「プチット・マドレーヌ」は越えたので許してほしい

読んだ本の感想を主に書きますが、日記のようでもある。

足立正生監督『REVOLUTION+1』を見る

2023年07月08日 | アート・文化
 Twitterが不安定、かつ気まぐれな経営者によるショック・ドクトリンの横行で、最近少し嫌気がさしていたところ、一時的ではあるもののログの閲覧制限がかかったので(実際はスパムアカウントと認定されてしまい制限もかけられてしまった)、これを機に別のメディアへと発信の軸足を移そうということになった。Twitterを友人に勧められて始める前は、Blogを数年書いており、そこでは翻訳されていなかった哲学書の試訳や、その時読んでいた哲学書の要約を書くなど、かなりの記事を書いていたのだが、Blog文化の後退と、SNSとしてのTwitterの興隆という状況の中で、徐々にTwitter一本での発信となった。ただ、Twitterも13年やっていると、僕自身を取り巻く社会状況や下部構造も大分変化してしまい、なかなか「東日本大震災」前後のような、気ままなツイートも難しくなってきたので、文章量が多く書けるBlogに戻ることとなった。goo blogを選んだ理由は、昔書いていたOCNブログがサービスを廃止してしまい、そのサービスをgoo blogが引き継いでくれたおかげで、アカウントがそのまま残っていた、ということによる。これからは、Twitterに書けなかった長めの記事も書いていくつもりである。

 さて、ブログのタイトルだが、以前書いていたものは心機一転して、タイトルもすべて変えてしまおうと思う。タイトルの由来は、最近読み始めた、マルセル・プルースト『失われた時を求めて』(井上究一郎訳、ちくま文庫)であるが、第一巻目を5回ほど挫折しており、一巻目だけがカバーも破れてなくなってしまい、ボロボロになっていることに由来している。即ち「プチット・マドレーヌ」のところまで読んでいるのに免じて、許してほしいということなのだ。友人に言うと、「マドレーヌ」って大分前じゃないか?と言っていたが、そう、大分始めなのである。しかし、許してほしいと思う。今回は全巻読破のつもりで読み始めている。

 今日は、渋谷LOFT9に足立正生監督作品『REVOLUTION+1』を見に行った。しばらく前にネットで告知されており、前売り券を買っておいた。本作のパイロット版は、昨年既に公開されていたが、観に行くきっかけを失っており、今回が初めての視聴となる。会場では数年ぶりの友人にも出会い、ともに初見であることを確認した。本作はバージョン的には三つ目の作品であり、全てを見ている人によれば、三つのバージョンはそれぞれどこかしら作風が違うようである。内容は、勿論既に「完成」からは一年がたっているとはいえ、まとまりのある映画の内容であった。映画をあまり観ない僕からすると、当初パイロット版の視聴者の声は、まだ作品としては「完成」されていないので、観に行く人は今後徐々に完成する作品のつもりで観たほうがよい、というもので、その時の印象が強く、どこかしら未完成の部分があるのかと思って観たが、そうではなかった。

 特に音楽と映像がよく合っており、井土紀州監督作品『Leftalone』を想起させるところがあった。内容的には、タモト青嵐演じる「川上哲也」が「安倍晋三」を射殺するまでの過程とその心の葛藤を描いたもので、「川上」の「家庭」の問題を描いたものでもあった。この射殺事件のモデルとなった事件は報道等でよく知られたものでもあると思うが、やはり「統一教会」や「宗教二世」の問題が描かれ、「川上」と「母」の関係にもフォーカスされていた。モデルとなった事件の経過と事の帰結は、何度も報道されているので、特に事件の内容でいうべきことはない。

 足立監督の描き方で良いなと思ったのは、ジャック・ラカンの精神分析のいう意味で、「川上」が事件の経過を〈享楽〉しているという描写だったと思う。確かに「母」の「統一教会」への入信と献金による家庭の崩壊によって、「川上」自身は塗炭の苦しみを経験するのではあるが、それを含め、そこには〈享楽〉があるように描かれていた。「川上」が手製の「鉄砲」を作る所もさることながら、それを作り終え、「安倍」の遊説地へと向かうとき、「川上」は自分の部屋の中で暗黒舞踏のように体をくねりながら、恐らく苦しみ?を表現していたのかもしれないが、むしろその身体のうねりは、その塗炭の苦しみを引き延ばそう(差延させよう)とするような欲望に見えたのである。また、事件で「川上」が逮捕されたのち、仲の悪かった「妹」が突然、兄「川上」の行動を理解し、何らかの意思を引き継ごうとして自転車を疾走させるところは印象的だった。ただ「妹」は兄の意志は継ぐが兄のような暴力ではなく、リベラルな手段を使うというようなそぶりを見せていたので、そこに収まってしまうか、と思いはしたが、「女」(妹)が吹っ切れたような笑顔で兄を引き継ぐというとき、必ずしも兄以上の狂気(享楽)がそこに宿らないとは言えないだろうな、とも思わされた。

 上映が終わった後、足立正生・望月衣塑子・平井玄・鵜飼哲によるトークショーがあった。全体的に「山上容疑者」の「可能性」を汲み取ろうとする論旨で、それはそれで肯定できるものではあった。ただ、どう肯定するかは、そこに一定の論理が必要だと思った。そのトークショーには、会場からの「議論」も予定されていたので、僕は会場から、そこでその日一度も、映画の内容としても出てこなかった「天皇」の問題を質問した。足立監督は、「山上」が「安倍晋三」を狙ったとき、一発目は天に向かって「文鮮明」と叫んで撃ち、その後二発目で「安倍」を狙ったといった。それを受けた鵜飼氏が、「転位」という言葉を使ったが、わかりやすく〈転換〉と言い換えて、「「山上」の恨みの矛先が、「文鮮明」から「安倍」に転位」したということを発言していた。僕はそれを受けて、本来は「天皇」から「転位」した問題がここにはあるのではないかという質問をした。映画の中で、「川上」は糞のような世の中で糞みたいに生きる、搾取する奴を肯定して生きることの苦しみを恨みとしてぶつけていたが、それは即ち、「天皇」から搾取されているにもかかわらず「天皇」を肯定して生きる「日本人」それ自体への恨みなのではないか。確かネットには、「統一教会」のシステムは「天皇制」の模倣であり、「文鮮明」を戴くことは「恥」だといった「宗教二世」の手記があったと思うが、それはまさしく「天皇」を戴くことの「恥」を知らない日本国民への怒りという問題につながるだろう。かつて大西巨人は小説『インコ道理教』で、「オウム真理教」を「天皇制」の模倣として描いたが、ここには同じ問題が存在する。四人のトークショーで、「山上」の行動がもみ消されて、なかったことになってしまう問題を議論していたが、それはやはり「天皇制」の問題を外しては、決して議論できないことだと思う。あそこに登場していない「天皇」こそ、「山上」「川上」の問題で、本当はもっとも問うべき存在だったのではないか。ようは「天皇」を問わなければ全ては「転位」によってうやむやになってしまうということである。この「天皇」の質問に対して足立監督は、「天皇」は勿論映画の中で考えた問題ではあったが、それを直接入れると主題が拡散してしまうので出さなかったと、直接答えてくれた。

 その後、ちょうど映画の本を買ったので、監督にサインをもらいに行く時、もう一つ直接監督に質問をした。それは当初から気になっていたのだが、主人公の「川上徹也」が「濡れている」ことだった。ポスターでも濡れていたし、去年公開になったばかりの時もシャワーを浴びたように水をかぶっており、雨の下に濡れる「川上」の写真もあったのを記憶している。実は映画でも、実際にその場面では雨は降ってはいないのだが、画面に重なる形で雨粒が降り注ぎ(だから誰も実際には濡れてはいない)、その雨音が激しくなると、セリフなどが聞こえづらくなりはじめる。あるいは、演出として降っていないはずの雨が、今度は実際降り始め、実際に「川上」が濡れるという演出もあった。「安倍」が狙撃される際も、「安倍」の演説が聞こえなくなるくらい土砂降りの演出になり(これは前者の雨粒が重ねられる演出)、実際当日は晴れていたわけだが、その雨音の中で銃撃が行われた。そして事件後「妹」は兄の犯行を知って自転車に乗るのだが、こちらは実際に雨が降っている場面がある。この象徴的な「雨」の描き方は何だろうと思い、監督に、「あの雨は何でしょうか?」と聞くと、最初ちらっと僕を見て、「あれは川上の心の中の描写になろうとする時に雨が降る」というので、「なるほど」と僕が言うと、監督が「よかったですか?」というから、「印象に残りました」といって、握手をするため監督が手を差し伸べてくれたので、握手をして帰った。監督は「僕はああいう描き方をするんだよ」とも言っていた。映画って本当に総合的な芸術だし、綜合的な才能がないとできないものだなと、感じ入ってしまった。もちろんこれは映画をほとんど見ない僕の素人の感想である。

 その後渋谷で久しぶりにラーメン屋さんに入った。有名店らしく23時前だというのに、僕の後ろには行列ができていた。運よくすぐ入ると、あご出汁ラーメンを食べ、おいしくはあったのだが、僕の故郷の味「スガキヤ」の味とほぼ同じであった。