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「プチット・マドレーヌ」は越えたので許してほしい

読んだ本の感想を主に書きますが、日記のようでもある。

弁証法的盆

2025年08月16日 | 日記と読書
 昨今の政治、ネットの状況を見て、やはりヘーゲルを読みなおさなければならない、というどこからともなくわいてきた必然性に従って、『精神現象学Ⅰ』(山口誠一訳、知泉書館)を読み始めた。二分冊になっており、一冊目は読んだが、翻訳はこなれておりわかりやすく、かつ解説が本文の三倍近くある。このような解説や注記は〈余計なお世話〉と見る向きもあるが、昨今の政治、ネット状況を見ていると、ともかく勉強してみようという気で、解説もまじめに読んでいる。一分冊目は読み終わり、「Ⅱ」に入る予定だったが、『フィヒテ全集』(晢書房)の第四巻「初期知識学」(隈元忠敬+阿部典子+藤澤賢一郎訳)が、半分ほどの読み止しで放置してあったので、かつてブログでも書いたように、ヘーゲル弁証法の〈元ネタ〉と思われる「初期知識学」を接ぎ木して、「Ⅱ」につなげていきたい。このような政治でもネットでも〈左右〉の区別があいまいになって、適当なことを機会主義的に論争しあっているのはよくないと思い、けじめをつけるためにもヘーゲルを読みなおさなくてはいけないだろう。ネットを眺めただけでも、この時期にヘーゲルを読み直している人はちらほらおり、勝手ながら、同じように考えている〈同志〉がいるのだと、恣意的な同時代性を感じている。僕の雑駁な理解で言えば、ヘーゲルの、そしてフィヒテの弁証法は、否定としての矛盾、あるいは無を、同一性それ自体を生成させている差異の戯れや、潜勢力として記述している。この論理学は、同一性の中に分かちがたく結びついてしまっている差異との関係を具体的に記述しているところが面白い。自分自身の内には常に自分と矛盾する契機が混ざってしまっており、その同一性を汚染している差異の潜勢力を、弁証法は運動や時間性(歴史)として考えられるようにする。主体と非主体、自我と非自我、主観と客観、これらの内で働いている運動や歴史を理解する上では、弁証法は必須となる。昨今の機会主義的で、適当にその時々の相手の矛盾を突くことで論争しているような、主体と非主体との闘争を忘れてしまった論争を見ていても、何の歴史性もイデオロギー性もないので、〈左右〉などそれはなくなるに決まっている。〈A=非A〉という弁証法から考えれば、反対側のイデオロギーの欲望こそ、自分のイデオロギーを差異化して生成する媒介のはずだろう。ということは、例えば左翼を左翼足らしめているその否定的媒介としての極右政党の欲望は、実際は左翼の欲望でもあるはずだ。それ自体が左翼を左翼足らしめる差異の潜勢力である。僕はこのような弁証法を経ないで、機会主義的な批判を繰り返す、主体化の運動と歴史性を持たない人々を、さしあたり〈リベラル〉と見ている。

 盆で実家に帰省し、萬屋錦之介主演のテレビドラマ『柳生新陰流』を一気に見てしまい、錦之介のともすれば平板にしか見えない演技が、逆にリアリティを感じさせて面白かった。とにかく実家に帰ると時代劇しか見なくなった。毎年、提灯で迎え火送り火をしており、14日の迎え火は何事もなかったが、15日の送り火の日に、人工透析をしている親族が腹膜炎を起こしたということで入院の手続きをしてきた。幸い症状は軽く、ごく初期との医師からの説明であった。しかし腹膜炎自体が軽い病気ではないため、入院での治療となる。盆でも看護師や医師は忙しく働いており、高齢化とケア労働の問題を考えさせられる。

機関誌『月刊 「性別」』を読みながら、ブロッホについても考える

2025年06月16日 | 日記と読書
 数日前に「「性別」破壊党」の機関誌『月刊 性別』の創刊号を買った。党首自ら?の手書きの添書が同封されていた。「「性別」破壊党」を知ったのは、このブログでも以前に『情況』の2024年夏号の「特集 トランスジェンダー」の名古屋での討論会について書いたが、その特集の論文の中で、阿部智恵のものが一番「唯物論的」であり、本来左翼雑誌というのは唯物論的であるべきだと僕は思うのだが、この雑誌の特集は阿部論文のような唯物性を受け止められるものであったのか、という疑義を呈した時である。その疑義については繰り返さないので、以前の記事を読んでもらいたい。僕自身は「性別」あるいは「性的差異」は、「精神」と「物」との連関を考える上でのアポリアであると考えている。伝統的に「精神」と「物」は二項対立的に捉えられており、主に西洋形而上学の内側では、「精神」が優位性をもっている。ただ、形而上学もこの「精神」と「物」の矛盾をどのように揚棄するかという問題は思索されていて、近くわかりやすいところでいえば、デカルトやカント、ヘーゲルなどは、僕のような哲学を専門的に知らない読者でも、その内容から理解できる部分も多い。例えばカントの「構想力」は様々なレベルでの解釈が可能であるが、「悟性」と「感性」の矛盾を図式化して連関させる能力だと考えれば、それは「精神」と「物」の間の矛盾を繋げる、何らかの認識論的能力といえるのだろう。ハイデガーはこの図式化を「時間」の様態として捉えていたと思うが、それを「差延」として読み換えれば、デリダも「精神」と「物」の間に、そのような差延を見ていたことになる。つまり、「精神」と「物」は矛盾しているが、それを連関させる何がしかの論理や理論を、これまで哲学者は考えて来たということである。芸術や文学というものは、「精神」と「物」を繋げる「構想力」の産物であると思うので、エクリチュールが「精神」でも「物」でもない、例えば「痕跡」として捉えられるのも、文学や芸術は「精神」と「物」を連関させる何ものかであるということに他ならない。

 僕は「性的差異」もそのような「精神」と「物」を繋げるものであり、あるいは「精神」にも「物」にも還元できない何かだ考えている。そういう意味で「性的差異」は思考することそれ自体の条件であり、同時に限界であるとも思っている。このような「性的差異」が「精神」や「物」へと還元されていく時に、現実的な意味での男根中心主義のロゴスが働き始める。デリダは、それを男根ロゴス中心主義というものを、何かの著作で、男根が性的欲望に関わること自体を否定しているのではなく、男根がジェンダー・セクシュアリティの認識論的・存在論的な布置を決定してしまう、そのロゴスの中心性を批判すべきだということを書いていたはずだ。それは当然で、男根もまた、本来は「精神」にも「物」にも還元できないエクリチュールの問題を持っているものだが、それが精神性や肉体性に還元されるとき、男性優位を司るものになる。しかし、男根という差異を排することはできない。何故なら男根をなくせば、その男根を脱構築する論理もまた動かなくなってしまうからだ。だから、脱構築は形而上学を「男」としてなくすものでもなければ、男根をなくすものでもなく、「精神」と「物」の関係を「差延」の関係として考え直す試みといえよう。それこそが「性的差異」を差異として、「精神」や「物」に還元できない〈モノ〉として考えることである。これはカントの「物自体」や精神分析のフェティシズムの問題、それはマルクスの「商品」のフェティシズムにも通じるものである。そういう意味では「性的差異」を思考するフェミニズムは唯物論的なもののはずだ。

 阿部は機関誌の記事で、自らが肩幅を狭めるときに切り取った鎖骨を「鎖骨ペンダント(呪物)」として写真でも示している。ヘーゲルは『精神現象学』の中で、「精神」を無理やり弁証法的に例えるならば、「頭蓋骨」だといえるだろう、という書き方をしていたと思う。僕はここを読むたびに奇妙な感覚に襲われる。というのも、ヘーゲルは何かここに言いにくいものを感じている気がするからである。砕けた言い方をすると、「「精神」は「頭蓋骨」として矛盾として現れている、これが矛盾としての弁証法だ!」というような感じで、ヘーゲルはそんなに堂々と言っている気がしない。どちらかというと、「「精神」という目に見えないものを、あえて言えば不承不承だけど「頭蓋骨」というしかないけどねえ……」というような形で僕は捉えている。何かここに言い難いというか、ヘーゲルが認めたくない何かがある気がする。そういう意味で、阿部の「鎖骨ペンダント(呪物)」とはまさしく、「性的差異」そのもののことだろう。ヘーゲルの言葉を借りれば、「性的差異とは鎖骨である」ということになるはずだ。

 また時間があれば、改めてエルンスト・ブロッホの著書については書きたいが、僕は最近仲間と読書会でエルンスト・ブロッホ『この時代の遺産』(池田浩士訳、水声社)を読んだ。その著書の中ではブロッホが、1910年代から40年代にかけて、反資本主義の〈地盤=遺産〉をマルクス主義とナチ、そしてスピリチュアリズムと争っている状況下で、いかにマルクスの唯物弁証法を堅持するかということを思索しており、現代というブロッホの言葉でいえば「多孔的」でグズグズの状況を考える上で、大変良い書物だと思った。ブロッホによれば、ナチやファシズム、スピリチュアリズムもまた反資本主義的な〈地盤=遺産〉を相続し、継承していこうとするが、結局はブルジョワに奉仕するようになるということであった。ブロッホは唯物弁証法、それは先の言葉で言い換えるならば、「精神」にも「物」にも還元されない、「精神」と「物」の間の差延的弁証法を考え抜くことで、そのようなファシズムとスピリチュアリズムを批判しようとする。しかし、「精神」と「物」を考えるという意味で、ブロッホもスピリチュアリズムを完全に脱していない。しかし、そのスピリチュアリズムと唯物論をどうやって「モンタージュ」(唯物弁証法と言い換えられるだろう)して反資本主義の〈地盤=遺産〉を創り出していくのか、ということを唯物論的に考えている。ブロッホのいう「ユートピア」はこのような「モンタージュ」、それはマルクス経済学に基礎に置いた弁証法の運動を基礎に置いた世界を作ることと解釈できる。しかし、その〈地盤=遺産〉はファシズムやスピリチュアリズムが簒奪し、結果的にはあれほど反資本主義の見せかけをなしながらも、結局はそれらが裏切り、ブルジョワに奉仕する世界を作っていくのである。

 もちろんブロッホは、ファシズムやナチの「情熱」は「本物」であるとし、それを嘘といっているわけではない。ブロッホは本来は反資本主義をマルクス主義が領導するはずが、その反資本主義をめぐる「情熱」を理論的に弁証法化し得ていないという批判をしているのだ。その反資本主義の「情熱」を「俗流マルクス主義」が軽視しながら、ファシズムやスピリチュアリズムに傾倒している奴らもいずれ眼を醒まし、その後は共産党が「情熱」の主導権を握るはずだと考えていたわけだが、そのような「俗流マルクス主義」の期待(観念論)は裏切られ、1933年以降のナチの台頭を招く。ブロッホは「俗流」に対抗して唯物弁証法を堅持しようとし、その弁証法が実は芸術や文学と連関しており、それが「遺産」でもあるとしている。これも「精神」と「物」の差延的弁証法につながるが、「俗流マルクス主義」はそのような弁証法を無視するので、反資本主義の「情熱」を理論化できないのである。そしてその「情熱」はナチやスピリチュアリズムに流れ込んでいく。これは現代においては「リベラル」がこの「情熱」をつかまえることができず、参政党やカルトにその「情熱」を横領されていく過程にも似ている。この「情熱」こそ、本来は「精神」と「物」の差延的弁証法の中で、反資本主義の欲望を現実に定位していかなければならないものであり、前衛党がそれを指導しなければならないはずである。しかし、なんの人気取りか、マルクスや唯物弁証法を前面に押し出さなくなった党は、そういう「情熱」を全く掬えなくなった。結果的にその情熱は観念論に横領される。「リベラル」と呼ばれるイデオロギー集団は、その意味で「情熱」を取り逃がしている。この「情熱」が掬えない状態のことを、僕は「ポリコレ」として批判されているのだと思う。この「情熱」はマルクスならばフェティシズム、精神分析の対象a、カントの物自体のように、観念にはどうしても包摂できない欲望のはずだ。前衛党自体もそういう対象だったはずである。しかし、そういう「情熱」を掬おうとせず、自民党を批判して左派的正しさを主張して、彼らを啓蒙すれば、いずれまた正常な世界がやってくるという「観念論」を信じている限り、ブロッホが経験したナチの台頭と似た状態を招くだろう。

 少なくともブロッホは、ナチやスピリチュアリズムの「情熱」を否認せず、反資本主義の「遺産」に関わるものとして真剣にとらえている。では現代の所謂「リベラル」はどうだろうか。「情熱」を掬い取る唯物弁証法を「リベラル」は保持しようとしているだろうか。僕は非常に懐疑的である。現実の問題として自民党を批判したり、不平等や差別を批判すること自体には、僕は全く異論はないし、それを差延的現実の運動でやっている人はいる。しかし、「情熱」を掬い取る理論に関しては、それほど真剣に考えられていないのではないか。いずれ別に書きたいが、パチンコやラーメンなどもそうだ。パチンコに並んでいる人、油とでんぷんのかたまりとしてのラーメンに並んでいる人、彼らの「情熱」をどうやって掬うのか。掬わないといずれ参政党などがわかりやすい形で横領していくのではないだろうか。僕は真剣にマルクスの唯物弁証法をやり直すしかないと思う。

 そういう意味で「鎖骨ペンダント」は一つの「情熱」であり、「性的差異」という欲望の形態そのものといえる。現代の科学技術においては生物学的男性は妊娠ができない中で、妊娠を目指すという矛盾的弁証法は、単純な意味でのスピリチュアリズムや観念論では思考することは無理だろう。「精神」と「物」の間にしか「情熱」は存在しないからである。読書会でも言ったのだが、「性的差異」「トランスジェンダー」「女性」の問題を、前衛党は唯物弁証法の柱として徹底すべきだ。ジェンダー・セクシュアリティの話題ばかりしていたから大衆が離れていく、それをテーマにするから選挙に負けるなどという、男根主義者のくだらない戯言など真に受けず、ジェンダー・セクシュアリティを唯物論的に考えることこそ「情熱」を掬い取ることになるという立場に立つべきである。そうしないと「ポリコレ」を越えることはできない。ジェンダー・セクシュアリティ、あるいはケアの問題には、その唯物弁証法と「情熱」の問題が結集している。前衛党がここに関わらなくて、何が前衛だといえるのだろうか。ブロッホの著書は、まさしくこの前衛性を問うているといえる。マルクスと唯物弁証法を避ける、ブロッホの時代でいう「俗流マルクス主義」としての「リベラル」は、この「精神」と「物」の間の「情熱」を理論的に考えないと、ファシズムやスピリチュアリズムとしての参政党に抗せなくなるだろう。この「情熱」は「善悪の彼岸」にあるのだから、「ポリコレ」を越えて、唯物論的に「正しく」考えないといけないはずだ。

パチンコと文学について?(2)+米について少し

2025年06月05日 | 日記と読書

 まずパチンコに全く興味がなかったり知識がない人がいると思うので、前回の続きとして、僕の「解釈」を雑駁に書きたい。前回紹介したPOKKA吉田の『パチンコがなくなる日』を読むと、2010年代前後のパチンコの状況がわかって面白い。特に、パチンコがいかに警察と癒着しながら、その警察との距離感の中で成り立っていくのかを、「組合」や「協会」の天下りの問題など、「内規」や風俗営業法の問題などと複雑に絡めながら論じており、勉強になった。僕自身はパチスロは打たなかった、波が荒いうえに、勿論大勝ちしたりそれでおいしい思いをしたのはパチスロ打ちに多いのは、僕自身も知っている。それはパチスロに「設定」があって、ある意味攻略が通用したからである。僕の知り合いも僕に向かって、何故パチスロを打たないのか、儲かるし、パチンコより確実だぞ、という誘いはあったのだが絶対に打たなかった。波が荒くて攻略があるという前提の博打こそ怖い、というのを僕は直観で感じていた。博打は胴元が勝つ前提の遊びであるにもかかわらず、打ち手が勝てるという意識で博打をやっている時点で、間違えなのだ。その証拠に、勝つぞ勝つぞと言っていた奴の多くが、借金を抱えることとなる。2000年前後では、千円で25回転する台があればそれをストイックに打つ。確率的に追いかけることができない状態では金を使わない、というのを僕レベルのストイックさでも貫徹していれば、月に10万円以上は勝てた。スロットは当時、「爆裂機」というような何十万も使って何十万も取り返す、というような本当に問題のある賭博性があったので、絶対に近づかないようにしていた。それで人生が変わっている奴がいたからだ。勿論ほとんどが悪い方に変わったわけだが。

 これがだいたい2005年あたりから、パチンコでも徐々に勝てなくなっていく。POKKA吉田の著書で、警察と「協会」の関係と、規制とその攻防、内規や法律の改正などを見ると、僕の感覚が間違っていないことがわかる。それくらいの時期から、パチンコに対する規制が微に入り細を穿つ、という形で強くなっていくからだ。POKKA吉田の著書では、この規制の問題が業界の問題として語られていくのだが、僕は少しここで違った形で私見を述べたい。というのも、僕がパチンコが徐々に勝てなくなり、面白くなくなっていく過程が、新自由主義経済の浸透と軌を一にしていると思われるからである。いわゆる郵政民営化と小泉新自由主義路線と、パチンコが面白くなくなっていくのは並行しているように、僕はずっと考えていた。

 僕がおかしいなと思い始めたのは、パチンコ業界がアミューズメントとして健全化を目指し始めたことと、打ち手の技術介入を排除して「平等」をうたいはじめたことだった。もちろんこれは警察の指導と関わっている。つまり、よく回る台を見つけて、時には打ち方を工夫するという技術介入によって、打ち手は勝とうとしていたわけだが、これは不公平だということだ。つまりそれができない打ち手はそれに比べて負けるので、そのような不平等な遊技は遊技と呼べないということだ。そのため、釘を調整すること自体が違法になる。前から違法ではあったのだが、色々な解釈でそれは、警察との妥協で釘の調整は黙認されていた。しかし、不公平にならないようにということで、調整がほぼできなくなっていく。小説家の柳美里の父親は「釘師」だったはずで、ベテランの釘師はかなりの収入を得られた仕事だったようだが、そういう釘師がいなくなっていくのもこの時期だと思う。実際この頃から、パチンコは「回らなく」なっていく。因みに、僕が学生の時に遊んでいた時は、よく回れば30回以上、平均で25回くらいは回っていたと思うが、2005年あたりから、どんどん回らなくなり、現在のパチンコは恐らく千円で約17回平均しか回らないと思われる。かつては1万円で300回回る台と、現在の一万円で170回しか回らない台ならば、当然、後者は倍近く勝てない。ということは、今パチンコで遊んでいる人は25年前の倍近く負ける可能性の高い台を打っている、といっていい。むちゃくちゃ不利な遊びをしているわけだ。

 僕は、この「平等」というのが当時からおかしいと思っていた。これは新自由主義的に言えばフェアな自由競争ということだろうが、このフェアというのは、ごく一部の勝ち組は作るのだが、全体的には搾取される構造になってしまう。この「フェア」な環境を作るためのインフラのコストが、ほとんど客に被せられることになる。パチンコという博打は胴元が100パーセント勝つようになっている。その中でかつては還元率90数パーセントを客が分け合っていたのだが、そこに釘調整や技術介入があった。それは店が釘や遊び方の中で意図的に客へと利益を還元する方法でもあったのだ。しかし、それができなくなるとどうなるかというと、全体が「平等」に負けるようになるしかない。今はパチンコ業界は厳しく、還元率は85パーセントらしい。素人考えだと100のうち90や85も返ってくるのだったらいいじゃないかと考えがちなのだが、統計をやった人はわかると思うが、期待値が85というのは、その数値で遊び続けると、とんでもなくマイナスに振れてしまう。投資金がでいうと、とんでもない借金を抱えるレベルの数値だといえる。そういう意味で今はパチンコ自体がぼったくり商売となってしまっている。遊技の健全化と平等化が進み、アミューズメント化が進むと、等しく全員が負け、勝つのは遊戯機メーカーとホールになる。しかしここにも力関係があり、メーカーは機種の販売という特権からホールを搾取し、そのためホールは客から搾取せざるをえなくなる、という構造になっていく。本来は、高い射幸性を排除して、業界の健全化をするということで、パチンコは新自由主義化したわけだが、これは社会と同じで、博打を民営化すると、等しくみんな負けて、メーカーという大企業だけがでかくなる、ということになる。フェアな自由主義市場がいかに富を偏らせるかというのが、博打でもわかる。昔は不可解な「操作」のおかげで、薄く広く負けていて、その中で、釘や技術介入で勝てる人がいたわけだが、フェアな自由主義経済をパチンコに導入したら、格差がでかくなっただけで、巨大メーカーだけが潤うという、とんでもない構造になったわけだ。

 最近は、更に「荒い」(ハイリスクハイリターン)機種が増えており、LT(ラッキートリガー)という出玉性能を持つ台があるが、これがとんでもないことになっている。youtubeのパチンコ実践動画などを興味があったら見てほしいが、7万も8万も投資して10万円以上勝つのを期待するという、普通の人はついていけない金銭感覚の遊びになりつつある。本来、射幸性をあおるな、というために、この20年間は新自由主義化してフェアな遊技を警察も目指してきたのだが、パチンコ業界が衰退しているのを復活させる起爆剤として、こういう「荒い」パチンコ台がどんどん出始めている。この「荒い」、「投機的」な台が増えてきているのは、先ほども書いたフェアな遊技の推進と、パチンコのアミューズメント化の結果だと思う。昔なら釘の調整や技術介入で利益の分配が「意図」されていたわけだが、フェアな遊技ではそれができない。だから打ち手である客に、リスクを取らせて、「荒い」機種で投機的な遊び方をさせるわけである。だから、この状況を僕はパチンコの金融取引化、FX化と呼びたくなる。だがそこには、フェアな遊技があるのだから、借金を背負っても自己責任で、ということだ。

 このようにパチンコの「平等化」と「アミューズメント化」は20年以上前から僕はずっと懐疑してきたが、もう引き返せない形で、パチンコは新自由主義化されてしまったのだと思う。「平等化」と「アミューズメント化」というジェントリフィケーションがいかに資本的には「荒く」、「投機的」な社会を作るかというのが、博打でもまざまざと見せつけられている気がする。もしかしたら後に触れるかもしれないが、この新自由主義の荒波の中で、そういうフェアな自由市場に対応できない中小のホールはつぶれていっている。恐らく僕が学生の時と比べると、全国のパチンコホールは4分の1程の数になっている。僕はこれは疑っているのだが、従来、パチンコ業界の多くは「カジノ」に反対である。「カジノ」こそ自由と平等の博打なのだが、パチンコ業界は、業界のその成り立ちから考えても反対が大多数だと思う。だが、この新自由主義のジェントリフィケーションによってパチンコ業界が淘汰されていき、トータルの力が削がれていくと、必然的に「カジノ」推進派がパチンコの団体圧力に勝利するのではないか。そしてこの20年のパチンコ業界の必然的な衰退は、新自由主義側の「カジノ」推進の為の施策だったのではないか、すら思われてくるのだ。

 長くなったが、これを書いたのはパチンコが何かわからない人への、僕なりの「私見」を書いたのだが、前の投稿ではヒロシ・ヤングという人の著書も挙げていたと思う。彼にはyoutubeチャンネルに「ヤングちゃん、寝る?」という番組があって、色々パチンコの情報を発信している。彼はバブル期以降、パチンコが隆盛する中で、ライターやパチンコ番組の製作に携わっていた人物で、彼のパチンコへの発言には、パチンコ業界はマージナルなもので、そこは網野史観的な意味で「無縁」や「公界」のような役割を果たしていた、というような主張がある、と僕は解釈している。そういう意味で、彼はメタ視点で業界を見ている人だと思う。その背景には、パチンコと芸能、音楽、芸術、映画、文学などと、共通点があるという発想があるはずである。少なくとも僕にはそう見える。先ほど柳美里の父が釘師、という話を書いたが、そういうパチンコがマージナルなものだ、POKKA吉田の著書にも「民族とぱちんこ」という章があるが、そういう問題と彼の主張は関わっているが、まあ、youtubeで多くのパチンコファンにはそんなことを話しても見てくれないわけで、たまにしかそういう話はしないが、彼はそういう意識をもってパチンコを見ていると思う。ただ、その意識に僕はある部分同意し、ある部分批判的だ。

 そういう「無縁」や「公界」のような場所として、僕も少なくとも学生時代は、そういう思いで見ていたわけだが、それが新自由主義的なジェントリフィケーションの中で変質していく問題が、ここにはある。とりとめもないが、こういう感じで思いついたように話を作っていくつもりだ。文学とパチンコがつながるかどうかは全くわからないが……ただ、繋がる場所はあると思う。

 話は全く変わるが、米不足と米の価格の高騰は、先物取引のせいだろう。それこそ「投機」のせいである。食料を投機の対象にするべきではない。的外れの農協たたきをしている人がネットには散見されるが、農協潰しのための扇動にまんまと乗せられているのだろう。農協がいいかどうかは、色々な意見はあるだろうが、少なくとも今の米の問題は、先物取引による投機の結果だ。論点をずらされ、農協を叩いている場合ではない。それこそ、自由でフェアなコメの取引なんかすると、絶対に利益を上げるように投機的な売買をされるに決まっているのだから、これからますますひどくなるしかないだろう。それでも、既得権益とか言いながら農協を叩いているのは、本当に残念な気持ちにしかならない。自分が一体誰に搾取されているのか、全くわかっていないのだ。こういう一部の富豪の投機的取引のコストを、全くそれとは関わりのない人々に負わせる無責任な新自由主義を、なぜこぞって容認して、農協を叩いているのか全く理解できない。

 

 さて、模索舎と通信販売、そして古本で本を買った。『Агитпроп』(創刊号、形而上学研究会)、『Macintosh』(嶋田祐輔企画)、神保美佳『パチンコ年代記』(バジリコ)、吉田栄華『偏愛パチンコ紀行』(釘曲げ出版)


詩集と句集を買う

2025年02月05日 | 日記と読書
 最近買った本を書いてなかったと思い、実際は雁屋哲関係の本をかなり買ったのだが、それはおいておいて、究極Q太郎の詩集『散歩依存症』(現代書館)、高橋鏡太郎句集『無縁者』(共和国)、あと古本で『江古田文学』(江古田文学会)の1988年の特集第二弾「詩人・山本陽子」などが、直近で手に入ったものである。まだぱらっとしか見ていないので、読んだ後に感想を書きたい。特に僕としては、良くネットでも話題になる「詩がわかる、わからない」問題に囚われているところがあり、大半が「わからない」わけだが、その中でも山本陽子の詩は、衝撃を受けた一つといえる。山本の詩は、まだうまく言うことはできないが、セクシュアリティの問題を考える上で、重要だと思う。それは享楽やエクリチュールの次元の問題を考えなければならない詩だと思うからである。

 昨今、告発されている「批評」や論壇が男性中心主義だということは、僕も否定のしようがないものと考えているが、いわゆる文芸批評的なテクストや手法それ自体が「男」であり、そうではない何か多様性を代表するような「批評」があるというのは間違いだし、多様性を代表=代行するという考え自体が、実は男性中心主義の根源のようなものだということは、考えなければならない。「批評」が「男」を「代表=代行」しているのだから、それを多様性の「代表=代行」にしなければならないと考えたとしても、「代表=代行」という representation の構造自体が、デリダのいうような男根ロゴス主義なのであって、「批評」をなんとなく多様性の方に引っ張ったとしても、代表=代行制度に無自覚に依拠するのならば意味がない。それよりも男性批評家が「男」としての「批評」を所有していたとすれば、他なる性がその「男」の「批評」を脱構築的に解放するしかない。「代表=代行」制度というのは、西洋近代社会においては、不可避に通過しなければならないものだし、その「代表=代行」への批判であったとしても、だからこそ、この「男」のロジック(通路)は不可避なものである。これを意識的に避けられると考えたり、これから離れた全く別のロジックがあると考えるのは、結局は「代表=代行」の通路にいながら、それを「否認」するだけでしかなく、ますます「男」という物神を強固にしないとも限らない。デリダがエクリチュールと脱構築の問題で扱ったのは、少なくとも形而上学批判は形而上学の内部でしかできないのだから、単純化していってしまえば、その内部に外部を求める問題と対峙しなければならない、ということだろう。確かこれをデリダは、『グラマトロジー』の中で、「内部は外部である」という形で表現していたはずだ。

 それ故、「批評」や論壇、文芸誌を男性が支配していたという下部構造の問題は、もちろん経済的な平等も含めて女性や他なる性に開放していくのは当然として、しかし、女性や他なる性が「批評」をすることは、決して以前のような男性批評家がやっていた「批評」から離れたものになるということには、必ずしもないはずである。先ほども言ったように、男性批評家もその「批評」の中で、その高度なものは、必ず「代表=代行」への批判があり、男性中心主義への批判があった。しかし、この「男」という「批評」を避けるために、内容的に多様性を「代表=代行」する「批評」にシフトしたとしても、それを女性や他なる性が担おうとも、「代表=代行」の無意識の追認という意味では、結局「男」になるしかないということである。単純に学問的学歴的に特に女性は差別されている結果、「批評」を欲望する裾野も狭められ、いわゆる「文芸批評」に携わる機会が少なく、かつ文壇論壇が男性中心の経済で運営されているために、女性がかつての「男」という「批評」に携わっていないだけではないか。文芸批評という手法やテクストがマッチョだからダメだという話にはならない。かつての「批評」の上質な部分が担っていた、「代表=代行」の批判と、男性中心主義への批判は、現在のフェミニズムにとっても重要な問題提起になっているはずだ。「男」が支配していたから「文芸批評」に女性や他なる性が少なく、そのため批評は硬直していたというのは、全く正しいのであるが、しかし、その「男」を回避するために、多様性や、これまでやってきたマッチョでゴリゴリな「ザ・文芸批評」を回避した結果、多様性を「代表=代行」したり、当事者やマイノリティを「男」よりも「代表=代行」するという建前でテクストが書かれるとするならば、それは「代表=代行」という「男」への、そしてかつての「批評」への無自覚な回帰と服従になってしまうだろう。「批評」の「売れる・売れない」問題もその変種といえる。どちらが読者という消費者の欲望を「代表=代行」するかという経済ゲームは、本当にマッチョである。だからむしろ、「男」という「批評」の構造に他なる性として乗り込んで簒奪する方が良いのではないだろうか。単純に攻撃的でなく、人をけなすのでもなく、多様な考えを尊重する、即ち多様なものを「代表=代行」すれば「男」から離れられるという思考自体がすでに、男根ロゴス主義であり、もっといえば何も考えていないということにすらなるだろう。それこそが、「代表=代行」という「暴力」に繋がっているということに無自覚だからだ。

 このような「代表=代行」の「暴力」に対して、山本の詩は不安や動揺を与えてくれる。『江古田文学』に絓秀実も書いているし、また『絓秀実コレクション』にも所収されている山本陽子への批評にもあるが、山本の詩はかなり不可解で、この「代表=代行」制度自体がなかなか捉まえられない詩になっている。詩は「代表=代行」の(不)可能性の条件そのものであり、それこそがエクリチュールというものでもある。また、確か山本の遺稿集の山本の同人仲間が書いていたと思うが、山本は「女性ではなかった」ということを書いていたと思う。僕はそれはすごくしっくりきた。山本の書くものを読むと、確かに〈男女〉という二項対立で考えられる「女性」とは違う。もっと言うと別に女性を「代表=代行」していない。そういうものとして捉えられることを頑なに拒否しているように見える。この「頑なさ」が山本の不気味さだと思うし、何かこちらの欲望に触れてくるものだと思う。そしてこの〈男女〉という二項対立で考え得る女性への頑なな「否」、あるいはそこからの逃走こそが、ドゥルーズ=ガタリのいった、「女になること」や「女性への生成変化」ということになるだろう。そしてこれは同時に〈男女〉という枠組みそれ自体からの逃走でもある。しかしそれは安易な自由な性への解放や、アナーキーな性別それ自体の揚棄ではない、例えそれへの夢はあるかもしれないが、この「頑なさ」こそがセクシュアリティの核として、この抵抗こそが、「性的差異」と呼ばれるそのものだからだ。山本の詩にはそのような「頑なさ」の「性的差異」が読み取ることができ、僕のジェンダー・セクシュアリティを動揺させ、欲望に対する不安を掻き立ててくる。その意味で、山本の詩は「批評」であるといえるのである。山本の「頑なさ」や「女性には見えない」その詩としての活動と存在は、多様性を「代表=代行」しているような「批評」では捉まえることはできないだろう。そのような多様性というマッチョなものの対極にあるのが、山本の詩だからだ。

 何かを「代表=代行」したくて仕方がないことの問題は、テレビでもどうしようもなく話題になっている、「女子アナ」という問題とも重なると思うが、これはまた後日に書こう。

初詣と『美味しんぼ』

2025年01月01日 | 日記と読書
 新年あけましておめでとうございます。

 久しぶりに年明けすぐに、村の氏神へ初詣。また、僕の村は小さな村にもかかわらず、徒歩圏内に四つの寺があり、すべてで除夜の鐘が鳴るので、都合500以上の鐘が撞かれる。小学生の甥は、撞きに行っていたようだ。


 新年早々実家に、古本屋から『美味しんぼ』が102巻届いた。現在110巻が刊行されていて休載中なので、ほぼすべての既刊分が届いたことになる。僕は『美味しんぼ』を中学生の時から欠かさず読んでおり、高校の生物の時間のレポートは、『美味しんぼ』で環境問題を論じたことがある。確か「長良川河口堰問題」についての内容であった。ただ、70巻を超えたあたりから、単行本自体は買わなくなっていった。実家の倉庫にはその70巻余りが現在も眠っているはずだが、探し出すのが一苦労なので、この際もう一度単行本を一挙に買った。全102巻で15000円だったので、かなり良心的な値段である。正月休みは、『美味しんぼ』を熟読しようと思う。


 年明けの正月エピソードの『美味しんぼ』の最後には、「今年もよろしく 美味しんぼ――」というフレーズがよく書かれていて、印象に残っている。