『文学的絶対 ドイツ・ロマン主義の文学理論』(柿並良佑+大久保歩+加藤健司訳、法政大学出版局)を読み進めているが、600ページ強ある全体の、読んだのは三分の一ほどである。現在は「『アテネーウム』断章」を読んでいるが、ラクー=ラバルトとナンシーの論文だけではなく、シュレーゲルやノバーリスなど、他のロマン派の「断章」や「断片」までも訳されているのは大変いい。なぜなら、この後にナンシーらの分析があるのかもしれないが、「断章」形式というのは、ロマン派の文学理論にとってどういう意味があるのかを考えるのは、重要だと思うからだ。確かベンヤミンが『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』(ちくま学芸文庫)の中で、「断片」を「絶対的」に包摂する神秘的体系の提示がロマン主義の根本にはあると言っていたと思う。しかもそれは「断片」同士の〈反射〉における認識が、そのような「絶対的」に包摂する神秘的な体系を作る、と主張していたと、僕なりに解釈している。例えば、「ある存在〔本質〕が他の存在〔本質〕によって認識されることは、認識されるもの(das Erkenntwerdende)の自己認識、認識する者(der Erkennende)の自己認識、および、認識する者がその認識対象である存在〔本質〕によって認識されることと、同時に起こる(zusammenfallen〔一致する、同じものである〕)」というのは、その神秘的体系の様態の一つだろう。そういう「断片」同士の〈反射=思弁〉を「絶対的」に包摂する仕方を、イロニーという形で提示したのがロマン主義だとしたら、色々な「断片」や「断章」が翻訳されて掲載されたことは良いこだろう。注記を見ると、日本語以外で翻訳されているバージョンは、「断片」「断章」が省略されているのもあるようで、省略されなくてよかった。このようなロマン主義の断片性は重要だと思う。
このロマン主義的手法は、日本文学でも1930年代の「日本浪曼派」や「モダニズム」の文学とも関わるだろう。特に「転向」以前の、共産党が壊滅する前は、このロマン主義的な「絶対」は「党」の「絶対」的な唯物弁証法の対抗理論となっていたわけで、特に30年代はマルクス主義との関係抜きにロマン主義は語れないだろう。マルクス自身も、ロマン主義のハイネと友人だったわけで、この「絶対」は、経済的絶対の体系と何らかの形でかかわっていると言わざるを得ない。そこにはヘーゲルやシェリングの問題も関わっていると思う。ヘーゲル左派とロマン主義の関係も調べてみると面白そうだ。ともかく、まだ三分の一なので。
さて、話は変わりツイッターを見ていると、自衛隊、第32普通科連隊の公式アカウントが「大東亜戦争」と表記していたそうで、それは「不適切」だという意見があった。自衛隊の公式アカウントがつぶやいているのだとしたら、それは「不適切」だろう。「大東亜戦争」と呼称する「立場」の人がいたり政治信条の人がいるのは、それは「不適切」ではない。というか適切とか不適切とかいうのではなく、一つの立場表明である。その戦争に対する史観として、「大東亜戦争」と呼ぶ一貫性を持つ人がいることはあり得る。しかし、公式のアカウントが「大東亜戦争」を呼称する場合、そこには「天皇(制)」の問題が関わってくることを覚悟してやっているのかどうかである。同アカウントは背景画像に「近衛兵」という言葉まで使っている。それは「天皇の軍隊」を呼称しているという認識でよいのか。もしそうだとして、三島由紀夫が生きていたら、第32普通科連隊が「天皇の軍隊」になったのだとして喜ぶだろうか。しかし、それは全くの逆である。革命の力能としての「文化概念としての天皇」に立脚して、天皇制戦後民主主義を根本から批判した三島にとって、現状の「ネトウヨ」的な「大東亜戦争」と「天皇制」を賛美した軍隊など、「反動」以外の何物でもない。それともそうではなく、第32普通科連隊は、三島のいう「文化概念としての天皇」を戴いてまでも「東亜」に革命をもたらす革命軍、即ち反乱軍になる覚悟を以って「大東亜戦争」と言っているのだろうか。そのつもりなら一貫性はあるかもしれない。しかし、もしそのような革命軍になるつもりがないならば、「大東亜戦争」というのは、「不適切」である。何故ならば「大東亜」というイデオロギーは「天皇(制)」と不可分だからだ。三島はその意味で「反乱軍」を作りたかったわけだろう。政治制度としての「天皇制」ではなく、革命の根拠となる「天皇」の軍隊を作るために市谷にも立てこもったし、「226事件」にも惹かれたはずである。第32普通科連隊が、反乱軍や革命軍になるつもりもなく、単に俗情に迎合するため、安易な愛国心に便乗するためだけに「大東亜戦争」と言っているとするならば、そこには一貫性はないし、史観を全く欠いた「不適切」なつぶやきだといえる。それは「大東亜」という史観を維持しようとする右派に対する侮辱にもなるだろう。ただ、君主制も軍隊も認めてしまっている共産党がいる中で、自衛隊がこのようなつぶやきをするのは、「左・右」がむしろ一致して天皇制戦後民主主義を護持している現れなのではないか、とすら思った。それは国民の大多数が、天皇制下の軍隊(自衛隊)を無意識に認めているという意味で、今回の自衛隊のアカウントは、天皇制戦後民主主義を認めている国民の無意識を代弁したともいえる。実際、国民の大多数は無意識に「大東亜戦争」という呼称を拒否していないのではないか。これは「大東亜戦争」を批判している国民の無意識も例外ではない。
とはいうものの、一般的な意味において、今の自衛隊が三島のいうような「文化概念としての天皇」を軍隊の原動力と考えているはずもなく、天皇制戦後民主主義を守っていくだけなのだったら、「大東亜戦争」などいう意味はない。しかも「公式アカウント」が「大東亜戦争」という憲法や天皇制の根幹に関わり、かつ東アジアへの侵略戦争を含む名称を、なんの史観や考慮や調査や検証もなく、安易に、しかも国民の俗情にべったりと寄り添うだけに発言しているのだとしたら、組織としての見識を疑う。それは組織上の欠陥ですらあると思う。軍事戦略上、統制が取れていないという意味で非常に危険な組織ともいえよう。ふつうの意味で「公式アカウント」なのだから「常識」を守れよ、と思う。
そして、ロマン主義の断片を包摂する絶対的で神秘的体系と「大東亜」はどのような関係にあるのか、という問いは1930年代の問題であろう。
このロマン主義的手法は、日本文学でも1930年代の「日本浪曼派」や「モダニズム」の文学とも関わるだろう。特に「転向」以前の、共産党が壊滅する前は、このロマン主義的な「絶対」は「党」の「絶対」的な唯物弁証法の対抗理論となっていたわけで、特に30年代はマルクス主義との関係抜きにロマン主義は語れないだろう。マルクス自身も、ロマン主義のハイネと友人だったわけで、この「絶対」は、経済的絶対の体系と何らかの形でかかわっていると言わざるを得ない。そこにはヘーゲルやシェリングの問題も関わっていると思う。ヘーゲル左派とロマン主義の関係も調べてみると面白そうだ。ともかく、まだ三分の一なので。
さて、話は変わりツイッターを見ていると、自衛隊、第32普通科連隊の公式アカウントが「大東亜戦争」と表記していたそうで、それは「不適切」だという意見があった。自衛隊の公式アカウントがつぶやいているのだとしたら、それは「不適切」だろう。「大東亜戦争」と呼称する「立場」の人がいたり政治信条の人がいるのは、それは「不適切」ではない。というか適切とか不適切とかいうのではなく、一つの立場表明である。その戦争に対する史観として、「大東亜戦争」と呼ぶ一貫性を持つ人がいることはあり得る。しかし、公式のアカウントが「大東亜戦争」を呼称する場合、そこには「天皇(制)」の問題が関わってくることを覚悟してやっているのかどうかである。同アカウントは背景画像に「近衛兵」という言葉まで使っている。それは「天皇の軍隊」を呼称しているという認識でよいのか。もしそうだとして、三島由紀夫が生きていたら、第32普通科連隊が「天皇の軍隊」になったのだとして喜ぶだろうか。しかし、それは全くの逆である。革命の力能としての「文化概念としての天皇」に立脚して、天皇制戦後民主主義を根本から批判した三島にとって、現状の「ネトウヨ」的な「大東亜戦争」と「天皇制」を賛美した軍隊など、「反動」以外の何物でもない。それともそうではなく、第32普通科連隊は、三島のいう「文化概念としての天皇」を戴いてまでも「東亜」に革命をもたらす革命軍、即ち反乱軍になる覚悟を以って「大東亜戦争」と言っているのだろうか。そのつもりなら一貫性はあるかもしれない。しかし、もしそのような革命軍になるつもりがないならば、「大東亜戦争」というのは、「不適切」である。何故ならば「大東亜」というイデオロギーは「天皇(制)」と不可分だからだ。三島はその意味で「反乱軍」を作りたかったわけだろう。政治制度としての「天皇制」ではなく、革命の根拠となる「天皇」の軍隊を作るために市谷にも立てこもったし、「226事件」にも惹かれたはずである。第32普通科連隊が、反乱軍や革命軍になるつもりもなく、単に俗情に迎合するため、安易な愛国心に便乗するためだけに「大東亜戦争」と言っているとするならば、そこには一貫性はないし、史観を全く欠いた「不適切」なつぶやきだといえる。それは「大東亜」という史観を維持しようとする右派に対する侮辱にもなるだろう。ただ、君主制も軍隊も認めてしまっている共産党がいる中で、自衛隊がこのようなつぶやきをするのは、「左・右」がむしろ一致して天皇制戦後民主主義を護持している現れなのではないか、とすら思った。それは国民の大多数が、天皇制下の軍隊(自衛隊)を無意識に認めているという意味で、今回の自衛隊のアカウントは、天皇制戦後民主主義を認めている国民の無意識を代弁したともいえる。実際、国民の大多数は無意識に「大東亜戦争」という呼称を拒否していないのではないか。これは「大東亜戦争」を批判している国民の無意識も例外ではない。
とはいうものの、一般的な意味において、今の自衛隊が三島のいうような「文化概念としての天皇」を軍隊の原動力と考えているはずもなく、天皇制戦後民主主義を守っていくだけなのだったら、「大東亜戦争」などいう意味はない。しかも「公式アカウント」が「大東亜戦争」という憲法や天皇制の根幹に関わり、かつ東アジアへの侵略戦争を含む名称を、なんの史観や考慮や調査や検証もなく、安易に、しかも国民の俗情にべったりと寄り添うだけに発言しているのだとしたら、組織としての見識を疑う。それは組織上の欠陥ですらあると思う。軍事戦略上、統制が取れていないという意味で非常に危険な組織ともいえよう。ふつうの意味で「公式アカウント」なのだから「常識」を守れよ、と思う。
そして、ロマン主義の断片を包摂する絶対的で神秘的体系と「大東亜」はどのような関係にあるのか、という問いは1930年代の問題であろう。
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