「プチット・マドレーヌ」は越えたので許してほしい

読んだ本の感想を主に書きますが、日記のようでもある。

paypayと柿と梅

2024年04月29日 | 日記
 電子マネー決済が増えている気がする。この言葉を言っている時点で「ずれ」ているのかもしれない。が、喫茶店で読書をしようとするときに特に感じるようになってきたので、喫茶店での電子マネーでの会計が増えてきているのかもしれない。スーパーやコンビニ、喫茶店でもまだ、現金で支払ったほうが店員の対応が早いので、システム上、または対応上でも、日本国内は電子マネー決済に慣れていないのかもしれない。上海に旅行をしたという友人に話を聞くと、支払いはなんでも電子決済になっており、しかも対応も早く、お金を使っている感覚すら忘れてしまうという話を聞いて、この感覚は貨幣のフェティシズムが、現段階の科学技術においては、最高度に達している表現かもしれない、と思って聞いていた。貨幣が本当に透明になる瞬間なのであろう。それはジッドの『贋金使い』に登場するガラスでできた透明な「贋金」でもあるわけだ。

 だが、僕は電子マネーはSUICAとnanacoのほかには、アマゾンでクレジットカードを使うのみで、普段は現金で支払いをするようにしている。電子マネーやクレジットカードだと、支払いの期限などが心配になって、落ち着かないからである。いくら使ったかを記憶で把握しておくことが面倒だし、仮に払える金額であっても、支払日に現金が引き落とされる緊張感に、今もあまり耐えられない。かつて仕事での収入がままならないとき、食費も家賃も本もすべて滞納しながら、カードで先送り先送りで生きていたために、今でも支払期限でのトラウマが拭い去れない。お金が無くなる場合でも、目に見える形でなくなってほしいし、お金が不足している場合でも、財布の中にお金がないという実感(現前)を欲している。こういうとむしろ僕が一番貨幣のフェティシズムを無自覚に肯定しているといえるのかもしれない。実際一番窮乏しているときは、そのクレジット機能の「先送り」によって生きながらえ、そのころが一番電子マネー決済で生きていたわけで、むしろ現金で払っている今こそが、最も貨幣のフェティシズムに依存しているともいえるからである。

 カードや買い物に伴うポイントもためなくなった。貯金のように期限がなく貯められるなら使いたいのだが、たいていがポイントに期限がついており、期限内にポイントを使おうとすると、ためた以上のお金やポイントを使用するようにできていることに、嫌気がさしてきたからだ。ポイント自体が購買意欲をあおる目的で作られているということだろうが、それにしてもポイントをためましょうか、としつこく聞かれると、それ以上に使わせられるからなあという意識がわいてきて、妙に白けてくる。この気分を味わわないためにも、ポイントもためないようにしている。

 しかしながら、窮乏中は、他人からポイントやクーポン券や、社食代替のバウチャーをかき集めて保存食を買いあさって備蓄していたわけで、その時もむしろポイントで凌ぎ生きながらえていたわけである。そういう意味では、ポイントなど蓄積せず、純粋な「等価交換」の中で生きようとする現在のほうが、最も交換のフェティシズムに依存した、しかもそれに依存していないかのようにふるまう、醜悪なフェティシズムに陥っているといえる。「等価」という透明化にむしろ無自覚になっているともいえるだろう。

 5年ほど前に、とある人と食事をしていると、「これからはpaypayで生きていくしかないわけですよ」と、自嘲的に、また軽蔑的に、しかしながら資本の唯物弁証法的必然の意味においても、paypayで生きるしかない、という「運命」を感じさせる語調で話をされたことがあった。僕はこの言葉が忘れられず、paypayの当時のCMは非常にばかばかしく、また「頭の悪さ」が際立つもので、今でもそうかもしれないが、しかしその「頭の悪さ」の弁証法的唯物論の「運命」をどのように生きるかは、やはり考えねばならない問題だろうと思う。デリダの「忘却」の問題がここには関係しているといえそうだ。

 さて、ゴールデンウィークは飛び石も休日になったので実家の田舎に戻った。東京は夏を感じさせる蒸し暑さであったが、こちらは涼しく、朝夕明け方は寒いくらいである。やはり「土」の地面や林といった、気化熱によって温度を奪う装置や場所がないと、春といっても過ごしづらい感じになっている。ちょうど東京に行ってきていたという人と話になったが、やはり東京は暑いと言っていた。

庭の新緑(柿と梅)


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