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「プチット・マドレーヌ」は越えたので許してほしい

読んだ本の感想を主に書きますが、日記のようでもある。

「支持者」になりうる人との議論

2025年07月14日 | 日記・エッセイ・コラム
 所用で実家に数日帰ることになった。久々に会う親族もおり、世代的には団塊後期に位置する親族(男性)との数時間にわたる議論があった。その親族は、僕が高校生くらいから、社会問題や政治についての議論をしてくる傾向があり、頻繁に出会うわけではないが、何年かぶりにそのような状況となった。久しぶりに長く話す機会となり、その親族もどちらかというと、高齢化する僕の両親に対する、時間があったら帰郷して会いに来てほしいという僕への要望と、現代の高齢化社会における共同体の衰弱、そして親族自らの高齢化に伴う心身の不安とに起因する、ロマン主義的な心情から、懐かしさを感じる僕と、とにかく何か議論がしたいという雰囲気に見えた。当然?、議論は参政党の話になる。昨今の典型的な話だが、高齢化した親族はYoutubeを頻繁に視聴しており、議論の根拠をYoutubeの「番組」とYoutuberでほとんどを占めるという、話には聞いていたが、こういう人は実際に存在するのだな、という感慨を抱くほどであった。親族の主張は、ご多分に漏れないものなので要約して書くと、「日本人がないがしろにされて、外国人(特に日本国内に居住する中国人と韓国人)が優遇されている」、「石破首相は外国に有利な政策をしている」、「日本の土地を外国人が買いあさり、日本の高度な技術も盗み取られている」、「クルド人問題」、「自民党の7割の議員が在日外国人である」というものである。僕は、Youtubeの番組やYoutuberの意見が、「フェイクニュース」であることを指摘すると、親族はその指摘は理解するものの、そのフェイクニュースの内容自体を決して破棄しようとはしない。むしろそこに更なる「理屈」を付けて補強する。

 例えばこういうくだりがあった。所謂研究を推進するような有名な大学の大学院は、外国人留学生が多くを占めており、日本人学生の数が少ないという状況がある。そのような状況は危機的で、日本人の学生を増やして外国人留学生を減らすべきだと、親族はいう。僕は、主張の理念の部分での是非はおいておいたとしても、現実的な下部構造の問題として、日本人学生だけで大学の「経営」や「研究」はもはや成立し得ず、そのような現実を無視した主張は、むしろ親族が大事だと言っている「国力」を損なうものではないかと伝えても、親族は、仮にそれで大学と研究が衰退したとしても、また日本人の力で復活させればいいという。僕は一度衰退した大学と研究はそんなに簡単に復活するものではないし、そのような非現実的な主張こそ、親族が掲げる日本が大事だという理念を損なうものではないか、と話したのだが、親族は全く納得しない。ほとんど「玉砕」にも通じる現実を無視した理念を聞くと、親族をこのような思考に追い詰める要因は何であろうかと、考えざるを得なかった。

 親族の、そのような排外主義に基づく日本の「国力」の復活という妄想を聞いていると、参政党についてはどう思っているかを聞く必要がある。親族に参政党への賛否を聞くと、投票する候補には上がってくるという話である。親族も元々は兼業農家であったが、政策的にはおそらくかつては社会党を支持し、そのまま立憲民主を支持していたと思われる。だが、今回は参政党も親族の投票候補の視野に入っている。僕は親族に、参政党の主張が排外主義や差別、あるいは国民主権を毀損する主張をしているが、それでも支持するのか、と問うた。すると親族は、参政党が無茶苦茶な政策や変な主張をしているのは知っているし支持はしない、しかし、自民党や立憲民主、国民民主や維新が日本を貶める政策ばかり提案しているので、それを「懲らしめる」ために参政党が強くなってもらうことは悪いことではない、と答えるのだ。親族は「俺は判官びいきのところがあるで、自民党には反対してきた。やけど今回は、大半の政党が日本を弱体化させる主張や政策をするで、そこにブレーキをかけやなあかん」とも言っていた。僕は、仮にそれで参政党が大きな力を持ったら、その主張から差別の助長や国民の権利が制限されるなど、日本に住む人々が不利益を被る心配はないかというと、親族は「参政党が力を持つほど大きくなるはずがない」という楽観的な見通しを示したのである。この楽観自体が参政党を大きくさせる要因であり、かつてナチが政権をとった原因であろう。親族は各党が主張している日本を強くし、「国民」を幸せにする主張の「良いとこどり」ができればいいのだが、それができないので困っているという。だから、親族にはその中で「日本人ファースト」というわかりやすい主張を支持する参政党が目に入っているのだ。

 僕は、親族が危機感を感じている共同体の崩壊や「国民」からの搾取は資本主義の問題であり、そのような資本主義からの搾取を批判しない限り、親族のいう危機感は拭い去れないだろう、と思っている。そこで、親族の抱いている危機は、ほとんどが資本主義が引き起こしたもので、それを批判する必要があるのではないかというと、「その部分では俺も左かもしれやんが、左の政党は支持できやん」と答えた。親族のこの発言から見ても、親族が言う危機は本来資本主義の搾取とその脱構築作用によって、自分たちのなじみの場所が解体されていくという危機のことであって、それは資本主義批判することでしか明らかにできず、対抗することもできないはずである。しかし、親族も多くの人も、資本主義を批判するということ自体は否認するようになっている。その否認によってさらに危機感が募る。僕が冗談めかして、「もうそこまで行ったら参政党みたいなもん支持してお茶濁すんじゃなくて、左になってしまえばええやん」といったが、親族は苦笑いしていた。

 階級や労働の問題自体が資本主義によって脱構築されていくことで、本当は「誰」(どの階級)が搾取しているのかが見えにくくなった結果、親族も含め多くの人が「搾取する主体としての外国人」にその矛先を向けるようになった。親族が見ているYoutubeという巨大メディアやグーグルこそ、むしろその搾取をする主体であるにもかかわらず、そこで垂れ流されるフェイクニュースによって自分の「真の敵」を否認し、目を背けさせられることで、偽の対立と偽の原因としての排外主義へと導かれる。Youtubeとそこで手先になっているYoutuberこそが、親族を含む危機を抱く人々の欲望や金を搾取しているはずであるのに、親族らはそれらが垂れ流すフェイクニュースを信じながら、偽の対立と偽の原因である「外国人」への憎悪へと至る。参政党もそのような大資本家たちの「手先」のはずである。にもかかわらず、親族をはじめ危機を抱く人々が、そのような資本家の「手先」に希望を見出さなくてはならないとは、みじめこの上ない様相である。資本主義への批判の矛先を常に否認させ、そこから逸れさせる力が資本主義自体には宿っている。

 親族とは4時間以上議論しただろうか。親族もしきりに積極的な参政党支持ではなく、消極的な選択としての参政党支持だとしきりに言うのだが、それこそが最も問題のあるシニシズムだろう。このシニシズムこそ、現状肯定そのものでしかない参政党の主張を、変革の希望として認識させるものであり、この資本主義シニシズムこそ、 排外主義や差別を「空気」のように「日常」として認識させてしまう基盤となる。そしてそれは、その「空気」や「日常」を批判する見地自体を喪失させてもしまうだろう。親族と話す限り、参政党を「消極的」に支持する人の中には、搾取に対する怯えとこれまでの秩序の喪失という喪失感がある。それは「左」によって批判的に考察され政策に取り込まれなければならない要素が多分に含まれる。意識的に資本主義批判と「左」へと親族を誘導して話す中で、親族もある部分は「左」であることを認めている。だとするならば、この「左」を理念の上でも下部構造の政策の面でも、左翼の政党は主張し続けるべきであるし、否認することなく、資本主義批判をするべきである。大衆の支持を失うかもしれないから、天皇制を肯定し、資本主義を肯定する左翼政党は、参政党と何も変わらなくなる。

 精神分析的な事実だと思うが、人々の欲望に沿った形で何かを提案しようとすると、常に裏切られる。「人々のため」になる政策が不興を買うのは、それ自体が人々の欲望の核を否認したものであるからだ。なぜ「国民」の権利や、人間の権利を制限しようとする政策が支持されてしまうのか、労働者自身が不利になる政策を熱狂的に支持するのか、それはそれらが人々の欲望の核に触れているからである。それが分からないと、参政党を支持する人が愚かで蒙昧な人にしか見えないだろう。それはおそらく間違っている。共産主義の理念である資本主義批判には、そのような人々の欲望の核に触れるものがあるはずなのだが、左翼政党が理念を捨てて資本主義の中で人のためになる、人々に受けの良い政策を提案し続けたとしても、それは欲望の核を否認し続ける限りにおいて、無意識の次元で裏切られ続けることとなる。

 議論の後、久しぶりに会ったということで地元の食堂で親族と一緒にご飯を食べた。その後の親族の家族の話によると、意見は真っ向から対立し、かなり不快な表情で僕の話を聞いていたその親族は、久しぶりに僕と議論ができて飯が食えたといって喜んでいたそうである。そしてその親族は常に、食事中も、時間があったら故郷に帰って来いと、僕に対していっていた。僕は地元の食堂で料理を運んできたこの店員も、参政党支持の可能性はあるな、と思いながらご飯を食べた。

 地元の神社の近くの畑に鹿がいたので写真で撮る。

「参政党=(日本)国民」への批判のために

2025年07月04日 | 日記・エッセイ・コラム
 参政党の「躍進」が話題となり、その危機感も手伝って、僕の見ているSNSのタイムラインを見ても、参政党への批判があふれているといってもよい状態である。僕が見るところ、その批判はネトウヨへの批判に通じるものがある。つまり、「参政党=ネトウヨ」という構図がそこから見て取れる。ただ、参政党がネットでも公開している「政策」だけを読むと、いわゆる「常軌を逸した」ものではなく、広く「国民」のナショナリズムや不安に応えようとしている側面が強調されており、その部分だけが受け取られれば、支持する人が増えると予想はできる。僕は前から思っており、かつてSNSにも書いたが、実際は「国民」こそが「ネトウヨ」であると思っている。これはベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』(白石隆+白石さや訳、書籍工房早山)のいう「国家語」を通した形で想像的に共同体化されている「国民=国家」の枠組みを念頭にしたものだ。参政党の掲げる「日本人ファースト」という「想像の共同体」も、変異しながらもそれへの回帰と見ることができるだろう。金融資本主義やグローバリゼーションの中で、その「想像の共同体」が危機に瀕すると、そのナショナリズムが「○○ファースト」という形で回帰してくる。それは日本だけではなく、特に金融資本主義とグローバリゼーションの恩恵を強く受けている(いた)国々で起こっていることだといえそうだ。僕はその意味で「日本人ファースト」を掲げる「参政党」こそが「国民」そのものだと見做している。即ち僕の中では「参政党=(日本)国民」が成立する。だから参政党の支持率が上がるのは当然だろう。自民党がかつて担っていた「国民ファースト」のリベラリズムを参政党がある部分で担おうとしているからである。かつてあったとされる「一億総中流」という「想像の共同体」は、もちろん日本の内外からの搾取によって成り立っていたわけで、その搾取構造が「マジョリティ」としての「国民」のナショナリズムを支えてきた。この「マジョリティ」のリベラリズムをもう一度取り戻そうという欲望が、自民党から参政党へと向き始めているのではないだろうか。

 その意味で「参政党」は「国民」という「マジョリティ」の欲望を「代表=代行」(代表制)する、一端の政党となってしまうのだ。参政党の環境問題や食糧問題、そして「国体」に関わる身分制度を肯定する差別的で排外主義的な主張を見ると、そこにカルトやスピリチュアリズムの問題など、批判すべき問題を見出すことはできる。だが、「国民」という「想像の共同体」や、「一億総中流」等もまた立派なスピリチュアリズムだろう。それは様々な人が論じてきたように、ロマン主義的ナショナリズムに支えられた「国民の歴史」も含めたスピリチュアリズムである。その「国民」のリベラリズムというスピリチュアリズムは、国の内外の「植民地」からの搾取が支えていたわけで、その意味では厳然とした搾取の下部構造が「国民」というスピリチュアルな上部構造を決定していたといえる。その搾取構造を否認し、あるいは隠蔽しながら、参政党はカルトとスピリチュアリズムに毒された異端で、「国民」のリベラリズムを壊すものだと批判するのは、おかしなこととなるだろう。むしろ「国民」という「想像的=スピリチュアル」な搾取構造で維持されてきた「国民=マジョリティ」こそ参政党と同根だと言いたくなるくらいである。もし参政党を批判するならば、まずは「国民」という「マジョリティ」のスピリチュアリズムを批判しなければならない。「日本人ファースト」とは「国民」ということだからだ。そして、それはとりもなおさず「マジョリティ」への批判であり、その「マジョリティ」が日常から抱き続けるスピリチュアルな上部構造を支える、搾取の下部構造としての資本主義への批判へと至るしかない。そもそも「国民」のリベラリズムを守るために、それを破壊しようとする参政党を批判するというのは、おかしな話だといえる。何故なら、批判しようとする参政党の主張は、ほとんど「マジョリティ」としての「国民」の主張と何ら変わりがないからである。「国民=国家」とそれを支える資本主義への批判なしに参政党を批判しても、自家撞着しか起こさないのはそのためだ。

 ただここでいう「国民=国家」やナショナリズムへの批判は、安易なグローバリゼーションの擁護や「国民=国家」の解体のことではない。アメリカのトランプ大統領を見てもわかるように、「国民=国家」を超えグローバリゼーションを推し進めるように見える新自由主義的な金融資本主義は、「国民=国家」のスピリチュアリズムと「○○ファースト」という排外主義を媒介として、その支配を広げようとするからである。ナショナリズムやスピリチュアリズムによるGestell(ハイデガーのいう)の作用を利用して、新自由主義的金融資本主義は、その下部構造(Gestell・骨組み)を獲得している。そして、それによって「マジョリティ」としての「国民」は自分たちを支える搾取構造を、リベラリズムの中で合法的に肯定していく。そういう意味では、新自由主義的資本主義は「国民」としての「マジョリティ」と結託するしかない。参政党を批判するには「マジョリティ」としての「国民」への批判をするしかないだろう。それは「国民」のスピリチュアリズムを支える資本主義批判へと至る。かつて「マジョリティ」としてのブルジョワを批判する「プロレタリアート」という立場があったわけだが、ブルジョワ政党としての参政党を批判するには、「参政党=国民」のスピリチュアリズムを批判する唯物論的左翼性とその理論が必要だと僕は思う。前にも書いたがその意味で、左翼を自認する政党は性的少数者やケア労働も含め、労働やそれをめぐる物質的な問題を「国民」と資本主義批判とに結びつけて、もぐらたたき的に参政党的主張、即ち「国民」の主張を批判して叩きつづけて回るしかない。共産党も含め、本来有していなければならない自らの唯物論性をポピュリズムから否認して、天皇制批判まで引っ込めて「国民に寄り添う」などということをしていたら、それは「参政党に寄り添う」こととなってしまい、「マジョリティ」には最初から負けざるを得ないだろう。そうではなく「国民=マジョリティ」に対して、その下部構造を露呈させることで、「お前たちは国民(参政党)ではない」というべきだと思う。グローバリゼーションへの批判と「国民」(排外主義者)への批判という二方向への批判は、資本主義を支える搾取という矛盾的構造への批判を通してやれるはである。参政党を批判する人は、やはり「マジョリティ」とその「国民」のスピリチュアリズムを批判する唯物論性と左翼であることが必要であろう。当然、参政党を批判する右翼(保守)も、この唯物論性と左翼性を持つ必要がある、と僕は考える。

 また、マスメディアの参政党に対する報道に対し、その参政党への批判者から、参政党の宣伝になっている、参政党を肯定している、などの批判が頻繁になされているが、あれは意識的にも無意識的にも、マスメディアによって「意図的」になされていると思う。それはマスメディアが「国民」のためのメディアだからである。そして根拠なく言えば、マスメディアに携わるリベラルな記者の中にも多くの参政党支持者がいるはずだ。それは自分が民主主義者でリベラルであるという意識と葛藤なく同居しているはずであろう。そしてこれは「読解」のレベルだが、SNSで参政党への批判を引用などを駆使してやっているツイートや記事の、そこそこの数が、まるで参政党の宣伝やよく読まないと参政党と同じ意見のように見えてくるものが存在する。これも「国民」という「マジョリティ」の意識を、その批判者も共有しているからだと、僕は判断している。

たぶん、私は三人目だと思うから

2025年06月10日 | 日記・エッセイ・コラム
 声優で有名な林原めぐみのブログが「排外主義」的で差別的な内容だったために、「炎上」したという話がネットに挙がっていたので、所謂「修正前」の記事が「魚拓」にされていたものを読んだ。内容としては、差別的だといわれても仕方がない表現であった。あと、youtuber?TikTok?の配信者やその配信内容が、隠喩的に仄めかされており、それがさらなる憶測を呼んでいるようにも見える。林原が「陰謀論」を真に受けて、それを排外主義的に受容して、(在日)外国人の差別につなげているのではないか、という見立てである。僕も一読してみたが、例えばこれが有名人のブログとは知らずに読んだとしたら、自分の危機を排外主義やナショナリズムで慰撫しようとする典型的な行動は、なんで抑えられないのだろうか、という感想を抱いたのではないだろうか。そういう意味では、ブログには排外主義も感じたし、「外来種」に喩えるところも、生物学的な「優性思想」を指摘されても仕方がないものだ。

 林原のブログを見ながら、最近僕が喫茶店で読書中、隣に70代くらいの、話の内容から、二人はそれなりに大きな会社の経営者・社長と思しき男性同士の会話を思い出していた。二人の話の内容は、おのおのは「本業」をもっているようだが、余剰資金で他の会社の事業を買収したり、新規におこなう事業への投資についてであろうと推測できた。話の内容から、昨今やはり環境関係の投資が堅調なんだ、という印象を持った。その二人の内の一人の社長が、社長の口から「汚穢屋」と自らを呼んで、廃棄物やし尿処理の事業について話し始めたので、その社長の「本業」が清掃やメンテナンス、清掃、ごみ処理などを大規模に展開している会社だということが分かった。「汚穢屋」というのは、勿論差別的な用語である。落語にも登場するが、社長本人も幾分「自虐」のニュアンスを響かせていたように思う。社長は「汚穢屋」が差別されながらも、どのようにそれを生業としてご飯を食べて来たのかを、もう一人の社長に話しながら、「汚穢屋」をめぐる新規事業への投資の話をしていた。清掃をしたりインフラのメンテナンスやし尿処理という、ケア労働が歴史的に差別されてきた背景を、その投資話からだけでも感じ取ることはできた。そして、「汚穢屋」と自らを呼びながらも、そこにどれほど技術的洗練があってノウハウがあるのかを、もう一人の社長に語っていたのだが、聴き手になっていた社長は、少し気後れしたというか、愛想笑い的に話を往なしており、勿論友人同士だろうが、僕から見ると少し差別的なニュアンスがその態度に現れていた。小馬鹿にしているというのは言い過ぎかもしれないが。その社長の話しからは、「汚穢屋」の歴史性、技術性、そしてある意味差別的な扱いを受けていたが故に、そこに存在する既得権益の話をしており、自虐的なニュアンスで「汚穢屋」と自らを呼びながらも、そこに存在する理論と論理、そして経験から来るであろう矜持のようなものも、その会話の中から聞き取ることができた。

 だが、その話がひと段落すると、その「汚穢屋」と自らを呼んでいた社長が、「陰謀論」について話し始めたのだ。「トランプの後ろには影の政府がいる」や、「自民党の議員の三分の一以上が在日外国人で日本の国益を損ねている」などを、まことしやかに話し始めたのだ。それを聞いていたもう一人の社長は、話に乗っているところもあるけれど、それは噂だとか、本当のところはわからないなど、たしなめつつ、その話は眉唾物だと、暗にたしなめるように話していたのである。僕はその時、「汚穢屋」の歴史性や、そこにある差別や階級の構造、経済的問題、ケア技術の問題など、聞いているだけでも社会問題を考えさせられる話をしていた人物が、突然状況が変わると「豹変」してしまったことに驚くと同時に、考えるべきことでもあると思わされた。東京の23区ではほとんど見なくなったが、し尿処理のバキュームカーの話しの時、聴き手の社長がそのバキュームカーを運転し運用する職員について差別的な見解を話した時、それを厳しく訂正していた。僕は大学生になるまで下水道が整備されていない地域で育ったので、所謂「汲み取」としてのバキュームカーはおなじみだった。そういう意味では子供のころから、トイレに来てし尿処理をして運搬するさまを、見ているのが好きだった。それは工事現場でパワーシャベルを見るのが好きなのと同じ意味もあっただろうし、糞尿に対するフロイト的欲望があったのかもしれない。バキュームカーが来られない時は、ひしゃくで掬って肥桶に入れて担いで、別の場所まで運ぶ経験もしていたこともあり、バキュームカーに特別の嫌悪感は抱かないが、そういうことをしたことがない人は、嫌なのだろう。だが、その聞き手の社長の差別的ニュアンスを感じ取った「汚穢屋」を自称する社長は、すかさず職員たちの尊厳を守ろうとして、バキュームカーに対する偏見や誤解を、整然とした論理で解こうとしていた。

 そのような自分の仕事にまつわる差別や歴史性、そして仕事への矜持の中で職員の尊厳を守ろうとする社長が、次の瞬間「陰謀論」を語り始め、先ほどの聴き手の社長からたしなめられる。この一貫性のなさこそ、差別を考えるときは向き合わなければならない状況なのだと思った。この職員への偏見や差別をなくそうとする社長と、「陰謀論」から「排外主義」を話し始める社長は、同一人物であり、その人の中ではそれが同居している。何故「同居」し得るのか、これは恐らく本人にもわからないだろう。そしてこれは別にその社長だけではなく、普通に僕の中にもある「同居」であるとも思う。恐らく、この「同居」は誰にでも日々生じていることなのだ。この場合、僕はこの社長に向かって、あなたは「陰謀論者」で「排外主義」だということはできるし、おそらく、ある場面では正当な社長への非難になると思う。しかしでは「汚穢屋」という偏見や差別の歴史の問題を、これまでの仕事の経験を論理的にまとめながら、あたかも歴史家のように、その歴史にまつわる偏見と差別を間違っていると、聴き手の社長に伝えようとするその人は、いったい何者なのだろうか。たぶん、この自分の仕事への見識と、後者の「陰謀論」は論理的に繋がっている。もっと言えば、その社長の真摯な仕事に対する論理や理論が、「陰謀論」を可能にしている一つの要因になっているとすらいえる。この絡み合いを解きほぐすことが、差別や偏見を考えることである。

 この社長の中にある矛盾した態度は、「善悪」の分裂ではない。「善悪」の問題にすると、差別の問題見えにくくなる。そうではなく、偏見や差別を厳しく批判する論理が、ある場面では差別や偏見を支える論理に変わってしまうということだ。この問題に理屈をどうつけるのかが、この状況を「読解」する必要な「技術」だといえるだろう。単純に「善悪」で、「悪」の論理が出て来たから叩いて非難すれば、「善」の部分だけが残されるということではない。むしろそのような単純な反応をすればするほど、一人の人物の中に矛盾をしながら、差別に批判的で倫理的な論理が、一方では差別に加担するような論理に転用されることがあるという「技術」の問題を考えることができないし、その状況を考えるという態度自体を台無しにしかねない。「悪」の部分が出たから「悪」の部分を叩くのではなく、その「悪」はある時は「善」と呼ばれる「技術」でもあったはずだという、粘り強い考察が必要なのである。そうしないと「悪」と批判し、それで口を封じて考える機会を喪失させると、より深刻な無理解と分断へと進むしかない。確かに林原のブログは一読で批判されるべき内容は書いてあるとは思う。しかしそれだけを指摘したからといって、差別を支える論理の批判には、到底なり得ないだろう。

 上記の問題は、今、パチンコでも考えているが実は無関係でもない。そういえば、仕事帰り、シン・エヴァTypeレイで2万発。夜は林原の声ばかり聞いて帰宅しました。

パチンコと文学について?(1)

2025年05月17日 | 日記・エッセイ・コラム
 少しパチンコについて書いてみたい。というのも大崎一万発+ヒロシ・ヤング『新装版 パチンコ滅亡論』(扶桑社新書)とPOKKA吉田『パチンコがなくなる日』(主婦の友社)を読んだからである。僕自身はパチンコは友達に誘われて大学生の頃から「打ち」始めたわけだが、ざっくりと収支を付けており、2010年前後までは、年間収支でマイナスになることはなかった。大負けする日もあり大勝ちする日もあるが、収支を付けると、1990年末から2010年あたりまで年間収支で20万前後の黒字、多い時は40万円ほど勝っていた。大学生の時は、2000年前後であり、「開店プロもどき」のようなことをしており、友人から新装開店の情報を貰うと、夕方から並んで駆け込むように店に入り、よく回る釘の台で打った。今はほぼ新装開店に特別な意味はなく、法的にもそのような「イベント」は禁止され、僕自身ももう並ぶような打ち方はしていないため、昨今の詳細はわからないが、当時新装開店のパチンコホールは玉がよく出る関係で、夕方から開店して短縮営業をしていたのだ。それはサービスで玉が出すぎるためである。もうここからは、パチンコに全く馴染みのない人を置いていく形で書くことになってしまう。新装開店のパチンコホールは、千円で30回以上抽選するような台ばかりが設置され(へたをすると40回近く回る)、現在は後述するが千円で20回も抽選しない台ばかりになってしまい、今考えると信じられない状況だった。友人から新装開店の情報を貰うと、6時間ほど行列に並び、夕方からダッシュで店の中に、ほとんど倒れこむように人をかき分け、どこかの祭りの福男の競争のように入っていく。今でも思い出すのが、隣の当時50代くらいの女性が、「にいちゃん、うちの台、親指くらい釘開いてるよね?」と言ってきたので、これはゲージの「命釘」が親指の幅くらい開いているという意味なのだが(つまり玉がスタートチャッカーによく入ることを意味する)、安心したいのであろうと思って、「むちゃくちゃ開いてるよ」というと、にこにこしていたのを思い出す。調布のパチンコ屋さんであった(当時の調布はパチンコ激戦区)。その日も当時の下宿の家賃くらいが儲かったと思う。
 
 僕はもちろんプロではなかったが、負けたくはなかったので、当時1990年代末から2000年代にかけて、それは現在でも原理は変わらないのだが、要は千円でどれだけ抽選を多く受けられるかがパチンコの勝敗の要因なので、回る台を見つけて打っていたため、年間の収支は常に黒字であり、友人の新装開店の情報でさらに黒字を増やしていた。「遊び」なのにお金が得られるという環境のもとで、ストイックに勝つことに喜びを感じていたのだと思う。勿論、常に勝っているわけではなく、日によっては負けることは当然あるのだが、博打で金がなくなるとか借金をするということはなかったし、それは恥だ思っていたので、年間では必ず黒字にして、パチンコで負けるやつは、何を考えているのか、などと少し優越感を感じていた。2005年ころであろうか?完全に職がなくなってしまい、じり貧になり、にっちもさっちもいかなくなった時、3カ月だけ「プロ」としてパチンコで稼げるか試してみたことがある。朝9時に行き、回る台を23時まで打つという「仕事」としてやったが、月平均で17万円ほどの収入で、当時の初任給くらいは出したが、とにかく辛すぎる。副流煙で声は出なくなるし、一日中座って釘を気にしているのがむちゃくちゃストレスになり、3カ月で音を上げた。これなら普通にアルバイトをした方がよい。そこから、「プロ」のようにふるまうのは諦め、年間収支黒字でいいか、という打ち方を始めた。プロはどの世界でも厳しい。
 
 パチンコで勝ったら、ほとんどの人が「特殊景品」(東京の場合は金地金)に変えて、それをTUCで日本円に換金するわけだが、なるべく勝ったお金はまた博打に使うのではなく、食事か書籍の購入資金にしていた。勝った時は普段食べられない食事をし、そして、高価な書籍を買いに行く。寺沢恒信訳のヘーゲル『大論理学』(以文社)全三巻は、TUCで換金してから速攻で大学生協に行き買ったのを記憶している。学生時代に買った書籍の多くは、この鉄の玉から生れたものである。だが、2007~8年ごろから、体感で、これは勝てなくなってきたな、台が回らなくなったというのを如実に感じ始めた。恐らくそれより数年前から変化はあったのだろうが、僕のような「立ち回り」をして遊んでいる人間が、これは少しおかしいなと感じ始めたのは、それくらいだと思う。そして2010年、「東日本大震災」の前あたりから本格的に勝てなくなってきて、ついに年間収支がトントンか赤字に振れ始める。それ以降、現在に至るまで収支黒字の年もあるが、均すと年間収支で10万前後赤字になっている。酒も煙草も車にも興味はなく、趣味といえばゲームくらいなので、パチンコも趣味のレベルでの消費ではあるが、かつてのように黒字から考えればとんでもないマイナスである。そして一応僕のようにある程度ストイックに動いている客がこうなんだから、漫然と遊んでいる人はもっと負けてしまっていると思う。この現象はこれはパチンコ産業の衰退と軌を一にしている。

 ではなぜこんな状態なのに僕がパチンコに行くのかというと、それは事後的な確認ではあるのだが、パチンコというのが賭博でありながら法的には賭博ではなく、そしてその産業の成立には、日本の朝鮮半島の植民地支配とも関わる複雑な歴史性があり、そのような環境で、僕自身がいかにいかがわしい方法で金を増やしに行っているのかという、自分自身の下品さを確認するためでもある。僕が大学生の頃の、まだ今に比べれば「牧歌的」なパチンコホール環境の中では、落ちた玉を拾って煙草に換えている人や(禁止だったが見て見ぬふりを店員もしていた)、パチンコをしながら競馬や競輪、そして競艇、オートレースをする人、飯を食いながら一日中パチンコを打っている人など、今とは比べられないほど、「変な人」が存在した。いわゆるヤクザが小遣い稼ぎをするために占拠している「島」もあり、「にいちゃん、一万円でこの席売ったるで」などと声を懸けられることもあり、緊張感もあった。ただ、それはそれで面白い空間でもあった。

 このような思い出話を書いたのも、先ほど取り挙げた二つのパチンコをめぐる書籍は、パチンコライターと業界誌のジャーナリストが執筆したもので、しかも、僕よりも10才ほど年上で、僕自身は早稲田と高田馬場のホールを根城に遊んでいたが、その著者たちも同じく早稲田と高田馬場を舞台に活動しており、それは高田馬場に白夜書房という当時有名なパチンコ雑誌を発行していた出版社があったことと関係があるのだが、そこに少し親近感がわいたからである。今もだがおそらく活動領域はかぶっていいるはずで、気が付かないがすれ違っている可能性は高い。僕自身は当時からパチンコ雑誌なんかはあほらしくて買ったことはなかった。ただ文化史的に見ると興味深い記事が掲載されており、それとスロットで遊ぶ人にはかなり有益な「攻略」の情報がある(あった)ようだ。その雑誌周辺でかつて活躍していたベテランのライターやジャーナリストの「パチンコ観」を、先ほど挙げた書籍から読み取り、何かこれは「(近代)文学」の歴史と近いものがあるな、と思ったのも、少しこうやって文章にしてみたかった切っ掛けでもある。

 しかし、この文章自体思い付きで、しかも構成など全く考えておらず、今から何を書くかは行き当たりばったりである。タイトルに「(1)」と入れたのも、取り留めなく分量が多くなりそうで、しかも話題の中心に中々たどり着かなさそうなのもあり、数回に分けて書いたほうがいい、と思ったからだ。僕自身は、先に挙げた著者の「パチンコ観」に、賛成する所もありながら、賛同できないところもある。そしてその賛同できるところ、そしてできないところは、どうやら資本主義とパチンコの関係として問題化できると思われる。何故ならば、僕がパチンコで勝てなくなっていく過程と、グローバル資本主義の伸張と経済の新自由主義化の問題が重なり合うからだ。先に挙げた書籍の著者たちも、それらの「問題」を意識しているとは思うが、ただ、僕はそこで彼らと「観点」を異にする所がある。

 行き当たりばったり、思い付きで書いていくが、おそらく資本主義とパチンコをめぐる話で少し何回か?書いてみたいと思う。勿論これは僕の経験論的な分析である。しかし文学と関わるという大風呂敷を広げたが、たためないかもしれないので注意。(つづく)

引き続き『ゲバルトの杜』の批判の集いへ行ってきた

2025年03月18日 | 日記・エッセイ・コラム
 今もではあるが、余裕のないスケジュールが進行しており、思考も余裕がないので中々ブログも更新できていない。さすがに外に出ないともっとぐずぐずになりそうなのもあり、ちょうどいい機会でもあり『ゲバルトの杜』の批判の集いに行ってきた。会場は満員。シンポジウムの登壇者は、絓秀実・上野昂志・佐々木敦・井土紀州・亀田博・花咲政之輔で、亀田が所有している、川口事件後の1972年から亀田も撮影者として撮影した「早稲田解放闘争」8mmフィルムと、2001年7月31日の早稲田の「学館闘争」の映像も上映された。この8mmフィルムは、いわゆる川口事件を引きおこした革マルを批判して、一般の学生を含むノンセクトがおこなった大学の民主化運動を記録したもので、映画『ゲバルトの杜』でも一部使用された貴重な映像である。フィルムは箱に入れて仕舞いっ放しだったために、かなり保存状態の良いフィルムの映像となっており、しかも撮影者である亀田の解説付きで見られるという大変貴重な機会であった。今から50年以上経過した映像だったが、早稲田、高田馬場周辺は現在の僕の生活圏内であるため、50年たっても変わってないところは変わっていないな、という感想も持った。この感想自体が実際は変わっているということなのだが。

 そして、2001年の「学館闘争」の映像だが、これは井土監督の映画『レフトアローン』にも使われていた映像で、見覚えがあった。記憶が定かではないが2005年くらいに早稲田で「学館闘争」のもっと長いバージョンの映像が流されていたと記憶する。その映像では、大学の当局の教職員から、抗議活動をする女性の持つトラメガの配線が引きちぎられるシーンが撮影されていたはずだが、そのシーンはいまだに鮮明に記憶に残っている。今回のバージョンにはなかった。そして、今回見直して印象に残ったのは、早稲田キャンパスの南門の鉄門で、学生と教職員と警察が門扉の開閉で押し合いの闘争を繰り広げるのだが、その場面に恐らく学生の若い声で、「高塚高校の事件を知らないのか!」というように聞こえる叫び声が録音されていた。「高塚高校の事件」とは1990年に神戸の高塚高校で女子生徒が、遅刻指導の名目で閉められた鉄門扉に頭部を挟まれて即死した事件であり、管理教育に対する批判が高まるきっかけの事件で、外山恒一もこれにはコミットしていたと著書で書いている。この時の鉄扉での闘争が、その学生に「高塚高校の事件」を想起させたのであろう。そういう意味で、2001年時点では、「高塚高校の事件」がまだ強く学生の意識の中にはあって、大学の管理コントロール支配ともリンクする形で想起されていたのが確認できた。やはり映像記録、ドキュメンタリーというのは、重要なものだということを改めて考えさせられた。

 長時間に亙った討議も面白く内容的にも充実していたと思う。僕の知識的に追いつかないところもあり、ぼくが軽々に判断できない話もあったが、蓮實重彦と1968年の問題を佐々木が提起していたのも良かった。

 討議を聞いていて、直接討議には関係なく考えたのは、やはり単純に事件の意味を考えたり、運動の思想的な意義をこねくり回して考えても、限界があるということである。そこには、映像作品なら映像作品のエクリチュールの分析が必要だ。僕の印象では昨今批評というのは批評の批評というか、ある人の批評の内容をそのまま受け取って理屈で講釈をこね回すというものが目立っているように感じている。そんなものは別に批評家を対象にしなくとも、どんなシチュエーションでも人物でも、物語分析や表象批判がなくとも、作品を見たり見ていなくとも、できてしまう。そんなことをやっても意味はないのではないか。うまいこと言ってやったというのは単なるこざかしいというだけだろう(そういう欲望自体は肯定したいが)。売れる売れないもほぼこれに属すると思う。批評というのは、やはり作品なりテクストなりを、一つのエクリチュールの壁に見立てて、そこに何度もぶつかったり解釈したりしながら突破していく作業だろう。

 シラスで放送されていた綿野恵太と大杉重男の対談を購入して視聴したのだが、内容は面白くニヤニヤしながら見られた。その中で二人が批評と「ゴシップ」の話をしており、面白く聞いた。僕は批評というのは「ゴシップ」をいかに世界史的な文脈に置きなおすか、という行為だと考えている。ただこの場合の「ゴシップ」とは、小さいサークルの単なるうわさ話「だけ」を意味していない。こういう小さなサークルの噂話が世界史に通じることはありうる。しかし僕はそれだけではだめで、ヘーゲルがいうように、「俗」な次元の話が世界精神と矛盾を抱えながら連関しているという状態が維持されていなければだめなのだ、と思っている。それはマルクスの下部構造が世界を動かしているという構図ともつながっている。マルクスはこれまで「俗」だったエコノミーの次元、通俗そのものの人間の欲望の次元の動きを、それ自体を世界史を動かす根拠として転倒したわけだが、これこそが「批評」の大本のはずである。今の批評の批評は「ゴシップ」を世界精神に接続するというエクリチュールの次元の創造ではなく、売れる売れない、自己実現や承認欲求(自虐)のための、自分たち業界人しか知らない狭い範囲の「ゴシップ」を、哲学的に、あるいは文芸的にそれっぽく書いているだけなのではないか、と考えたくなる。勿論、そうではない、ちゃんとした人がいないわけではない。それはいる。

 『ゲバルトの杜』を批判するには「ゴシップ」を絡めながら、映画のエクリチュール分析をすべきだ。そして討議の中で、時間がなかったので本格的には展開しなかったが、映像のエクリチュールの検討に入る場面があった。これが絶対的に必要だろう。