まずパチンコに全く興味がなかったり知識がない人がいると思うので、前回の続きとして、僕の「解釈」を雑駁に書きたい。前回紹介したPOKKA吉田の『パチンコがなくなる日』を読むと、2010年代前後のパチンコの状況がわかって面白い。特に、パチンコがいかに警察と癒着しながら、その警察との距離感の中で成り立っていくのかを、「組合」や「協会」の天下りの問題など、「内規」や風俗営業法の問題などと複雑に絡めながら論じており、勉強になった。僕自身はパチスロは打たなかった、波が荒いうえに、勿論大勝ちしたりそれでおいしい思いをしたのはパチスロ打ちに多いのは、僕自身も知っている。それはパチスロに「設定」があって、ある意味攻略が通用したからである。僕の知り合いも僕に向かって、何故パチスロを打たないのか、儲かるし、パチンコより確実だぞ、という誘いはあったのだが絶対に打たなかった。波が荒くて攻略があるという前提の博打こそ怖い、というのを僕は直観で感じていた。博打は胴元が勝つ前提の遊びであるにもかかわらず、打ち手が勝てるという意識で博打をやっている時点で、間違えなのだ。その証拠に、勝つぞ勝つぞと言っていた奴の多くが、借金を抱えることとなる。2000年前後では、千円で25回転する台があればそれをストイックに打つ。確率的に追いかけることができない状態では金を使わない、というのを僕レベルのストイックさでも貫徹していれば、月に10万円以上は勝てた。スロットは当時、「爆裂機」というような何十万も使って何十万も取り返す、というような本当に問題のある賭博性があったので、絶対に近づかないようにしていた。それで人生が変わっている奴がいたからだ。勿論ほとんどが悪い方に変わったわけだが。
これがだいたい2005年あたりから、パチンコでも徐々に勝てなくなっていく。POKKA吉田の著書で、警察と「協会」の関係と、規制とその攻防、内規や法律の改正などを見ると、僕の感覚が間違っていないことがわかる。それくらいの時期から、パチンコに対する規制が微に入り細を穿つ、という形で強くなっていくからだ。POKKA吉田の著書では、この規制の問題が業界の問題として語られていくのだが、僕は少しここで違った形で私見を述べたい。というのも、僕がパチンコが徐々に勝てなくなり、面白くなくなっていく過程が、新自由主義経済の浸透と軌を一にしていると思われるからである。いわゆる郵政民営化と小泉新自由主義路線と、パチンコが面白くなくなっていくのは並行しているように、僕はずっと考えていた。
僕がおかしいなと思い始めたのは、パチンコ業界がアミューズメントとして健全化を目指し始めたことと、打ち手の技術介入を排除して「平等」をうたいはじめたことだった。もちろんこれは警察の指導と関わっている。つまり、よく回る台を見つけて、時には打ち方を工夫するという技術介入によって、打ち手は勝とうとしていたわけだが、これは不公平だということだ。つまりそれができない打ち手はそれに比べて負けるので、そのような不平等な遊技は遊技と呼べないということだ。そのため、釘を調整すること自体が違法になる。前から違法ではあったのだが、色々な解釈でそれは、警察との妥協で釘の調整は黙認されていた。しかし、不公平にならないようにということで、調整がほぼできなくなっていく。小説家の柳美里の父親は「釘師」だったはずで、ベテランの釘師はかなりの収入を得られた仕事だったようだが、そういう釘師がいなくなっていくのもこの時期だと思う。実際この頃から、パチンコは「回らなく」なっていく。因みに、僕が学生の時に遊んでいた時は、よく回れば30回以上、平均で25回くらいは回っていたと思うが、2005年あたりから、どんどん回らなくなり、現在のパチンコは恐らく千円で約17回平均しか回らないと思われる。かつては1万円で300回回る台と、現在の一万円で170回しか回らない台ならば、当然、後者は倍近く勝てない。ということは、今パチンコで遊んでいる人は25年前の倍近く負ける可能性の高い台を打っている、といっていい。むちゃくちゃ不利な遊びをしているわけだ。
僕は、この「平等」というのが当時からおかしいと思っていた。これは新自由主義的に言えばフェアな自由競争ということだろうが、このフェアというのは、ごく一部の勝ち組は作るのだが、全体的には搾取される構造になってしまう。この「フェア」な環境を作るためのインフラのコストが、ほとんど客に被せられることになる。パチンコという博打は胴元が100パーセント勝つようになっている。その中でかつては還元率90数パーセントを客が分け合っていたのだが、そこに釘調整や技術介入があった。それは店が釘や遊び方の中で意図的に客へと利益を還元する方法でもあったのだ。しかし、それができなくなるとどうなるかというと、全体が「平等」に負けるようになるしかない。今はパチンコ業界は厳しく、還元率は85パーセントらしい。素人考えだと100のうち90や85も返ってくるのだったらいいじゃないかと考えがちなのだが、統計をやった人はわかると思うが、期待値が85というのは、その数値で遊び続けると、とんでもなくマイナスに振れてしまう。投資金がでいうと、とんでもない借金を抱えるレベルの数値だといえる。そういう意味で今はパチンコ自体がぼったくり商売となってしまっている。遊技の健全化と平等化が進み、アミューズメント化が進むと、等しく全員が負け、勝つのは遊戯機メーカーとホールになる。しかしここにも力関係があり、メーカーは機種の販売という特権からホールを搾取し、そのためホールは客から搾取せざるをえなくなる、という構造になっていく。本来は、高い射幸性を排除して、業界の健全化をするということで、パチンコは新自由主義化したわけだが、これは社会と同じで、博打を民営化すると、等しくみんな負けて、メーカーという大企業だけがでかくなる、ということになる。フェアな自由主義市場がいかに富を偏らせるかというのが、博打でもわかる。昔は不可解な「操作」のおかげで、薄く広く負けていて、その中で、釘や技術介入で勝てる人がいたわけだが、フェアな自由主義経済をパチンコに導入したら、格差がでかくなっただけで、巨大メーカーだけが潤うという、とんでもない構造になったわけだ。
最近は、更に「荒い」(ハイリスクハイリターン)機種が増えており、LT(ラッキートリガー)という出玉性能を持つ台があるが、これがとんでもないことになっている。youtubeのパチンコ実践動画などを興味があったら見てほしいが、7万も8万も投資して10万円以上勝つのを期待するという、普通の人はついていけない金銭感覚の遊びになりつつある。本来、射幸性をあおるな、というために、この20年間は新自由主義化してフェアな遊技を警察も目指してきたのだが、パチンコ業界が衰退しているのを復活させる起爆剤として、こういう「荒い」パチンコ台がどんどん出始めている。この「荒い」、「投機的」な台が増えてきているのは、先ほども書いたフェアな遊技の推進と、パチンコのアミューズメント化の結果だと思う。昔なら釘の調整や技術介入で利益の分配が「意図」されていたわけだが、フェアな遊技ではそれができない。だから打ち手である客に、リスクを取らせて、「荒い」機種で投機的な遊び方をさせるわけである。だから、この状況を僕はパチンコの金融取引化、FX化と呼びたくなる。だがそこには、フェアな遊技があるのだから、借金を背負っても自己責任で、ということだ。
このようにパチンコの「平等化」と「アミューズメント化」は20年以上前から僕はずっと懐疑してきたが、もう引き返せない形で、パチンコは新自由主義化されてしまったのだと思う。「平等化」と「アミューズメント化」というジェントリフィケーションがいかに資本的には「荒く」、「投機的」な社会を作るかというのが、博打でもまざまざと見せつけられている気がする。もしかしたら後に触れるかもしれないが、この新自由主義の荒波の中で、そういうフェアな自由市場に対応できない中小のホールはつぶれていっている。恐らく僕が学生の時と比べると、全国のパチンコホールは4分の1程の数になっている。僕はこれは疑っているのだが、従来、パチンコ業界の多くは「カジノ」に反対である。「カジノ」こそ自由と平等の博打なのだが、パチンコ業界は、業界のその成り立ちから考えても反対が大多数だと思う。だが、この新自由主義のジェントリフィケーションによってパチンコ業界が淘汰されていき、トータルの力が削がれていくと、必然的に「カジノ」推進派がパチンコの団体圧力に勝利するのではないか。そしてこの20年のパチンコ業界の必然的な衰退は、新自由主義側の「カジノ」推進の為の施策だったのではないか、すら思われてくるのだ。
長くなったが、これを書いたのはパチンコが何かわからない人への、僕なりの「私見」を書いたのだが、前の投稿ではヒロシ・ヤングという人の著書も挙げていたと思う。彼にはyoutubeチャンネルに「ヤングちゃん、寝る?」という番組があって、色々パチンコの情報を発信している。彼はバブル期以降、パチンコが隆盛する中で、ライターやパチンコ番組の製作に携わっていた人物で、彼のパチンコへの発言には、パチンコ業界はマージナルなもので、そこは網野史観的な意味で「無縁」や「公界」のような役割を果たしていた、というような主張がある、と僕は解釈している。そういう意味で、彼はメタ視点で業界を見ている人だと思う。その背景には、パチンコと芸能、音楽、芸術、映画、文学などと、共通点があるという発想があるはずである。少なくとも僕にはそう見える。先ほど柳美里の父が釘師、という話を書いたが、そういうパチンコがマージナルなものだ、POKKA吉田の著書にも「民族とぱちんこ」という章があるが、そういう問題と彼の主張は関わっているが、まあ、youtubeで多くのパチンコファンにはそんなことを話しても見てくれないわけで、たまにしかそういう話はしないが、彼はそういう意識をもってパチンコを見ていると思う。ただ、その意識に僕はある部分同意し、ある部分批判的だ。
そういう「無縁」や「公界」のような場所として、僕も少なくとも学生時代は、そういう思いで見ていたわけだが、それが新自由主義的なジェントリフィケーションの中で変質していく問題が、ここにはある。とりとめもないが、こういう感じで思いついたように話を作っていくつもりだ。文学とパチンコがつながるかどうかは全くわからないが……ただ、繋がる場所はあると思う。
話は全く変わるが、米不足と米の価格の高騰は、先物取引のせいだろう。それこそ「投機」のせいである。食料を投機の対象にするべきではない。的外れの農協たたきをしている人がネットには散見されるが、農協潰しのための扇動にまんまと乗せられているのだろう。農協がいいかどうかは、色々な意見はあるだろうが、少なくとも今の米の問題は、先物取引による投機の結果だ。論点をずらされ、農協を叩いている場合ではない。それこそ、自由でフェアなコメの取引なんかすると、絶対に利益を上げるように投機的な売買をされるに決まっているのだから、これからますますひどくなるしかないだろう。それでも、既得権益とか言いながら農協を叩いているのは、本当に残念な気持ちにしかならない。自分が一体誰に搾取されているのか、全くわかっていないのだ。こういう一部の富豪の投機的取引のコストを、全くそれとは関わりのない人々に負わせる無責任な新自由主義を、なぜこぞって容認して、農協を叩いているのか全く理解できない。
さて、模索舎と通信販売、そして古本で本を買った。『Агитпроп』(創刊号、形而上学研究会)、『Macintosh』(嶋田祐輔企画)、神保美佳『パチンコ年代記』(バジリコ)、吉田栄華『偏愛パチンコ紀行』(釘曲げ出版)
