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時戻素

昔の跡,やがてなくなる予定のもの,変化していくもの,自身の旅の跡など・・・

(No.15) 【遡上】 甲突川編 ~その1~

2008年11月09日 03時28分44秒 | 遡上
【遡上・甲突川】の記事一覧
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 清滝川に続いての「遡上」の第2弾になる。しかし,自分自身が,旧郡山町中心付近までしかまだ到達していない。一応「その1」を書いてみたが,水源の甲突池までたどり着けるかどうかはまだ分からない。

 現在の河口の天保山シーサイドブリッジ上から桜島の方向を見る。


(2008年11月8日撮影)

 2003年,この付近で遊んでいた高校生が流され,死亡する事故があった。河口であるが,急に深くなっていたり,流れが複雑になっているため,危険な箇所となっている。 


 今度は河口と反対側をみる。遠くに中央駅のアミュランの姿が見える。


(2008年10月29日撮影)


 向かって左側の岸には,松林が広がっている。砲台跡や調所広郷の像などがある。写真は同じ公園内にある友好都市の長沙市(中国)の「愛晩亭」の複製の共月亭。両市民が共に同じ明月を眺め,友好の気持ちを通い合わすことを願い,長沙市人民政府が命名したそうだ。


(2008年11月8日撮影)

 上流へ向かうと,天保山大橋で国道225号と交差する。その脇には,汚水処理場があり,そこから少し上流方へ行くと,天保山橋がある。


(2008年11月8日撮影)

 この橋の親柱と高欄は,昭和10年10月に架けられた旧天保山橋のものが使用されている。
 天保山橋を越えたあたりから,河岸は公園となっている。
 公園内には,以下のような像があったり,水神,地神などと書かれた碑があったりする。また,公園遊具に加え,幼児用のプールも作られている。
 
(共に2008年11月8日撮影)

 この公園は桜の名所であり,春になると花見客でにぎわう。


(2008年4月19日撮影)

 今年の春は,こんな客も花を見に来ていた。


(2008年4月19日撮影)

 海月だ。水が引いてしまい,打ち上げられている。潮の満ち干きが原因だったかと思う。

 この途中で,かつては石橋であったが,1993年8月6日の災害で流されてしまった武之橋(上写真),安全面から架け替えられた高麗橋(下写真)を越える。


(武之橋:2008年11月5日撮影)

(高麗橋:2008年11月7日撮影)



 公園内の維新ふるさと館を通り過ぎると,こんな碑がある。他に碑と比べるとサイズが大きい。


(2008年11月8日撮影)

 昭和57年に建てられた戦災復興記念碑だ。
 太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)3月18日以来,8回にわたる空襲で市街地の93%を消失してしまったとある。長崎に落とされた原爆が,鹿児島に落とされる可能性があったということも聞く。戦時中の恐ろしさが伝わってくる。


 高見橋を越え,市電の軌道と交差する。
 橋の脇にはライオンズ公園があり,ライオンの像の噴水がある。


(2008年11月12日撮影)

 この噴水の後で木市が開かれている。

 そして,この噴水の脇に大久保利通の像がある。

 この大久保像の足元には何かがいる。


(2008年11月12日撮影)



 その正体を以前聞いたが,今は忘れてしまった。

(2008年11月13日追記:鳩か何か。鳥には間違いないだろう。)


 ここから上流へ行くと,西田橋,新上橋,玉江橋の順にもと旧5石橋を越えていく。


 今回取り上げた,天保山シーサイドブリッジや各橋の下にはダンボールハウスが見られることもある。

その2へ続く。)


※雨の日に撮影したため,写りの悪い画像がいくつかあります。あとで取り替えるかもしれません。(2008年11月13日追記:ライオンズ公園,大久保利通像の画像を取り替えました。)

(No.12) 【遡上】 清滝川編 ~その2~

2008年11月06日 00時12分43秒 | 遡上
【遡上・清滝川】の記事一覧
その1 その2


 前回のその1では,がんがら橋のところで清滝川を見失い,そこで終わろうとしていた。
 しかし,たまたま通りかかった橋から川の名前を調べると「清滝川」と書かれていた。いったん,地下に消えた後,また姿を現す箇所が分かった。今回はその続きをさかのぼっていきたい。


(2008年11月5日撮影)

 がんがら橋を城山方へ行き,パース通りを横切ると,ビルの間に緑地帯のようになっているところがある。「清滝モール」というようだ。写真の奥の突き当りが天文館公園になる。この通りの天文館公園よりに案内板が建てられている。通り沿いの花壇には季節ごとに花を植え替えているそうだ。名前からも予想できるように,この通りの下を清滝川が流れている。案内板が昭和58年なので,そのころには川は地下化されていたのだろう。



(2008年11月5日撮影)

 清滝モールを抜けた後は,おそらく天文館公園の下を通り,方向を変えて,また,姿を現す。さっきは,歩行者,自転車のための道であったが,今度は駐車場となっている。この駐車場は天文館公園から電車通りまで川の上に作られている。実際,川が流れていることは分かっているが,それが,清滝川とはなかなか結び付かなかった。


(2008年11月5日撮影)

 駐車場部分を抜け,電車通りの下をくぐるとしばらく川は見えるが,しばらくするとまた地下に消えてしまう。

 先ほどの清滝モールの案内板には,「城山の麓に源を発する」と書かれている。城山の麓やこの周辺(中央高校付近)を探してみたが,川の形跡はつかめなかった。照国神社脇に川のようなものはあるが,これがつながっているとは少し考えづらかった。

 もともとは甲突川の一部と言われている川だけに,どのように治水して甲突川から分離したのか気になる。

(No.7) 【遡上】 清滝川編 ~その1~

2008年11月01日 01時11分11秒 | 遡上
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その1 その2



 このブログを始めて1週間になる。このブログを始めるきっかけにもなっていたのに,カテゴリーの中で唯一取り上げていない「遡上」のカテゴリーで書こうと思う。何度も訪問している永田川を最初に取り上げるべきにも思うが,構想が立たないので「清滝川」から書きたい。




 清滝川は,天保山大橋から225号を天文館方へ行くとき,気がつくと渡っているような小さな川だ。1830年頃までは甲突川だったことが,「鹿児島城下絵屏風」からうかがえる。

 清滝川の河口付近の様子が下の写真だ。


(2008年10月29日撮影)

 奥に見える橋は,天保山の臨海大橋から鹿児島新港の方へ向かう道路だ。
 このあたりは道路に沿って桜島と錦江湾を一望できる公園となっている。


(2008年10月28日撮影)

 公園から新港の方へ向かうと次のような場所がある。


(2008年10月29日撮影)

この堤防から桜島の方を覗き込むと,もう海になっている。この下が河口になっていることには道路の反対側の柵の下が川になっていることに注目しなければほとんど分からない。

 城南町付近をさかのぼっていくと,次の写真のような公園が見えてくる。


(2008年10月28日撮影)
 
 この先のカーブを曲がると川は道路の下に消えてしまう。そのあと,どこへつながっているのかはよく分からない。
 しかし,この公園と川の間の道路を道なりにいくと,次のような場所がある。


(2008年10月28日撮影)

 かつて清滝川の上にかかっていた「がんがらばし」の跡だ。
 噴水の手前にある案内板には,名前の由来の一つの説として,「幕政時代にこのあたりに広い土地をもっていた唐からの帰化人である沈一貫が住んでいた。この広い土地は,彼が島津家の海外貿易に関係し,医者としても活躍したことでこの広い土地を与えられた。その一貫の『貫』と,唐の『唐』からとって『貫唐橋(カンガラバシ)』と呼ばれていたのが,いつの間にか『丸瓦羅橋(ガンガラバシ)』と呼ばれるようになった。」という物語が載せられている。
 平成8年までは,橋としての役割を果たしていたという。写真の4つの柱は,大正14年9月に架け替えられたとき以来のもので,その中には「丸瓦羅橋」や「ぐわんぐわらばし」という文字が刻まれているものがある。

 かつてはさらに川が続いていたようだが,これ以上さかのぼるには,文献等で調査をしなければならないし,川も表面に現れていないため,ここで清滝川の遡上は終わりにしたい。

――――
(以下,2008年11月5日追記)
 ここで終わる予定が,たまたまこの続きを見つけてしまったので,「その2」に続けたい。