ネット上で「文化資本」を巡る論争がおこなわれているようであった。その論争の端緒となるテキストは読んでいないので、何が問題になっているかは具体的にわからない。ただ、ネットでの論争を見ている範囲では、「文化資本」の概念の使い方に違和感を覚えることが多かった。所謂東京を中心とした「文化資本」の一極集中と、地方(言い換えると田舎)の不平等が問題とされていて、「田舎は文化果つるところ」というような東京住まいの物言いには、田舎にも「文化資本」はあるという反論?も見かけたが、そもそも「文化資本」を問題にする場合、それは資本主義批判が根底になければ意味のない概念ではなかったのか?「文化資本」があるとかないとか、あるいは「文化資本」を平等に配置するとか、そういうことではないだろう。文化と資本の結びつき、あるいは資本主義体制が、ある観念的体制を資本の体制として物象化する問題、即ちそこに存在する支配と被支配のエコノミーを批判的に検討するときに「文化資本」という問題が現れるのである。文化と資本の結びつきを自明なものとして、「文化資本」を平等に分配しなければならないという、どうしようもない資本主義的思考こそ、むしろ問題と言わなければならない。精神が文化として物象化するマジックこそ、資本主義の問題だろう。
二年前、帰省先の故郷にもスターバックスができた。確かに田舎にしては大きいといえる道路沿いにできているが、遠目に見れば、田んぼの真ん中に建っているといっても間違えではない。そのスタバが、連日大盛況なのである。これまでうちの田舎で喫茶店といえば、個人店が主であったが、ここ十年で同じ道路沿いのマクドナルドとコメダ珈琲ができたくらいだった。そこにグローバル資本のスタバがやってきたのだ。スタバに入って驚くことは、田んぼの真ん中の店内が、ほとんど東京のスタバの雰囲気と変わらないことである。PCで仕事をしながら、普段村では見ることもないような服装と様子の客が、軽妙洒脱な会話をしている。去年のお盆に吉祥寺在住の友人が僕の田舎に来たので話をしたのだが、もう、そこは吉祥寺のスタバと見分けがつかない、店内の顔も雰囲気も様態も、すべてが均質化している。田んぼの中に「吉祥寺」が現れたといっても過言ではない。これは資本の脱構築作用によってもたらされた、スタバ空間といってよいだろう。そしてこれも「文化資本」なのだ。
僕が小さい頃は、故郷が岡田屋(ジャスコ(現イオン))発祥の土地ということもあって、ジャスコはあったが、大きめのスーパーという程度のものだった。僕が中学生くらいまでは、村には魚屋、八百屋、駄菓子屋、饅頭屋、酒屋、雑貨店、旅館(旅籠)が健在で、比較的栄えている場所である町の商店街やジャスコに行かずとも、村の中で日常生活は不自由しなかった。しかし、「大規模小売店舗法」の改正・廃止という経済自由化の波で、「イオンモール」の端緒が開かれ、村の中のほとんどの店舗は廃業した。その過程で、比較的栄えている商店街の映画館やボウリング場もなくなっていく。もちろん村の中の小店舗も資本主義の産物ではあるが、比較的地域の共同体の中での取引に限られた経済であった。しかし、資本のグローバル化によって、例えばイオンモールのように、東京と同じようなものが経験できる空間ができた。これは何もイオンモールによって地域のなじみの店がつぶされたという昔話(=過去の美化)がしたいのではなく、田舎はこのような資本の脱構築作用によって、時には解体され、時には編成されてきたということだ。それは今でも続いている。
僕は以前より注文してあった古本が十冊ほど、帰省のタイミングで実家に届くように設定してあった。僕の田舎には本屋など遠の昔になくなり、本などもはや買えない。「それなり」の本を買うには、自動車で何十分もかけて近鉄百貨店に行くしかない。だからamazonや日本の古本屋という、東京の「知識人」と同じ経験ができる本屋を利用しなければならない。スタバと同じでamazonによって、東京と同じ(ような)空間を経験しなければならないのである。このような経験のインフラとなっているグローバル資本への依存は高くならざるを得ない。これは最近話題となった「テクノ封建制」(バルファキス)による田舎の再封建化といえるのかもしれない。昔スラヴォイ・ジジェクが、「一極集中」は批判すべきではない、という議論をどこかの著書でしていたはずだ。資本と環境汚染は都市部に一極集中してもらって、地方に広げるべきではないというものである。都市への一極集中を排して、地方に資本と汚染を広げれば、早晩、様々な破局が訪れるだろうと。例えばネットで見かけた都市部や東京への一極集中批判は、グローバル資本にも地方や田舎への資本進出の口実を与えて、「文化資本」としてのグローバル資本による地方の封建的支配をも正当化させることになるだろう。そして、「観光」もまた、そのような地方や田舎への(文化)資本による支配を正当化する急先鋒となっている。田んぼの真ん中の「吉祥寺」も一つの「観光」の形態といえるのだ。それ故、「観光」を批判しない「文化資本」への批判などありえないのである。
二年前、帰省先の故郷にもスターバックスができた。確かに田舎にしては大きいといえる道路沿いにできているが、遠目に見れば、田んぼの真ん中に建っているといっても間違えではない。そのスタバが、連日大盛況なのである。これまでうちの田舎で喫茶店といえば、個人店が主であったが、ここ十年で同じ道路沿いのマクドナルドとコメダ珈琲ができたくらいだった。そこにグローバル資本のスタバがやってきたのだ。スタバに入って驚くことは、田んぼの真ん中の店内が、ほとんど東京のスタバの雰囲気と変わらないことである。PCで仕事をしながら、普段村では見ることもないような服装と様子の客が、軽妙洒脱な会話をしている。去年のお盆に吉祥寺在住の友人が僕の田舎に来たので話をしたのだが、もう、そこは吉祥寺のスタバと見分けがつかない、店内の顔も雰囲気も様態も、すべてが均質化している。田んぼの中に「吉祥寺」が現れたといっても過言ではない。これは資本の脱構築作用によってもたらされた、スタバ空間といってよいだろう。そしてこれも「文化資本」なのだ。
僕が小さい頃は、故郷が岡田屋(ジャスコ(現イオン))発祥の土地ということもあって、ジャスコはあったが、大きめのスーパーという程度のものだった。僕が中学生くらいまでは、村には魚屋、八百屋、駄菓子屋、饅頭屋、酒屋、雑貨店、旅館(旅籠)が健在で、比較的栄えている場所である町の商店街やジャスコに行かずとも、村の中で日常生活は不自由しなかった。しかし、「大規模小売店舗法」の改正・廃止という経済自由化の波で、「イオンモール」の端緒が開かれ、村の中のほとんどの店舗は廃業した。その過程で、比較的栄えている商店街の映画館やボウリング場もなくなっていく。もちろん村の中の小店舗も資本主義の産物ではあるが、比較的地域の共同体の中での取引に限られた経済であった。しかし、資本のグローバル化によって、例えばイオンモールのように、東京と同じようなものが経験できる空間ができた。これは何もイオンモールによって地域のなじみの店がつぶされたという昔話(=過去の美化)がしたいのではなく、田舎はこのような資本の脱構築作用によって、時には解体され、時には編成されてきたということだ。それは今でも続いている。
僕は以前より注文してあった古本が十冊ほど、帰省のタイミングで実家に届くように設定してあった。僕の田舎には本屋など遠の昔になくなり、本などもはや買えない。「それなり」の本を買うには、自動車で何十分もかけて近鉄百貨店に行くしかない。だからamazonや日本の古本屋という、東京の「知識人」と同じ経験ができる本屋を利用しなければならない。スタバと同じでamazonによって、東京と同じ(ような)空間を経験しなければならないのである。このような経験のインフラとなっているグローバル資本への依存は高くならざるを得ない。これは最近話題となった「テクノ封建制」(バルファキス)による田舎の再封建化といえるのかもしれない。昔スラヴォイ・ジジェクが、「一極集中」は批判すべきではない、という議論をどこかの著書でしていたはずだ。資本と環境汚染は都市部に一極集中してもらって、地方に広げるべきではないというものである。都市への一極集中を排して、地方に資本と汚染を広げれば、早晩、様々な破局が訪れるだろうと。例えばネットで見かけた都市部や東京への一極集中批判は、グローバル資本にも地方や田舎への資本進出の口実を与えて、「文化資本」としてのグローバル資本による地方の封建的支配をも正当化させることになるだろう。そして、「観光」もまた、そのような地方や田舎への(文化)資本による支配を正当化する急先鋒となっている。田んぼの真ん中の「吉祥寺」も一つの「観光」の形態といえるのだ。それ故、「観光」を批判しない「文化資本」への批判などありえないのである。