「プチット・マドレーヌ」は越えたので許してほしい

読んだ本の感想を主に書きますが、日記のようでもある。

東京都知事選挙について

2024年07月14日 | 日記
 東京都知事選挙が終わり一週間がたった。前回職場近くの候補者ポスター掲示板の話をして、職場附近の千代田区の掲示板には、「大御心」のおかげか、外山恒一のポスターを見かけなかった、と書いた翌日に外山のポスターが貼られており、勿論偶然だがさすがの組織力だと思った。


 前回も書いた通り、「泡沫候補」というものは存在しない。例えそれが稚拙かつばかばかしいと思われる候補者であったとしても、それ自体は有名な現職の首長や代議士の中にも、もっと愚かで破廉恥なものは存在するわけで、「泡沫候補」だけが特にばかばかしいわけではない。また、民主主義の「底」を試すために、あらゆる手段で名乗りを上げるという意味では、〈代表=代行〉というrepresentationのシステムについて、それが無意識であったとしても「泡沫候補」はまじめに考えている側面は必ずあるものである。その意味において、「残念」なことに、僕は外山のポスターが言うような形では選挙制度というrepresentationの制度は壊れていないと思っている。それ故、外山の行為はむしろラディカルに民主主義の「無-底」を見出す行為という意味で、とてもまっとうな民主主義的な行為といえるだろう。本人はおそらくそのことも含んで行為していると思われる。そして、前にも書いたように、近代民主主義はヘーゲルの論理学がいっているように、「没落」それ自体を「根拠」としているわけで、その語源的な意味で、外山の「立候補〈なき〉立候補」という行為は、ラディカルに〈代表=代行〉のシステムそれ自体に触れている。そして、外山以外の「泡沫」と呼ばれる候補者たちも、その意図はどうあれ、「ラディカル」な側面を持っている。その意味で「泡沫」は肯定されなければならない。勿論その原則を守ることこそが民主主義の鉄則のはずである。多くの得票を得られそうだと予測できるような、有名な立候補者だけが「まとも」だと考えるほうが頽廃だといえよう。それは多数派に安心するという別の意味での「無根拠」に依拠することになってしまうだろう。そしてこれも民主主義の「底」ではあるのだが……

 しかし選挙戦自体には全く興味がわかなかった。選挙には行ったが、投票した候補者は当選せず、結局は現職の強みで三選ということだ。ただ、選挙後はネット上だけ?かもしれないが、支援者たち?の見苦しい応酬があったのを見る羽目になった。特に話題になったのは二位の得票を得た石丸伸二候補で、蓮舫候補に「勝った」ということも話題になっていた。特に石丸候補には「若者」の投票が集中したようで、ネットのある部分では、「若者」に対する批判があったと思う。勿論「若者」も批判されるべきだと思うが、それは「若者」の先行世代(もちろん僕も含む)も批判されるべきで、特に「若者」だけが批判されるべきではない。同じように他の世代も批判されるべきだろう。

 小池百合子東京都知事は、関東大震災当時(1923年)の日本統治下の「朝鮮人」の「虐殺」を否認し、関東大震災で罹災した死者の追悼式典に「虐殺」に対する「追悼文」を知事として送ってこなかった。これは小池都知事だけの責任ではなく、2000年代初頭からの「自虐史観」や「反日」への忌避から、日本の歴史の「負」の側面を否認し、それを修正主義的に改変しようとする力が働いてきたことと、セットで考える必要がある。歴史という「解釈」の問題を逆手にとって、「保守派」(保守ではなく保守が批判すべき単なる資本主義者だと思うが)の議員たちの力を借りながら、10数年かけて関東大震災での「虐殺」をめぐる日本政府の歴史的責任の問題を曖昧にしてしまったのだ。問題なのは、それまで地道な聞き取り調査や実証的検証を積み重ねてきた多くの人々の「記録」と「記憶」によって支えられてきた「虐殺」という言葉を、言いにくくさせる、あるいは「虐殺」と発言することを憚らせるような「圧力」と、それに伴う「空気」を目に見える形で醸成してきたことだろう。このようなここ10数年間で醸成されてきた「圧力」と「空気」の余勢を駆って、小池東京都知事は「虐殺」を否認し、「追悼文」を送らないわけで、そのような「圧力」と「空気」による歴史改変を下支えしてきた世代が、「若者」を批判することはできない。このような10数年間にわたる不誠実な行為が歴史教育にも流れ込んでおり、そんな「歴史」を教わってきた「若者」も、本当はたまったものではないはずだ。一部を除けば、所謂「若者」はある程度教育が進むまでは、自分で歴史観やその学び方を選択できないのだから。そういう意味で、今回の選挙結果で「若者」だけを批判することはできない。批判されるとすれば、「若者」もその先行世代も同じく批判されるべきだろう。このような歴史の改変と、その他これまでの数々の政治家による文書の改竄や不法な破棄の中で、自己責任と競争と、服従という意味での新自由主義的コンプライアンスを刷り込まれれば、「若者」の投票行動も含めて、選挙の結果などこうなるに決まっているのである。そして、蓮舫候補を支持するか支持しないかに拘わらずここに付け加えるならば、小池東京都知事の関東大震災の「朝鮮人」への「虐殺」の否認という「圧力」と「空気」の問題は、主にネット上で目につく、蓮舫候補に対する「国籍」や「女性」としてのジェンダー・セクシュアリティに関わる差別的発言と無関係ではないと思っている。

 今回の選挙で蓮舫候補は、「リベラル」という形で支持されているようだが、それは「ネオリベラル」と区別できない形での「リベラル」と言える。ただ、より「まし」な「リベラル」として蓮舫候補を推すのは理解はできる。だが、それはあくまで資本主義のブルジョワ選挙という制限の内での「まし」である。やはり、資本主義批判と天皇制としての身分制批判、そういった民主主義の原則を明確に表明、明言する候補者や政治家が出なければ、結局はだれに投票しても同じとしかいえなくなる。政治や選挙は、勝負なんだから勝たなくては何も言えないというのは、ある一面の真理ではあるが、それでは結局有力者や多数派の方法を真似るしかないのであり、それだったら選挙など最早なくてもいいだろう。多数派が投票する選挙では多数派が勝つに決まっているからだ。そうなら、外山を含む「泡沫候補」の方が、民主主義の「無-底」、「没落」それ自体をラディカルになぞろうとするだけ「まし」であり、むしろ彼ら彼女らの方が、民主主義の限界を様々に見極めようとしているという意味で、一貫性があり誠実だといえる。ネットで見かけた意見で、選挙で当選するために有権者に好かれる必要があるというのがあったが、それでは民主主義は壊れるだろうし、結局は「圧力」や「空気」に服従するということになるだろう。選挙自体の意味がなくなるのである。だとすれば、むしろ「泡沫候補」こそが、逆説的にそのような多数派の不正に抗して選挙を守っているといえるのではないか。

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