「プチット・マドレーヌ」は越えたので許してほしい

読んだ本の感想を主に書きますが、日記のようでもある。

『福田村事件』を観に行く

2023年11月22日 | アート・文化
 仕事が早く終わったので、アップリンク吉祥寺で『福田村事件』を観てきた。


 先日の「太陽肛門スパパーン「放送禁止歌」祭り Vol.1@代官山UNIT」の「討議」の部にて、映画『福田村事件』の脚本を担当した荒井晴彦を中心として、「関東大震災」をめぐる「朝鮮人、中国人及び社会主義者の虐殺」の問題が議論され、そこからイスラエルのパレスチナ国への、主にGAZA地区でおこなわれているイスラエルによる「虐殺」の問題が話題に上っていた。僕も話題になっている映画であることは知っていたのだが、同作をまだ恥ずかしながら観ておらず、「討議」の内容を反芻する上でも必要と思い、早速観てきたのだ。内容としては非常に「情動的」な映画だという印象であった。現在東京都の都知事である小池百合子は、所謂関東大震災時における、主に「朝鮮人」への組織的虐殺行為を否認するという、歴史修正主義的政治姿勢を見せ、しかもこの政治的姿勢はそれを支持する人々によっても広く共有されてしまっているが、『福田村事件』は、そのような修正主義的な記憶・記録の抹消行為を批判する映画として見ることもできる。

 先日の「討議」では、同作への批判的な意見がいくつか紹介されていた。例えば、「フィクション」が盛り込まれすぎている、というものである。確かに「事件」を映画として構成する時、そして内容を二時間ほどの時間にまとめるためには、内容の「圧縮」のために「フィクション」にして象徴的な行為の中で観客に「事件」を理解させねばならない。その際に、「史実」の実証的詳細は捨象される可能性があり、現代の価値観や理解の規範に則った形で物語化されてしまう危険は常にあるといえる。それに対して「討議」では、「フィクション」とすることでその危険をおかしてまで、「事件」の「内容」を伝えねばならなかったという意図が語られており、そこには脚本・企画を担った荒井の使命感のようなものがあるのだろうというのは理解できた。物語内容や登場人物の類型化やキャラ化自体は、先ほど書いたような単純化の危険はあるのだが、その構成や操作がアレゴリーとして機能するのであれば、歴史修正主義者たちが否認しようとする〈事件=出来事=差異〉の側面を強く主張することはできる。作品に登場する、「朝鮮人」(差別語としての「鮮人」)、同じく差別語としての「支那人」、そして「部落差別」(差別語としての「えた」)は、その歴史における「出来事」の側面を際立たせるものである。この場合の「フィクション」や「アレゴリー」はそのような修正主義に対する暴力的な介入となり得るのだ。

 ただし、最初に「情動的」な映画だといったが、「討議」での絓秀実は重要な発言をしていた。同作の重要な場面で「水平社宣言」が朗読される場面があるのだが、絓はそれに「感動」してしまったが、そこで「感動」してしまって、「それでいいのだろうか」と、かなり留保をつけながら批判的に応答したのである。これを僕なりに解釈するならば、「フィクション」や「アレゴリー」による「出来事」の「情動」が、ともすると〈抒情〉となっているのではないか、という懸念だろう。その懸念は、映像に関して全くの素人である僕がいうのもなんであるが、映像の色合いや、100年前を描くというノスタルジーを感じさせるシーンやカットに感じられる気がする。あと、「田舎」の描き方には違和感を感じた。「田舎」は同作が描くような、あんなにも「意味」がある場所ではなく、もっと〈どうしようもない〉ものだと思う。もっと〈即物的〉である。そこに〈抒情〉は入り込んでいるのかもしれない。

 話は変わるが、かつて『東京朝日新聞』で「関東大震災」前後の新聞記事を読んだことがあった。これ自体は大きな図書館に行けば縮刷版で誰でも読める。1923年9月1日の震災による印刷所の被災で新聞が印刷不可能となり、翌日からは手書きのガリ版の紙面が始まる。これは実証的な検証ではないが、震災以降の紙面を通読していくと、震災が起こってからの早い段階では、新聞も行政も暴動や流言飛語を戒める記事や布告を早い段階で出しているのだが、時間がたつにつれて「((朝)鮮人」が武器を持って徘徊し始めているなどが記事として紙面に載り始める、という印象を得た。つまり、時間がたつにつれて人々は冷静になるわけではなく、むしろ時間経過によって流言飛語が力を増し、差別されている存在は、人々が抱くその恐怖心から「虐殺」という形で排除され始めるのだ。これは注意して考えておくべき問題だと思われる(【加筆】こうは書いたが、例えば『関東大震災と朝鮮人 現代史資料』(みすず書房)を読むだけでも、早い時期から地方新聞などに「朝鮮人」に対する流言蜚語はあふれているわけで、「早い段階」でも冷静でないことは判明する)。震災という破壊から秩序を回復させようとするプロセスこそ危険なのである。その秩序を回復させようというマジョリティの欲望が、「朝鮮人」や「被差別部落民」、「社会主義者」を排除しようとするのだ。これは「ショックドクトリン」というものにかなり近いことだと考えられる。「秩序」を維持し回復しようとする時、暴力は発露する。これは現在のイスラエルによる虐殺行為でもいえることだろう。そういう意味ではさらに虐殺行為は昂じる可能性があるのだ。

 僕は間接的・直接的に「阪神淡路大震災」と「東日本大震災」を経験しているが、その時も流言飛語の類は流れていた、と記憶する。よく日本では大災害時に「暴動」が起きない、ということがまことしやかに言われているが、そんなことはない。「秩序」を回復しようとする時、それはつねに起こり得るし、起こっているのである。

「太陽肛門スパパーン「放送禁止歌」祭り Vol.1@代官山UNIT」に行ってきた

2023年11月19日 | アート・文化
 太陽肛門スパパーンの「「放送禁止歌」祭り」に行ってきた。11月18日と19日の二日通しであったのだが、18日は所用で東京を離れていたので、19日のみの参加となった。
トリプルファイヤーや小室等の「放送禁止歌」の演奏・歌が素晴らしかった。帰りにCD(+「放送禁止歌」の先行シングル)を購入し、資金難で制作が中断しているLP「放送禁止歌」を応援するために、些少ではあるがカンパもしてきた。


 この「祭り」には「討議」の部もあったのだが、そこでは「放送禁止」をめぐる「自粛」や「表現の自由(規制)」の問題が話し合われた。その討議を聴きながら、僕は本来表現というものは、〈本質的に言ってはいけない言葉や表現はなく、また、もともとあらかじめ言っても良い言葉や許された表現もない〉ものだと考えていた。アプリオリに禁止されていたり、また許されているような表現はなく、そこでは行為遂行的な「賭け」の次元で表現するしかなく、それ故、一度表現されてしまった言葉や表現は、議論されたり検討されたりしながら、しかしその出てしまった言葉や表現は、最早取り返しが利かないという意味で、即ち存在してしまったという意味で、何らかの形で「肯定」あるいは「赦される」しかないものだと思っている。ただしこの「肯定」や「赦し」は超越的な存在や権力が判断を下すものではないし、恣意的に個人が下せる判断というものではない。ただそれが表現されてしまったという意味での存在は、「肯定」や「赦し」という次元でしか検討ができないという意味である。

 悪い意味での「ポリコレ」や「コンプライアンス」は、この行為遂行的で「賭け」の部分である表現の危うさや暴力性を、あらかじめ規制して「暴力」とならないように抑圧する。それこそが「正しさ」になるというのだ。だが、言葉や表現の行為遂行性を規制して、言葉の暴力性を逐次規制していけば、言葉の「暴力」はなくなるかといえば、そうではない。むしろ、言葉や表現の行為遂行性を毀損し「賭け」の次元をなくしてしまうと、言葉の力は失われ、超越的な権力者の言語や表現に抵抗できなくなってしまい、むしろ、そのような超越的な言語の「暴力」に直接的にさらされてしまうだろう。そうならないためにも、言葉や表現の行為遂行的で「賭け」である次元の「暴力」は放棄してはならないのである。それを、安易なリベラリズムと、安易な正しさと、安易な暴力性の排除によって「清潔」な環境を手に入れようとすると、超越的な権力者の言葉や表現の「暴力」に抵抗できなくなり、屈服し続けることになる。

 今年の夏、二十年以上以前に芸能界を引退した上岡龍太郎が亡くなったが、上岡はかつてのトーク番組で、上岡がまだ芸能界に入ったばかりの10代後半の時、当時の漫才の大御所の葬式に行った際の話をしていた。その漫才の大御所は犬のブリーダー詐欺のために多額の借金を抱えてしまい、それが原因で海に身を投げて自死してしまったのだ。その大御所漫才師の不幸な死を弔う葬式の場で、上岡は他の芸人仲間が「これがほんまの〈犬死や〉」といって笑い合っている情景を目の当たりにしたという。そして上岡は「こんな〈やさしい〉世界からは絶対に離れないでおこう」と誓ったというのである。今の社会ならば「不謹慎」な情景なのかもしれない。だが上岡がこの「犬死」という言葉と表現に〈やさしさ〉を感じたのは、言葉と表現の行為遂行的な「賭け」の次元を考える時、理解できるような気がするのだ。そんな「絶対に離れないでおこう」と思った芸能界を、上岡は2000年に引退している。テレビからそういう表現や言葉の行為遂行的次元(「やさしさ」)が失われていく時期と重なっているのかもしれない。「暴力」から身を守るための「暴力」の次元は、言葉や表現の芸術の根本のはずなのである。

「人道的」という非人道的言葉

2023年11月12日 | 日記・エッセイ・コラム
 ネットや新聞の記事や、テレビでも目にすることがあるが、「人道的」という言葉が大変胡散臭く、また不誠実な形で使われることが多い。少し前は「北朝鮮」への「人道支援」という言葉でもよく耳に入った言葉だが、今回のイスラエルの一方的なパレスチナ国への虐殺と破壊においても「人道的停戦」という不誠実な言葉が使われている。なぜこの言葉が不誠実かというと、この「人道的」という修飾語によって、イスラエルが主体的におこなっている虐殺や破壊が免罪されているからである。例えば「人道的停戦」を求める場合、その言葉には理由はともかく、「人道的」には人命が第一なので停戦を要求するという意味があり、だがそれはイスラエルの軍事行動を非難するのではなく、ひとまず理由はともあれ人命が失われる行為を止めましょうという、そこでおこなわれているそれこそイスラエルの人道に反する戦闘行為の主体を曖昧にして、行為の当否を留保する効果もあるのだ。この「人道的」という言葉こそ、イスラエルの人道に反した戦闘行為を許してしまっているのである。勿論、こうやってイスラエルを免罪することで、そのイスラエルの同盟国もイスラエルとの関係を顧慮することなくパレスチナ国のガザ地区を「人道的」に救援しようという意図があるのかもしれないが、しかし「人道的」という言葉でイスラエルを免罪し続けている、ヨーロッパ・アメリカ中心主義こそ非人道的な行為の根源であり原因だというべきである。

 このような「人道的」という理念的かつ超越的な修飾語は、経験的次元におけるイスラエルという行為の主体と、本来の「人道」とという倫理の次元を逆説的に切断してしまい、イスラエルの虐殺・破壊行為と倫理との結びつきを曖昧にしてしまう。この「人道的」という言葉の使用は大変不誠実である。本来、「第二次世界大戦」で問題となった「人道に対する罪」、「人類に対する罪」、「平和に対する罪」などの法的な概念は、人間の行為が人間の実存の根源そのものを破壊し得るということを法の次元で問題化したものであり、人類や正義という概念や存在に対する「罪」の様態を明らかにするために「発明」(ジャック・デリダ)された言葉であったはずだ。それ故、これ等「人道」をめぐる「罪」の概念の「発明」は、新たな人類の倫理的な次元を拡張したはずなのだが、昨今使用される「人道的」という言葉は、逆にこの倫理的な次元を曖昧にして閉ざしてしまっている。かつてナチが「ユダヤ人」に対しておこなった、人間の実存そのものを破壊しようとした「絶滅」という暴力を、倫理的な次元で「罪」として問題化し得た「人道」という言葉を悪用することで、ヨーロッパやアメリカはイスラエルが今現在おこなっているパレスチナへの、人間の実存そのものを破壊し得る暴力を免罪させている。この不正こそ問われるべきだろう。

 そして、この「人道的」という、逆説的に倫理を毀損する言葉は、形や言葉を変えて、資本主義の日常でも使用されていることに注意する必要がある。

「私人逮捕」という生政治的物語

2023年11月09日 | 日記・エッセイ・コラム
 「私人逮捕」系youtuberのYouTubeチャンネルが複数あり、それがネットニュースで問題になっていることがあるが、僕は当初なにがしかの社会問題を告発する、ジャーナリスト系の活動をしているyoutuberなのかと思っていた。もちろんそのようなジャーナリスト的活動をしている、あるいは社会問題でありながらマスメディアでは光を当てられない問題に取り組んでいるyoutuberもいるとは思う。だが、ここでいう「私人逮捕」系のyoutuberはそれとは違うものとして取り上げてみたい。「私人逮捕」は警察官ではない私人でも、現行犯において逮捕権を行使でき、必要に応じて常識の範囲内で容疑者の制圧もできるようだ。おそらくこの逮捕と制圧の「過激」さがチャンネルの人気を高め、また「犯罪(者)」に「正義」の制裁を加えられる、という側面でも「悪いことではない」「良いこと」として、視聴者はその過激なチャンネル内容にも拘らず、良心の呵責を否認して、あるいは免罪されて視聴することができるのであろう。

 youtubeでいくつか「私人逮捕」系のチャンネルを視聴してみたが、「私人逮捕」という「エンターテインメント」のコンテンツは、現在の新自由主義社会の弱肉強食の秩序と、その秩序で必然的に採用されるテクノロジーと経済格差を媒介とした人間の管理コントロール、即ちフーコーのいう所の生権力による生政治的な統治の問題が色濃く出ているものに見える。youtuberが現行犯の「私人逮捕」を動画で撮影し、それが配信されるという形式は、正義が行使されるという現前性が視聴者に強い充実感を与えているのだと予想できる。ただ問題は、その動画は「基本的人権」を考慮に入れて視聴するならば、かなり人権侵害的な問題を含んでいるといわざるを得ないということだ。この場合の人権侵害が意味するのは「容疑者」の人権をまずは指す。こういう主張をすると、「被害者」は犯罪によって人権を侵害しているという議論をしたがる人がいるのだが、その言い分は感情的にはわからなくはないが、「容疑者」の人権が守られない状態は、必ず「被害者」の人権侵害にもつながるものであり、それは司法手続きをめぐる民主主義と人権を毀損することになるということである。そのような状況は「被害者」にとってもマイナスにしかならない、という視点が必要なのだ。

 僕が見たチャンネルの多くは、そのyoutuberがかつて自分自身が法を破ったことがある、あるいはそのような「犯罪」と関わった経験があるものが多く、改心(?)を経て、社会正義のために行動をしている、というようになっている、らしい。あるいはそのように解釈できるようにチャンネルが作られている。所謂、文芸批評や文学理論が明らかにしてきたような、物語構造上の〈探偵=犯人〉の構造がここにはあるし、フーコー的な意味で、法こそが法の侵犯を生み出す源泉という意味では〈法=侵犯〉の構造自体をチャンネルが体現しているのだ。最も侵犯や社会の周縁の危ない部分にいる属性の存在こそが、そのような「犯罪」に「私人」として関わることができる。探偵小説のライブ中継版こそ「私人逮捕」系チャンネルといえるのかもしれない。アニメの『PSYCHO-PASS』も、このフーコーの図式を借りてきていて、「犯罪者の脳」が社会の犯罪を未然に防ぐ管理コントロールのAIとして活躍していた。権力は「犯罪(者)」こそが最も法の代補たり得ることをよく知っているということだろう。

 そのような「私人」は自身のグレーさと重ねるように、法律のグレーな部分を使って「容疑者」(もちろん「私人逮捕」された人物が、「容疑者」ですらないことは当然あり得る)を逮捕するわけだが、そこで問題なのは、「私人逮捕」される「容疑者」の肖像権も侵害されており、黙秘権も侵されているということだ。本来「容疑者」も「被告」も自分に不利になるような証言を強制されることがあってはならない。それは例え現行犯であろうと、その場で明らかな犯行に関わる決定的証拠が見いだされようとも守られなければならない原則である。だが、多くのチャンネルではそれが守られておらず、「容疑者」の顔や表情は晒されており、そこでは「容疑者」が不利になるような証言を、正義のためと称して、youtuberの協力者たち複数人で威圧や暴力によって引き出そうとする場面さえある。これは憲法における基本的人権の尊重に抵触する違法行為だといわなければならないだろう。司法の根幹を揺るがす行為で、これは「容疑者」のみならず「被害者」の権利を今後掘り崩してしまう問題となることが予想される。

 このような人権侵害が可能なのは、「私人逮捕」系チャンネルが正義を行使しているかのような現前性を視聴者に与えており、視聴者はその社会正義に与しているような錯覚によって、「容疑者」への人権侵害の意識を免罪させられているからだろう。そしてそこには警察が対処できない揉め事や「被害者」を「私人」が代わりに裁いてくれるという意識も働いている。いわば警察権力の代補として「私人逮捕」系のyoutuberは機能しているということになる。警察が管理し切れない部分を「私人」が代わりに管理しコントロールしてくれるということだ。要は警察権力の「用心棒」として働いているともいえる。かつて法を破り、グレーゾーンでの生き方に通じている「私人」こそ、やはり最も「法」に近いという構図が、ここにあるということである。僕の感覚では、若い時に法を破り、あるいはやむを得ない事情も含め社会の周縁で生きなければならなかった存在が、警察や権力という暴力装置の代補となるのが不思議であった。そのような体制的な秩序を憎み、それに対してアクションを起こしてきた存在は、むしろマイノリティの問題を考え、権力が排除する存在の側で思考するとばかり思っていたが、そうではなく法を代補し、権力の管理コントールを助ける「用心棒」としての「私人」として、「エンターテインメント」のコンテンツで金儲けをする。しかも「私人」として警察が入り込めない民事的な部分にまで入り込み、権力を浸透させる役割を担っていくというのは、〈悪質〉だといわなければならない。本来警察権力が踏み込めない場所にまで、暴力を介入させていく。しかも「エンターテインメント」として。

 このような民事介入暴力(刑事を含む「私人逮捕」もここに含める)はかつてのヤクザや暴力団のそれであり、暴対法などでそれが暴力団では難しくなっていった時、グレーな「私人」たちがそのような民事的(かつ刑事的)なところにまで、「私人逮捕」という形で介入するようになった。これはかつてのヤクザや暴力団の肩代わりをしている、ということになるのではないだろうか。しかもこれらは、すべて権力側の管理コントロールと、人々を生政治的に統治するという暴力を代補し手助けるものとなってしまっている。先に、このような「私人逮捕」系のチャンネルによって「容疑者」に人権だけではなく、「被害者」の人権も毀損する可能性があるというのはここである。つまり、このような警察が介入できないところにまで「逮捕」というコントロールの暴力を介入させられるということは、本来「被害者」は憲法的な意味で基本的人権を守られなければならないにも拘らず、「被害者」の人権がこの「私人」の暴力とコントロールの影響下に置かれてしまうということである。暴対法以前は、警察が対応してくれない揉め事を暴力団を利用して解決したことがあったわけだが、その時点で「被害者」は私的暴力の管理下に置かれるということである。それは「被害者」の人権が「私人」によって支配されてしまうということに行きつく。

 「私人逮捕」系のいくつかのチャンネルは、そういう意味で結局、体制側の権力の補強にしかならず、しかも、警察が介入できない(しない)部分にまで管理コントロールの暴力を浸透させ、人々を管理する方向に導くという意味では、非常に〈悪質〉である。しかもそれが世のため人のため、正義のためにやっているという意味で、生政治的な側面を多分に持っている。しかも暴力による管理コントロールを批判しにくい形で巧妙に行使しているのだ。これは新自由主義下でのグローバル企業の資本家たち経営者たちの身振りと非常によく似ている部分である。コンプライアンスと法遵守という名の経済的暴力による支配。そのミクロのバージョンが「私人逮捕」系チャンネルによる生政治であり、それは体制側の生権力を代補する。警察も「私人逮捕」系のyoutuberに強く介入しないのは、警察の非公式「用心棒」となっているため、今のところ使い勝手がいいからである。しかし恐らくyoutuberたちが体制の邪魔になって管理コントロールの障害になりはじめれば、いずれ排除される運命にあろう。

 ヘーゲルによれば、法は「私」を揚棄する、「私」と「公」を媒介するものであったはずだ。しかし今の新自由主義的世界はこの「私」と「公」が壊されてしまい(資本によって脱構築され)、「私」が直接的に暴力にさらされる状況を作っている。「私人逮捕」はそのような「私」の状況であり、そのような「私」を管理コントロールする剥き出しの権力の発露として現れている。そういう意味では新自由主義的生権力がおこなう統治とは、まさしく「リンチ」そのものだといえるのだろう。

SNS上であった「元号」の使用をめぐる議論について

2023年11月08日 | 日記・エッセイ・コラム
 熊本で「外国出身者」から、行政文書での「元号」の使用が理解しづらく、西暦やQRコードその他の代替的記載によって、「元号」に親しまない人にも年号や暦の把握のための配慮があってしかるべき、という意見があったと、SNSのニュースで流れていた。確かに「元号」と西暦の対応関係は慣れていないと難しい。ただ、こういうニュースにしばしば起こり得る「外国出身者」への差別から、その内容は「誤解」されて伝わっていた、ということになっている。「外国人」は日本古来(?)の習慣に口を出すな、というものである。これは「誤解」というよりも、意図的な差別から起こったニュースの意図的な誤読というべきだろう。そのような「誤解」も含んだ形で、SNS上では「元号」の文書での使用の賛否が議論されていた。しかし、その議論の大勢は「元号」の使用が便利か不便かという所に焦点が当たっていたように見える。「元号」から西暦への換算は確かに面倒くさいことは無きにしも非ずだが、近代以降の「元号」と西暦の換算は、僕自身は一瞬でできる。これについては、ほぼ慣れの問題であり(近代以降の一世一元の法則に依存した慣れでほめられたものではないが)、もっとわかりにくいことは他にたくさんある、という程度の問題といえなくもない。

 僕は意外であったのだが、SNS上には研究者なども「元号」は不便だという主張をし、西暦の方がグローバルに共通しているので、便利だという意見を主に述べていたことであった。便利か不便かの問題は、それは慣れや換算するときの方法が便利になれば解消してしまうわけだが、「元号」の問題は、何よりも天皇制の問題から考えなければならい「問題」だ、といわなければならないはずである。SNS上では、なぜか主に便利か不便かが議論されているが、そうではなく文書上の「元号」での表記を廃止し西暦にするならば、それは天皇制自体も廃止するという問題と連動させなければならないし、連動しているはずなのだ。SNSで議論している人たちは、それが連動していることを意図的(戦略的)に隠しているのか、それとも無自覚なのか。僕は大方は後者ではないかと疑っている。

 日本が現在でも採用している「元号」は、もともとは中国大陸の「帝国」の「暦」制度の真似であり、皇帝が暦(時間)を支配し、臣民たちを統治するという発想から現われたはずのもので、それを天皇は模倣している。これは日本が近代化した時も、天皇制に引き継がれ、日本国臣民を時間の上でも統治しているという形式が維持されたのだろう。近代以前に中国大陸の「帝国」と、時の日本の政権が貿易をする時は、「冊封」といって「暦」を与えられて、「皇帝」への臣下の礼を形式的にとっていたと日本史で習ったが、その意味では「暦」や「元号」は「皇帝」による支配の象徴である。ということは現在でも日本で続いている「元号」は「日本国臣民」への統治が、いまだ天皇制下でなされているということの象徴だと見做さなければならない。つまり、現代の日本は近代国民国家として建前上は民主主義を標榜しているが、実際は「元号」による天皇の時間支配が継続しており、「日本国臣民」はそれを受け入れているということになるだろう。これは身分制、族称制度の容認であり、確かにだからこそ「外国出身者」が「元号」に言及することを「日本国臣民」は非常に嫌悪しているといえるのである。

 文書の「元号」の使用を問う場合は、それが身分制や族称制度という差別的構造の容認につながる、あるいはそのような差別的時間概念と、その時間概念による天皇の臣民への統治を容認することにつながる、ということがまずは問われなければならない。そしてだからこそ、「外国出身者」の「元号」への発言が、マスメディアによっても意図的に、差別的に「誤解」され誤読されて報道されるのである。便利か不便なのかということはそもそも問題ではない。「元号」とは民主主義の問題なのだ。

 ここで話はずれるが、歴史的な事象を理解する場合、「元号」による理解という側面は確かにある。それはそのような時間概念の中で出来事が生起したという、「日本」の「歴史」を問う場合は、特にそうである。そういう問い方をするときに「元号」に着目することはあり得る。しかしそれは、「元号」による天皇制による支配と統治の時間概念と、それによる差別の構造を容認していくということとは違う。それと「西暦」ならばいいのか、という問いは確かにある。「西暦」が中立的だとは言えない。それは西洋的な形而上学の歴史、神と現前性による支配の構造と密接に結びついている訳であり、それは批判されるべきものだろう。「元号」と「西暦」を共に批判していく立場や考え方はできると思っている。しかし、あまりその両方を批判している議論を見たことがない。するべきだろう。