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「プチット・マドレーヌ」は越えたので許してほしい

読んだ本の感想を主に書きますが、日記のようでもある。

田んぼの中の「吉祥寺」

2025年08月19日 | 日記
 ネット上で「文化資本」を巡る論争がおこなわれているようであった。その論争の端緒となるテキストは読んでいないので、何が問題になっているかは具体的にわからない。ただ、ネットでの論争を見ている範囲では、「文化資本」の概念の使い方に違和感を覚えることが多かった。所謂東京を中心とした「文化資本」の一極集中と、地方(言い換えると田舎)の不平等が問題とされていて、「田舎は文化果つるところ」というような東京住まいの物言いには、田舎にも「文化資本」はあるという反論?も見かけたが、そもそも「文化資本」を問題にする場合、それは資本主義批判が根底になければ意味のない概念ではなかったのか?「文化資本」があるとかないとか、あるいは「文化資本」を平等に配置するとか、そういうことではないだろう。文化と資本の結びつき、あるいは資本主義体制が、ある観念的体制を資本の体制として物象化する問題、即ちそこに存在する支配と被支配のエコノミーを批判的に検討するときに「文化資本」という問題が現れるのである。文化と資本の結びつきを自明なものとして、「文化資本」を平等に分配しなければならないという、どうしようもない資本主義的思考こそ、むしろ問題と言わなければならない。精神が文化として物象化するマジックこそ、資本主義の問題だろう。

 二年前、帰省先の故郷にもスターバックスができた。確かに田舎にしては大きいといえる道路沿いにできているが、遠目に見れば、田んぼの真ん中に建っているといっても間違えではない。そのスタバが、連日大盛況なのである。これまでうちの田舎で喫茶店といえば、個人店が主であったが、ここ十年で同じ道路沿いのマクドナルドとコメダ珈琲ができたくらいだった。そこにグローバル資本のスタバがやってきたのだ。スタバに入って驚くことは、田んぼの真ん中の店内が、ほとんど東京のスタバの雰囲気と変わらないことである。PCで仕事をしながら、普段村では見ることもないような服装と様子の客が、軽妙洒脱な会話をしている。去年のお盆に吉祥寺在住の友人が僕の田舎に来たので話をしたのだが、もう、そこは吉祥寺のスタバと見分けがつかない、店内の顔も雰囲気も様態も、すべてが均質化している。田んぼの中に「吉祥寺」が現れたといっても過言ではない。これは資本の脱構築作用によってもたらされた、スタバ空間といってよいだろう。そしてこれも「文化資本」なのだ。

 僕が小さい頃は、故郷が岡田屋(ジャスコ(現イオン))発祥の土地ということもあって、ジャスコはあったが、大きめのスーパーという程度のものだった。僕が中学生くらいまでは、村には魚屋、八百屋、駄菓子屋、饅頭屋、酒屋、雑貨店、旅館(旅籠)が健在で、比較的栄えている場所である町の商店街やジャスコに行かずとも、村の中で日常生活は不自由しなかった。しかし、「大規模小売店舗法」の改正・廃止という経済自由化の波で、「イオンモール」の端緒が開かれ、村の中のほとんどの店舗は廃業した。その過程で、比較的栄えている商店街の映画館やボウリング場もなくなっていく。もちろん村の中の小店舗も資本主義の産物ではあるが、比較的地域の共同体の中での取引に限られた経済であった。しかし、資本のグローバル化によって、例えばイオンモールのように、東京と同じようなものが経験できる空間ができた。これは何もイオンモールによって地域のなじみの店がつぶされたという昔話(=過去の美化)がしたいのではなく、田舎はこのような資本の脱構築作用によって、時には解体され、時には編成されてきたということだ。それは今でも続いている。

 僕は以前より注文してあった古本が十冊ほど、帰省のタイミングで実家に届くように設定してあった。僕の田舎には本屋など遠の昔になくなり、本などもはや買えない。「それなり」の本を買うには、自動車で何十分もかけて近鉄百貨店に行くしかない。だからamazonや日本の古本屋という、東京の「知識人」と同じ経験ができる本屋を利用しなければならない。スタバと同じでamazonによって、東京と同じ(ような)空間を経験しなければならないのである。このような経験のインフラとなっているグローバル資本への依存は高くならざるを得ない。これは最近話題となった「テクノ封建制」(バルファキス)による田舎の再封建化といえるのかもしれない。昔スラヴォイ・ジジェクが、「一極集中」は批判すべきではない、という議論をどこかの著書でしていたはずだ。資本と環境汚染は都市部に一極集中してもらって、地方に広げるべきではないというものである。都市への一極集中を排して、地方に資本と汚染を広げれば、早晩、様々な破局が訪れるだろうと。例えばネットで見かけた都市部や東京への一極集中批判は、グローバル資本にも地方や田舎への資本進出の口実を与えて、「文化資本」としてのグローバル資本による地方の封建的支配をも正当化させることになるだろう。そして、「観光」もまた、そのような地方や田舎への(文化)資本による支配を正当化する急先鋒となっている。田んぼの真ん中の「吉祥寺」も一つの「観光」の形態といえるのだ。それ故、「観光」を批判しない「文化資本」への批判などありえないのである。

米の「民営化」について

2025年06月23日 | 日記
 米の値段が上がり大変だというのは、米を先物取引の商品としたことに原因があると僕は思っているが、何か農協という「既得権益」のせいだということで、農協批判にすり替わっている。米の「民営化」をしたい人がいるのだろう。農協は確かに農薬や肥料、種もみや苗の販売、収穫後の籾の貯蔵の料金など、中間搾取的なものがあるのも事実で、僕も兼業農家に育ったが、農協に対する文句を家族が言っていることを聞くことは度々あった。ただ、それを含めても、農協より先物商品にしたことのほうが、投機目的で価格が変動してしまい、米の値段が不安定(高騰)する原因としては大きいのではないだろうか。たまに「米」を特権化して話すと、農本主義や米・ナショナリズムとして批判されることも多く、ツイッターなどで米問題が俎上に挙げられる際に、例えば漫画の『美味しんぼ』の「米自由化問題」のアニメが参照されており、賛否も含めた形で雁屋哲のナショナリズムの側面が強調されている。確かに、「米」を特権化することはナショナリズムに通じており、僕の家族の話しでも、米がまともに食えるようになったのは、高度成長期以降なので、古より米は日本の「主食」であるというのは、捏造されたナショナリズムともいえよう。「主食」という言葉へのイデオロギー批判も、もちろんありうべき批判だと僕は思う。

 ただ、僕自身は客観的に米をめぐるナショナリズムは批判されるべきであるとは思ってはいるが、自分自身が兼業農家出身ということもあり、そのナショナリズムを一方的に批判するのもいかがなものか、とも思う。「瑞穂の国」というのが、高度成長期以降のナショナリズムであったとしても、米が主食である環境が続いてきたのは事実である。食堂に行っても、家庭でも、米といって贅沢品ということは、僕が生まれてからはなかった。減反や米余りの批判がありながらも、安価なコメが供給できたのは、多くは兼業農家からの搾取があったためだろう。僕の実家は兼業農家で、約「一町」(1ヘクタール・十反)の田んぼを所有しており、減反による休耕田があったので、通常は「六反」ほどの田んぼで米を作っていた。毎年、GWは田植え、9月から10月にかけては稲刈りをしていた。田植えは手押しの田植え機だったので、子供にはなかなか操るのは難しく、中学生くらいにならないと運転は難しかった記憶がある。トラクターは補助があれば小学生の時から田んぼのなかでなら運転はできた。

 米を刈り取ると籾を農協から買った籾袋に入れて、軽トラックに積んで、農協のカントリーエレベーターにまで運んで、貯蔵してもらう。カントリーエレベーターの床には大きな穴があって、そこに籾袋から米を流し込む。昔は兼業農家は仕事の休みで刈り取りをするため刈り取り時期が重なる関係で、またカントリーエレベーターも数が少なかったので、何十台も軽トラックが並ぶため、夕方に並んで夜の11時過ぎまで待たされることもあった。そのカントリーエレベーターの職員も地元の農家の顔見知りなので、そこで立ち話ということもよくあった。

 農協というより、僕の地域ではみんなが「くみあい」と呼んでいる印象の方が強い。土曜の昼食のインスタント袋麺も「くみあい」という農協ブランドのインスタント麺を食っていた。「くみあい」の床屋もあったし、保険も貯蓄も「くみあい」の口座でやっていたと思う。「くみあい」の株券ももちろん所有している。そして、就職先として、村の「くみあい」に就職するというのは、郵便局に就職するような形で、なかなか「堅い」就職先であった。「くみあいに勤められたら、ええわな」という声を今でも思い出す。そういう意味で、農協というのは文句は言うものの、生活に密着した共同体だったと思う。郵政が民営化されるのと同じように、農協解体がなされるというのは、このような共同体が壊れていくことでもある。そしてこのような共同体が壊れて行けば、兼業農家は立ち行かなくなるし、耕作のモチベーション自体も下がっていくだろう。僕は地元を出たこともあり、兼業農家自体を20年前にやめ、現在は地元の農家に耕作を頼んでいる。しかし、僕の友人たちの幾人かは賃労働をしながら兼業農家を続けている。友人の幾人かとそのモチベーションについて話したが、土地を守るという意識と、地域の共同体のことを考えてのようである。その気持ちはわかる。僕も物理的に離れなければ、兼業をしていたと思う。

 東京に来て、学生時代にアルバイトをしていても、GWに田植えを理由に休みの希望を言うと、快諾が多かったのは少し意外なことであった。そんな田植えくらいで、といわれるかと思うと、田植えは重要だから、というのを聞いて、少し都会の人が農家を買いかぶりすぎだな、と思う所もないではなかった。その買い被りだと思う理由は、実家が農家だというと、うらやましがる人が多かったからだ。米が安く食べられていいな、という理由はまあいいとして、しばしばあったのが、儲かっていいなというものだった。これはかなり意外だった。「六反」(僕の地域では一反当たり6俵平均の収穫)作っていた時の売り上げを今でも覚えているが、現金で38万円だった。恐らくその後もっと下がったと思う。38万からまた肥料、苗代、農協への使用料などを払うのだから、ほとんど利益などない。中小の兼業農家は資本主義的には利益の出ない労働をしていると思う。

 よくこれに対して、大規模化したり企業が農業を集約してやればいいという意見があるのだが、大規模化した企業が米作をして利益が上がっているうちはいいが、上がらなくなれば土地を譲渡したり農業自体が廃棄される可能性がある。そうなれば益々米の需給のバランスは悪くなる。中小の兼業農家が連合して、政府の補助金に支えられて安定的に酒食を供給するというシステムは、主食を安定して安価に供給するという意味では、それなりに意義があったはずである。しかし、新自由主義的な発想で農業に自由化、米の自由化、先物商品化をすれば、市場原理によって大資本(家)の意図で米価が操作されるのは当然であろう。昔、哲学者のスラヴォイ・ジジェクが、農業は中小農家の連合が必要で、その連合をサポートするのが国だと書いていたと思うが、それは正しいと思う。何か規模の大きい、しかも市場原理によって動いているシステムに依存すれば、そのシステムが思わぬ動きをしたとき、大きな影響が出やすくなる。米の先物商品化という、市場原理へ米を突っ込んだこともその「依存」の一つで、米価の高騰もここに原因があると予測できるが、農協という中小農家の連合組織を「既得権益」として壊そうというのだから、度し難い。ますます「主食」は「民営化」され、安定しなくなるだろう。

 このような中小農家の、僕の友人も賃労働の合間に農業をするのは、かなりの重労働になる。それでも農家を続けるのは、それを作らなければならないという義務感があるからだと思う。中小の兼業農家に限って言えば、利益だけを考えたら、米作などやらないほうが絶対にマシだ。それもなぜ米を作るのかを考えた時、やはり何らかのナショナリズムには立脚するものがあると思う。共同体の維持の問題もあるだろう。ツイッターなどで、米の「主食」ナショナリズム批判や、「瑞穂の国」へのイデオロギー批判は正しいとは思うが、ならば、中小農家の耕作モチベーションは何によって維持されるのだろうか。米以外でも食うものがあるというのは、今の現状がそうであるだけで、将来はそれすら食えなくなる可能性は高い。

 ツイッターなどで、たぶん米を作ったこともないだろうな、という人が米・イデオロギー批判をしているのを見ると、前にもどこかに書いたが、米作農家は「スト」するか大都市に米を供給しないという抗議行動をやった方がいい、という気持ちにさせられる。そもそもが中小農家からの搾取で米が余り、安価で米を食っていたにもかかわらず、その基盤が脆弱性を見せると、すぐに別の市場原理によるイデオロギー批判を持ってきてメタ視点に立とうとする。僕は農本主義や米・ナショナリズムの安易な賞揚を批判すべきだと思うが、米の「民営化」を阻止していたナショナリズムの側面は、肯定的に見るべき側面でもあると思っている。他に中小農家の連合や共同体を維持する方法があればいいが、このナショナリズムの核なしに、米を作るモチベーションは維持できるのかは疑問である。

 先に書いたように、僕が意外で驚いたという、東京の人が田植えを大事なものと尊重してくれて、農家を儲かるものだと、うらやまし気に話しかけてきたその見方こそ、米を作らない人々の米の「民営化」に対して鈍感になっている原因だろう。恐らくそれは自分が食っているものを、誰がどのようにして作っているかへの、精神分析的な意味での「否認」だからだ。米を先物取引の商品としながら、農協を批判するというその挙措こそ、僕が東京に来て初めて感じた「否認」そのものである。

ブログの引っ越し

2025年06月19日 | 日記
 goo blogが2025年11月18日でサービス終了となることが発表され、新規ブログの開設が6月30日で停止になるということで、記事はまだ数か月書くことはできますが、6月末でgoo blogからHatena blogに引っ越す予定です。既にこれまでgooblogで公開していた記事は、Hatena blogの方に移しました。ここから7月までの10日ほどはまだgooを本拠地として、二つのブログを並行していきたいと思います。goo blogというあまりメジャーではない?ブログで続けることに意義を見出していましたが、サービス終了ということで残念です。ツイッター的短文や動画、あるいはFBのような大手ではないところで長い文章を書くことは大事だと思っているので、ブログというメディアを大事にしているであろうHatenaに移ります。goo blogでお世話になった皆さんには、新天地でもよろしくお願いいたします。

引っ越し先
https://pardonnez-moi.hatenablog.com/

ここと同名のブログです。
まだHatenaの方は仮住まいの設えですが、7月から正式に場所を移すつもりです。
ここも7月までは名残を惜しもうと思います。

新宿三丁目の方へ

2025年02月21日 | 日記
 仕事の後時間があったので、帰宅前に模索舎で色々と物色。形而上学研究会の『eroica』の「太田竜入門」、よろづ研究匍匐会『匍匐会紀要別冊』の特集「外山界隈」、最前線出版『最前線』の特集「反ファシズム ファシズム再構築にむけて」を買った。そして、ケヴィン・アンダーソンの『周縁のマルクス』(社会評論社、平子友長監訳)が新刊で買えた。この『周縁のマルクス』はネットでは日本の古本屋にもあまり見当たらず、amazonでは見かけても、とんでもない高値をつけており、あるところにはあるものなんだ、という感慨を覚える。久々に歌舞伎町周辺も歩いたが、金曜日の夜だからか、人にあてられて疲れたので、喫茶店に入り、買った本と雑誌をしばし眺めている。







アメリカ大統領選をチラ見しつつ

2024年11月06日 | 日記
 この頃忙しく、ブログの記事に書けるような読書ができず、また、書く時間はあったのだと思うが、書いている時間を考えると気もそぞろになるほどには他にやることもあり、ブログの更新が一か月以上の空白となった。ただ、今日はアメリカ大統領選挙で、ドナルド・トランプがカマラ・ハリスを破り、「当確」を出したというのもあって、少し書いてみようと思った。

 日本の衆議院選もよくわからない形で終わり、自民党が敗れたのか野党が勝ったのかもさっぱりわからない。ニュースや新聞を見ても、破れたはずの自民党が政権運営を続けており、また、野党までも自民党の補完勢力のように、それは意図せざるものも含めて、なってしまっている。要は「何も変わらない」ということなのだろう。ただこの何も変わらない、というのは、まさしく何も変えたくないという意志の表れとして解釈した方が良いのかもしれない。「トランプかハリスか」という問いも、この衆院選と全く同じで偽物の問として、何も変えたくないという人びとの願望のスクリーンになっている。ツイッターでグレタ・トゥーンベリが、乱暴に要約・解釈すれば、トランプであろうがハリスであろうが、それは相対的な差異に過ぎず、どちらも打ち倒すべき敵(資本主義としての「システム」)である、と文書を提示していたが、それが真実だろう。トランプが大統領になった場合、あるいは日本でも排外主義者や差別主義者が為政者になった場合、喫緊の問題として直接的に「当事者」の命が危険にさらされることとなる。これは批判されるべきであり、これからのトランプにはその問題が大いに存在する。しかしながら、選挙でトランプを選ぶということは、あるいは日本でも選挙では大敗したはずの自民党が政権を担当し続けるということは(しかも野党もこぞって自民党を補完し)、人々が現状を変えたくない、あるいは自らの立場をこれ以上悪くしたくないという、意思の現れなのだろう。そういう意味も含めて、結局ハリスだったとしても、トランプと「変わらない」ともいえる。

 今日、若い人たちとデヴィッド・グレーバーの本を読みながら、グレーバーがいうように、剰余価値を生み出すという意味での「生産性」が乏しいと見做される「ケア労働」がないがしろにされる現実と、マイノリティがないがしろにされる現実を重ねつつ、剰余価値の生産が大きいとされる金融資本主義下でのエリートの労働と「ケア労働」を比較して議論をした。「エッセンシャルワーカー」とも呼ばれ、インフラをメンテナンスし、介護や医療や清掃、農業、畜産、漁業、食料品販売、輸送、教育といった、社会を維持するに欠かせない「ケア労働」が剰余価値を生まないものとして軽視される一方、剰余価値を莫大に生産するとされる金融資本主義で封建的資本主義的なエリートの労働、経営者、サブスクでの地代資本主義、それらに携わる人々が、「ケア労働」の数百倍の収入を得て「尊敬」されている。社会をケアしメンテナンスする、あるいは教育のように再生産を促す労働は、剰余価値を多く生まないと軽視されるのである。だからこそ、人々は早々にインフラや教育を民営化し、大学の学費値上げのように、教育への公的支出を切り詰め、例えば能登半島地震のように、剰余価値を生まないとされる地域は打ち捨てられ、「棄民」されるのだといえるだろう。それに対してグレーバーは、そのような地代資本主義やサブスク的封建資本主義、金融資本主義では不可視になってしまう「ケア労働」に重点を置くだけで、世の中の無駄な労働の多くは削減され、現状での富の不平等も軽減されるはずだという。もっと言えば、「価値」への眼差しが根本から変わるのではないかともグレーバーは予想しているのである。そして、その議論では、そのような「ケア労働」やそこに関わる「当事者」への「配慮」の問題が、「ポリコレ」や「コンプラ」として反動的に反発を買っている問題に繋がっているということにも話が及んだ。よく言われる「ポリコレ」や「コンプラ」のおかげで表現の自由の範囲が窮屈になり、「マイノリティ」への「配慮」が、逆に民主主義に不平等を招き寄せているという主張である。しかし、本当に人々の生活を窮屈にしているのは、そのような「ケア労働」や「マイノリティ」や「当事者」に対する「配慮」によって引き起こされているのだろうか、と。

 おそらくは、「ポリコレ」や「コンプラ」が窮屈さを生んでるのではなく、むしろ「サブスク」が人を封臣としてヴァーチャルなデジタルの「土地」に縛り付け、そこから年貢(会費・使用料)をとり続けているからこそ、その「支配」が人々に窮屈さもたらしているはずなのだ。しかしながら、人はそのような「サブスク」の「支配」に対して、価値を生み剰余価値を生むエリートの労働として賞賛するよう仕向けられている。そのため人はその対極にある「ケア労働」を益々価値のないもの、あるいはそれが世の中の自由主義経済・封建資本主義を阻害するものとして敵視するようになり、マイノリティへの「配慮」を垣間見ると、そこに不自由と窮屈を見てしまうのだ。そういう意味で、ほとんどの人は経営者や資本家という封建領主の領地を防衛するため、体よく使われているともいえるだろう。自分を苦しめて土地に縛り付ける封建領主を、むしろ解放者として賞賛し続けるようなシステムになっているのである。だからこそ人々は何もいわず水やライフラインが民営化されるのを眺め、質を低下させながら料金が上げられても文句を言わないのだろう。何故ならインフラは生産性が低いからである。だが、その結果、自分たちは益々生活基盤を奪われて「窮屈」になっているにもかかわらず。

 こう考えるとハリスのように、マイノリティや性的少数者に対する「配慮」を掲げる候補者が敵視されるのも「当然」となる。しかし問題は、だから「ケア労働」や「配慮」に関する問題を人びとに啓蒙すれば、その封臣たちは本当の敵に気付き、トランプやイーロン・マスクといった封建領主的経営者や資本家という真の敵を倒すのかというと、そうはならない。何故なら、ケアやマイノリティへの「配慮」を説き、啓蒙するハリスもまた、資本主義という搾取構造は変えたいとは思っていないからだ。結局は変えたくないのである。そうなれば、その窮屈さから解放してくれると思っていたハリスのような「善良な」民主主義者たちが、結局は搾取を容認する資本主義を全く変えるつもりがないとわかれば、少数派を気にする候補者よりは、ありもしない嘘の「大衆」という存在に自信を取り戻させると、嘘でも言ってくれる、嘘つきである改革者という名の経営者たちを、人は嘘でも信じたいとなるのは、わからなくはない。要は、「善良な」ハリスもまた嘘つきだからである。

 これはアメリカ大統領選だけではなく、先ほどの日本の衆院選でもいえる。結局自民も野党も同じ嘘つきなのだ。自民党の搾取構造を批判し選挙で政権にダメージを与えても、野党がそれを補完して、選挙などなかったような日常を作り上げようとする。選挙が終わったとたんに、野党は、変えるつもりはなかったんだ、そんな極端なことは言うつもりはなかったんだ、という形で言い訳を始め、何も変えないように動いていく。そして自分たちはより良い資本主義を作っていくんだと、自民党と五十歩百歩のことを言い始めるのだ。だったら選挙など無意味だろう。この嘘つきの慢性化は、本当の意味で「ポストトゥルース」的であるといえる。益々代表制は信頼を失っていき、封建制、絶対君主制に近づくのではないかと思う。そういう意味でトランプだけではなく、ハリスもまた陰謀論的かつ、修正主義者の側にいるといえるだろう。「啓蒙」と「陰謀」は、本質的には区別はできない。これは重要なことだ。

 経営者という君主による「解放」を夢見るという意味では、『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』を読んだ方がいいのかもしれないが、やはり思うのは、資本主義自体を批判し、代表制自体の問題化を考える政治的なイデオロギーが必要だということだ。それは相対的にマシなハリスが選ばれればいいということではない。その相対的にマシなものを選ぶという免罪符が、トランプを活気づけ、マイノリティを追い込む資本主義を持続可能にしているからである。