「プチット・マドレーヌ」は越えたので許してほしい

読んだ本の感想を主に書きますが、日記のようでもある。

「シン」について

2023年07月11日 | 日記
 庵野秀明の『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』を見た時は、所謂『旧劇場版』と比較して納得いくものではなかった。田舎での〈田植え〉や〈コミューン〉のような場所での人々の生き残りなど、なにかを回復・保存しようとする庵野の欲望が見えるような気がした。むしろ疎外とその回復の失敗のような中途半端さこそが、テレビ版以来のエヴァの意味であって、あのような形で何らかの全体性を回復することには、なんの意味も見出せなかった。また、碇シンジというか庵野のトラウマであったであろう綾波レイや惣流・アスカ・ラングレーという「女」が、庵野の故郷といわれる宇部新川駅に集められ、文字通り彼女たちはシンジとは別の〈プラットホーム〉に移し替えられて、シンジの人生という〈プラットホーム〉とは違った、並行世界というにも少し短絡されすぎた別の世界線を進ませようとする演出も、「おいおい、それでいいのかよ」と言わざるを得なかった。宇部新川という庵野の〈故郷〉への回帰と、トラウマとの決別。そして、そこには〈母〉の代わりというか、〈妻〉の代わりともいうべき、真希波・マリ・イラストリアスが恋人として待っており、最後の場面ではシンジの声も〈声変わり〉し(「男」に成長したということだろう)、声優が緒方恵美から神木隆之介に突如変更されており、映画館で唖然とした記憶がある。シンジの性別の未決定性のような問題こそ、残しておくべきだろう、などと思っていた。やはり人は〈故郷〉を目指してしまうのだろうか。

 これを書き始めたのは特にエヴァを回顧したいわけでも、いまだパチンコで人気を誇っているエヴァについて書きたいわけでもない。上記感想を考え、それについて友人たちと話をしていると、友人の一人が、庵野は『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』で〈国民作家〉となろうとしたが、それは失敗しただろうな、という趣旨のことを言った。その友人は、ほぼ同じ時期に公開されていた 村瀬修功が監督をした『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』の方が断然良い、という話をしており、これまた同時期の新海誠『すずめの戸締り』の方が、〈国民作家〉の道を進むにふさわしい作品だろうという意見を示していた。僕自身も『シン・エヴァ』の安易な疎外からの回復物語はダメだと思っていたので、友人の話を聞いて、なるほどそうだろうな、という納得のもとに聞いていたのだが、その時、「庵野は新海のような国民作家を目指したが、駄目だったんじゃないか」というような話になり、そのときもう一人の友人が、「シン・エヴァのシンは新海の新なんじゃないですか?」と発言した。僕は、うまいことを言うなあ、と膝を叩いてしまった。「シン・エヴァ」の「シン」は、庵野が新海のような〈国民作家〉になりたいという欲望の表れではないのか。しかし、友人たちの評価からもわかるように、庵野は〈シン海〉にはなれなかった。そういう意味では、その突き抜けられなさは、まだ庵野の良さなのだろうか。

 話はさらに飛ぶのだが、この話が頭に残っていて、先日何とはなしに島崎藤村の小説『破戒』を眺めていると、「新平民」という言葉が目に入った。そういえば「新平民」の「新」も「シン」だよなあ、と考えていると、この差別のスティグマである「新平民」の「シン」について、庵野はエヴァのタイトルをつける時、一瞬でもこの言葉に意識を向けたことはあったのだろうか、としばし考えた。まさしく、自然主義のその発端において、藤村は「シン」を差別の刻印としてテクストに刻み込んだのだ。この〈戸籍〉に刻印された「シン」というスティグマは、同時代における差別を持続するための欲望そのもののエクリチュールでもあったといえるだろう。すなわち、「シン」=「新」は〈異化〉の効果を狙っているわけではあるが、それはとりもなおさず、被差別部落民を〈異化〉させフェティッシュ化する問題とも関わっていたのである。では、「シン・エヴァ」にあやかって、「シン・仮面ライダー」など、「シン・~」というタイトルが一時期巷をにぎわせたことがあったが(いまでも?)、この「シン」という言葉は、その歴史的な重みを、また差別の歴史とも関わりうるエクリチュールの可能性を踏まえて使用されているのだろうか、という疑問がわく。庵野の後続である「シン・~」というタイトルの〈派生物〉たちは、それを考慮しているのかどうか、『破戒』を眺めながら考えていた。勿論それは〈シン=真〉であったとしても、というかだからこそ「真理」の歴史性の問題がそこにはある、と言わなければならないだろう。