「プチット・マドレーヌ」は越えたので許してほしい

読んだ本の感想を主に書きますが、日記のようでもある。

ゴミクズの存在様態

2023年10月31日 | 日記
 僕がTwitter始めた当初って、こんなに「論争」ってタイムライン上にあったっけ?と不思議な気持ちになっている。他のツイートに対して、もう少し面白がったり、教えられたり……したような気がするが、それは過去を美化しているのだろうか。あるいはXになって、イーロン・マスク効果でタイムライン(時空間)がねじ曲がってしまい、僕の無意識がタイムライン上に物象化してしまっているのだろうか、と疑う。おそらく過去を美化しているというのはありそうである。あと、時代状況がこの10年で変わったということはあるかもしれない。1990年代よりしきりに言われるようになった「ジャンク化」(これは本当は68年以降というべきだろうか、いや30年代以降というべきかもしれない……)がこの世界の実質的形式となったともいえそうだ。この場合の「ジャンク化」とは通俗化・大衆化であり、頽落としてのgroundへの沈没・墜落を通して、様々なジャンルのものが揚棄される機会ともいえるのだろう。徹底的な差異化と頽落と通俗化と断片化(無意味化)、その「下」まで降ちたgroundは文字通り「根拠」となる。ヘーゲルは『大論理学』の中でいっていた、と思う。通俗化というのは「根拠」(Grund)を形成するのだと。確かラクー=ラバルトの『貧しさ』でも指摘されていたと記憶するが、ハイデガーが「高みに落ちる」という矛盾した言葉を使っていたはずだ(弁証法的と言いたくなる)。この言葉はヘーゲルが「根拠」を形成するとした頽落(ジャンク化・通俗化)と同じもので、「根拠」とは「ジャンク」の堆積、即ち差異の堆積それ自体のことなのである。

 Twitter上では学問や批評や教育の「ジャンク化」や頽落、その通俗化をめぐって、現在頻繁に「議論」されている。しかしヘーゲルやハイデガーに倣えば、ゴミクズ(差異)こそが「根拠」なのだから、このどうしようもなさを「根拠」として受け入れなければならないだろう。何故なら、日々の「論争」もこの「根拠」の上で可能になっているからだ。かくいう僕も、このゴミクズが「根拠」を作っているおかげで、僕自身が生み出している大量のジャンクを肯定し、あるいはそれら僕の生み出したゴミクズを仮初めの「根拠」として生きることができているのである(うんざりすることは避けられないが)。そういう意味でもゴミクズは肯定するしかない。ただそのためには、このゴミクズが「生」という実存の「根拠=下部構造」となっているという、厳然たる論理学をきちんと勉強しておかなければならないし、ゴミクズに対する、ある程度の実践的な勇気(倫理?)も持たなくてはならないだろうとも思う。だが、これがかなり難しい。そのためにも、「根拠=ゴミクズ」を把握するために、自分自身もジャンクの上に立っているジャンクとして、一応まじめに勉強しておいた方がいいように思う。これがゴミクズの存在様態である。

誰もいないバッティングセンターでディルタイをそろそろと読んだ感想(8)

2023年10月30日 | 日記と読書
 今日は久しぶりにバッティングセンターに行ってきた。日暮れ時で明かりがまだ点灯していなかったので、最初の20球は探り探りで打った。ただ、久しぶりのわりに、そこそこバットには当たった。照明がついてからの50球はなかなかのもので、芯に当たっていい打球が飛んだのもそこそこあった。しかし、もう少し打っていたら手にまめができていたと思う。薄暗い誰もいないバッティングセンターで、金属バットの音だけが響いていた。


 帰ってきてニュースを見ていると、ハロウィーンの渋谷の状況を報道していた。見ていて、日本的?で嫌な報道の仕方だなと思う。番組は、ハロウィーンで渋谷に来るのは自粛してくださいという区長の「自粛」要請から始まり、行儀のいいハロウィーン参加者のコメントが流され、ハロウィーンは人に迷惑にならないように楽しみましょう、までの御定まりの結論となって構成されていた。あの番組自体が、管理コントロールの推奨であり、参加者たちも結局、警察を始めとした管理コントロールを喜々として受け入れていくための露払いにしかなっていなかった。仮装しながらわざわざ渋谷まで行って、そこで区長や住人の人の気持ちはよくわかります、ただ騒いだり乱痴気騒ぎするだけの人ではないんです、私たちもそれはいけないと思っていて、ほら、あそこにごみを拾っている人もいます、などなど……のよくあるやり取り、この一連の流れこそが、祭りとか、渋谷のありよう(公園の管理、路上生活者の排除)とか、人々の主体的な行動などを自らで踏みにじっている。インタビューされてコメントする人々は、そしてそれを番組として構成する報道関係者は、人々は管理されていないかのように、渋谷に集まった人々の群れの中には、政治的分裂や貧富の差や暴力性などないかのように、警察といっしょに自分たちの行動自体を管理コントロールする。自分たちのこの一連の行動とコメントこそが、もっとも管理されている状態でありながら、管理を隠蔽(否認)している状態なのだ。むしろ、ごみをしても誰も拾わず、良い大人が酔っ払って管を巻き、警察に注意されても無関心で、もっと殺伐と荒廃しているべきなのである。自分が管理されていることを否認せず、粛々と管理される様子を、ありのままに見せる必要がある。

 ディルタイが「無意識」に触れるところをメモとして引いておこう(『全集第二巻』、「『精神科学序説」第二巻のための完成稿―—第四部から第六部まで」p.129)

《また、意識の事実がこのように確実だということのなかには、意識の事実がもしかすると意識に属さない他の事実に制約されているのかどうか、それゆえ、もしかするとこうした事実の領域の背後には、われわれの意識に達しないためにわれわれには知られないような諸事実の別の秩序をもった背景が見いだされるのかどうか、という点についての決定は含まれない。心理的事実のそのような第二の秩序は、最近のほとんどの心理学研究者たちが想定している諸感覚によっても成り立つだろう。この秩序は、意識の法則に従って記憶に入り込めるような表象が無意識というかたちで存在する、という仮定によって際限なく拡大されるだろう。けれども目下の叙述は、意識の事実のこうした領域に関する諸現象の概念を用いた戯れを事実上終わらせる。こうした事実は私がそれを体験するからこそ存在するわけである。》

 ディルタイは、さしあたり意識が介在できない存在があることを、「無意識」の領域の問題として想定できるとしている。しかし、現実や事実というのは感覚を通して意識を介したものだけが現象するわけだから、「無意識」とは無際限に拡張される「戯れ」でしかないというわけである。つまり、意識に還元できない「記憶」としての「無意識」は想定できるが、ここでは「戯れ」として非本質的なものと見做される。この「無意識」の問題は、フロイトやハイデガー、ラカン、デリダなどに引き継がれ、意識すらをも差異化して構成する、「記憶」としてのエクリチュールの問題につながっていくだろう。あるいは意識には「無」としてしか現れない「存在」として。

イスラエルはアメリカ・ヨーロッパに属しているのか?+ディルタイをそろそろと読んだ感想(7)

2023年10月29日 | 日記と読書
 現在、イスラエルとパレスチナ国の戦争状態があり、同時に力関係的にイスラエルのパレスチナ国に住む人々への一方的な破壊と虐殺になっているが、この問題について僕は特に知識を持ち合わせていないので、何かもっともなことを話すことも書くこともできない。ただここには僕なりの疑問があるので書いてみたい。現在のイスラエルからのパレスチナ国への攻撃は、人種差別の構造がある虐殺ではないか、ということである。この地域はかつてイギリスが植民地にしており、そして放棄した場所だが、ここにアメリカ・ヨーロッパ中心主義による人種差別の構造が戦略的にも無意識的にも残存させられていて、それがこの虐殺を可能にしているのではないかということだ。アメリカ、イギリスやドイツなどヨーロッパの先進国はイスラエルを支持しているが、それはイスラエルを「出先機関」としてアラブ諸国を統制しようという、アメリカ・ヨーロッパ中心主義の下心によるのだろう。むしろイスラエルの「ユダヤ人」は怒るべきなのではないか。「ユダヤ人」は、ヨーロッパでは反ユダヤ主義の中で迫害され、ナチには絶滅政策によって虐殺されたわけだが、今はアラブ諸国の支配のための「出先機関」として使われている。そして、アメリカ・ヨーロッパ中心主義の後ろ盾は、パレスチナの人々を「動物のような人間」(human animals)と呼んで虐殺を正当化しようとしている。これはナチが「ユダヤ人」を、その動物性による蔑視によって非人間的な存在として管理したことの相似的な表現だといわなければならないだろう。

 ジャック・デリダも言っていたと思うが、人間を動物と呼ぶこと自体が問題なのではなく、動物を劣位な存在として名指すイデオロギーの中にこそ、人間を「動物のような存在」として差別し殺す口実が与えられている。この「動物」を人間よりも劣位な存在と見做すパースペクティヴこそ、人間中心主義としての、アメリカ・ヨーロッパ中心主義と繋がっているものだといえる。このように、ナチ・ドイツの時に「ユダヤ人」が動物性の中で虐殺された問題は、アメリカ・ヨーロッパ中心主義の問題でもあったはずなのだ。にもかかわらず、イスラエルは「ユダヤ人」を虐殺したはずのそのパースペクティヴの中で、こともあろうにパレスチナの人々を劣位(動物)において虐殺しようとする。これではイスラエルはナチを批判できなくなってしまうのではないだろうか。かつて「ユダヤ人」が迫害され虐殺された、その当のアメリカ・ヨーロッパ中心主義をイスラエルは「代行」してしまっているのである。しかも、それはイスラエルの「宗主国」となっているアメリカやヨーロッパの先進国によるイスラエルの統治・管理を通して実現される。イスラエルはそのようなかつて自分たちを苦しめたアメリカ・ヨーロッパ中心主義を「代行」させられ、しかもアメリカ・ヨーロッパによるアラブ世界の統治と石油支配のための片棒を担がされているのは、イスラエル自身にとっても本来は屈辱的なことなのではないのだろうか。そういう意味では、イスラエルとパレスチナ国との今回の戦争と虐殺は、アメリカ・ヨーロッパに大半の責任があるはずである。そのはずなのに、アメリカやヨーロッパは「イスラエル支持」という差別心を恥じることなく表明している。ただしこの場合の差別心とは、イスラエルもパレスチナ国もともに、アメリカ・ヨーロッパ中心主義に利用され管理され、同時に差別されているということだ。イスラエルもまた、アメリカ・ヨーロッパによって植民地化されている。

 そもそもイスラエルは、その歴史的な在り方からして、アメリカ・ヨーロッパ中心主義の「他者」のはずではなかっただろうか。それはパレスチナの人々と共有している歴史のはずである。アメリカ・ヨーロッパ中心主義は、そのような本来は「他者」であるはずの人々と場所を統治し、搾取し収奪するために、イスラエルとパレスチナ国とを利用している。勿論、力関係からしてイスラエルの圧倒的な軍事力による虐殺は、イスラエルの責任ではあるが、イスラエルを利用してアラブ世界と石油を支配しようとしている、アメリカ・ヨーロッパ(中心主義)こそ批判されるべきだろう。もちろんここにはおこぼれにあずかろうとしている日本も含まれている。イスラエルとパレスチナ国の間に争いを継続させ、アラブ世界を常に不安定化することが、資本主義の目的であり、アメリカ・ヨーロッパ中心主義がその覇権を維持するための方策といえるだろう。このように考えれば、本来はアメリカ・ヨーロッパ中心主義こそ、イスラエルの「敵」だというべきではないか。

 今回、様々な「虐殺」が報道され、SNSでその様子が拡散されていた時、それ自体で右往左往するのはおかしいと思っていた。勿論、「虐殺」には反対である。しかし大西巨人『神聖喜劇』にもあったように、「戦争」に「勝つ」ためには「殺して分捕る」が必須であり、どのような非人道的なことをしようとも、多く殺した方が勝ち、ということがある。戦争に勝つためなら、人は手段など絶対に選ばないのだ。この厳然たる「戦争」の存在論は押さえておかないといけない。なにがしかの「情」や悪い意味での「道徳」は、結局そこで起こっている「虐殺」の厳然たる事実を見失わせてしまう。この戦争の「殺して分捕る」という収奪は、戦争の基本であり、資本主義(帝国主義)の原理だからである。そして、この収奪と搾取は、イスラエルとパレスチナ双方の国からの、そしてアラブ世界からの収奪と搾取であり、それによって資本蓄積をおこなっているのは、アメリカ・ヨーロッパ中心主義とそれのおこぼれを狙う「同盟国」(もちろん日本も)たちである。「オリエンタリズム」は健在だということだろう。

 さて、ディルタイを読み進めている。『全集』の第二巻の「草稿」を読んでいてさらに理解が深まったと思う。やはり、ディルタイは、精神科学と自然科学は別のものとしながらも、その双方を表象可能にしている、意識や心理の「論理学」には共通性を見出そうとしている。確かにディルタイは、精神科学が自然科学に「従属」しているところがあるとはいう。それは自然科学が何よりもまず「体系」を必要とする科学であるためで、精神科学も自然科学同様に「体系」が必要だからである。精神科学は自然科学の「論理」を借りて来るという言葉は、このことを言うのだろう。しかしながら、ディルタイは、精神科学は自然科学とは違った独自の「体系」を持っているともいう。この精神科学と自然科学の同一性と差異を説明するには、やはりその「体系」を可能にしているのは、意識や心理の「論理学」という共通の論理的地盤(超越論的条件)があるといわなければならないだろう。ディルタイは今のところはっきりとそうとはいわないのだが、「草稿」を読むとこう解釈をせざるを得ない。

ディルタイをそろそろと読んだ感想(6)+涼宮ハルヒシリーズ

2023年10月16日 | 本と雑誌
 『ディルタイ全集1』を読了し、「精神科学」と「自然科学」の差異と、その差異に働く「連関」の問題が興味深いものであった。昨今、「文系」や「理系」などの区別があり、今日も仕事帰りの喫茶店で、隣の大学生が、「文系就職」と「理系就職」の差異を話していた。その二人は「理系」らしいのだが、「理系就職」というのを初めて聞き、なんとなくニュアンスはわかるが、「理系就職」の方が、生涯年収が高いということを話し合っていた。それはともかくとして、ディルタイの「精神科学」と「自然科学」の差異と「連関」はそのような、「理系」や「文系」には還元できない問題を内在させている。しかもそこには知的刺戟に満ちた問題提起があると思われる。

 ディルタイは「精神科学」を形作る「連関」を、「自然科学」のそれとは違うものと見做す。「自然科学」は因果関係を「連関」として持つわけであるが、「精神科学」は「歴史」の「連関」として現れていることになる。ならば、その「歴史」の「連関」とはいったい何かということになるだろう。例えば「歴史」の「連関」と聞くと、ヘーゲルに見るような、精神の運動としての弁証法が思い浮かぶが、ディルタイはそうは言わない。ディルタイは「歴史」の「連関」を「心理(学)」、「意識」の認識論的な「連関」として見出すのだ。そのような「心理」や「意識」の認識論的連関こそが、「歴史」としての「生」の構造連関になっているわけである。このような「歴史」の「連関」こそが「精神科学」を「自然科学」から区別する差異ということになる。するとこの「心理」や「意識」の「連関」とは何か、ということになるのだが、これはカントのいう「主観」の構造と重なり合う部分を持っている。カントが「主観」の構造から、数学がなぜ可能なのか、「自然科学」がなぜ成立するのか、そして「自然科学」とは別の自律性を持つ道徳律がなぜ成立するのか、と問うたわけだが、この問いを応用しているように見える。

 「草稿」の時点でディルタイは「精神科学」に相当する言葉を「道徳-政治」の科学と呼んでいる。ということは、カントが「自然科学」とは別の自律性を持つとした道徳律の原理と「精神科学」の原理がアナロジーであるということになる。つまり、カントが「主観」の「連関」に、道徳律を成立させるような「連関」を見出したように、ディルタイも「心理」や「意識」の「連関」に、「自然科学」の因果性には還元されない、「精神科学」の自律性を保証するような構造連関を見出していたということになるだろう。そしてその「精神科学」の自律性は「歴史」の「連関」によって保たれているということになる。何故ならば「歴史」の自律性は、「心理」や「意識」の認識論的な「連関」それ自体であるからなのだ。ディルタイにとって「歴史」は「心理」や「意識」の認識論的「連関」であり、それが「生」の構造である。「精神科学」は「歴史」的なものといえる。

 ただ、「精神科学」は「自然科学」と全く別なのか、というとそうではない。ディルタイは、生理学や物理学などと「精神科学」の「連関」を比較していることからもそれはわかる。『全集1』ではっきりとそう言っているわけではないが、「精神科学」と「自然科学」を「心理」や「意識」の「連関」で区別しながらも、そこには重なり合う「論理」も存在する。そもそも「歴史」は「自然科学」も「精神科学」も歴史化し、「連関」として成立させているわけだから、その「歴史」の「連関」にとって「心理」や「意識」は超越論的な存在だといえるだろう。つまり「心理」や「意識」の「連関」こそが歴史認識を可能にし、「自然科学」と「精神科学」の差異を成立させているからだ。ディルタイもいう「心理」や「意識」の「連関」は即ち「歴史」であり「生」であり、その超越論的連関は、「自然科学」にも「精神科学」にも権利上〈先行する〉といわなければならないのではないか。

 このように考えると、ディルタイは「歴史」を「心理」や「意識」という認識論的な問題にしているのだが、ハイデガーはこれを「存在」の問題に引き付けたといえるだろう。ディルタイの「心理(学)」的な「連関」という認識論への還元は、ハイデガーから見ればカントよりも退行しているように見えるところがある。それはフッサールの「心理学批判」の対象にもなる。ハイデガーは、ディルタイが「連関」から存在者を理解していることと、それが「歴史」の構造になっていることを高く評価しているのだと思うが、しかし、ディルタイが認識論的「連関」にとどまってしまっていると見做したのだろう。ハイデガーは、ディルタイが「連関」を見出した「心理」や「意識」の領域を、存在者の「連関」を可能にする、〈存在=開け〉と読み換えたのである。そしてこの〈存在=開け〉の構造こそが、現存在の実存論的構造を可能にしている「時間」だといえる。ハイデガーはディルタイの認識論的「連関」を、存在者の「連関」とし、その「連関」を可能にしている「開け」こそ「存在と時間」なのだ。

 また、ディルタイは、「精神科学」の「連関」を説明する時、「比喩」を多用する。しかもそこで面白かったのは、「俳優」の「比喩」である。ディルタイは「精神科学」が普遍的な「連関」でありながら、同時に多様な「個性」や「文化現象」を表象可能にするのはなぜか、という問いに、「俳優」と同じで、同一人物という統一性が、違う役柄を何役も演じることができるという多様性と同居しているというように、このような「俳優」の〈表象=代行〉の構造こそが、「精神科学」を可能にしている構造の一つだとするのである。「精神科学」にはフィクションが憑依するという好例だろう。「精神科学」はフィクションによって成立しているといえるのだ。また、ディルタイは「精神科学」の自律性を保証する「心理」や「意識」の連関構造に、「構想力」を見ている。「構想力」とはまさしくフィクションの可能性の条件だが、カントのいう「感性」と「悟性」を媒介する〈図式性=フィクション(イメージ)〉の能力が、「精神科学」の自律性を形作っているというのは、大変面白い。例えば同じ新カント派に強い影響を受けているファイヒンガーが物語やフィクションとは無縁だと思われている「数学」にも、「als ob(かのように)」というフィクションの構造が内在しなければ、その学問が成立しないとしたように、やはりフィクションというのは「精神科学」だけではなく「自然科学」も貫いているのではないかといいたくなる。ディルタイは、そこに大きな問題を見ていたように思う。それをフッサールやハイデガーは批判的に継承していったのだろう。「自然科学」と「精神科学」を貫くフィクションの構造と「連関」。それを「文系」とか「理系」といって考えようとするのは頽廃以外の何物でもないのだろう。

 今日は喫茶店で、谷川流+いとうのいぢ『涼宮ハルヒの憂鬱』を読み終わった。次に『溜息』を読もうと思う。このままシリーズ全てを読破する予定。

とりあえず読書メモ(絓・ディルタイ・プルースト)

2023年10月12日 | 日記と読書
 仕事が立て込んでおり、また恐らく、仕事とは別に9月半ばから気にしていないつもりでも緊張を感じていたのかもしれない状況もあり、それが積み重なり、なぜか体温が上がらないという謎の状態であったが、ようやく回復してきた。とはいうものの、本はそろそろとは読んでいた。ここ最近読んだものを挙げ、今後少しそれにコメントしたい。

 絓秀実『絓秀実 コレクション』(blue print)1・2の全二冊、1600ページ!を通読した。通読してよかったのは、絓の批評の主に80年代からの軌跡が追えたことだった。昔、絓の本の帯に「さスガの……」という文句が書いてあったと記憶しているが、一貫性と(社会)問題への拘りは「さスガ」だなと思った。感想は、機会があったら書く。ちなみに、絓の単著・共著は、「ほぼ」全て「コレクション」しているはずだが、今回通読して、こんな批評もあったのか、と驚くことも多々あった。

 ディルタイ『ディルタイ全集 1』を読了した。こちらも大著。しかし、面白かった。「自然科学」と「精神科学」の関係は、特に『全集1』の「草稿」を読むとよりわかりやすい。ディルタイの試行錯誤が現れているからだ。「精神科学」は「自然科学」と別の「論理」を内在させる、それが「意識」や「心理(学)」の法則であり、「歴史」の「生」の「連関」でもあるのだが、しかしこの「論理」は「自然科学」の「論理」と無関係であるわけにはいかないだろう。ここにディルタイの苦心の跡があり、「草稿」にはそのプロセスがよく出ている。あと、この「連関」の問題について、ディルタイはスピノザを大変評価しているのが興味深い。スピノザの「実体」を情動構造の「連関」と読み、それが「精神科学」の「連関」の端緒とディルタイは見ているようである。そのほか、「精神科学」を芸術や演劇と関わる「比喩」等で説明しようとしている箇所があり、「精神科学」にはフィクションがどうしても憑依せざるを得ない、という認識があるようだ。「構想力」にも何度も言及しており、ハイデガーとの関係を考える上でも、とても勉強になる。ディルタイは継続してブログに感想を書いていたので、詳しくはいずれ書くつもりである。早速、『全集2』の「精神科学序説Ⅱ」を読み始める。

 プルースト『失われた時を求めて』も第三巻を読了し、第四巻に入った。「アルベルチーヌ」が登場している。「ドレフュス主義」のことなどがたまに出て来て(この巻以前にも出てくるが)、同時代だなと思った。

 まずはメモなので、この程度で。