柄谷の新著『「力」と交換様式』(岩波書店)は、一か月ほど前に友人たちと一緒に読んだ。友人が読書会のレジュメを作ったのだが、そのレジュメの「おまけ」に作ってくれた、柄谷のいくつかのテクストをデータとして読み込ませた「柄谷GPT」と、友人とのヴァーチャル座談会は、ある部分本当に柄谷が「交換様式D」について語っているようであり、ぞっとする所があった。それはさておき、僕自身が『力と交換様式』に注目したのは、「交換様式D」というよりは、その「序論」において「上部構造の観念的な「力」」を論じているからであった。柄谷はここでマックス・ヴェーバーを引きながら、「観念的上部構造は、たんに経済的ベースによって受動的に規定されるだけでなく、むしろ能動的に後者を変える「力」をもつとみた」という形で、観念的上部構造に経済的下部構造における「交換」を組織するような、「力」を見ているわけである。僕はここに特に興味がわいた。
というのも、柄谷は「交換」に注目すればこそ、マルクスの『資本論』における価値形態論、「商品の物神崇拝的性格とその秘密」に注目するのであるが、わかりやすい例でいえば、アルフレート・ゾーン=レーテルや『マルクスの亡霊たち』のジャック・デリダ、ゾーン=レーテルを参照しているスラヴォイ・ジジェクらも、この価値形態論が観念的上部構造として、「交換」を可能にしている「力」を有していることを柄谷に先んじて論じているからでもある。ゾーン=レーテルは新カント派の観念論をマルクス経済学に合体させているわけであるが、19世紀後半から20世紀にかけては、マルクスの経済学の法則に対抗するために現象学や社会学、あるいは新カント派らのドイツ観念論哲学は、その観念的上部構造の「力」を、マルクスの経済的下部構造の「力」にぶつけて対抗していたわけだから、柄谷が「交換」を価値形態論から論じようとしているのは、まさしくマルクスと観念論の歴史的闘いを再現していることになる。日本でも三木清らは現象学や存在論を使いながら「構想力」を論じたわけだが、あの「構想力」はまさしく「交換」の「力」そのものだろう(悟性と感性の「交換」の図式なのだから)。三木も現象学的、存在論的「構想力」で、マルクスの価値形態論に対抗していたと、ひとまずいえると思う。
柄谷は観念的上部構造の「自律性」を「力」として考えなければならない、と言っているが、その通りで、僕も感性ー悟性ー構想力の連関を為す、超越論的主観性の構造の問題は、マルクスの価値形態論を論じる時に必ず考えなければならない問題だと考える。デリダやジジェクもそう考えていたはずだと思う。特に『マルクスの亡霊たち』はそれに取り組もうとしている。ただ、突き詰めていくわけではないようにも思う。ジジェクはカントとマルクスをやはり主観性の問題とし、この主観の構造を無意識のシニフィアンの構造と置き換えているので、これも面白い。主観性というシニフィアンの構造が、「商品」というフェティシズムの源泉となっているというのは、まさしく主観性に経済的な「力」が宿っていることを主張していることになるだろう。この問題は19世紀後半から20世紀半ばまでは真剣に考えられており、これが廣松渉などにどうやって受け継がれたかは、僕は知らないので、廣松に詳しい人は教えてほしい。こういう具合に柄谷は「交換」に注目することで、観念的上部構造の「自律性」を重要視しているということが、上記文脈を想起させて、柄谷は歴史的かつ世界的な問題をきちんと考えているのだな、と思って読んだわけである。「交換」が主観の構造からなぜ外化されるのかは、弁証法的な問題なのかどうかも含め、考えなければならない問題だろう。
しかし、僕はかつて柄谷の『トランスクリティーク』を読んだとき、上のこととは全く逆向きに面白いと思って評価していた。というのも、『トランスクリティーク』の柄谷は「交換」ではなく「使用価値」の中に、何らかの可能性、革命の可能性を見ていたように思ったからだ。当時僕は『トランスクリティーク』と『マルクスの亡霊たち』を読み比べていたのだが、前者は「使用価値」に、後者は「交換」の問題を中心に考えていたように思った。もちろんデリダは観念的上部構造の「自律性」というよりも、その主観性を「エクリチュール」の構造と読み換えており、「エクリチュール」の「自律性」を「交換」の「力」として読み換えていたのだと思う。それに対して、柄谷の『トランスクリティーク』は、「使用価値」の「自律性」に、世界を変える「力」を見ていたと思う。さらに、その二冊と同時に、アントニオ・ネグリの『マルクスを超えるマルクス』も比較して読んでいたのだが、柄谷はネグリのマルクス論に近く感じた。それに対して、デリダの「交換」のマルクス論が対置されて、僕の中では理解されていた。
当時の僕は、前者の柄谷とネグリの「使用価値」のマルクス論の方に、デリダの「交換」のマルクス論を越えるような唯物性を感じており、柄谷とネグリの方が、きちんとマルクスの唯物弁証法と取っ組み合っているなという印象を抱いていた。この時期、この三冊のおかげで『資本論』を理解する上での、素人なりの道筋を教えてもらった。ただ、ただし、現象学や観念論、存在論を読むうちに僕は、観念的上部構造の「自律性」もある意味唯物的な「力」だよな、と思う所もあって、デリダの『マルクスの亡霊たち』の議論の重要性が、時間がたつにつれて僕の中では大きくなっていき、観念的上部構造としての超越論的主観性が、なぜ資本主義を可能にするような「力」を持っているのか、という問題を考えたいと思うようになった。だから、ネグリなどだけではなく、観念的上部構造の「自律性」を解明しようとしている思想家・哲学者の本を中心に読むようになった。シェリングとか面白い。
そして久しぶりに柄谷の本を読んだら、「交換」を可能にしている、観念的上部構造の「力」や「自律性」に注目していることがわかり、僕の中で『トランスクリティーク』以来抱いていた思いがつながるような気持がしたのだ。柄谷は『トランスクリティーク』的な「使用価値」の「自律性」から、「交換様式」としての観念的上部構造の「自律性」に至ったのだな、と。
僕自身この観念的上部構造の「自律性」や「力」とは何なのかはよくわかっていない。ただ、デリダがそれを「エクリチュール」の問題として考えたことは、面白いと思っているし、参考にし続けたいとは思っている。
というのも、柄谷は「交換」に注目すればこそ、マルクスの『資本論』における価値形態論、「商品の物神崇拝的性格とその秘密」に注目するのであるが、わかりやすい例でいえば、アルフレート・ゾーン=レーテルや『マルクスの亡霊たち』のジャック・デリダ、ゾーン=レーテルを参照しているスラヴォイ・ジジェクらも、この価値形態論が観念的上部構造として、「交換」を可能にしている「力」を有していることを柄谷に先んじて論じているからでもある。ゾーン=レーテルは新カント派の観念論をマルクス経済学に合体させているわけであるが、19世紀後半から20世紀にかけては、マルクスの経済学の法則に対抗するために現象学や社会学、あるいは新カント派らのドイツ観念論哲学は、その観念的上部構造の「力」を、マルクスの経済的下部構造の「力」にぶつけて対抗していたわけだから、柄谷が「交換」を価値形態論から論じようとしているのは、まさしくマルクスと観念論の歴史的闘いを再現していることになる。日本でも三木清らは現象学や存在論を使いながら「構想力」を論じたわけだが、あの「構想力」はまさしく「交換」の「力」そのものだろう(悟性と感性の「交換」の図式なのだから)。三木も現象学的、存在論的「構想力」で、マルクスの価値形態論に対抗していたと、ひとまずいえると思う。
柄谷は観念的上部構造の「自律性」を「力」として考えなければならない、と言っているが、その通りで、僕も感性ー悟性ー構想力の連関を為す、超越論的主観性の構造の問題は、マルクスの価値形態論を論じる時に必ず考えなければならない問題だと考える。デリダやジジェクもそう考えていたはずだと思う。特に『マルクスの亡霊たち』はそれに取り組もうとしている。ただ、突き詰めていくわけではないようにも思う。ジジェクはカントとマルクスをやはり主観性の問題とし、この主観の構造を無意識のシニフィアンの構造と置き換えているので、これも面白い。主観性というシニフィアンの構造が、「商品」というフェティシズムの源泉となっているというのは、まさしく主観性に経済的な「力」が宿っていることを主張していることになるだろう。この問題は19世紀後半から20世紀半ばまでは真剣に考えられており、これが廣松渉などにどうやって受け継がれたかは、僕は知らないので、廣松に詳しい人は教えてほしい。こういう具合に柄谷は「交換」に注目することで、観念的上部構造の「自律性」を重要視しているということが、上記文脈を想起させて、柄谷は歴史的かつ世界的な問題をきちんと考えているのだな、と思って読んだわけである。「交換」が主観の構造からなぜ外化されるのかは、弁証法的な問題なのかどうかも含め、考えなければならない問題だろう。
しかし、僕はかつて柄谷の『トランスクリティーク』を読んだとき、上のこととは全く逆向きに面白いと思って評価していた。というのも、『トランスクリティーク』の柄谷は「交換」ではなく「使用価値」の中に、何らかの可能性、革命の可能性を見ていたように思ったからだ。当時僕は『トランスクリティーク』と『マルクスの亡霊たち』を読み比べていたのだが、前者は「使用価値」に、後者は「交換」の問題を中心に考えていたように思った。もちろんデリダは観念的上部構造の「自律性」というよりも、その主観性を「エクリチュール」の構造と読み換えており、「エクリチュール」の「自律性」を「交換」の「力」として読み換えていたのだと思う。それに対して、柄谷の『トランスクリティーク』は、「使用価値」の「自律性」に、世界を変える「力」を見ていたと思う。さらに、その二冊と同時に、アントニオ・ネグリの『マルクスを超えるマルクス』も比較して読んでいたのだが、柄谷はネグリのマルクス論に近く感じた。それに対して、デリダの「交換」のマルクス論が対置されて、僕の中では理解されていた。
当時の僕は、前者の柄谷とネグリの「使用価値」のマルクス論の方に、デリダの「交換」のマルクス論を越えるような唯物性を感じており、柄谷とネグリの方が、きちんとマルクスの唯物弁証法と取っ組み合っているなという印象を抱いていた。この時期、この三冊のおかげで『資本論』を理解する上での、素人なりの道筋を教えてもらった。ただ、ただし、現象学や観念論、存在論を読むうちに僕は、観念的上部構造の「自律性」もある意味唯物的な「力」だよな、と思う所もあって、デリダの『マルクスの亡霊たち』の議論の重要性が、時間がたつにつれて僕の中では大きくなっていき、観念的上部構造としての超越論的主観性が、なぜ資本主義を可能にするような「力」を持っているのか、という問題を考えたいと思うようになった。だから、ネグリなどだけではなく、観念的上部構造の「自律性」を解明しようとしている思想家・哲学者の本を中心に読むようになった。シェリングとか面白い。
そして久しぶりに柄谷の本を読んだら、「交換」を可能にしている、観念的上部構造の「力」や「自律性」に注目していることがわかり、僕の中で『トランスクリティーク』以来抱いていた思いがつながるような気持がしたのだ。柄谷は『トランスクリティーク』的な「使用価値」の「自律性」から、「交換様式」としての観念的上部構造の「自律性」に至ったのだな、と。
僕自身この観念的上部構造の「自律性」や「力」とは何なのかはよくわかっていない。ただ、デリダがそれを「エクリチュール」の問題として考えたことは、面白いと思っているし、参考にし続けたいとは思っている。