仕事が早く終わったので、アップリンク吉祥寺で『福田村事件』を観てきた。
先日の「太陽肛門スパパーン「放送禁止歌」祭り Vol.1@代官山UNIT」の「討議」の部にて、映画『福田村事件』の脚本を担当した荒井晴彦を中心として、「関東大震災」をめぐる「朝鮮人、中国人及び社会主義者の虐殺」の問題が議論され、そこからイスラエルのパレスチナ国への、主にGAZA地区でおこなわれているイスラエルによる「虐殺」の問題が話題に上っていた。僕も話題になっている映画であることは知っていたのだが、同作をまだ恥ずかしながら観ておらず、「討議」の内容を反芻する上でも必要と思い、早速観てきたのだ。内容としては非常に「情動的」な映画だという印象であった。現在東京都の都知事である小池百合子は、所謂関東大震災時における、主に「朝鮮人」への組織的虐殺行為を否認するという、歴史修正主義的政治姿勢を見せ、しかもこの政治的姿勢はそれを支持する人々によっても広く共有されてしまっているが、『福田村事件』は、そのような修正主義的な記憶・記録の抹消行為を批判する映画として見ることもできる。
先日の「討議」では、同作への批判的な意見がいくつか紹介されていた。例えば、「フィクション」が盛り込まれすぎている、というものである。確かに「事件」を映画として構成する時、そして内容を二時間ほどの時間にまとめるためには、内容の「圧縮」のために「フィクション」にして象徴的な行為の中で観客に「事件」を理解させねばならない。その際に、「史実」の実証的詳細は捨象される可能性があり、現代の価値観や理解の規範に則った形で物語化されてしまう危険は常にあるといえる。それに対して「討議」では、「フィクション」とすることでその危険をおかしてまで、「事件」の「内容」を伝えねばならなかったという意図が語られており、そこには脚本・企画を担った荒井の使命感のようなものがあるのだろうというのは理解できた。物語内容や登場人物の類型化やキャラ化自体は、先ほど書いたような単純化の危険はあるのだが、その構成や操作がアレゴリーとして機能するのであれば、歴史修正主義者たちが否認しようとする〈事件=出来事=差異〉の側面を強く主張することはできる。作品に登場する、「朝鮮人」(差別語としての「鮮人」)、同じく差別語としての「支那人」、そして「部落差別」(差別語としての「えた」)は、その歴史における「出来事」の側面を際立たせるものである。この場合の「フィクション」や「アレゴリー」はそのような修正主義に対する暴力的な介入となり得るのだ。
ただし、最初に「情動的」な映画だといったが、「討議」での絓秀実は重要な発言をしていた。同作の重要な場面で「水平社宣言」が朗読される場面があるのだが、絓はそれに「感動」してしまったが、そこで「感動」してしまって、「それでいいのだろうか」と、かなり留保をつけながら批判的に応答したのである。これを僕なりに解釈するならば、「フィクション」や「アレゴリー」による「出来事」の「情動」が、ともすると〈抒情〉となっているのではないか、という懸念だろう。その懸念は、映像に関して全くの素人である僕がいうのもなんであるが、映像の色合いや、100年前を描くというノスタルジーを感じさせるシーンやカットに感じられる気がする。あと、「田舎」の描き方には違和感を感じた。「田舎」は同作が描くような、あんなにも「意味」がある場所ではなく、もっと〈どうしようもない〉ものだと思う。もっと〈即物的〉である。そこに〈抒情〉は入り込んでいるのかもしれない。
話は変わるが、かつて『東京朝日新聞』で「関東大震災」前後の新聞記事を読んだことがあった。これ自体は大きな図書館に行けば縮刷版で誰でも読める。1923年9月1日の震災による印刷所の被災で新聞が印刷不可能となり、翌日からは手書きのガリ版の紙面が始まる。これは実証的な検証ではないが、震災以降の紙面を通読していくと、震災が起こってからの早い段階では、新聞も行政も暴動や流言飛語を戒める記事や布告を早い段階で出しているのだが、時間がたつにつれて「((朝)鮮人」が武器を持って徘徊し始めているなどが記事として紙面に載り始める、という印象を得た。つまり、時間がたつにつれて人々は冷静になるわけではなく、むしろ時間経過によって流言飛語が力を増し、差別されている存在は、人々が抱くその恐怖心から「虐殺」という形で排除され始めるのだ。これは注意して考えておくべき問題だと思われる(【加筆】こうは書いたが、例えば『関東大震災と朝鮮人 現代史資料』(みすず書房)を読むだけでも、早い時期から地方新聞などに「朝鮮人」に対する流言蜚語はあふれているわけで、「早い段階」でも冷静でないことは判明する)。震災という破壊から秩序を回復させようとするプロセスこそ危険なのである。その秩序を回復させようというマジョリティの欲望が、「朝鮮人」や「被差別部落民」、「社会主義者」を排除しようとするのだ。これは「ショックドクトリン」というものにかなり近いことだと考えられる。「秩序」を維持し回復しようとする時、暴力は発露する。これは現在のイスラエルによる虐殺行為でもいえることだろう。そういう意味ではさらに虐殺行為は昂じる可能性があるのだ。
僕は間接的・直接的に「阪神淡路大震災」と「東日本大震災」を経験しているが、その時も流言飛語の類は流れていた、と記憶する。よく日本では大災害時に「暴動」が起きない、ということがまことしやかに言われているが、そんなことはない。「秩序」を回復しようとする時、それはつねに起こり得るし、起こっているのである。
先日の「太陽肛門スパパーン「放送禁止歌」祭り Vol.1@代官山UNIT」の「討議」の部にて、映画『福田村事件』の脚本を担当した荒井晴彦を中心として、「関東大震災」をめぐる「朝鮮人、中国人及び社会主義者の虐殺」の問題が議論され、そこからイスラエルのパレスチナ国への、主にGAZA地区でおこなわれているイスラエルによる「虐殺」の問題が話題に上っていた。僕も話題になっている映画であることは知っていたのだが、同作をまだ恥ずかしながら観ておらず、「討議」の内容を反芻する上でも必要と思い、早速観てきたのだ。内容としては非常に「情動的」な映画だという印象であった。現在東京都の都知事である小池百合子は、所謂関東大震災時における、主に「朝鮮人」への組織的虐殺行為を否認するという、歴史修正主義的政治姿勢を見せ、しかもこの政治的姿勢はそれを支持する人々によっても広く共有されてしまっているが、『福田村事件』は、そのような修正主義的な記憶・記録の抹消行為を批判する映画として見ることもできる。
先日の「討議」では、同作への批判的な意見がいくつか紹介されていた。例えば、「フィクション」が盛り込まれすぎている、というものである。確かに「事件」を映画として構成する時、そして内容を二時間ほどの時間にまとめるためには、内容の「圧縮」のために「フィクション」にして象徴的な行為の中で観客に「事件」を理解させねばならない。その際に、「史実」の実証的詳細は捨象される可能性があり、現代の価値観や理解の規範に則った形で物語化されてしまう危険は常にあるといえる。それに対して「討議」では、「フィクション」とすることでその危険をおかしてまで、「事件」の「内容」を伝えねばならなかったという意図が語られており、そこには脚本・企画を担った荒井の使命感のようなものがあるのだろうというのは理解できた。物語内容や登場人物の類型化やキャラ化自体は、先ほど書いたような単純化の危険はあるのだが、その構成や操作がアレゴリーとして機能するのであれば、歴史修正主義者たちが否認しようとする〈事件=出来事=差異〉の側面を強く主張することはできる。作品に登場する、「朝鮮人」(差別語としての「鮮人」)、同じく差別語としての「支那人」、そして「部落差別」(差別語としての「えた」)は、その歴史における「出来事」の側面を際立たせるものである。この場合の「フィクション」や「アレゴリー」はそのような修正主義に対する暴力的な介入となり得るのだ。
ただし、最初に「情動的」な映画だといったが、「討議」での絓秀実は重要な発言をしていた。同作の重要な場面で「水平社宣言」が朗読される場面があるのだが、絓はそれに「感動」してしまったが、そこで「感動」してしまって、「それでいいのだろうか」と、かなり留保をつけながら批判的に応答したのである。これを僕なりに解釈するならば、「フィクション」や「アレゴリー」による「出来事」の「情動」が、ともすると〈抒情〉となっているのではないか、という懸念だろう。その懸念は、映像に関して全くの素人である僕がいうのもなんであるが、映像の色合いや、100年前を描くというノスタルジーを感じさせるシーンやカットに感じられる気がする。あと、「田舎」の描き方には違和感を感じた。「田舎」は同作が描くような、あんなにも「意味」がある場所ではなく、もっと〈どうしようもない〉ものだと思う。もっと〈即物的〉である。そこに〈抒情〉は入り込んでいるのかもしれない。
話は変わるが、かつて『東京朝日新聞』で「関東大震災」前後の新聞記事を読んだことがあった。これ自体は大きな図書館に行けば縮刷版で誰でも読める。1923年9月1日の震災による印刷所の被災で新聞が印刷不可能となり、翌日からは手書きのガリ版の紙面が始まる。これは実証的な検証ではないが、震災以降の紙面を通読していくと、震災が起こってからの早い段階では、新聞も行政も暴動や流言飛語を戒める記事や布告を早い段階で出しているのだが、時間がたつにつれて「((朝)鮮人」が武器を持って徘徊し始めているなどが記事として紙面に載り始める、という印象を得た。つまり、時間がたつにつれて人々は冷静になるわけではなく、むしろ時間経過によって流言飛語が力を増し、差別されている存在は、人々が抱くその恐怖心から「虐殺」という形で排除され始めるのだ。これは注意して考えておくべき問題だと思われる(【加筆】こうは書いたが、例えば『関東大震災と朝鮮人 現代史資料』(みすず書房)を読むだけでも、早い時期から地方新聞などに「朝鮮人」に対する流言蜚語はあふれているわけで、「早い段階」でも冷静でないことは判明する)。震災という破壊から秩序を回復させようとするプロセスこそ危険なのである。その秩序を回復させようというマジョリティの欲望が、「朝鮮人」や「被差別部落民」、「社会主義者」を排除しようとするのだ。これは「ショックドクトリン」というものにかなり近いことだと考えられる。「秩序」を維持し回復しようとする時、暴力は発露する。これは現在のイスラエルによる虐殺行為でもいえることだろう。そういう意味ではさらに虐殺行為は昂じる可能性があるのだ。
僕は間接的・直接的に「阪神淡路大震災」と「東日本大震災」を経験しているが、その時も流言飛語の類は流れていた、と記憶する。よく日本では大災害時に「暴動」が起きない、ということがまことしやかに言われているが、そんなことはない。「秩序」を回復しようとする時、それはつねに起こり得るし、起こっているのである。