの一方向性の責任関係の問題ではなく、両者の非対称性、それは簡単に責任を取ることはできない、むしろ責任は負いきれないものとしてしか現れないという問題提起と、両者の非対称性がいかなる関係性なのか(時には「共犯」であることもあるだろう)を考え抜くための理論なのだと思うが、それが資本主義的な経営やマーケティングの自由主義的公正さ、それは競争の公正さともいえる、に横領されていると見るべきだろう。たとえば去年、性的少数者の「カミングアウト」という行為遂行性を、ツイッターで花王が「告白」のレベルで横領し、企業に益する資本としての消費者の〈声〉として集めようとした行為も同じである。

 ワイドショーなどでも「ジャニーズ事務所」は社名を変えなければやっていけないなどと、コメンテーターがいらぬお世話を焼いているが、これも企業存続や資本主義のルールを守れと言っているだけで、〈被害者〉や「当事者」のことは考えていない。何か、そういう資本主義のルールをうまく使いこなす行為がクールな態度だというレベルでしか、話していないように思う。最近のワイドショーのコメンテーターは、〈経営者〉のように、ビジネスの指南役のような意見ばかりを言うので、本当にどうしようもない。でもこの経済が回ればよい、資本主義のルールが守られていればよい、という態度は、かつての持ちつ持たれつの関係の中で何の責任も負わなかった「ジャニーズ事務所」とスポンサー企業、そして芸能界の関係と何も変わりがないものだろう。

 このような資本主義的な〈啓蒙〉によって払拭されていく「ジャニーズ事務所」という資本主義化(近代化)されざる封建遺制の問題は、さらなる無責任の追認になりかねない。資本主義のクリーンさでジャニー喜多川というフェティッシュを消し去ったからといって、それは責任でも何でもない。そもそも資本主義は〈クリーン〉なのか?また日本(人)は、最大のフェティッシュである天皇(制)と、ジャニー喜多川とその支援者たちと同じように、常に持ちつ持たれつで生きているわけなのだ。結局これも同じ問題なのではないか。そのためにも、ここには資本主義的な〈啓蒙〉から逃れてしまうような、芸能と天皇、差別や地域性の問題などがあるはずであり、文学的なエクリチュールの側面から考えなければならないと思うのである。