「プチット・マドレーヌ」は越えたので許してほしい

読んだ本の感想を主に書きますが、日記のようでもある。

10年前に買った北公次『光GENJIへ―元フォーリーブス北公次の禁断の半生記』のことを思い出して

2023年09月29日 | 本と雑誌
 Youtubeで80年代のトーク番組やバラエティ番組の録画を眺めていると、たまたまジャニー喜多川を揶揄している場面に出くわした。しかしもちろん、それは現在おこなわれているような、ジャニー喜多川による性的虐待(刑法上の犯罪でもある)に対する批判や抗議などではなく、「同性愛者」としてのジャニー喜多川を揶揄する内容であり、揶揄をおこなっていた芸能人の単なる同性愛者に対する差別意識の開陳以上のものではなかった。しかし、その揶揄をおこなっていた人物が典拠としていたのが、北公次の『光GENJIへ―元フォーリーブス北公次の禁断の半生記』(データハウス)である。Amazonの古本の値段は全く信用ができないが、今見ていると数は出ているのだが軒並み二万円以上の値段がついている。この本は現在は主に「元AV監督」として有名になっている村西とおるが、「ジャニーズ事務所」と対立していた成り行きから北公次に書かせたもので、また和歌山県の田辺市が舞台になっているということもあり、「紀州」としての中上健次や「大逆事件」などの〈文学的関心〉からも読んでみようと思い、10年ほど前に古本屋で数百円で購入した。内容としては、ジャニー喜多川による北公次への性的虐待を含む、北公次の半生記ともなっており、田辺市から上京してジャニー喜多川との出会い、「アイドル」となっていく過程が書かれている。本の内容を要約する意味はないと思うので書かないが、愛憎というか単純な糾弾とは言えない〈複雑〉なものとして読むこともできる。あとから知ったのだが、ジャニー喜多川はアジア・太平洋戦争中は勝浦町に疎開していたようで、和歌山と強いつながり(人脈)があったのだろうか? また、ジャニー喜多川は朝鮮戦争に「米軍」として従軍しているというが、この問題も恐らく考えなければならないことだと思う。

 ともかくそのような関心だけで読んだわけで、こだわってジャニー喜多川について調べたわけではない。あとは友人から勧められた、藤島ジュリー景子の父に当たる藤島泰輔の『天皇・青年・死 三島由紀夫をめぐって』(日本教文社)を買ったくらいである。藤島泰輔は上皇明仁の「御学友」であり、学校から言えば三島由紀夫の後輩ということになろう。ジャニー喜多川、ひいては一般的には「ジャニーズ事務所」と呼ばれる組織の問題は、勿論「性的虐待」、「性的搾取」という犯罪の側面から糾弾されなければいけないのは当然だとしても、「紀州」の問題として、また天皇制の問題からも解明しなければならないという思いを、最近はさらに強くしている。ジャニー喜多川の犯罪行為に対する糾弾は見えやすいが、それは同時に、「ジャニーズ事務所」という組織と「アイドル」の問題は、天皇制や資本主義的搾取、排除と差別の問題、中上健次や三島由紀夫の文学的な問題などからもアプローチされるべき事柄だと思う。そうしないと構造が見えてこない。芸能とヤクザの問題などもここには関係するだろう。これは多分に文学的エクリチュールの次元においても分析されなければならない問題である。ただ僕は北公次の著書を読んだだけで、それ以後継続的に何かを調べたわけではないので、現在はこのくらいの見解しかない。

 ただし、今巻き起こっているジャニー喜多川への糾弾と大手企業の「ジャニーズ離れ」や「自粛」、あるいは「自己批判」は不誠実なものだと言わざるを得ない。冒頭でも書いたように北公次や、またその他の所属「アイドル」からの告発も40年前からあったように、本当はみんな知っていたことなのである。そのような性的搾取の上に「アイドル」が成り立っていたことも、スポンサーは少なくとも知らなかったとは言えないだろう。それが〈表沙汰〉にならなかったのは、何も「ジャニーズ事務所」の力だけではなく、それが持ちつ持たれつの関係であったからだ。スポンサーもマスメディアも持ちつ持たれつで隠蔽したのであり、「知らなかった」とか「考えが甘かった」、「その頃はそれが犯罪という認識がなかった」というのは嘘で、ようは持ちつ持たれつの関係が壊せなかった、というだけのことで、そこには社会正義とか人権とか、そういうものはおそらく何も介在していない。それらはジャニー喜多川が死んだから明るみになっただけで、人権や被害者救済のために企業は態度表明をしているのではなく、単純に現在の資本主義の規範であるポリティカルコレクトネスとコンプライアンスに違反すると市場から締め出されてしまうため、ご都合主義的に謝罪や「ジャニーズ離れ」を表明しているに過ぎない。そしてこれこそがジャニー喜多川の問題を逆に隠ぺいするのではないか。要は責任を取るのではなく、市場からの締め出しを防ぐための画策であり、企業の自己防衛であり、「ジャニーズ事務所」の対応もそれに準じるものだろう。

 これは現在における「当事者性」や「ケア」という概念を作り上げてきた議論が、かつての〈加害者〉や〈被害者〉と呼ばれる一方向性の関係を複雑化し、人権の尊重と擁護を複雑なプロセスのもとで考えられるようにしたことの一方で、特に「ケア」などの概念が、資本主義的なマーケティングと重ねられてしまう問題なのではないだろうか。本来は「当事者性」や「ケア」の理論の次元は、〈被害者〉や〈加害者〉というそれまでの一方向性の責任関係の問題ではなく、両者の非対称性、それは簡単に責任を取ることはできない、むしろ責任は負いきれないものとしてしか現れないという問題提起と、両者の非対称性がいかなる関係性なのか(時には「共犯」であることもあるだろう)を考え抜くための理論なのだと思うが、それが資本主義的な経営やマーケティングの自由主義的公正さ、それは競争の公正さともいえる、に横領されていると見るべきだろう。たとえば去年、性的少数者の「カミングアウト」という行為遂行性を、ツイッターで花王が「告白」のレベルで横領し、企業に益する資本としての消費者の〈声〉として集めようとした行為も同じである。

 ワイドショーなどでも「ジャニーズ事務所」は社名を変えなければやっていけないなどと、コメンテーターがいらぬお世話を焼いているが、これも企業存続や資本主義のルールを守れと言っているだけで、〈被害者〉や「当事者」のことは考えていない。何か、そういう資本主義のルールをうまく使いこなす行為がクールな態度だというレベルでしか、話していないように思う。最近のワイドショーのコメンテーターは、〈経営者〉のように、ビジネスの指南役のような意見ばかりを言うので、本当にどうしようもない。でもこの経済が回ればよい、資本主義のルールが守られていればよい、という態度は、かつての持ちつ持たれつの関係の中で何の責任も負わなかった「ジャニーズ事務所」とスポンサー企業、そして芸能界の関係と何も変わりがないものだろう。

 このような資本主義的な〈啓蒙〉によって払拭されていく「ジャニーズ事務所」という資本主義化(近代化)されざる封建遺制の問題は、さらなる無責任の追認になりかねない。資本主義のクリーンさでジャニー喜多川というフェティッシュを消し去ったからといって、それは責任でも何でもない。そもそも資本主義は〈クリーン〉なのか?また日本(人)は、最大のフェティッシュである天皇(制)と、ジャニー喜多川とその支援者たちと同じように、常に持ちつ持たれつで生きているわけなのだ。結局これも同じ問題なのではないか。そのためにも、ここには資本主義的な〈啓蒙〉から逃れてしまうような、芸能と天皇、差別や地域性の問題などがあるはずであり、文学的なエクリチュールの側面から考えなければならないと思うのである。

ディルタイをそろそろと読んだ感想(5)

2023年09月22日 | 日記と読書
 最近時間が取れないのもあり、またストレスのたまる出来事もあり、なかなかブログが更新できなかった。あまり気負って書くものでもないわけだが、なかなかまとまった文章にならなかった。

 さて、ディルタイ「精神科学序説Ⅰ」(『ディルタイ全集』第1巻所収)をやっと読了した。ただ全集には「精神科学序説」の「草稿」も収録されており、理解を助けるためにも、これも読んでしまおうと思う。そのため「精神科学序説Ⅱ」は第2巻に所収されているが、これを読むのはもう少し先になりそうだ。「精神科学序説Ⅰ」の後半は哲学の歴史であり、同時に歴史哲学にもなっているような内容である。ディルタイはギリシャ哲学から中世哲学までの哲学史を概括しながら、形而上学がいかにして近代において、「精神科学」と「自然科学」へと分かれていくのかを論じている。まずディルタイは形而上学を特徴づけるのであるが、そこではアリストテレスの『形而上学』に現れる「不動の動者」という二律背反に注目するとわかりやすい。この形而上学に貫かれている問題意識は、有限と無限の問題であり、永遠と生成、運動と静止を二律背反のまま、この世界を構成している根源として理解するというものだ。即ちこの世界には運動があり、生成があり消滅があり、それは有限の時間の内に生起するのであるが、この有限の時間内の生成変化や運動を可能にしている、無時間的で恒常的な根源が存在しているはずだということである。つまり、変化を可能にしている変化しない根源、「不動の動者」という二律背反を思考する法則を発見することこそが、形而上学の使命ということになるだろう。

 これはキリスト教の「神」にも引き継がれる問題である。単純化していえば、「神」は必然によって世界を創造しているはずであるが、被造物は偶然性や不完全性、あるいは悪を内包している。「神」がこの世界の必然性そのものだとしたら、何故世界に偶然性が存在するのか。この「神」と被造物の間の神学における二律背反の問題は、形而上学が思考してきた「不動の動者」の二律背反を引き継いでいる。この二律背反を解決するために汎神論や「神」からの「流出」の問題などが提起されることになる。ここで横道にそれるが、僕は学生時代一般教養の講義でアンセルムスの『プロスロギオン』の講義を受けて、所謂アンセルムスの神の存在証明に感銘を受けたことがある。確か、その講義のレポートは、アンセルムスの神の存在証明を批判し、論理的に何が誤謬であるのかを論じなさい、というもので、まさしく『プロスロギオン』の存在証明は、この二律背反の問題を含んでおり、何の哲学的訓練も受けていない学生であったが、そのレポートを書くのに妙なやりがいを感じた。そして、思考するとはこういうことを言うのか、という〈大学的〉(?)な興奮を覚えた、と記憶している。偶然履修した5人ほどしか聴講していない、後期の5限目で薄暗い教室での講義であったが、今でも鮮明に記憶している。

 さて、そのような「神」と世界の二律背反の問題は古代と中世の形而上学の二律背反として現れているが、近代になるとそれは「主観」や「心」の問題になる。デカルトのcogitoの問題となり、カントで言うならば主観における悟性と感性の二律背反的構造を、構想力や理性が代補するという問題である。人間は自然科学的、力学的には法則の必然性に従属させられているが、しかし、理性という自律的な内なる道徳律によってそれと対峙している。これが法則に従属させられている「物」と「動物」と、理性の自律性を有する人間を差異化するわけだ。そして、この二律背反を橋渡しするのは、「自由」になるわけだが、それ故「自由」はこの二律背反が人間の主観に構造的に内在していなければ存在しないわけである。この自然科学的、力学的な法則に従属する、〈物体〉や〈動物〉としての人間と、それに理性によって対峙し、そこで裂け目としての〈深淵=自由〉に晒される、まあ〈現存在〉(ハイデガー的な意味での)がいるわけである。人間は必然性と内的自律性の齟齬という二律背反を主観の構造として持っており、しかしその齟齬こそが人間の「自由」の源泉であり、潜勢力としてのデュナミスでもあるのだ。「神」はその存在が必然性それ自体のため、齟齬や二律背反を持たないので、人間のようなデュナミス・潜勢力としての可能性や「自由」を持たない。即ち意志や欲望を持たないのだ。しかし人間はこの二律背反を認識論的に内在させているため、「自由」と意志という自律的な〈力学〉を有している。

 近代とはまさしくこの人間の認識や主観、「心理」に内在するデュナミスとしての人間の潜勢力や可能性、欲望や「自由」が問題化されるわけである。形而上学の二律背反は、主体の二律背反となり、それは人間のデュナミスや「自由」、欲望を思惟する問題となっていく。そしてこの主観や「心理」における二律背反こそが、「自然科学」と「精神科学」と対応するのだ。つまり、「自然科学」という人間が逃れられない法則を研究する科学と、「精神科学」という理性の内的自律性と対応するような科学とに分かれるのである。実は「精神科学序説Ⅰ」は、この近代に入ったところで終了し、恐らく「Ⅱ」から近代の主観や「心理」の内的自律性の問題が論じられるのだろう。「自然科学」と「精神科学」は確かに内在させる法則や自律性は違うものであるが、カントを見ればわかるように、自然法則と理性のような主観の内的自律性は何らかの形で連関している。ディルタイは、「自然科学」と「精神科学」は別であり、「精神科学」の独立性を論じていくわけではあるが、それは「自然科学」の法則性と全く無関係ではない。やはりそこには「自然科学」と「精神科学」の弁証法的な関係が成り立つわけだ。即ち相互浸透して重なり合う法則の「連関」があるわけだ。

 また、ディルタイは主観や「心理」を無数の目的の「連関」によって構造化されていると見るのであるが、それはつねに歴史的なものである。そこには「自然科学」とは違った歴史学の法則が見出される。そういう意味では「精神科学」は歴史的な目的「連関」だといえる。そのため、主観や「心理」が認識する対象と「適合」することが認識とはしない。主観や「心理」も歴史的に法則化されているのであり、その認識が人間の「生」の構造を創り出しているのであり、世界の「連関」をなしているということである。

 近代の認識論における主観と「心理」の問題は、「Ⅱ」を読まなければわからないわけだが、ここまで読んでみて、ハイデガーの存在論とのつながりなども見えてきた。ディルタイのいう認識を可能にする主観や「心理」という「生」を構成する「連関」は、その「連関」自体が歴史的な目的「連関」によって歴史的に構造化されており、これは時間的存在としての、それは歴史的な存在としてのハイデガーの「現存在」の思考に繋がっていくのであろう。ディルタイを腰を据えて読んでみると、ハイデガーから現代思想に至るまでの道筋がよく見られるようになる。

『失われた時を求めて』は電車の中で読んでいるが、まだ3巻の半分くらいまでしか進んでいない。登場人物が入り組みすぎて、整理できない。

小野寺拓也+田野大輔『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』を読んでみた

2023年09月10日 | 日記と読書
 休みなしでぶち抜きの仕事の後は出張があり、その出張も何とか終わらせてきた。なかなかハードな二週間であった。暑さと疲労とストレスで、このままで大丈夫かと思ったが、ひとまずは大丈夫であった。

 さて、小野寺拓也+田野大輔『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』(岩波ブックレット)を読了した。二人の著者のTwitterには読者(?)と思われるアカウントからの様々なリプライが届いているようで、勿論肯定的なものから否定的なもの、否定的なものであっても本当に読んでいるのかと疑われるリプライなど、その反響はかなり大きいものであることが見て取れた。ナチス(本書では原則「ナチ」)が「良いこと」もした、というような「(俗)説」は、ドイツの歴史に詳しくない僕にも、これまで触れる機会は多かった。一番有名なものでいうとやはり「経済政策」のものであろうか。アウトバーンの建設などの公共事業の中で失業者の数が劇的に減った、などはずっと言われ続けてきたことである。このような「(俗)説」が眉唾ものなのかどうか、実証的な水準で僕も書物を読んだわけではなく、経験的なレベルで、そのようなことはありうるかもしれないが、だがそれを以て「良いこと」とは言えないだろう、くらいの認識しかしていなかった。数年前、10代~20代にかけての若者とナチスについて話した時も、その若者たちは、ヒトラーも「良いこと」をしたんでしょう?という疑問を含みつつも肯定的に話すことがあり、その時は本書の出版前であり、かつ僕もきちんと資料を読んだことがないので、「良いこと」が一体何の目的のためになされたのかを考えることなしに、それを称賛することはできない、ましてや絶滅収容所の問題抜きにして「良いこと」だけにクローズアップするのは、大変な間違いを生む、という趣旨のことを若者たちに強く訴えかけたが、その若者たちがどれほど納得しているのかは、とんとわからずじまいであった(である)。僕自身勉強不足なのもあって、それより先に核心的なことは言えなかったのだ。

 このような「良いこと」論は、植民地支配の文脈でも使われることがある。例えば、日本が朝鮮半島や台湾を植民地支配した時に、その植民地を近代化する過程で、「良いこと」もしたのではないか、という議論が巻き起こることがある。日本が植民地に対して、鉄道を敷いたとか、義務教育を普及させたとか、工業化を進めたとか、そのようなことが語られ、それは「良いこと」とされる。これもまた、植民地の「支配」を抜きにした「良いこと」であるが、こういう「良いこと」を信じて侵略と植民地支配の過ちを「免罪」させようとする人が、今も一定数いることは確かである。本書はこのような「良いこと」の起源は何処にあるのか、ということを歴史学者としてきちんと資料や研究をもとに整理しようとしたもので、その読み易さからしても、僕のような初学者にとっても、大変良い試みだと思う。実際、知り合いで歴史を専門とする人と話す機会があって、ナチスがドイツを経済的に立ち直らせたという「(俗)説」は相当怪しいものであるというのを聞いてはいたので、それを裏付けるためにも読んでみたのである。読みやすい本でもあるので、ぜひ興味のある人は読んでほしい。そのため、詳しい内容というよりも、ここでは僕が読んでみてポイントだと思った内容だけを書いていきたいと思う。

 まずはナチスが斬新なアイデアで遂行したとされる経済政策や失業対策が、実はヴァイマール時代から引き継がれたものであり、それ自体はナチスの独創的な社会問題の解決策ではなかったという点だ。ヴァイマール共和国が行っていた経済政策や失業対策を、ナチスはドイツ国民の「党」に対する支持のために改変し、それを「党」の都合のいいように「宣伝」したことが、現代にまで影響しているということである。その中でも目を引いたのが、ナチスは労働組合を解散させ企業を通して労働者を管理していたという事実だ。ナチスは労働組合に代わって、企業を通じて労働者の福利厚生をおこない、労働者を強制的に従属させていったという。労働者自体は確かに職を得、あるいは給与によって生活を改善させた事実はあるものの、職業選択の自由などの労働者の権利は制限され、その目的は戦争遂行のための労働者の「党」への従属と労働強化であったことが示されている。また、経済政策もグラデーションはあるものの、ヴァイマール共和国の経済政策や失業者対策を超えるような目覚ましいものではなく、結局はそれらを引き継ぎ、分野によっては、弱めてしまったところもあったという。

 また、ナチスによる家族に対する保護政策も、戦争遂行のための少子化対策であり、兵力、経済力、工業力のための政策であり、人権に基づいておこなわれていたわけではないことが示される。これは現代の日本の問題にも通じるものであるが、結局「党」の戦争のために、「党」の経済のためにおこなわれた政策は、「党」の都合で改悪されたり、戦争遂行のためには不必要だとされた分野は予算が削減されたりするので、出生率自体は上がらず寧ろ下がっていったことが資料によって証明されている。子供の数を増やすということの正当性は何が保証するのか、というのは大変重要な問題であり、これを一概に語ることはできないが、少なくとも「党」のための戦争遂行や経済力の発展を目指した政策は、国民を豊かにすることはできず、出生率は増えなかったそうである。昨今日本でも経済的な問題から、「日本」のための少子化対策や結婚対策がなされているが、ナチスが結局は人間を従属させ、「党」の勢力拡大のために家族や労働者を利用したような形で、名ばかりの「支援」をおこない失敗したように、日本の場合も効果がないのは予測できる。「良いこと」論にいえることであるが、少子化対策は、結局「日本」のための経済対策でしかなく、その少子化対策に「良いこと」であっても、「日本」の経済発展に資することはないと勝手に判断されれば、「良いこと」ではなくなり、「良いこと」は打ち切られ、困っている人や家族の貧困などは顧みられなくなるのだ。それは必然的にナチスと同じ結果しか導かないだろう。人権や法の下での平等など、人民の生活を助けるのではなく、「党」や「日本」のための「良いこと」は結局、人間を組織に従属させるにすぎず、役に立たなくなれば捨てられ、最悪は見殺しにされるというのが、歴史の真実だということである。ナチスが障害者や失業者、マルクス主義者や敵対者、ユダヤ人などを優性思想を利用して虐殺していったのも、同じことだといえる。

 その他、ナチスの健康政策や自然保護政策も、ヴァイマール共和国からの引継ぎの指摘や、上述の経済対策や労働者対策、家族の保護政策と同じで、結局は「党」の戦争遂行と経済基盤の拡大に私的に利用されているだけであり、一貫した政策が必ずしもあったわけではないようである。「党」に従属したり、奉仕しないような政策はナチスにとって「良いもの」ではなく、ご都合主義的に役に立たないと判断されると、打ち切られて行ってしまい、そのため、健康政策や自然保護政策もナチス以前より悪化することもある。まあそれは当然と言えば当然である。結果的に国土を荒廃させ、「絶滅」による大量虐殺は、ナチスの「良いこと」が内在させる「党」への従属と奉仕というご都合主義によって成り立っているからだ。そこから外れるものはすべて見殺しにされるのである。こう見るとナチスの「良いこと」の中で、今でもその目的を捨象しても(もちろん目的の捨象こそ問題である)「良いこと」にできるものだけが、現代においても「良いこと」のように考えられていることがわかる。しかしながら、「良いこと」の中枢には、「党」があるわけであり、この目的を捨象した「良いこと」などあり得ない。そしてこれはやはり歴史から学ぶべきことだと考えられる。

 今回本書を読んでみて重要だと思ったことは、この「良いこと」を批判するためには、資本主義批判というパースペクティヴが必要だということだ。何故なら、ナチスのいう「良いこと」が今現在の「良いこと」と重なり合うとすれば、ナチスと現代の資本主義経済とは共通点があると考えられるからである。本書にはそのような視点があると思う。哲学者のスラヴォイ・ジジェクはその著書の中でヒトラーとスターリンという二人の権力者を比較して、ヒトラーを単なる資本主義の拡張を目指した人物として、唯物弁証法のスターリンよりも「下」に位置づけていた。上下はともかくとしても、本書を読むことで、ナチスやヒトラーは結局資本主義を「党」のための資本主義にしたのであり、それはアメリカを中心としたグローバル資本主義に敗北した資本主義だということが確認できた。ただ、そのナチスの「良いこと」の資本主義は、今の凋落する「日本」の資本主義を立て直そうとしている「日本」のための「良いこと」とも非常に似ている。基本的人権や平等ではなく、「日本」の経済にとっての「良いこと」の政策は、日本の人民の従属と奉仕を要求する。特に自民党や維新が掲げる「良いこと」はナチスの「良いこと」と重なり合うといえるだろう。

 興味深かった例は、ナチスが労働者のために「歓喜力行団」という労働者を慰撫して「党」への不満をそらす組織を作っていたということである。労働者に旅行をさせ、カジノに行かせてご褒美を与える。そのようなこともすべて「党」への従属と奉仕のためなのだ。今の「日本」のための「良いこと」の資本主義は、このご褒美をちらつかせながら、コストカットと企業を通じた形での労働者の支配と効率化を推し進め、この「良いこと」についてこられない人々を「負け組」として排除しようとする。「日本」のための「良いこと」に加担できる人だけが、「国民」となるのだ。かつて麻生太郎がナチスを見習うということを言ったが、麻生に言われるまでもなく、ナチスの「良いこと」は現代日本資本主義の「良いこと」と重なっているといえるのだろう。その意味では麻生は本音も何も、「日本」の「良いこと」が資本主義を媒介として人民を従属させ奉仕させようとしていることを、シニカルに肯定して見せているだけなのだ。「ナチスは良いこともした」と言いたい人々とは、この「日本」のための「良いこと」に優遇されている人か、優遇されたいと思っている人なのだろう。あるいは、その従属と奉仕の中で排除されながら、その「良いこと」を夢見させられている人ともいえる。麻生的シニシズム(プロパガンダ)の中で、自分の立ち位置を見失うよう仕向けられているのだろう。

 そういう意味では、本書は資本主義批判として読まれる書物だと思うし、また「良いこと」を批判するには資本主義を批判するしかないということを示しているのだと考えられる。この「良いこと」は資本主義の無限の拡張の「夢」を実現するためのものであり、それを「党」や「日本」は独占し、その「良いこと」によって人を従属させ、支配する。そこから零れ落ちる人々は「絶滅」させられるほかない。ならばナチスの資本主義と、この凋落からの脱出をもくろむ「日本」の資本主義の「良いこと」との差異は何か。おそらくそれはほとんど差異がないのだと思う。

 最初に書いたように知り合いの歴史家と歴史修正主義に抗するためにどうすればよいのか、ということを話すとき、しつこく歴史家が資料を基にして反論し続けないといけないという話になった。そうでないと人は、ツイッターやYoutubeで自分が見たい、自分が従属したい団体のための「良いこと」ばかりに従属するようになり、歴史というある種の普遍的な精神を忘れることになる。勿論、この普遍的「精神」が歴史の悲劇を生む場合があることは警戒しつつである。やはりしつこく言い続ける、それは啓蒙を越えた「しつこさ」(享楽)でなされる必要があるのだろう。本書はそのような意気込みを感じた。

 ただし、本の内容からは逸れて別の関心に拠って一言いうとすると、ナチスの「良いこと」の「欲望」の問題は分析されねばならないと思った。それは啓蒙では消えない「欲望」としてである。ハイデガーの問題もここに入ると思う。この「欲望」を分析する場合、ナチスの「潜勢力」のようなものを取り出す必要は出てくると思う。それは一見本書の意図と逆行するようで、ナチスを「肯定」する瞬間が出てくるかもしれない、と考えられる。しかしこの分析を僕は、所謂「逆張り」だとは考えていない。恐らく本書と同時に考えなければならない、ナチスを脱構築するための「二重」の作業(分析)過程のはずである。

久々の読書でプルーストと外山恒一の本を読む

2023年09月05日 | 本と雑誌
 琵琶湖から帰ると、土日祝が関係のない通しの仕事が詰まっていて、暑さと疲労で気分が、何かを書こう、何かを読もうという感じではなくなっている。こういう生活はいけないなあ。

 さて、井上訳の『失われた時を求めて』は第三巻に入り「土地の名――土地」を読み進めている。僕はこの小説は、ヘーゲルの『精神現象学』や『大論理学』が「雑談」であるという意味で、〈雑談=エクリチュール〉の集積したテクストだと思っている。そしてその「雑談」とは『大論理学』の中に出てくる、「卵売り」のエピソードで語られる「通俗」の問題であるともいえる。この「雑談」は「資本」の構造それ自体なのだと思うが、この「資本」の構造こそ「私」の「雑談」を可能にしている。しかしながら、この小説の面白いところは、その「資本」の構造が、綻びや失調のような形で、うまく働いていかないところを描いており、しかしその齟齬や綻びこそが、この失われた時の世界を現前させているといえるのだ。そういう意味ではやはりこの「雑談」には弁証法的なものがあるようにも思う。イマージュや失われてあること自体が、「資本」の構造としての、失調や綻びから現前してくるというアイロニー、しかもこのアイロニーこそが「近代」という時代性であり、「通俗」と「雑談」の空間なのである。だらだらと最後まで読んでいきたいと思う。

 最近は外山恒一の本をまとめて読んでいる。外山の単行本になった本は、ほぼ集めたのであるが、まとめて読んでみると面白い。特に80年後半~90年代前半の「管理教育」に関する外山の批判は、以前にも書いた、僕が中学校の「生徒会」(外山は「生徒会」的改革を批判している)で経験した、管理教育批判の「生徒会」の立場が、実際は管理教育に加担する立場へと変容していく、という問題と「リアルタイム」でも重なっており、色々考えさせられている。これはしばらく考えてみたいと思う。今は外山恒一編『ヒット曲を聴いてみた――すると社会が見えてきた――』(駒草出版)を読んでいる。「ヒット曲」こそが時代の微妙なところに触れているというのはその通りで、80年代の漫画は、まさしく「ヒット曲」の「雰囲気」の中で描かれ読まれてきたものだと思っている。そしてそれこそが、今のゲームやラノベにも繋がっているはずなのだ。『ろくでなしBLUES』はまさしく「The Blue Hearts」的な何かを伝えようとしていただろうし、『きまぐれオレンジ☆ロード』は失われた68年的な喫茶店の問題(まつもと泉は作品に登場させた喫茶店のマスターを「かつて爆弾を作っていた経歴」といっている。明らかに「68年」的な問題を受け継いでいる)を、杉真理的なもので表現していた。それはまつもと泉が意識してやっていたことだろう。

僕は音楽をほとんど聴かない無教養人であるので、少し辿りなおしてみたい。