「プチット・マドレーヌ」は越えたので許してほしい

読んだ本の感想を主に書きますが、日記のようでもある。

失われた「X」を求めて

2023年07月24日 | 日記と読書
 2023年7月24日の18時近く、Twitterを更新していると、突然ツイッター社のアイコンが「X」というロゴになった。その少し前から、経営者が「X」を予告していたので、このタイミングなのか、と思った。イーロン・マスクが経営のトップになってから、Twitterは、やはり少しメディアとしての性質が変わってきた。表示される呟きの傾向や、どういう目的でツイートをX社?が利用しようとしているのかなども、そこそこ変わってきている。僕がTwitterを始めたのは、「東日本大震災」の前年であった。Twitterをやる前からかなり長い間ネットだけで交流のあった友人から誘われて始めたのだが、こんなにも長く続けることになるとは思わなかった。当初は、友人から人文系の面白い呟きをしている人のアカウントを教えてもらい、それを登録していったのが始まりで、紹介してくれた友人には感謝している。そのおかげで、「東日本大震災」前後には、多くの人と知り合いになり、ツイートを通してかなり勉強させてもらった。所謂その道の専門家の人も気さくに話してくれて、読む本の傾向や考えるべき問題の周辺などが、見えるようになってきた。「東日本大震災」後は、国会へのデモに行く時も、情報交換をしたり、人が空いてそうな場所を教えてもらったり、かなり活用させてもらった。いい場所を教えてもらい、時間がなかったのでタクシーで国会前に行ったのだが、本当に良い場所だったようで、翌日の職場で同僚から、ニュースに映ってましたよ、と笑顔で話しかけられた。

 そういう意味では僕にとって、Twitterは非常に使いやすいメディアであったのだが、ここ数年はTwitter Japanの独立性などが問題になったり、あるいは「炎上」などで少しやりづらさを感じるようになった。勿論、「東日本大震災」前後のTwitterの状況を牧歌的に賛美するのは意味がなく、メディアはその下部構造とともに変化していくものなので、今は今の意義があるとは思っている。しかし、イーロン・マスク以降はさらに僕にとっては使いにくくなり、この変化についてこられないものは止めた方がいい、という形で加速主義的な傾向が強くなってきている。最近、意識的にTwitterを使っている人がいて、それはそれで状況に敏感、かつ鋭い人だとも思ってはいるのだが、しかし、今の状況は、以前と比べて相対的に発言力が強い人が、「公正」に「民主的」にツイートができる環境ではあるが、そのほかはその人たちの「資源」になるような形、「いいね要員」になってしまうのではないかと思っている。それは現状で生き生きとツイートしているアカウントを読めばある程度分かる。X社は、それをビジネスモデルにしているので当然なのだろう。それはそれで肯定するのが「強度」なのかもしれない。イーロン・マスク以降は、課金も含め、Twitterでの影響力がビジネスをするためのツールとなったのだろう。僕はそういう傾向は、ネットの「自由」とは逆向きだと思っているので、積極的には関わりたくない。まあ、それはともかく、数年前に、「いいね」と「リツイート」が僕自身では制御できないのではないか、と思い始め、「鍵」をかけることにした。この数年でフォロワーは100人以上いなくなった。40とか50とかリツイートされるキャラではないと思っていたので、それでよかったのだが、僕自身にツイートのリテラシーがなかったともいえる。

 さて話は変わって読書の話だが、やっと『失われた時を求めて』は、「スワン家のほうへ」を読了し、第二巻「花咲く乙女たちのかげに」に入った。読み切ってしまえば面白い小説だと思う。内容としては「雑談」だと思っている。しかしその「雑談」はヘーゲルの『精神現象学』や『(大・小)論理学』が「雑談」という意味での「雑談」だといえる。「近代」というのは「雑談」の空間だと思うが、それを見事に描いていると思った。まず読み始めで感じたのは、これは『精神現象学』の「感覚的確信」のような流れを書いているな、ということだ。そして感覚が常に人工と弁証法を起こしているということである。これは近代の欲望が人工と自然の「接ぎ木」で出来上がっていることと対応しているのだろう。欲望には常に感覚とそれを取り巻く人工という残余がある。そのように読むと、この「雑談」の弁証法は、欲望=精神の現象学としてリアリティを持ち始める。〈精神とは雑談である〉。また「コンブレー」という名は、今ちまちま読んでいるエルンスト・ユンガーの『In Stahlgewittern』とも呼応するフランスの地名で、プルーストとユンガーの交錯なども考えられる。『失われた時を求めて』はまさしく第一次世界大戦をはさんで執筆されているので、ユンガーの執筆と重なり合うだろう。ともかく先を読んでいかないといけない。

 これと今は『ディルタイ全集1』の「精神科学序説」を読み始めた。ディルタイは「精神科学」と「自然科学」の差異を、自然科学的な考えを援用しつつ明らかにする。ただし、「精神科学」の「科学」としての独自性を擁護するためにそうするのであって、自然科学的な方法に依拠しながら「精神科学」が扱う「社会」や「国家」を構想する、「生」の「相互連関性」の問題を解明するというものだ。確かハイデガーはディルタイが試みる、この自然科学的な、あるいは数学的論理学から「精神科学」の「相互連関」を取り出すことには批判的である。この「相互連関」の問題は発展させられて、ハイデガーの実存論的現存在分析(現存在という構造)に関わるので、一度読みたいと思っていた。まだ感想を言えるほど読んでないので、追々何か言えればと思う。