「プチット・マドレーヌ」は越えたので許してほしい

読んだ本の感想を主に書きますが、日記のようでもある。

『ゲバルトの杜』を観てきた

2024年06月17日 | 日記と読書
 映画『ゲバルトの杜』(代島治彦監督)を観てきた。以下雑駁な感想を無秩序に書いてみよう。

 川口大三郎の「鎮魂」という仄めかしが、出演者の口から数度出てくるのだが、仮に「鎮魂」がこの映画の何らかのテーマだとしたら、それは駄目だろうと思う。「鎮魂」はどれだけ慎重になろうとも、ノスタルジーを招き寄せるし、事件のご都合主義化を許してしまうからだ。「喪」はやはり失敗するものであり、その「失敗」こそ映画に現れなければならないはずだからである。しかし気になったのは、映画の中で川口が拉致され、激しいリンチでショック死するまでが、ある意味生々しく?上映されるのだが、それを見ていると、革マルの執拗なリンチに自然と素朴な「憎悪」が湧いてきてしまう。しかし、この僕の感じた「憎悪」こそが、「鎮魂」にも繋がっており、結局はこの事件をご都合主義化するのではないかと思った。この「憎悪」は逆説的に、リンチを理解可能なものとしてしまい、後に出演者たちが言う、「非暴力」の運動への正当化にも繋がっていく。

 原作?者でもある樋田毅は映画の中のインタビューで、当時は大学の中だけがセクト主義で無意味な暴力の応酬が繰り広げられ、大学の外は平和な日常があるのだから、大学内の運動もそれに準じて非暴力的であるべきだと、当時考えていたと話していた。大学内の運動の急進化と武装化が「一般学生」を離れさせたということになっているが、果たして大学の外が平和な日常だったのか。むしろ大学内の革マルと大学当局による生政治的共闘こそが、その後、管理コントロール社会のモデルとなっていたのであり、構造的には、大学の内も外も地続きだったはずである。川口のリンチへの〈鎮魂=憎悪〉と「非暴力」の運動という観念が、ここでこの生政治的支配の資本主義の構造を見えなくさせてしまっているように思う。樋田は、革マルが全国政権だったならば、機関銃でもバズーカでも持ち出して戦ったというが、革マルと大学の共闘的生政治は全国政権どころか、当時すでに資本主義的支配構造としてグローバルだったはずである。

 川口の一年後輩の吉岡由美子は、革マルが円の密集陣形になって、そこから竹竿を槍のように出して、外に向かって、恐らくウニやハリネズミのように外を威嚇してたことに「感動」しており、磁石で集まった人が「虫」のように、「万華鏡」のように見えたという。ファランクスの密集陣形のようなものだと思うが、ある意味では「戦争機械」のことでもあるだろう。吉岡はその革マルの統率力に「一般学生」は「かなわない」と思ったというが、この「戦争機械」の問題こそ、ドゥルーズ=ガタリと生政治の問題であり、革マルと大学当局の暴力と支配の問題であったと思う。この「戦争機械」の問題は掘り下げるべきだったのではないか。吉岡の抱いた「感動」の問題こそ、「鎮魂」では解釈できない「運動」の問題であろう。そういう意味では、今回の映画は、同じく早稲田の学館闘争を記録している、井土紀州監督の『LEFT ALONE』と比較すべきだとも思う。『レフト・アローン』には「非暴力」ではない、『Love マシーン』に乗って学生と踊りまくる絓秀実が映っていたはずである。そこには『Love マシーン』の「享楽」の端緒が映っていたように見える。樋田のいう「非暴力」でもない「鎮魂」でもない、運動の「享楽」の問題がある。「戦争機械」としての革マルの密集陣形とも違う「運動」の問題がそこにはあるのではないか。

 あと気になったのは、池上彰や鴻上尚史の語りが、少し「昔」を誇らしげに話していたことだ。そして学生役の俳優たちへの接し方が、かなり啓蒙的だったことだろう。俺たちが昔経験したことは、お前たちが考えている以上のことだ、というメッセージが暗に伝わって来て、これも何かを見えなくさせていると感じた。また、学生役の俳優が池上に、学生運動が現代に残している痕跡は何かと質問した時、教室の机と椅子が固定された、とバリケード防止のための措置を「軽口」というか、俳優の質問をはぐらかしをしたというべきだろうが、その池上の答えの瞬間、例えばテレビのバラエティ番組でスタッフが笑うことがあるが、あれと同じような年配の男性の声で、嘲笑とも賑やかしともいえるような笑いが一瞬入るのだが、嫌な気分になった。恐らくは、学生運動の痕跡などその程度のものだ、という意味での笑いだったのだろうが、そのような過小評価でよいのだろうか。先ほどの『レフト・アローン』との比較でいえば、西部邁が自分がトロツキストの党派にいるにもかかわらず、大学祭に来た学生の親から、トロツキーとはどういう人なのか聞かれた時、「悪魔のようなやつらしい」と応えて、友人からお前はトロツキストだぞ、とたしなめられたという話があったが、運動ってそういう「啓蒙」とは程遠い、勘違いの中で始まるものではないのだろうか。

 そういえば、映画の中で川口はリンチされている間、革マルから早稲田祭に反対しているだろうという非難をされていたが、それを見ると、前の記事でも書いた友人が、早稲田祭が中止になった時、革マルと大学当局の「共闘」で板挟みになっていたことが、思い起こされた。

 新左翼各派のヘルメットが染められている手ぬぐいを買った。つまりこういうことなのだ。

『文学的絶対』を読了した

2024年05月13日 | 日記と読書
 『文学的絶対』(法政大学出版局)を読了した。そして本書を読む中で、ベンヤミンの『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』(ちくま学芸文庫)のロマン主義分析がいかに後世のロマン主義研究に影響力があり、またベンヤミンがその核心を分析していたのかもよくわかった。ナンシーの「無為の共同体」における「無為」がロマン主義に由来するものであるのも見当が付いた気がする。確か、ナンシーはラクー=ラバルトと一緒に『ナチ神話』(松籟社)を出していたと思うが、この分析もロマン主義分析と関わるものだと思う。また、ロマン主義者がdichtenの作用を「創作する」や「文学的な制作」だけではなく、「でっちあげる」という意味でも使っているが、このポイエーシスの作用は「文学的絶対」の作用でもあるが、前にも書いたように、これはフィクション論としてのファイヒンガーの『かのように(als ob)の哲学』とも重なるものだといえる。ファイヒンガーは「歴史」と「神話」を区別しようとするが、その区別を脱構築してしまうals ob の dichten の働きに注目していた。「歴史」は実証的であり、「神話」は創作的であるという、通俗的な区分はあるものの、「歴史」にも「神話」にも dichten としての「でっちあげ」の力は働いており、「歴史」と「神話」は als ob の地点で不分明となる。「歴史」を実証的に constative なレベルで認識するのではなく、「神話」に働いているような dichten の作用が、「歴史」をも performative に形作っている。この performative な力こそが、 dichten という「創作」でありながら「でっちあげ」でもあり、しかし、schaffen でもあり erfinden でもあるような「発明」の地平を開いている。ファイヒンガーはこの「発明」の力を als ob と呼んでいた。ファイヒンガーはこれをカントとニーチェの関係から分析していたはずで、このファイヒンガーの発想は、ロマン主義の「文学的絶対」の力を継承して形作ったフィクションの理論だったのだということが、改めて確認することができた。ロマン主義が「神話」を求めていたのはここに、 dichten としての「絶対」の力があったからだろう。

 そしてこの『文学的絶対』を読む中で、日本近代文学における絓秀実のロマン主義分析(批判)も、この本が翻訳される前に、かなり似た議論をしていたということも確認できた。絓は『日本近代文学の〈誕生〉』(太田出版)の中で、近代文学を「俗語」と「雑」という概念で分析するが、これはロマン主義の「断片性」とその「散文性」に相当する。絓は日本近代文学における「現前性」という「透明性」が、逆説的に「雑」によってなされるとするが、これこそがロマン主義の「イロニー」が存在して初めて成立する構造であり、この中心には dichten としての構想力の問題があるわけだ。もちろん絓は本書が翻訳されなくとも、ヘーゲルやデリダ、ベンヤミンの著作などを通してこの結論を導き出していたと思うのだが、この本が翻訳されたことで、その同時代性を確認することができてよかった。そういう意味で日本の文芸批評も、ナンシーやラクー=ラバルトたちと同じような時期に「文学的絶対」と対峙していたわけである。特にこれは1930年代の「日本浪曼派」の分析などにも有効だろう。

 ともかくも『文学的絶対』を読むうちに、分析の対象となっているロマン主義のテクストを読んでみたいと強く思わせられた。古本屋で買ったが、長い間読み止しになっているノヴァーリスの『花粉』とかもきちんと読もうか、と思う。またこれはまだ何の確証もない考えではあるが、「批評(性)」とはこの「断片」と「雑」それ自体のことだとするならば、今ちまちま読んでいる『失われた時を求めて』のテクストというのはものすごい「雑」であり、社交界なんて「雑」そのものであり、その意味で、プルーストはまさしく「批評」を書いたのだな、と思うようになった。ロマン主義をきちんと考えるきっかけとなった大著であった。

『文学的絶対』を読みながら「大東亜戦争」についても考える

2024年04月08日 | 日記と読書
 『文学的絶対 ドイツ・ロマン主義の文学理論』(柿並良佑+大久保歩+加藤健司訳、法政大学出版局)を読み進めているが、600ページ強ある全体の、読んだのは三分の一ほどである。現在は「『アテネーウム』断章」を読んでいるが、ラクー=ラバルトとナンシーの論文だけではなく、シュレーゲルやノバーリスなど、他のロマン派の「断章」や「断片」までも訳されているのは大変いい。なぜなら、この後にナンシーらの分析があるのかもしれないが、「断章」形式というのは、ロマン派の文学理論にとってどういう意味があるのかを考えるのは、重要だと思うからだ。確かベンヤミンが『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』(ちくま学芸文庫)の中で、「断片」を「絶対的」に包摂する神秘的体系の提示がロマン主義の根本にはあると言っていたと思う。しかもそれは「断片」同士の〈反射〉における認識が、そのような「絶対的」に包摂する神秘的な体系を作る、と主張していたと、僕なりに解釈している。例えば、「ある存在〔本質〕が他の存在〔本質〕によって認識されることは、認識されるもの(das Erkenntwerdende)の自己認識、認識する者(der Erkennende)の自己認識、および、認識する者がその認識対象である存在〔本質〕によって認識されることと、同時に起こる(zusammenfallen〔一致する、同じものである〕)」というのは、その神秘的体系の様態の一つだろう。そういう「断片」同士の〈反射=思弁〉を「絶対的」に包摂する仕方を、イロニーという形で提示したのがロマン主義だとしたら、色々な「断片」や「断章」が翻訳されて掲載されたことは良いこだろう。注記を見ると、日本語以外で翻訳されているバージョンは、「断片」「断章」が省略されているのもあるようで、省略されなくてよかった。このようなロマン主義の断片性は重要だと思う。

 このロマン主義的手法は、日本文学でも1930年代の「日本浪曼派」や「モダニズム」の文学とも関わるだろう。特に「転向」以前の、共産党が壊滅する前は、このロマン主義的な「絶対」は「党」の「絶対」的な唯物弁証法の対抗理論となっていたわけで、特に30年代はマルクス主義との関係抜きにロマン主義は語れないだろう。マルクス自身も、ロマン主義のハイネと友人だったわけで、この「絶対」は、経済的絶対の体系と何らかの形でかかわっていると言わざるを得ない。そこにはヘーゲルやシェリングの問題も関わっていると思う。ヘーゲル左派とロマン主義の関係も調べてみると面白そうだ。ともかく、まだ三分の一なので。

 さて、話は変わりツイッターを見ていると、自衛隊、第32普通科連隊の公式アカウントが「大東亜戦争」と表記していたそうで、それは「不適切」だという意見があった。自衛隊の公式アカウントがつぶやいているのだとしたら、それは「不適切」だろう。「大東亜戦争」と呼称する「立場」の人がいたり政治信条の人がいるのは、それは「不適切」ではない。というか適切とか不適切とかいうのではなく、一つの立場表明である。その戦争に対する史観として、「大東亜戦争」と呼ぶ一貫性を持つ人がいることはあり得る。しかし、公式のアカウントが「大東亜戦争」を呼称する場合、そこには「天皇(制)」の問題が関わってくることを覚悟してやっているのかどうかである。同アカウントは背景画像に「近衛兵」という言葉まで使っている。それは「天皇の軍隊」を呼称しているという認識でよいのか。もしそうだとして、三島由紀夫が生きていたら、第32普通科連隊が「天皇の軍隊」になったのだとして喜ぶだろうか。しかし、それは全くの逆である。革命の力能としての「文化概念としての天皇」に立脚して、天皇制戦後民主主義を根本から批判した三島にとって、現状の「ネトウヨ」的な「大東亜戦争」と「天皇制」を賛美した軍隊など、「反動」以外の何物でもない。それともそうではなく、第32普通科連隊は、三島のいう「文化概念としての天皇」を戴いてまでも「東亜」に革命をもたらす革命軍、即ち反乱軍になる覚悟を以って「大東亜戦争」と言っているのだろうか。そのつもりなら一貫性はあるかもしれない。しかし、もしそのような革命軍になるつもりがないならば、「大東亜戦争」というのは、「不適切」である。何故ならば「大東亜」というイデオロギーは「天皇(制)」と不可分だからだ。三島はその意味で「反乱軍」を作りたかったわけだろう。政治制度としての「天皇制」ではなく、革命の根拠となる「天皇」の軍隊を作るために市谷にも立てこもったし、「226事件」にも惹かれたはずである。第32普通科連隊が、反乱軍や革命軍になるつもりもなく、単に俗情に迎合するため、安易な愛国心に便乗するためだけに「大東亜戦争」と言っているとするならば、そこには一貫性はないし、史観を全く欠いた「不適切」なつぶやきだといえる。それは「大東亜」という史観を維持しようとする右派に対する侮辱にもなるだろう。ただ、君主制も軍隊も認めてしまっている共産党がいる中で、自衛隊がこのようなつぶやきをするのは、「左・右」がむしろ一致して天皇制戦後民主主義を護持している現れなのではないか、とすら思った。それは国民の大多数が、天皇制下の軍隊(自衛隊)を無意識に認めているという意味で、今回の自衛隊のアカウントは、天皇制戦後民主主義を認めている国民の無意識を代弁したともいえる。実際、国民の大多数は無意識に「大東亜戦争」という呼称を拒否していないのではないか。これは「大東亜戦争」を批判している国民の無意識も例外ではない。

 とはいうものの、一般的な意味において、今の自衛隊が三島のいうような「文化概念としての天皇」を軍隊の原動力と考えているはずもなく、天皇制戦後民主主義を守っていくだけなのだったら、「大東亜戦争」などいう意味はない。しかも「公式アカウント」が「大東亜戦争」という憲法や天皇制の根幹に関わり、かつ東アジアへの侵略戦争を含む名称を、なんの史観や考慮や調査や検証もなく、安易に、しかも国民の俗情にべったりと寄り添うだけに発言しているのだとしたら、組織としての見識を疑う。それは組織上の欠陥ですらあると思う。軍事戦略上、統制が取れていないという意味で非常に危険な組織ともいえよう。ふつうの意味で「公式アカウント」なのだから「常識」を守れよ、と思う。

 そして、ロマン主義の断片を包摂する絶対的で神秘的体系と「大東亜」はどのような関係にあるのか、という問いは1930年代の問題であろう。

「ストイック」に大谷選手の報道を考えてみるならば

2024年04月01日 | 日記と読書
 三月は年度末ということもあり、時間が取れず、読書も進まないし、また運動不足にもなり、ブログを書く余裕も失っていた。昨日からはキーボードの打ちすぎだと思うが、左手首が腱鞘炎になって、湿布を張ることとなった。ほぼ腱鞘炎とは無縁の体であったが、ここ二年くらいは年一回くらいで左手首の腱鞘炎になることがある。これまでは数日で治るのであるが、こんなに痛いものとは思わなかった。特に左手首は、中学生の時に大きな骨折をしているので、それも要因の一つかもしれない。また、文章を書く以外に、僕はFPSをキーボードでしており、「WASD」とシフトキーが移動手段で、様々な動作を結構不自然な指の動きでやっているので、悪化したのかもしれない。昨日の夜は痛みで二時間ほど寝られなかった。今は湿布のおかげで快方に向かっている。しかしこうやって文字を打っていると、手首が疼く。

 さて、『ディルタイ全集』第三巻と『文学的絶対』が途中までだったので、読書を再開している。『失われた時を求めて』の第五巻も読み始めた。加えて、トム・ストッパード『コースト・オブ・ユートピア ユートピアの岸へ』(広田敦郎訳、ハヤカワ演劇文庫)を読みだしだ。バクーニン一家から話が始まるので読んでみたいと思っていた。こういう並行読みをしていると、全体的にペースが遅くなる。この前書いていた「東アジア反日武装戦線」の『反日革命宣言』と『狼煙を見よ』は読み終わり、ネットにある『腹腹時計』一巻は読めるとして、国会図書館に行って、所蔵されている残りの巻を通読してきた。「日帝本国」などの用語もそうだが、支配や植民地、差別を構造的に把握し、そのような把握をすると、少なくとも国民国家としての日本(国民)は、それからの責任から逃れられない。それはその通りだと思う。資本主義的搾取構造で国民が食っており、「先進国」と呼ばれる地域で生きる人々の多くは、この責任から逃れることはできないだろう。このストイックさは、ポストコロニアリズムやカルチュラルスタディーズ、フェミニズムといった学問が、ものすごく単純なたとえ話でいうと、「太平洋戦争」と呼んでいたものを「アジア・太平洋戦争」と読み換えたり、男女の二項対立に拠らない人称を使ったりするストイックさに、確かに通じるなと思った。絓秀実が『革命的な、あまりに革命的な』(ちくま学芸文庫)でいった、「華青闘告発」が、マイノリティ運動の端緒になったというのは、納得がいく。ならば、そのストイックさをある意味で引き継いでいるこれ等の学問分野は、『腹腹時計』的な「テロ」をどう考えるのか、という疑問があるし、難しい問題であるが、考えるべき問題だと思う。単純に「テロ」はいけない、で済むのか。

 もちろん程度の問題はある。しかし、差別や支配というものが構造的なものであり、その構造を名指すには無限の詳細な差異化が必要であり、その差異化を阻んでいるのが、現状の資本主義的帝国主義なのだから、それらは壊れなければならない、という結論を、先に挙げた学問は、単純に「テロ」はいけない、平和な手段で、といういい方で拒否することができるのだろうか。これは「テロ」をするほうがよいと言っているのでは全くない。そうではなく、支配と被支配、差別の問題を真剣に考えると行き着く、構造的な剰余の問題、絓の分析でいえば「享楽」の次元を無視することはできるのか、という問題である。twitterでの単純な反差別や批評的言説を眺めていると(もちろん単純じゃない方もいます)、人を元気にしたり、勇気づけたり、啓蒙したり、楽しかったり……という、それが必ずしも悪いとはいわないが、そういう見方の発端には、「爆弾」作らないとつじつまが合わないよな、と考えた人がいるわけで、しかもそのつじつまを合わせようとしたこと自体が、いま「人道的」といわれる学問の「厳密」な概念やそれを規定する概念用語の成立のストイックさと関わっていると思うと、やはりこの「反日」の問題は無視できないと思う。これ抜きで、学問的ストイックさを信じているのだとしたら、それは勘違いだろう。

 話は全く変わるが、大リーグの大谷選手のニュースがうるさいほど続いている。僕は大谷選手個人への特別な感情はないし、成績はすごいのだから、野球選手しての評価はあるのだろう、それにも特に言いたいこともない。僕は学生時代まではプロ野球が好きでよくテレビでも見ていたが、近年は全く見なくなった(いわゆる外でやってる草野球を見るのは好き)。小学生の高学年まで、野球部であった父に、たぶん野球の選手にしたかったであろう願望の下、結構練習をさせられて、基本的動作はそこそこできるのではあるが、センスがないというか、要は野球音痴で、野球選手どころか、草野球のレギュラーもすれすれという実力でプレーするのは遊びの範囲になっている。その大谷選手の「通訳」の仕事をしている男性が賭博で巨額の負債を抱えて、当初の報道では、それを大谷選手が肩代わりをした、という報道がなされたが、後ほど大谷選手の関与はなかった、知らなかったという訂正の報道があった。事実はどうあれ、法律上、大谷選手が関わっていることになると大ごとになるので、説明に梃入れがあったのだろうと思う。

 それらのニュースを見ていて、「通訳」の男性と大谷選手の関係の報道の仕方が釈然としなかった。まるで、「通訳」の男性が、大谷選手が知らないところに、とんでもない害悪をもたらして、日本の大谷選手を汚した、というような論調なのだ。もちろん博打で借金をして他人に迷惑をかけるやつはろくでもないやつだ、と思う。それは僕が身近で経験をしたことがある故に、そういいたい。僕はそいつのことを一方的に非難はするし、できれば近くにいてほしくないと思いながらも、しかし、ストイックに考えると、それ自体構造的な問題で、そいつがどれだけ能天気に何も考えずに借金をしたのだとしても、それを招く構造(資本主義的)に僕も加担しているとはいえるよなあ、と考えはした。まあ助けてやれるならできる範囲でやるしかないな、と。諦念である。まあ僕の個人的な話は置いておく。

 現在の報道から言うと、確かに大谷選手は博打をやっておらず、とばっちりということになろう。それ自体はいいとして構造的な問題から言うと、多額のお金を扱い、そして報道でも大谷選手の「通訳」の仕事を超えて、心のパートナーであるかのようにこれまでは報道していたわけであり、その地位にいなければ、たとえギャンブル依存症であったとしても、数億円も借金をすることはなかった、といえるのではないか。ストイックに構造上、二人の関係を問題とすれば大谷選手が今回の件に「全く何にも」関わっていないとはいえない。もちろんこれは現在の所の大谷選手の「法律上」の問題を言っているのではない。構造上、関係上という立場のことだ。そう考えるならば、日本のナショナリズム丸出しの、大谷選手への賛美と「通訳」男性の排除は問題がある報道だと思う。現在解っている時点での、法律上の大谷選手の責任は問うものではないとしても、そのような巨額の賭博の機会を与えた構造上の問題はある。それを大谷選手をよくも邪魔してくれたな、というような報復的報道で「通訳」の男性を切り捨てるのはおかしいだろう。報道をするならば、選手をマネジメントする際の構造上の問題を批判的に扱うべきだ。

 これは友人とも話したのだが、大谷選手の日本での報道を見ていると「反動」的なものしか感じない。何もかもを予定調和的に賛美し、新しい知性の形だ、AI世代の野球選手だ、などなど。僕のナショナリズムを丸出しにして言わせてもらうならば、大谷選手の報道にかじりついている人を見ると、「敗戦後」に古橋廣之進に対して「フジヤマのトビウオ」とかいってトラウマを癒していた人々とどこが違うのだろうという気になった。僕の家族も大谷選手の報道をyoutubeでよく見ており、なんとも言えない苛立ちを感じるたのも、その衰退する日本の素朴なナショナリズムを、洗練された選手のマネジメント能力への応援という形で糊塗していることへの苛立ちともいえる。「ギブ・ミー・チョコレート」と何が違うのだろうか、と。しかし今回、その賞賛していたはずの大谷選手のマネジメントの問題が露呈したのではないか。それは構造的に検討する問題である。選手や「通訳」の個人を詮索したり批判すること以上に、きちんと「日帝本国」の資本主義的搾取の構造上の問題を、大谷選手とその「通訳」の男性の問題から考えないといけないと思う。

高価な古本を購入する

2024年03月12日 | 日記と読書
 じんぶん堂企画室(聞き手:滝沢文那)の『柄谷行人回想録 』が面白くて、ネットで毎回読んでいる。その中の「試験勉強でつかんだマルクスの「本領」:私の謎 柄谷行人回想録⑤」では柄谷が、大学時代の試験の話をしていて、柄谷は東京大学の経済学部の出身で、大学院で英文学の研究に進み、僕は高校時代に新潮文庫の夏目漱石『明暗』の解説を書いていた柄谷の文章が面白く、また経済学部から文芸批評をしているということで当時の僕には印象に残っていた。別に経済学部から文学研究、文芸評論をすること自体は珍しがることではないかもしれないが、高校生の時は受験もあって、大学の学部というのは、将来の進路と繋がっているという単純な思考があるため、印象に残っていたのだ。当時、大学に入ってからようやくそれが文芸批評と呼ばれていると初めて知ることになる文章のジャンルを読んだ最初は、これは前にブログで書いたので繰り返しになるが、新潮文庫の漱石の小説に柄谷が解説を書いていたのを、高校生なりにこの人はちょっと他の解説とは違うものを書くな、と思っていて印象に残っていた複数の文章と、あとは『漱石とその時代』の江藤淳の「嫂」の話にフェティシズムを感じて、読みふけった評論だった。特に柄谷は大学からも単行本で出たものは、それなりに読んでいたと思う。文芸批評の文章ももちろん面白かったが、僕は『トランスクリティーク』(岩波書店)を一番興味深く読んだ。恐らく、柄谷が何を書きたいのかがおぼろげにわかりはじめたころであり、ある程度理解しながら読んだ(と思える)ことが、興味を持った原因だろう。そこでのマルクスの議論は、デリダの『マルクスの亡霊たち』(藤原書店)とネグリの『マルクスを超えるマルクス』(作品社)とトリアーデを作っている、と思って読んでいた。

 さて、話が脱線したが、「回想録」を読んで思ったのは、柄谷が学生時代どのような書物でマルクスの勉強をしたのだろうか、という疑問であった。〈柄谷通〉の人は知っているのかもしれないが、宇野弘蔵の経済学、平田清明や岩田弘の影響があるらしい程度の認識で、特に何の手掛かりも積極的に調べようとも思ってなかったが、「回想録」を見ると柄谷は学部生時代、鈴木鴻一郎編の『経済学原理論』を試験で勉強し、「わかりやすかった」と言っていて、記事の写真でも柄谷が現物を手に取って眺めて見ており、一度読んでみたいと思った。

 別に今これを読む意味はないかもしれないが、amazonで調べると、上下で3万5千円以上する。日本の古本屋ではそもそも見つからなかった。しばらく古本屋をめぐりをすると、上下で1万4千円で並んでいた。amazonの半額以下ではあるが、買う意味があるか値段の高さに躊躇したが、「回想録」の雰囲気を味わうためにも、買っておこうということで購入した。僕は読書自体は元来好きではないが、妙なところで、書物の雰囲気というか、その時代性というか、それを読んでいた人物というか、そういうものにフェティシズムを感じて、高価な古書を衝動的に買ってしまうことがある。語義矛盾かもしれないが、一過性のフェティシズムであることが多い。本には元の持ち主の人の蔵書印が押してあり、どうやら北海道の方のようで、下巻には当時の領収書がそのまま挟んであり、「680円」だったようだ。この元の持ち主である北海道の方も柄谷と同い年かその周辺の年代に大学生だったのだろうという想像をしている。西部邁は寮の天井にこの本の「まとめ」を書いて張って試験対策をした、と「回想録」には登場する。初版は1960年に出ているので、まさしく柄谷が回想している「60年安保」の年に出た書物だ。当時の大学生はどういう存在であったのか、興味がある所である。僕の家族は、親類まで広げても、僕が初めて大学に行った人間なので、それ以前の大学生がどういうものだったのかは身近な人からは聞けなかった分、憧れがあるのかもしれない。

 今は他の仕事で時間がなくて、むしろその仕事に忙殺されて心の余裕がないが、少しだけ読んだ。経済学が、ヘーゲルを想起させるような、こんな観念の運動の歴史であるかのように大学で講義されていた時代が、1960年代にはあったのか、という妙な驚きがある。自分が大学で経済学を勉強した時は、もうマルクスなどシラバスのどこを探しても存在せず、マクロ経済やミクロ経済でグラフを画いたり読み取ったりしており、理解力もなく、これは何をやっているのかとぼうぜんとしていたのだが、こういう本があったら、経済学が好きになれたかもしれない、というのは後付けに過ぎるか。そういえば大学時代にマルクスの言葉を初めて聞いたのは、哲学の先生で、勿論マルクスという名だけなら大学以前でも聞いてはいるが、学問の対象として聞いたのはその時が初めてであり、その教員はやたらと本当にマルクスは古くなって必要ないのか、という問いを常に発していた。当時は何でこの人はマルクスにこだわるのだろう、と思っていたが今思うと「68年」に学生運動をやっていた世代であった。その教員は、フォイエルバッハとシュティルナーなど、ヘーゲル左派の系譜を教えてくれ、なぜヘーゲルは右派と左派に分かれたのか、ということも熱心に講義してくれたが、それは後々ためにはなった。マルクス経済のマの字もなくなっていた僕の学部時代に、マルクスという言葉を刷り込んだのはその教員であり、柄谷のようなマルクスや大学の人々とのエリート的な出会いはしていないが、僕も大学で確かにマルクスの名前くらいには出会っていたのだろう。

付箋を貼りながら読み、栞は喫茶店のストローの紙袋。