「プチット・マドレーヌ」は越えたので許してほしい

読んだ本の感想を主に書きますが、日記のようでもある。

マラブーの『泥棒』を読んで「アナキズム」について考える

2024年09月17日 | 本と雑誌
 カトリーヌ・マラブー『泥棒!アナキズムと哲学』(伊藤潤一郎、吉松覚、横田裕美子訳、青土社)を読書会で読んだ。マラブーは哲学における「支配されざるもの」にアナキズムの原理を見ようとしている。西洋哲学には、特にギリシャ哲学以降、アルケーという支配の原理でありながら、同時に支配されざるものでもある、何ものかが存在する。このアルケーをめぐる「ダブルバインド」の中にアナキズムの原理を見ようとする。だが、西洋形而上学はこのアルケーを結局は、支配と被支配という非対称のエコノミーの中に回収してしまい、支配者のエコノミーにアナキズムを服従させることで台無しにしてしまう。アナキズムというのは、非-アルケー的なものであるのだが、この支配と被支配という非対称のエコノミーによって、支配と被支配の位階ができてしまい、形而上学というアーキテクトとして固定されてしまうのである。形而上学的位階制ではなく、アルケーの支配の原理でありながら同時に支配されざるものでもあるというアナキズムの原理であるダブルバインドをどのようにして維持するのか。この問題を哲学史としてマラブーは分析していく。

 マラブーはアリストテレスに始まり、デリダやレヴィナス、フーコー、ハイデガー、バタイユ、フロイト、ランシエール、アガンベン……などを取り挙げて、おおざっぱに言えばこれらの哲学者も、アナキズムの原理でもあるような非-アルケーの「ダブルバインド」を考察し、形而上学的支配と被支配の非対称的エコノミーを脱構築しようとしたわけだが、しかしながらやはり彼ら哲学者もまたアナキズム的な〈アルケーなきアルケー〉を隠蔽した、ということを証明しようとする。この手つきはものすごくデリダの脱構築的な読解に似ていて、要はこのアナキズムの原理になりうる、西洋形而上学が隠蔽する〈アルケーなきアルケー〉とは、デリダがいうところの「エクリチュール」の位相ということになるのだろう。形而上学という「声」の位階を現前の基底に置く西洋の体制は、「エクリチュール」としての「死」を抑圧することで成立したのだと。西洋形而上学はこの「エクリチュール」を〈泥棒〉し、そしてその盗み自体を抑圧して隠すことでその正当性を主張するのだ(あるいは《エクリチュール=盗み》を隠蔽するともいえる)。マラブーはデリダのように〈エクリチュール=アナキズム〉を抑圧してきた哲学の問題を考えているといえるだろう。

 ただ、これは読書会でも話題になったのだが、マラブーのアナキズムの擁護と、その擁護の方法には、〈現代的〉というべきか、ある種のポリティカルコレクトネスが宿っているように見える。例えばレヴィナスは哲学の中にある「支配されざるもの」を「奴隷」の形象で語ろうとする。それは「ユダヤ人」でもあるのだが、西洋形而上学やキリスト教的体制の中では異物となってしまう「奴隷」や「ユダヤ人」という形象というか存在というか痕跡というか、は「支配されざるもの」としての特異点になる。レヴィナスはここにアナキズム性を見るわけだが、マラブーはこれを批判する。レヴィナスの「奴隷」が、レヴィナスにとって「奴隷」は比喩ではないのだが、マラブーによればレヴィナスの「奴隷」は、黒人の奴隷などの、ポストコロニアリズムにおける「奴隷」の問題を全く考慮に入れていない、というのだ。それは確かにそうだし、それは批判されてしかるべきだと思うが、しかし、ポストコロニアリズム的な「奴隷」を仮にレヴィナスが語っていたとして、それでアナキズム的なものを、レヴィナスがより正確に把握することができたのかは、確かではないと思う。むしろこの批判によって、「奴隷」のモチーフは死んでしまい、レヴィナスがアルケーの支配体制に亀裂を入れようとした問題が、文化主義的にうやむやになるのではないのだろうか。

 僕はこれを読んだ時に、例えばデリダには『歓待』という本があるが、このデリダのいう「歓待」が示すアナキズム性の方が、マラブーのPC的アナキズムより、よほどラディカルではないかと思った。確かデリダの『歓待』の中には、砂漠でキャンプを張っているある家族が、偶然に出会った客を「歓待」したとき、「庇貸して母屋とられる」的な歓待をし、さらに自分の「娘」を客に差し出して、それは性的暴力や性的収奪を含む「歓待」がなされたことが、書いてあったと思う。これが「歓待」の不可能性の問題になるのだが、「歓待」とはこのような破滅と隣り合わせであり、人はこのような「歓待」は事実上不可能でありながらも、しかしだからこそ「歓待」が問題になる地点に留まらざるを得ないという、それこそダブルバインドの問題が「歓待」として描かれていた。よく日本国憲法の「戦争放棄」の問題の時、敵国が攻めてきても戦わないのか、という話になるが、ここでも本当は「歓待」の問題が存在するはずである。「歓待」をすれば身を滅ぼし、「歓待」自体がなくなる。しかし身を滅ぼさない接待は「歓待」ではないのだから、それでも「歓待」は消滅する。このダブルバインドの中で、〈歓待=破滅〉を考察するデリダの方が、PC的なアナキズムに留まるマラブーよりも、よほど暴力的でラディカルといえるのではないだろうか。デリダの「歓待」のほうが、よほどアナキズム的だといえる。これはやはり68年的「享楽」(ラカン)がマラブーには欠けているからではないか、などと考えてしまった。マラブーは〈アルケーなきアルケー〉的な真のアナキズムと、アナルコキャピタリズムとしての、経営者的アナキズムを分けていたが、PC的アナキズムはむしろ、アナルコキャピタリズムに近づきはしないか?

 また、このアルケーをめぐるダブルバインドは、日本の場合だと「天皇」に収斂されてしまう。日本の中で「支配されざるもの」とは支配者としての「天皇」以外の何物でもないだろう。「天皇」とは支配者でありながら、西洋形而上学的位階で表わされるような支配者ではなく、臣民と非対称ではない関係を結ぶ、とされている(もちろん実際そんなことはあり得ないが)。支配者でありながら同時に支配されざるものでもあるという、この「天皇」のダブルバインド的性質を一番よく表現したのは、三島由紀夫の『文化防衛論』である。三島のいう「文化概念としての天皇」は「秩序」と「無秩序」の両方を司るダブルバインドの存在として示されており、マラブーのいうアナキズムの原理とそっくりだといえる。そういう意味では、日本でアナキズムを考える場合は常に「天皇」の問題になってしまう、ということを読書会では確認した。西洋哲学は確かにアナキズムの原理を抑圧し続けているといえるのだろうが、日本の場合もアナキズムの問題は「天皇」に収斂しているといえよう。そういう意味で「大逆事件」や大杉栄や北一輝などの問題は、複雑に「天皇」と絡み合っていく。

 マラブーにはラディカルさが足りない。それは今のいう意味でアナキズム的なものの「享楽」が、ラカン的な意味で考察されていないのではないかと思う。ソレルの『暴力論』でいうところの「神話的暴力」としてのアナキズム性のようなものが捨象されているのではないかと思う。いうなれば本書はPC的アナキズム論になってはいないのだろうか。その意味では「おもしろくない」わけである。ただ、勉強にはなった。哲学史の中で、デリダ的脱構築の手つきで、西洋形而上学が抑圧してきた〈アルケーなきアルケー=アナキズム〉を追っていくという整理の仕方はわかりやすかったし、他の分野や事情にも適用できそうだ、というヒントになるものはあった。また「解説」によれば、この本はまだ導入であって、マラブーのアナキズム論の本体は、次の書物で既に出ているということで、それは翻訳されるのが楽しみである。

「御座候」を食べながら

2024年08月14日 | 日記
 お盆休みは「御座候」を食べながら、「大岡越前」と「鬼平犯科帳」、「税務調査官・窓際太郎の事件簿」を一日中見るという、理想的な日々を送りたい、送るべきである、送っているであろう。特に「窓際太郎の事件簿」を見ながら、最近小林稔侍を見かけないがどうしているのだろう、ということを考えながら過ごしていたい、過ごすべきである、過ごしているであろう。とにかく今「御座候」を一個食べたのだから、来るべき理想達成のプロセスに突き進んでいるはずである。


 Twitterを見ると、トランスジェンダーについての雑誌の「特集」をめぐって「論争」が繰り広げられていた。目次が示されているだけで、内容を読んでいないので、何も言うべきことはないが、前回書いたように、「目覚めていながら酔狂であること」はできるはずで、その目覚めてあることと酔狂の次元を清濁併せ呑む形で維持する「強度」が論文の中にあるかどうかが大事なのだろう。そして、勿論そこには矛盾を読み取ることができるかどうかの、読解の「強度」の問題も存在する。ただ、こういう議論の時、僕はジャック・デリダの歴史修正主義(者)への態度を思い出す。いわゆる「ガス室はなかった」、という類の歴史修正主義(者)に対して「歓待」はどうあるべきかを、デリダはインタビューで聞かれていたはずで、要約するとデリダは、そのような歴史修正主義(者)に反対しつつも、議論は開かれたままで、議論自体は継続されるべきであり、廃絶してはいけないという形で、限定的な「歓待」のプロセスを語っていたはずである。

 もちろんこれは、デリダ自らが出演している映画の最後の場面で、害悪を限りなく永続させてしまう「反復」は、「差異と反復」という「エクリチュール」を「祝福」するデリダも、「呪詛はしないが祝福もしない」という言葉によって「否定的」に語っていることと共に考えなければならないと思っている。デリダも「歓待」の「矛盾」をここで抱え込んでいるのだ。しかしここで重要なのは、デリダがそのような害悪を永続化しかねない「反復」さえも、「呪詛はしないが祝福もしない」という表現で、「反復」それ自体を拒絶するのではなく「留保」していることである。この「矛盾」こそが考えられるべき問題といえる。

 こういう「炎上」に類する時は、「加害」や「被害」、「当事者」や「非当事者」の「分断」などが安易に、簡単に語られてしまうことがあり、またそれがもっともらしく見える場合もある。要は差延的に考えなければならないにもかかわらず、急がせ「切迫性」が演出されてしまうのだ。だが、どのような立場であろうが、「実践」は常に、何らかの形で弁証法的に、敵対者のポテンシャルを自らのポテンシャルとして耐え抜く瞬間はあるはずで、それが「実践」の原動力になる場合がある。そしてそれがなるのかならないのかは、読みかつ議論しなければ判断できないはずだろう。そのようなプロセスを捨象して勧善懲悪的にしか物事を判断しない人がいるとしたら、それこそ、民主的なプロセスを破壊することになるのではないか。

ジジェクを読みつつ、再び今年も地元の「盆踊り」を考える

2024年08月11日 | 日記
 スラヴォイ・ジジェク『戦時から目覚めよ 未来なき今、何をなすべきか』(NHK出版新書 )を読書会で読んだ。ジジェクの「リベラル批判」が「逆張り」」的にとられて批判はされるものの、本書では重要な生政治と「ネオリベラル」への批判がなされている。そういう意味で、「woke」が批判されるのも、それなりの根拠がある。もちろん「目覚め」なければならない目覚めていない人はいて、それは常識の範囲で目覚めるべきであり、その常識とはきちんと基本的人権の尊重を守り抜くという意味で、さしあたりはいうしかないと思う。その人権の尊重を徹底するという意味でのラディカルさによって、目覚めていない人を目覚めさせる必要はある。
 
 しかしながら、最も目覚めている資本という「woke」と重なっていることに無自覚な「リベラル」は「ネオリベラル」になりうるわけであり、このような「リベラル」は以前から言われているが、批判されるべきだろう。「目覚めた」ことにより良心の疚しさを抱き、誰も達成できないような「マイノリティ」の「代表=表象」のルールを敷いて、結局はそのルールについてこられない目覚めていない人々を断罪する。本来、「マイノリティ」は「代表=表象」のルールには包摂できない「矛盾」として存在しているはずなのに、SNSでは多くの人が、生きづらさや、自らの存在の違和感を表明し、それを「代表=表象」しようとして競い合い、それについてこられない人々を、目覚めていない人として断罪していく。しかしそれは、コンプライアンスによる企業統治の厳しさと、何が違うというのだろうか。グローバル企業は、十分すぎるほど「woke」して、その「資本=woke」のルールの中で、公正に消費者を統治し、スポンサーとして人々の倫理的存在様態にまで管理コントロールの生政治的な力を及ぼしているというのに。
 
 このジジェクの「woke」批判は、絓秀実による華青闘告発の議論と通じるものがある。絓もまた、華青闘告発が「マイノリティ」という矛盾そのものが「代表=表象」には包摂できない「享楽」の次元を開くと同時に、それが「マイノリティ」を「代表=表象」しようという欲望にも開かれることとなるといっているからだ。その意味で、華青闘告発は「マイノリティ」の「享楽」を問題化すると同時に、「woke」の源流ともなる。そういう意味で、絓の華青闘告発の議論は、ジジェクの「woke」批判と重なる。ジジェクも絓も「享楽」を捨象して、結局は「マイノリティ」を「代表=表象」の枠組みに閉じ込めようとする、その倫理主義を批判するのである。「代表=表象」批判というのはあれほど、「ポストモダン」で言われたはずなのに、「ポストモダン」批判と共に、素朴な「代表=表象」の欲望がまたぞろぞろと出てきているようだ。しかも、誰かの生きづらさや、存在論的違和感を、何かの「お気持ち」として、掬い取ることのできるものとして、ケアできるものとして、「代表」しようと競い合う。そしてその「代表」を貫徹するには、ものすごく難易度の高い倫理的ハードルを越えなくてはならなくなる。おそらくこの「woke」できる倫理観のモデルというか、貫徹できるのは「皇室」かグローバル企業としての「資本」になるのだろう。
 
 さて、今年も地元の村の盆踊り大会に行ってきた。去年、僕の同級生を中心にした有志達が、盆踊りを30年ぶりに「復活」させ、実はその年限りでやめるはずだったようだが、同級生たちが、今年も骨を折って開催をしたようだ。完全なボランティアで、やはり昨今の事情もあり、地元の地区の協力は得られず、皆仕事で忙しい中、地区の行事をわざわざ「復活」するというのは、反対が多いようである。それでも、かき氷、ポップコーン、金魚すくいや風船釣り、などの露店も用意され、去年よりも規模は大きくなっている。「復活」の立役者である同級生の「会長」と、僕の家族が「副会長」となっており、いろいろ「復活」の事情を聴くと、やはり開催はものすごく物理的な意味でも労力が必要で、またスポンサーを集めるのも一苦労のようである。ここまでやっているのだから、ぜひ地区や地元の行政も有志たちの行動を粋に感じて支援ほしい、と話していた。
 
 30年前に様々な「リスク」と労力の関係で盆踊りが無くなり、子供たちが集まる場所が無くなっていった。さらに、世代の違う大人たちも交流が無くなっていき、そのような共同体としての危機を有志達は感じている。その不安を汲み取る受け皿がない。むしろ行政や人々はそんな「リスク」は増やさないでほしいという。また、この村の共同体は、もちろん家父長制的な側面がある。これは去年も書いたことだが、体育会的、先輩後輩的、権威主義的、地縁・血縁的側面の「酔狂」が発動しなければ、損得勘定抜きで人を集める場を作る人は集まってこない。村の中で「酔狂」だと思われている人が、祭りで人を集め場を作るということは、よくおこることだ。損得や「リスク」ではなく、その「酔狂」の次元で共同体を維持する欲望が発動する。「woke」から見れば目覚めておらず、解体すべき封建制の「酔狂」。「リスク」としてしか現れない存在が、共同体の危機をどうにかしたいと考える。太鼓をたたいていた町議会議員は「保守系」なのではあるまいか。
 
 共同体を解体し、「リスク」の管理をして、封建的力関係を脱構築した後に何が残ったのか。その盆踊りに参加しながら、僕の「地元ナショナリズム」がふつふつと高まってきていた。「リスク」や損得勘定を超えた「酔狂」の次元を捨象して、「リスク」と損得勘定を「代表=表象」している「リベラル」を、この村の人々は信用するはずがないのではないか。その「酔狂」の受け皿に、結局太鼓をたたきながら、なっているかのようにふるまっている「保守」の議員に、それで勝てるのか。最強の「酔狂」である「天皇」と「資本」に対抗できるのか。できるわけがないだろう。それがジジェクの「woke」への批判なのではなかったか。
 
 目覚めながら「酔狂」でいることはできるはずだ。しかしそれは矛盾を抱え込むという困難がある。だが「代表=表象」への批判というのは、その矛盾を生きるという問題であり、実践理性批判の問題であったはずなのである。
 

八月に入り『失われた時を求めて』を少し読み進める

2024年08月02日 | 日記と読書
 八月に入り猛暑が続いている。ちょうど前回のブログを書いてから、色々予定が重なり今後も年末に向けて忙しく、なかなか落ち着いて文章を書いている時間が取れず、八月に突入してしまった。時間がない時ほど、時間の使い方がまずくなる典型である。

 読書としては、井上究一郎訳『失われた時を求めて』がやっと7巻に突入した。「ソドムとゴモラⅡ」を読み進めている。『失われた時を求めて』を読んでいると、やはり「近代」の「底」、それも「無-底」を観させられている気がして、その「無-底」がプルーストの場合、マルクスでいうところの「下部構造」となっているように読める。どうしようもなさと言おうか、アルベルチーヌとのやり取りを見ても、グダグダとどうでもいいことが延々と描かれており、このグズグズが「近代」を形作っているのだろう、というモチベーションで、僕はこの「物語」をどうにかこうにか読んでいるという状態を保っていると言えそうだ。そしてそのグズグズの中に、「ドレフュス事件」への登場人物たちの距離が見えるようにも書かれている。これが印象的だと思う。前に「泡沫候補」について書いたが、もしこの小説?に別名を付けるとしたら、「泡沫候補」なのかもしれない。最初「泡沫」と書こうとしたが、そういう「はかなさ」が言いたいのではなく、民主主義や資本主義、近代の「無-底」を書いている小説という意味では、その「底」に没落して「根拠」をなすテクストという意味で、『失われた時を求めて」はまさしく、最早取り戻せぬ、「失われた時」の時代としての「底」の時間性を、ある種の遂行的次元でテクストにした小説といえるのかもしれない。とにかく、このブログ自体のタイトルのきっかけともなったテクストなので、終わりまで読んでいくのだが、まだ今からかなりの「長篇」を読むくらいの分量が残っている。

 「パリ・オリンピック」が開催されているようだが、テレビをほとんど見なくなった関係上、オリンピックの競技もほぼ見ていない。どこかの待合室でテレビが流れているときなどに見かけるだけで、その時に一部の競技の結果を知る程度だ。そのような中でネット上ではオリンピックにおける「トランス女性」についての意見が、様々出されていた。特にSNS上の議論というのは、昨今は特に深まらないばかりか、自分たちにとって「適切」か「不適切」かの意見の応酬になって、「プロセス」として議論する過程がほとんど失われている。そこでいろいろ議論してもしょうがないと思いつつ、昔、若い人に「トランス女性」が、「女性競技」に出たら「不公平」だという議論を投げかけられたことがあるのを思い出した。

 その時のやり取りを約めて言うと、トランスジェンダーの存在論的問題を、そのような「不公平」感に還元することは間違っているし、そもそも「トランス」とは、そのようなルールを「なんでもあり」にするという「越境-トランス」の問題ではなく、また流行りの「ハック」のようものでも当然ありえず、その〈あなた〉の抱く仮定上の「不公平」感でトランスジェンダーに憎悪を向けるのは間違っているという話をした。僕自身は昔ここでも書いたように、「性」というのはジャック・デリダのいう「差延」のことだと思っているので、「性」自体が常に既に「トランス」な存在であるわけで、「男女」という二元論的性差さえも、「トランス」という遂行的次元を前提にしなければ成り立たないと思っている。二元論的「男女」も一方の「性」がもう一方の「性」に「トランス」できる可能性を排除したら、存在しなくなるのだ。そしてこのような一方の性からもう一方へという比喩的な表現は本来は正確ではなく、「性」それ自体がその中に必ず「移行」それ自体の可能性を憑依させていることが重要なのである。

 さて、その時はデリダのことまでは説明し切れなかったので、ある程度相手の話を引き受けて、少し「経済的」な問題で逆に質問をしてみた。仮に君のいう「不公平」感にある程度の説得力が宿るとして、例えばオリンピックの場合は、経済的に不利な地域、資本主義的に力が弱い国家からオリンピックに出てきている国の選手のことを、どう考えるのかを聞いた。

 メダルの個数を競争し、喜々としてネットに日本のマスコミまでもが記事を張り付けているわけだが、それを見ると恐らく特定の競技以外は、アフリカ大陸の諸国はメダル獲得という意味での成績は振るわないはずだ。メダルを多く獲得しているのは、ほとんど「列強」としての「先進国」であろう。このような「出来レース」としての「不公平」をどう考えるのか、という質問をしてみた。もしこれが「不公平」ならば、オリンピックの競技は、「国民=国家」別の区分ではなく、「所得」区分で競技をし、「所得」に応じてハンディキャップを設定することで、その結果を是正すべきではないか。とにかく「先進国」が「出来レース」的にメダルを取り、それを当然だと考えていること自体の「不公平」に、君も含めた多くの人が抗議しないのはなぜなのか、と。この「不公平」に抗議しずらいのは、経済的格差は「経済的競技」として公正にでき上がった秩序だからだという偏見から来ているのであろう。アフリカ大陸の諸国が「所得」の関係上、オリンピック競技で不利になるのは、自由主義経済的には資本主義経済という「公正な競技」の中ででき上がったものであり、「自然」なものだと考えられているからである。一方、「性」の「トランス」は「不自然」のものとして、「不公正」と見做されてしまう。しかし、ここに働く判断の恣意性こそ問題だろう、と。

 このような話をすると、議論の相手は一応納得をした。したものの、結局はどういう意味で納得したのかを本当の意味では確認できない。また、こういうまぜっかえしのような議論は根本的な議論にはなり得ない。やはりきちんと、資本主義批判から、フェミニズムの問題もオリンピックの問題も考えざるを得ないのだ。そしてその議論のプロセスで結論が出なかったとしても、話し合う必要がある。基本的人権を毀損する「不公正」を自然化しているそのシステムとしての資本主義を批判することなしに、オリンピックなど見ても無駄だろう。「国民=国家」別のメダル獲得数で何位になったと言い合っている状況では、「トランス」に対する差別も、「所得」による差別も自然化されてしまい、全く見えなくなってしまう。

 それにしても、SNSを見ていても近頃は自分たちに「適切」か「不適切」かという基準で、バッサリ何事も裁断している意見をよく見る。コンプライアンスを批判している人や、相当に知識がある人も、同じように自分にとって「適切」か「不適切」かという基準で事態を判断しているように見える。最早そこには、これまで積み重ねられてきた「表象批判」などなかったかのようである。その意味では、「不適切」を主題にしたドラマは、時代的だったのかもしれない。

東京都知事選挙について

2024年07月14日 | 日記
 東京都知事選挙が終わり一週間がたった。前回職場近くの候補者ポスター掲示板の話をして、職場附近の千代田区の掲示板には、「大御心」のおかげか、外山恒一のポスターを見かけなかった、と書いた翌日に外山のポスターが貼られており、勿論偶然だがさすがの組織力だと思った。


 前回も書いた通り、「泡沫候補」というものは存在しない。例えそれが稚拙かつばかばかしいと思われる候補者であったとしても、それ自体は有名な現職の首長や代議士の中にも、もっと愚かで破廉恥なものは存在するわけで、「泡沫候補」だけが特にばかばかしいわけではない。また、民主主義の「底」を試すために、あらゆる手段で名乗りを上げるという意味では、〈代表=代行〉というrepresentationのシステムについて、それが無意識であったとしても「泡沫候補」はまじめに考えている側面は必ずあるものである。その意味において、「残念」なことに、僕は外山のポスターが言うような形では選挙制度というrepresentationの制度は壊れていないと思っている。それ故、外山の行為はむしろラディカルに民主主義の「無-底」を見出す行為という意味で、とてもまっとうな民主主義的な行為といえるだろう。本人はおそらくそのことも含んで行為していると思われる。そして、前にも書いたように、近代民主主義はヘーゲルの論理学がいっているように、「没落」それ自体を「根拠」としているわけで、その語源的な意味で、外山の「立候補〈なき〉立候補」という行為は、ラディカルに〈代表=代行〉のシステムそれ自体に触れている。そして、外山以外の「泡沫」と呼ばれる候補者たちも、その意図はどうあれ、「ラディカル」な側面を持っている。その意味で「泡沫」は肯定されなければならない。勿論その原則を守ることこそが民主主義の鉄則のはずである。多くの得票を得られそうだと予測できるような、有名な立候補者だけが「まとも」だと考えるほうが頽廃だといえよう。それは多数派に安心するという別の意味での「無根拠」に依拠することになってしまうだろう。そしてこれも民主主義の「底」ではあるのだが……

 しかし選挙戦自体には全く興味がわかなかった。選挙には行ったが、投票した候補者は当選せず、結局は現職の強みで三選ということだ。ただ、選挙後はネット上だけ?かもしれないが、支援者たち?の見苦しい応酬があったのを見る羽目になった。特に話題になったのは二位の得票を得た石丸伸二候補で、蓮舫候補に「勝った」ということも話題になっていた。特に石丸候補には「若者」の投票が集中したようで、ネットのある部分では、「若者」に対する批判があったと思う。勿論「若者」も批判されるべきだと思うが、それは「若者」の先行世代(もちろん僕も含む)も批判されるべきで、特に「若者」だけが批判されるべきではない。同じように他の世代も批判されるべきだろう。

 小池百合子東京都知事は、関東大震災当時(1923年)の日本統治下の「朝鮮人」の「虐殺」を否認し、関東大震災で罹災した死者の追悼式典に「虐殺」に対する「追悼文」を知事として送ってこなかった。これは小池都知事だけの責任ではなく、2000年代初頭からの「自虐史観」や「反日」への忌避から、日本の歴史の「負」の側面を否認し、それを修正主義的に改変しようとする力が働いてきたことと、セットで考える必要がある。歴史という「解釈」の問題を逆手にとって、「保守派」(保守ではなく保守が批判すべき単なる資本主義者だと思うが)の議員たちの力を借りながら、10数年かけて関東大震災での「虐殺」をめぐる日本政府の歴史的責任の問題を曖昧にしてしまったのだ。問題なのは、それまで地道な聞き取り調査や実証的検証を積み重ねてきた多くの人々の「記録」と「記憶」によって支えられてきた「虐殺」という言葉を、言いにくくさせる、あるいは「虐殺」と発言することを憚らせるような「圧力」と、それに伴う「空気」を目に見える形で醸成してきたことだろう。このようなここ10数年間で醸成されてきた「圧力」と「空気」の余勢を駆って、小池東京都知事は「虐殺」を否認し、「追悼文」を送らないわけで、そのような「圧力」と「空気」による歴史改変を下支えしてきた世代が、「若者」を批判することはできない。このような10数年間にわたる不誠実な行為が歴史教育にも流れ込んでおり、そんな「歴史」を教わってきた「若者」も、本当はたまったものではないはずだ。一部を除けば、所謂「若者」はある程度教育が進むまでは、自分で歴史観やその学び方を選択できないのだから。そういう意味で、今回の選挙結果で「若者」だけを批判することはできない。批判されるとすれば、「若者」もその先行世代も同じく批判されるべきだろう。このような歴史の改変と、その他これまでの数々の政治家による文書の改竄や不法な破棄の中で、自己責任と競争と、服従という意味での新自由主義的コンプライアンスを刷り込まれれば、「若者」の投票行動も含めて、選挙の結果などこうなるに決まっているのである。そして、蓮舫候補を支持するか支持しないかに拘わらずここに付け加えるならば、小池東京都知事の関東大震災の「朝鮮人」への「虐殺」の否認という「圧力」と「空気」の問題は、主にネット上で目につく、蓮舫候補に対する「国籍」や「女性」としてのジェンダー・セクシュアリティに関わる差別的発言と無関係ではないと思っている。

 今回の選挙で蓮舫候補は、「リベラル」という形で支持されているようだが、それは「ネオリベラル」と区別できない形での「リベラル」と言える。ただ、より「まし」な「リベラル」として蓮舫候補を推すのは理解はできる。だが、それはあくまで資本主義のブルジョワ選挙という制限の内での「まし」である。やはり、資本主義批判と天皇制としての身分制批判、そういった民主主義の原則を明確に表明、明言する候補者や政治家が出なければ、結局はだれに投票しても同じとしかいえなくなる。政治や選挙は、勝負なんだから勝たなくては何も言えないというのは、ある一面の真理ではあるが、それでは結局有力者や多数派の方法を真似るしかないのであり、それだったら選挙など最早なくてもいいだろう。多数派が投票する選挙では多数派が勝つに決まっているからだ。そうなら、外山を含む「泡沫候補」の方が、民主主義の「無-底」、「没落」それ自体をラディカルになぞろうとするだけ「まし」であり、むしろ彼ら彼女らの方が、民主主義の限界を様々に見極めようとしているという意味で、一貫性があり誠実だといえる。ネットで見かけた意見で、選挙で当選するために有権者に好かれる必要があるというのがあったが、それでは民主主義は壊れるだろうし、結局は「圧力」や「空気」に服従するということになるだろう。選挙自体の意味がなくなるのである。だとすれば、むしろ「泡沫候補」こそが、逆説的にそのような多数派の不正に抗して選挙を守っているといえるのではないか。

「歴史修正映画『ゲバルトの杜』を徹底批判する」シンポジウムに行って来た

2024年07月08日 | 日記
 7月6日に「歴史修正映画『ゲバルトの杜』を徹底批判する」のシンポジウムに行って来た。新宿区角筈地域センターレクリエーションホールにおいて、14時半から19時まで、30分の休憩をはさみながら登壇者(絓秀実・菅孝行・大野左紀子・照山もみじ(金子亜由美))の議論と、会場の参加者との意見交換もあった。会場までは新宿駅から徒歩15分ほどの道のりで、茹だるような暑さであったが、シンポジウムが始まって二時間ほどたったところで、今度は会場内のマイクの声が聞こえないほどの雷雨となり、その激しい天候の移り変わりからも記憶に残る一日になったといえる。

 シンポジウムは4時間を超える議論にも拘らず散漫になることがなく、登壇者によって映画『ゲバルトの杜』に内在する基本的かつ根本的問題点があぶり出されたものであった。特に映画が「内ゲバ」という「事実」とはいえない言葉で、川口大三郎へのリンチという暴力を矮小化し、また、大学当局と革マル派による早稲田大学構内の管理コントロール、即ち生権力による統治の問題が映画では全く問われていないことがあらわにされた。川口に対する「鎮魂」や「内ゲバ」というレッテルによって、それらの統治の暴力が批判されないまま温存されてしまったのである。その統治の暴力としての、生権力が問われないこと自体が、「奥島総長」の賛美へと繋がってしまう。シンポジウムがいう映画『ゲバルトの杜』のおこなった「歴史修正」とは、この生権力による暴力それ自体が、川口への「内ゲバ」の暴力に焦点化する虚偽によって隠蔽されることを指す。この隠蔽には、川口への「鎮魂」というロマン主義的美学化の問題があるだろう。

 さて、休憩をはさんだ議論の第二部で質問者として意見を言ったのだが、内容としては、前回書いたブログ記事を主として、「川口への鎮魂をダシにして、映画製作者や演出家が自己正当化をおこない、権力側の生政治的暴力を隠蔽することに加担した、卑怯な内容だ」というようなことを発言した。時間の関係上手短に話さなくてはならなかったので割愛した内容があったので、少し以下に付け加えたい。

 川口へのリンチという暴力を批判し、そして川口の存在自体を〈肯定〉するためには、「追悼」や「鎮魂」ではなく、「革命」としての「暴力」への理論的そして存在論的な「肯定」が必要だと考える。それこそが大学と革マル、延いてはこの暴力を存分に行使している新自由主義的国家権力への批判にもなるだろう。「鎮魂」という制作者と演出家のノスタルジーが「スクリーン」となって、「内ゲバ」という偽の暴力をそこに映し出すことで、本当に露わにされるべき「暴力」は隠されてしまう。川口の存在を「肯定」するためには、そのような偽の暴力を映し出す「スクリーン」を引き裂く、「革命」の「暴力」を「肯定」する必要がある。その「暴力」とは、決してノスタルジーや「鎮魂」では祓うことのできない「暴力」である。それをジャック・ラカンは「享楽」と呼んだのであろうし、文学や芸術はまさしくその周りを廻っているはずなのだ。川口の死をダシにしたり、懐かしがってノスタルジーの対象とするのではなく、川口の事件を「革命」の「暴力」の「肯定」の問題として考えることが必要といえよう。いかにして「暴力」を「肯定」するのか。川口へのリンチとしての暴力を批判し、「革命」の「暴力」を肯定するという二律背反を経ることなしに、川口の事件を考えることはできない。それは不可能な「暴力」の問題として考えられなければならないのだ。登壇者の絓秀実は、川口の事件と共に山村政明(梁政明)の焼身自殺の問題を発言していたが、これも山村をどのように「肯定」するかの問題であるのだろう。生政治という「スクリーン」を引き裂く山村の存在を思考しなければならないと、絓は考えている。それは、このシンポジウムの翌日の日付でもある、〈7・7〉の「華青闘告発」の問題でもある。

 充実したシンポジウムで、映画の出演者であった幾人かの方と意見交換もでき、幾人かの参加者と朝まで議論することもできた。帰る方向が同じだった方と早朝の新宿を歩いて帰り、松屋で朝定食を食べて帰宅した。

東京都知事選挙の候補者ポスターの掲示板

2024年07月01日 | 日記
 東京都知事選挙の、特に選挙ポスター掲示板の使用法で盛り上がっている。ある候補者たちは、様々な「ハック」?やその「合法的」な利用法を競っており、みんな民主主義の懐の深さで戯れるのが好きなんだな、と思う。公職選挙法の範囲内でなら、できることはやっても良いというのは確かで、今のようなハック?的な利用方法に嫌気がさした人が、掲示板の使用を法で規制するよう求める動きを見せているが、それは絶対にやめた方がいい。民主主義はこのようなバカ騒ぎや低俗化自体を「根拠」として打ち立てられているシステムなので、このバカ騒ぎが気に入らないからといって、掲示板の使用規制などを求めていくと、政治への参加や民主主義自体が壊れてしまう。民主主義下の選挙はこの低俗化を受け入れなければならないし、民主主義自体を否定する候補者も選挙では平等に公平に扱われなければならない。そういう意味では、「泡沫候補」というのは本来存在しないわけである。民主主義はこの低俗化という地盤沈下自体が、ひとつの「根拠」なのだ。それは、ヘーゲルが『大論理学』の中で、「没落こそが根拠である」と、近代市民社会を弁証法で定義づけたことからもわかる。

 そういう意味で、最近話題になっている、17年前の東京都知事選における外山恒一の「政見放送」や選挙活動への注目も、この民主主義における「没落こそが根拠である」という問題から見なければならないものだ。外山自身のSNSでの活動と、その「啓蒙」によって徐々に誤解している人も減っているのかもしれないが、外山の選挙活動や「政見放送」は何か特異なものや常軌を逸しているものではなく、あるいはおふざけでもない。外山はメディアの取材に対して、自分のせいで選挙制度自体がぐずぐずになってしまって、と皮肉に語っていたと思う。それは近代という時代、それも民主主義が「没落」それ自体を「根拠」にしているということを、外山自身が選挙を通じて行為遂行的に上演したという意味に捉えるべきだろう。そういう意味では、外山の選挙というのは、ヘーゲル的な意味で、「没落」こそが「根拠」であるということを示すための場なのであって、近代と歴史の弁証法的運動の問題と捉える必要がある。「スクラップ・アンド・スクラップ」の同語反復とは、弁証法の運動それ自体ともいえよう。

 このようにヘーゲルと、それを踏まえた外山の行為遂行的な「没落」を根拠化する弁証法を踏まえても、今の選挙の「低俗化」と「裸」にでもなって民主主義の懐の深さ(「根拠」)を探ろうとしている候補者たちは、その「没落」(裸)こそが「根拠」となる地点を探している、といえるのかもしれない。実際のところは、この「没落」の「根拠」を有権者こそが認識しなければならないにもかかわらず、である。そういう意味では、裸になったりパントマイムをしながら民主主義の「没落」を「根拠」として探ろうとしている候補者たちは、現状、有権者よりもまっとうな行為をしているといってもいいのだろう。

 それよりも、大きな問題は、この選挙における民主主義のある意味での懐の深さ(「没落」という「根拠」)は、当選した知事や議員たちにこそむしろ適応されるのであって、当選した知事や議員たちはこの「没落」の「根拠」の中で、ある意味好き放題をし、権力を掌握して、現状の東京都及び日本を作ってきたわけである。もし、東京都知事選挙の「低俗化」やバカ騒ぎに対し危惧を覚えるなら、この「低俗化」とバカ騒ぎという「没落」の「根拠」の中で好き放題をしている現職の知事や議員たちに、その危惧を向けるべきではないだろうか。候補者たちを非難するのはお門違いだろう。民主主義が「没落」という「根拠」のもとに成り立っていることを都合よく解釈し、マジョリティのためのマジョリティによる選挙を無自覚におこなってきた有権者は、自らの「低俗化」をまずは自覚すべきだ。

 民主主義を構築する「没落」という「根拠」は、民主主義が民主主義であるための必須の要件である。それを規制したり、「泡沫候補」という名前で差別的待遇をしたり、注目されている候補者だけを報道したりするのは、そういう意味で反民主主義的といえる。それは政治を特権階級に独占させるきっかけを作ってしまうような危険にも繋がっていく。民主主義はそういう「没落」したクズのためのシステムであるはずなのだ。

 ただ、最初にいったように、候補者たちは公職選挙法の範囲内で、民主主義の懐の深さを確かめるように選挙戦を戦っており、そのような意味では、例外なく候補者たちは民主主義を好きになってしまっているようにも見える。はたしてそれでよいのだろうか。また、僕の家は繁華街に近い場所にあるが、すぐ近くのポスター掲示板は、様々なポスターや「枠を買った」という同一のポスターが無造作に張られ、「低俗化」した民主主義の「根拠」がむき出しになっている。しかし、職場は皇居に近い位置にあるのだが、職場附近の掲示板はきれいなもので、全く乱れていない。管見の範囲ではあるがやはり、皇室の御威光と大御心のおかげであろうか。

「劇団どくんご」の東京公演を観てきた

2024年06月23日 | 日記・エッセイ・コラム
 今日は「劇団どくんご」( http://www.dokungo.com/ )の東京公演を、小金井公園のいこいの広場に設営された特設テント劇場で観てきた。この劇団の存在はネットで見ていて、友人からも聞いていたが、僕自身演劇を見るということがほとんどなく、恥ずかしながら今まで「劇団どくんご」の芝居を観たことはなかった。ただ、友人から今年は全国ツアーをする予定があるというのを聴き、早速東京公演の予約をしたら運よく席が取れ、今日の観覧の運びとなった。小金井という場所には東京に住むようになって、実は初めて行った。田舎から東京に出てきて住んだところは、これまでほぼ山手線の内側だったので、東京は都市部の雰囲気しか知らない。自然が多く独特の区画で住宅地が並ぶ中を歩くと、何か都市部の秩序とは違った意味での「混沌」があるようで、少し不気味な雰囲気を感じなくもなかった。小金井公園に歩いていくと森がありそこを抜けると、いこいの広場に設営されたテントが見えた。
  

 いこいの広場に行くと既に列ができており、20分ほど待っていると開場となって、テント内の席に進んだ。観客はどんどん増えていき、最終的には客席(ベンチ)に座れる人数なのでもちろん限界はあるが、すし詰めに近い状態まで人が増えた。熱気がすごく、人と人とが触れ合う中での観劇は、自らの身体性を意識せねばならず、それはそれで劇空間とはそういうものだろうと思わされた。芝居は、そのような熱気と人々が触れ合う距離感の中、僕自身は体が大きい方なので少し縮こまってはいたが、あっという間の二時間であった。先ほども言ったように僕は観劇をほとんどせず、芝居などもほとんど見ないため、演劇についてきちんとしたことは言えないのであるが、「劇団どくんご」の芝居は、構成がすごくしっかりしており、様々なシチュエーションがアドリブを含んで輾転と変わるのだが、それをじっくりと考えたり笑ったりしながら見られる作りになっているのである。

 劇が始まる前に、俳優が「どくんごの劇には「意味」なんて読み取れない」というようなことを言い、それは「意味」に収束されない身体性や、ナンセンスなシチュエーションが上演されるということなのだが、しかし、「差異と反復」というべき演劇上の構成は確かにきちんと存在していた。僕の見た所、演劇は「記憶」における「身体」や「場所」の「差異と反復」がとにかく即興的に上演されているように見えた。そこでは「記憶」が常に「欠落」として現れ、俳優たちはその〈記憶=欠落〉の周りで体を反復して動かしたり、また言葉を反復させて、そこに差異を生じさせようとする。〈記憶=欠落〉こそが、身体や言葉の「差異と反復」を生み出し、そこに即興的であり無秩序でありながらも、しっかりとした身体と言葉の構成が創造される。そのような俳優たちの「差異と反復」がテント内で「波」のように押し寄せたり引いたりするところは爽快だった。そして、そのような寄せては引くような「波」の「差異と反復」は、今回の芝居にも登場しており、一つのテーマであったといえると思う。

 芝居の後半で、劇中に「物語の洪水」という比喩で、「物語」が流れていくシチュエーションが登場する。上にも書いたように、劇の最初に俳優が「どくんごの劇には「意味」なんて読み取れない」というようなことを言ったわけで、「物語」というのはその「意味」そのものではないかと言いたくなるのだが、しかし、ここでの「物語」というのは、〈記憶=欠落〉と同じで、「物語」自体の欠落、即ち〈物語=欠落〉の流れなのだ。「物語という欠落」の流れに身を投じた俳優たちは、入れ代わり立ち代わり、その〈記憶=欠落〉の中で新たな記憶と言葉と身体性を発明しようと、アドリブで言葉を繋いで反復させていく。そのような「物語という欠落」の流れをテント内に作り、それを奔流させようという試みは、やはりきちんとした劇の〈構成〉がなければできないものだな、と思いながら見ていた。また、その俳優の「差異と反復」の芝居は、入れ代わり立ち代わり舞台に登場するので、演技が終わった俳優は舞台袖で待機しており、その待機している俳優が、今舞台上で演じている俳優をどういう目で見ているのだろうと思いながら見てみると、これもまた大変色々な想像ができる。待機している俳優が、舞台上の俳優及びそのシチュエーションのパレルゴン(額縁)になっており、その絵画的というか映画的というか、そういう芝居の構造も興味深かった。と、ここで気づいたが、今回の劇の一番最初に俳優が演じた芝居のシチュエーションは、まさしく絵画についての芝居であり、絵画が〈記憶=欠落〉を表現して、それが記憶の混濁と無秩序と重なり合いながら、俳優も狂っていくように見えるものであった。やはり劇の構成は一貫性があり、しっかりしたものだと思わされる。

 友人に教えてもらい、「劇団どくんご」を見に行くことができてよかった。テントの中から出て、少し汗ばんだ体で小金井公園の真っ暗な森を抜けて帰るのは気持ちが良かった。

学費値上げ反対と「恐怖」の問題

2024年06月22日 | 日記・エッセイ・コラム
 ちょうど前回、映画の『ゲバルトの杜』と『レフト・アローン』の比較?を書いたのだが、それについて友人と話した。その話は、『ゲバルトの杜』への評価であって、友人とおおむね評価は一致したのであるが、その後帰宅すると、東京大学の学費値上げ反対闘争をしていた学生に対して、学内に大学当局が警察権力を介入させたということで、SNS上で批判がなされていた。それこそ『レフト・アローン』の中で発言されていたと思うが、大学が自治の問題において警察を介入させるのは、学生を含む大学の構成員に生命の危機がある緊急事態の場合のみではないか。そういう意味で、今回の総長団交後に警察権力を介入させたというのは、大学の自治や学問の自由を守る立場の大学の行為としては、非難されるべきだろう。

 それを見ながら、ちょうどその友人と映画との絡みで、東大の学費値上げ反対闘争の話になり、しかしそれ故その時点では東大への警察権力の介入は知らなかったが、その会話のなかで、僕は津村喬の『われらの内なる差別』(三一書房)の中にある「部落、沖縄、朝鮮があるから帝大がある」という言葉を思い出して話していた。津村は「管理社会」の構造として「企業・大学」の「〈異邦人〉」に対する差別構造を批判し、この言葉は『ゲバルトの杜』でも問題にするべきはずの、大学(「帝大」)という生政治的空間、生権力の支配構造への批判の中で記されたものであった。このことは現状の東京大学にいえることだろうし、「管理社会」のモデルとなっているほとんどの大学に当てはまることだろう。僕は友人に、この言葉は「天皇がいるから部落差別がある」という差別構造の問題とも相同的なものだともいえるし、大学の構造でいえば、「教員がいるから学費値上げがある」というべきなのかもしれないなというと、友人は「そうですよ」というと、教員は「天皇の側」にいるんだから、それをちゃんと自覚しなければならないと、批判した。本来ならば、学費値上げ反対闘争における「管理社会」の構造の問題は、学費に注目する場合、それは教職員の人件費の構造的な問題に行きつく。そこには当然、国からの補助金による支配なども全て含まれている。友人の言葉は、現状において大学から給料をもらって生活している、僕への批判にも当然繋がっているのである。

 そのため、この「天皇の側」に存在し、「管理社会」の構造自体を支える教職員が、学費値上げ反対闘争の学生に対峙した時の認識は、自分が飯を食べているこの給与の環境を変革されて倒されてしまうかもしれない、という恐怖になるのではあるまいか。そういう意味では学費値上げ反対闘争は、教員にとって恐怖の対象となるはずである。この「恐怖」を前提として、運動にどう接するかは、その教職員個々人の対応としか言えないが、だがそれでもその「恐怖」は拭い去れないし、「恐怖」なしでこの問題が解決できるというのは欺瞞になるだろう。仮に「天皇の側」にいる自分たちの生活や待遇はそのままで、何ものも変化しない中で学費も上がらないという状況を願うとしたら、それは要は何も変わらない、変えないための運動を支持するという、かつてスラヴォイ・ジジェクがいった、現状を変えないための運動という、倒錯の問題である。

 この「恐怖」の問題抜きには、おそらく運動はないはずだ。

『ゲバルトの杜』を観てきた

2024年06月17日 | 日記と読書
 映画『ゲバルトの杜』(代島治彦監督)を観てきた。以下雑駁な感想を無秩序に書いてみよう。

 川口大三郎の「鎮魂」という仄めかしが、出演者の口から数度出てくるのだが、仮に「鎮魂」がこの映画の何らかのテーマだとしたら、それは駄目だろうと思う。「鎮魂」はどれだけ慎重になろうとも、ノスタルジーを招き寄せるし、事件のご都合主義化を許してしまうからだ。「喪」はやはり失敗するものであり、その「失敗」こそ映画に現れなければならないはずだからである。しかし気になったのは、映画の中で川口が拉致され、激しいリンチでショック死するまでが、ある意味生々しく?上映されるのだが、それを見ていると、革マルの執拗なリンチに自然と素朴な「憎悪」が湧いてきてしまう。しかし、この僕の感じた「憎悪」こそが、「鎮魂」にも繋がっており、結局はこの事件をご都合主義化するのではないかと思った。この「憎悪」は逆説的に、リンチを理解可能なものとしてしまい、後に出演者たちが言う、「非暴力」の運動への正当化にも繋がっていく。

 原作?者でもある樋田毅は映画の中のインタビューで、当時は大学の中だけがセクト主義で無意味な暴力の応酬が繰り広げられ、大学の外は平和な日常があるのだから、大学内の運動もそれに準じて非暴力的であるべきだと、当時考えていたと話していた。大学内の運動の急進化と武装化が「一般学生」を離れさせたということになっているが、果たして大学の外が平和な日常だったのか。むしろ大学内の革マルと大学当局による生政治的共闘こそが、その後、管理コントロール社会のモデルとなっていたのであり、構造的には、大学の内も外も地続きだったはずである。川口のリンチへの〈鎮魂=憎悪〉と「非暴力」の運動という観念が、ここでこの生政治的支配の資本主義の構造を見えなくさせてしまっているように思う。樋田は、革マルが全国政権だったならば、機関銃でもバズーカでも持ち出して戦ったというが、革マルと大学の共闘的生政治は全国政権どころか、当時すでに資本主義的支配構造としてグローバルだったはずである。

 川口の一年後輩の吉岡由美子は、革マルが円の密集陣形になって、そこから竹竿を槍のように出して、外に向かって、恐らくウニやハリネズミのように外を威嚇してたことに「感動」しており、磁石で集まった人が「虫」のように、「万華鏡」のように見えたという。ファランクスの密集陣形のようなものだと思うが、ある意味では「戦争機械」のことでもあるだろう。吉岡はその革マルの統率力に「一般学生」は「かなわない」と思ったというが、この「戦争機械」の問題こそ、ドゥルーズ=ガタリと生政治の問題であり、革マルと大学当局の暴力と支配の問題であったと思う。この「戦争機械」の問題は掘り下げるべきだったのではないか。吉岡の抱いた「感動」の問題こそ、「鎮魂」では解釈できない「運動」の問題であろう。そういう意味では、今回の映画は、同じく早稲田の学館闘争を記録している、井土紀州監督の『LEFT ALONE』と比較すべきだとも思う。『レフト・アローン』には「非暴力」ではない、『Love マシーン』に乗って学生と踊りまくる絓秀実が映っていたはずである。そこには『Love マシーン』の「享楽」の端緒が映っていたように見える。樋田のいう「非暴力」でもない「鎮魂」でもない、運動の「享楽」の問題がある。「戦争機械」としての革マルの密集陣形とも違う「運動」の問題がそこにはあるのではないか。

 あと気になったのは、池上彰や鴻上尚史の語りが、少し「昔」を誇らしげに話していたことだ。そして学生役の俳優たちへの接し方が、かなり啓蒙的だったことだろう。俺たちが昔経験したことは、お前たちが考えている以上のことだ、というメッセージが暗に伝わって来て、これも何かを見えなくさせていると感じた。また、学生役の俳優が池上に、学生運動が現代に残している痕跡は何かと質問した時、教室の机と椅子が固定された、とバリケード防止のための措置を「軽口」というか、俳優の質問をはぐらかしをしたというべきだろうが、その池上の答えの瞬間、例えばテレビのバラエティ番組でスタッフが笑うことがあるが、あれと同じような年配の男性の声で、嘲笑とも賑やかしともいえるような笑いが一瞬入るのだが、嫌な気分になった。恐らくは、学生運動の痕跡などその程度のものだ、という意味での笑いだったのだろうが、そのような過小評価でよいのだろうか。先ほどの『レフト・アローン』との比較でいえば、西部邁が自分がトロツキストの党派にいるにもかかわらず、大学祭に来た学生の親から、トロツキーとはどういう人なのか聞かれた時、「悪魔のようなやつらしい」と応えて、友人からお前はトロツキストだぞ、とたしなめられたという話があったが、運動ってそういう「啓蒙」とは程遠い、勘違いの中で始まるものではないのだろうか。

 そういえば、映画の中で川口はリンチされている間、革マルから早稲田祭に反対しているだろうという非難をされていたが、それを見ると、前の記事でも書いた友人が、早稲田祭が中止になった時、革マルと大学当局の「共闘」で板挟みになっていたことが、思い起こされた。

 新左翼各派のヘルメットが染められている手ぬぐいを買った。つまりこういうことなのだ。