「プチット・マドレーヌ」は越えたので許してほしい

読んだ本の感想を主に書きますが、日記のようでもある。

雑誌『査証』を買う(『杼』についての追記〈7月18日〉)

2023年07月16日 | 本と雑誌
 古本で『査証』(査証編集委員会)を購入した。1971年から73年までに全7号出ており、複数の古本屋を巡ったので、まだ届いていない巻もあるが、全号を手に入れた。『査証』には、『VISA』というタイトルも併記されている。届いた分をまだざっとしか見ていないが、「赤軍」に関わる記事が多い。2号には足立正生と竹中労の対談もあり、これから読んでみようと思う。また、高橋和巳の「文学の苦しみと喜び」という文章もあり、これは1965年の講演の速記記録のようだ。未刊だったものを、高橋を追悼して掲載したということである。これ等を見てもわかるように、この『査証』を買った理由は、文学や映画演劇と革命に関わる文が多く目に留まったので、芸術と革命という実践が、どういう理屈で1960年代~70年代は結びついていたのかを、少し眺めてみたいと思ったからである。松田政男や吉本隆明、重信房子らも書いている。今もざっと見ているが、芸術や文学が革命と結びついていた稀有な瞬間だったんだろうな、と思う。

 雑誌といえば、批評界では有名であろう『杼』(エディションR、国文社)があるが、これも全巻持っている。ある時期までは『杼』は古本でよく見たので、全6巻が学生が手に入る値段でも買えたのだ。これにはおまけの話があって、なぜか二揃え集めることができた。散逸してはいけないということで、ばらばらになっていた巻を見つけては買っておいたのだ。この余分な一揃えは、出身の大学図書館にこともあろうか全く所蔵されていなかったので、寄贈した。『杼』を直接手に取って読める後輩は、僕に感謝してほしい。それはさておき、この『杼』であるが、その執筆陣や批評的な内容から、短絡的かもしれないが、僕はこれは日本版の『Tel Quel』なのではないか、と思っていた。幸運にも同人であった二人の方にお会いできたので、「『杼』は『Tel Quel』を意識したりしたんですか?」と聞いてみたが、どちらの方も「それは意識しなかった」というお応えであった。そうか、とも思ったが、いやでも〈無意識〉ではつながっていたはずだろうという、勝手な思い込みを今でも抱いている。阿部静子『「テル・ケル」は何をしたか: アヴァンギャルドの架け橋』(慶應義塾大学出版会)をかつて読んだとき、少し記憶が曖昧なのでこれはまた確認しないといけないが(訂正の可能性があるが)、『Tel Quel』は当初、織物や織機に関わる器具か何かの名前にするはずだったというのが指摘されていたと思う。それも読んでいたので、「杼」という名前にしたのは、そういう事情とかかわりがあるのではないか、など思っていた。これはもう一度、阿部の本で確認してみないといけないと思う。

 ※ここからは追記であるが、上記の阿部の『「テル・ケル」は何をしたか』を確認してみると、「7 創刊前夜」p.50に「雑誌のタイトルは当初は「Trame(横糸・網状組織。陰謀の意味もある)」が考えられ、のちに「テル・ケル」に落ち着いた。」とあるように、これが念頭にあったため、『杼』と重なり合ったのだ(杼はまさしく緯糸(横糸)を通すものだろう)。ともに「テクスト」にかかわる雑誌名として、しかもヌーボー・ロマンから精神分析やエクリチュールの問題など、掲載内容も重なるところは多いのではあるまいか。また阿部が、『杼』の同人であり、雑誌の発行人でもある江中直紀を注記で触れていたことも、少し気になったところではあった。そういう意味で短絡かもしれないが、僕は『杼』=『Tel Quel』説を唱えたい。