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時戻素

昔の跡,やがてなくなる予定のもの,変化していくもの,自身の旅の跡など・・・

(No.111) 【遡上】 稲荷川編 ~その2~

2009年03月20日 23時59分59秒 | 遡上
【遡上・稲荷川】の記事一覧
その1 その2 その3その4


なかなか写真を撮りにいけず,その1(No.18)から約100個近く記事があいてしまった。先日,源流まで遡れたので少しずつ書き進めていきたい。

※ とりあえず写真のみ。文章はまた後日。
※2009年5月25日文章追加。

 大乗院橋の上から上流方を見る。

(2008年5月25日撮影)

 清水中があるところにかつては大乗院という寺があった。
 中学校の門の前に稲荷川の案内板がある。

 中学校の前の道を上流のほうへ向かうと稲荷神社が見えてくる。

(2008年12月31日撮影)

 稲荷だけに狛犬が狐になっている。

 吉野へ向かう陸橋から見た稲荷川。

(2009年3月4日撮影)

 右側に見える高台にかつては神社の鳥居があったように思うが現在はなかった。
 先述した中学校前の案内板にも水神様と紹介されているが,今は跡形もない。
 おそらく,このあたりも再開発でもされるのだろう。

 その水神様があったとされる辺りから上流を見てみる。

(2009年12月30日撮影)

 ここから先は工事現場のようになっている。先には水道関係の施設があって,その奥へは進めない。

 JRのトンネルの上の道を登っていく。自転車を押したり,こいだりする場合はここしか道はない。急な坂道を登りきるとループ状の県道の途中に着く。
 その脇に浄水場の施設がある。


(2009年3月4日撮影)

 施設のことはよく分からないが,芝生とその奥に見える鹿児島市街地がきれいだ。

 県道の沿いに滝之神浄水場の入口がある。
 

(2009年3月4日撮影)

 浄水場は標高の高い位置にあるが,下を流れる稲荷川から取水している。

 道路から鹿児島市街の方を振り返る。

(2009年3月4日撮影)

 この下の谷を稲荷川が流れている。

 滝之神のバス停を通り過ぎ,雀ヶ宮バス停につく少し前(確かラーメン屋のあるあたり)を左側の住宅地の方へ行くと滝之神公園がある。

(2009年3月4日撮影)

 遊具も古そうだ。

 ここから崖の方を見ると下に何かが見える。

(2009年3月4日撮影)

 先程の滝之神浄水場の取水地のようだ。
 建物はかなり古いもののようで近代土木遺産に指定されている。国土交通省吸収整備局のページに記載されており,昭和10年完成の全てが石でできた水道施設と紹介されている。名称は「滝之神水源地 第一浄水場集水池(上屋)」となっている。施設までの道はロープでふさがれているので近寄るのは厳しそうだ。

 その先の大明ヶ丘団地と東坂元を結ぶ橋の上から見た稲荷川。

(2009年2月18日撮影)

 この木々の下を川が流れている。

 実方神社付近から新実方橋を見る。

(2009年2月18日撮影)

 この橋ができる前の旧道が残っている。
 
 前半で書いた稲荷町の坂道を知る前は自転車で吉野に行くには東坂元経由でここから来るしかないと思い込んでいた。今考えるととんでもない遠回りだ。

 この神社の前の道を行くと関吉の疎水溝跡が見えてくる。

その3へ続く。

(No.100) 【遡上】 脇田川編~その1~

2009年02月27日 09時28分12秒 | 遡上
【遡上・脇田川】の記事一覧
1(100)2(315)・3(643)

 人工島から見た脇田川の河口。

(2008年12月20日撮影)

 
 河口手前にある橋から河口の方を見る。


(2008年12月20日撮影)


 工業地帯の印象が強い。

 産業道路と脇田川が交わる箇所。


(2009年2月25日撮影)


 橋の名前は脇田浜橋。旧地形図からもかつてここが浜であったことが確認できた。川岸の歩道橋の入口では小学生が不審者に切りつけられた事件が起こった場所だった。結論は,狂言だったが,不審者の目撃情報もあり,付近を通る時は警戒していたことを思い出した。

 脇田浜橋から上流方を見る。
 2006年に撮った写真。


(2006年9月10日撮影)


 国道と産業道路に挟まれた部分だが,川岸に柵がないことに驚いて撮影したような気がする。
 そして,約2年後に撮った写真。


(2008年12月11日撮影)


 やや柵が増え,奥には名の知れたケーキ屋の宇宿店ができた。

 国道225号にかかる橋から上流方を見てみる。


(2009年2月21日撮影)

 川の脇に地下道ができた。ここを通ることで市電とJRの踏切を渡るのを省ける。しかし,踏切を通る道も依然として通行量が多い。

 少し上流方へ。

(2009年2月21日撮影)

 宇宿駅のホームと線路をくぐる地下道が見える。

 川には鯉が泳いでいるがやたら大きい鯉も結構見かける。

 脇田電停付近の公園の隅に何かがあるのを見つけた。


(2009年2月1日撮影)

 おそらく田の神だ。

 以前はこの周辺も田であった。

 田の神には案内板がついているものもあるが,ないものもそれなりにあるようだ。

 ここから先は区画整理の行われた住宅地の中を流れていく。

(その2へ続く)

(No.89) 【遡上】 新川(鹿児島市)編 ~その4~

2009年02月16日 06時12分46秒 | 遡上
【遡上・鹿児島市新川】の記事一覧
その1その2 その3 その4


その3からの続き。
【注意】 新川は上流部に近い部分では田上川とも呼ばれている。地形図でも上流部は田上川と表記されている。この記事では,河口部の名称「新川」を使用する。

 高速道路入口の高架をくぐると,九州自動車道西回りルートと並行して川は流れていく。高架下は,放置自転車の保管所となっている。

(2008年11月14日撮影)

 かなりの距離に渡って保管所は続いている。写真は上流側のもの。

 松元方面への県道も通っているが,通行量が多いわりに狭いので,県道とは川を挟んで反対側の小道を。
 しばらくして,道は次のようになる。

(2008年11月14日撮影)

 もちろん,ここ以外にも道はある。

 その先も,道幅は広くなるが,柵がところどころなく,油断すると川に転落してしまう可能性のあるところも見受けられる。


(2008年11月14日撮影)


 この付近にかなり立派な水神の碑もあった。


(2008年11月14日撮影)


 やがて新川は,新幹線の高架下を通り,県道とは離れていく。


(2008年5月15日撮影)


 その先,新川は以前紹介した西之谷集落の方へ流れていく。詳細はこの記事を参照。

 西之谷集落,上西之谷集落と川は田の中を流れていく。


(2008年11月14日撮影)


 再び新幹線の高架橋が見える。(高架は2度目にするが写真は上流に近い方。)


(2008年11月14日撮影)


 地形図上はこのあたりが新川の起点となっているが,実際には細かい流れが続いている。

 さきほどの写真の高架下の空間。


(2008年11月14日撮影)

 5月に訪問した時,近くにいた人に「田上川(新川)の水源はどこですか?」と尋ねたところ,「ここに田上川(新川)は流れていない」と返事がきた。こちらの聞き方にも問題はあったかもしれないが,実際用水路にしか見えないのも事実である。

(2008年11月14日撮影)

 川はこの先も続いているが,人様の田んぼの中でしかもどこまで続くか分からないものなので,ここで新川の遡上は終わりにした。

 5月は,北部清掃工場のほうへ,11月は池田高校の方へと山道を登っていった。北部清掃工場の方へは支流と思われる川も流れ,ダムのようになっていた。


※ 書きそびれたこともあると思うので,そのときはそれぞれに記事に追加するか,番外編を作成します。

(No.85) 【遡上】 新川(鹿児島市)編 ~その3~

2009年02月12日 07時46分00秒 | 遡上
【遡上・鹿児島市新川】の記事一覧
その1その2 その3 その4


※ その2からの続き。

 唐湊橋からさらに上流の方へ行くと,城ヶ平橋がある。


(2009年1月26日撮影)


 現在工事中だ。
 橋の部分はやや高くなっている。

 城ヶ平橋の上部。


(2009年1月26日撮影)


 カラフルだ。
 幹線道路と通行量の多い川沿いの道路が交わっていることもあり,レーンわけも複雑になっている。

 川が洪水したとき,この橋のすぐ近くのガードは浸水することもあった。


(2009年1月26撮影)

 通行量は多くても歩道は暗いため,下着の窃盗事件もあった。

 ここから上流に行くと,上野城が見えてくる。


(2009年1月26日撮影)

 

 上野城も見えなくなってくると,田上小の脇を川は流れていく。
 その近くにある地元スーパーの前の通りには・・・


(2008年11月14日撮影)

 かなり幅のせまい建物がある。確かパン屋や焼き鳥屋が入店していたように思う。

 武岡団地への入口を通り過ぎてしばらくすると,高架道路が作られている。


(2009年1月26日撮影)


 武岡トンネルの隣にもう一つトンネルが作られることにより,こちらも新しい道路ができようとしている。

 そこから先へ行くと高速道路の鹿児島インターが見える。

(2009年1月26日撮影)

 武岡トンネルを抜け,高速へ向かうときに意識はしないだろうが,2度も新川を越えていることになる。

 高速道路の高架橋の下。

(2009年1月26日撮影)

 下のスペースは公園として利用されている。
 仮設便所も公衆便所として設置してあり,それなりの利用者がいるものと考えられるが,他の公園と比べると暗いし,高架橋の脚による圧迫感もある。上を高速へ向かう車が走っているというのも音がうるさそうだ。車側も下が高速になっているとは思ってもいないだろう。

(その4へ続く)

(No.79) 【遡上】 永田川編 ~その1~

2009年02月06日 23時51分33秒 | 遡上
【遡上・永田川】の記事一覧
その1その2 その3 その4その5その6


※ 6日に投稿する予定がミスで遅れました。

 今日の発表会でその調査地とした永田川との関わりも一区切りとなる。
 調査のときはもちろんそれ以前からも何度も訪れた永田川についてもある程度の理解ができたと思うので,永田川の遡上の記事を書き始めたい。

 まず,永田川と和田川の河口に架かる谷山臨海大橋から錦江湾,桜島を望む。

(2008年8月1日撮影)

 橋の欄干などには落書きが多く,景色がいい場所としてはやや興ざめするところもある。

 少し上流の方へ登った産業道路の橋から永田川河口と臨海大橋を見る。


(2009年2月5日撮影)


 和田川と永田川の河口の位置はほぼ同じであるが,堤防ではっきりと区切られている。

(2009年2月9日撮影)

 写真手前が和田川で堤防の奥を永田川が流れている。
 奥に見える建物は青果市場。
 それより上流寄りに東開庭球場があり,中学高校のテニスの大会会場などとしてよく使われている。そのため,大会がある日はこの周辺から谷山駅や谷山電停付近までテニスのユニホームを着た中高生がたくさん歩いているのが見かけられる。

 産業道路の橋から上流の方へ行くと工業用水の施設がある。
 その施設の前から川を見てみる。


(2008年11月15日撮影)


 川に水道施設と見られるパイプがかかっており,その背後には,今は使われていない橋桁の跡が見られる。

 川の向こうに木がたくさん生えている場所が見える。

 そこが小松原公園であるが,公園の遊具などのある広場に隣接して,次のような空間がある。


(2008年11月4日撮影)


 松林になっている。
 これが,この周辺の地名「小松原」の由来となっている。
 このあたりに島津久光の建築となる別荘があり,玉里別荘と呼ばれていた。
 たくさんの松が植えられていたことが,小松原の由来であるという。

 そこから上流に行き,丁度情報高校の対岸に(No.74)射場前公園で紹介したこの碑がある。


(2008年11月15日撮影)

 西南戦争の際に政府軍に焼き払われた煙硝庫の跡を示す碑だ。

 国道225号線の通る清見橋の脇の情報高校の門前にはお地蔵様がいる。

(2008年11月1日撮影)


(その2へ続く)


(No.61) 【遡上】 新川(鹿児島市)編 ~その2~

2009年01月19日 08時56分45秒 | 遡上
【遡上・鹿児島市新川】の記事一覧
その1その2 その3 その4


 前回の記事がかなり前になってしまったが,その1からの続き。(支流の彦四郎川編が事実上のその2かもしれないが・・・)


(2008年11月28日撮影)

 その1でも少し触れた鶴ヶ崎橋。
 鶴のイラストが描かれている。昭和の初め頃に埋め立てられるまでは,この辺は砂浜だったことがかつての地形図から分かる。鶴の絵が描かれているが,鶴が飛んでくる岬だったのかもしれない。
 その橋から川の方を見てみる。


(2008年11月28日撮影)


 アヒルが泳いでいる。今でもよく見られる。

 そこから上流へ向かっていったところ。
 市電の涙橋電停の上流側にある碑。


(2008年10月21日撮影)

 涙橋血戦の碑という名前だ。
 西南戦争で薩摩軍が熊本で敗れた後,薩摩軍が鹿児島に帰ってきたときに,鹿児島は官軍に占領されていた。涙橋近くの高地では,枕崎出身の薩摩軍の兵士が官軍と応戦した。兵器が古く,弾薬も不足していたにもかかわらず,奮戦し,6時間近くに渡って戦いは及んだ。結局,兵士90人が戦死した。この碑はそれらの兵士を供養するために1927年に建てられた。そのことから,かつて書いた「紫の原の怪談」の記事との関連も考えさせられた。残った兵士は紫原方へ退却したようであるし。
 また,涙橋という名前も,江戸時代に橋の先に刑場(脇田川沿いの谷)があり,罪人と家族が最後の別れをしたのがこの橋のたもとだったことに由来しているという。

 碑の場所からJRの線路を渡った辺りから川底を撮影した。


(2008年11月10日撮影)


 洪水対策のために,河底が低くなっている。
 かつての河床は,コンクリートの色が変わっている付近の高さであった。
 工事中は川原にクレーンが入り,クレーンが通行するための道も作られていた。このせまい空間に良く入ったものだと思う。

 写真の奥に見える橋の名前は・・・

(2009年1月31日撮影)※画像は2009年2月12日追加


「墓地入口橋」である。墓入口橋ではない分まだマシな気もするが,墓に入るような印象を受け,知人と縁起が悪くないかという話をしたことがある。なお,この橋を渡ったところに郡元墓地の入口があり,紫原へ抜けることもできる。
 郡元墓地上からの風景。


(2009年1月10日撮影)


 郡元墓地周辺の新川沿いには下の写真のような場所がある。


(2008年11月10日撮影)


(2008年11月10日撮影)

 新川の改修工事に伴って,県所有の空地を住民の憩いの場として提供されたものということだ。

 少し上流へ行くと,唐湊橋がある。
 橋に描かれているイラスト。


(2008年10月26日撮影)

 船の絵が描かれているが,漢字通りかつてここは唐へ向かう湊(港)だったようだ。当時の海岸線などが分かれば面白そうだ。

(その3へ続く)

(No.57) 川跡

2009年01月15日 17時56分32秒 | 遡上
川の遡上をするようになってから,それまではほとんど意識していなかったものを意識するようになった。



(2008年12月15日撮影)


建物と建物の間にコンクリートのせまい道が作られている。



(2008年12月15日撮影)


道路の一部分だけ色が変わっている。




昔の地図や近くにある川が地下へと流れている方向を推測してみると,これらの下には暗渠となった川が流れていると考えられる。


意識して見てみるとこんな場所は結構見かけられる。


熊本平野や八代平野などの地図を見たときに小さな川がたくさん描かれていてこんなにもたくさん川があるのかと驚いたことがあった。


だが,このような川の跡が結構残っているのを考えると,かつては結構な数の川があったのかもしれない。

(No.32) 【遡上】 彦四郎川編

2008年11月26日 17時31分56秒 | 遡上

「【遡上】新川編 ~その1~」で彦四郎川との合流点を示した。
 今回は,新川を少し離れ,支流の彦四郎川を遡上してみたい。


(2008年11月18日撮影)

 前回の記事と同じ写真だが,新川に流れる彦四郎川。
 奥に見えるのは消防の訓練施設だ。


(2008年11月10日撮影)

 消防の訓練施設の下を流れた彦四郎川。
 かつての橋の形跡が見られる。
 この反対側からは川が地表に現れる。


(2008年11月10日撮影)

 もう少し進んで,公園の脇を通り,道路とぶつかると川はまた地下に消えてしまう。


(2008年11月10日撮影)

 地下に川が消えた場所をほぼまっすぐ行った気象台の横の道路。おそらく,こ野下を彦四郎川が流れているように思う。ガードレールは橋の跡か?


(2008年11月10日撮影)

 産業道路を越えると見える風景。
 今は歩道が広くとられている道路だが,かつてはこの道の向かって右側の脇の方に川が姿を現しており,道路わきの建物とは橋でつながっていたように思う。別の場所(宇宿のビッグⅡから人工島へ向かう道)であるが,ちょうど下の写真のような風景が見られたと思う。


(2008年11月18日撮影)

 さっきの道路をまっすぐ行くと国道225号線にぶつかる。かつて川が見えていたときも国道の下で地下化していた。その後は地下をどう流れているか分からないが,次に地表で見られる場所はここだ。


(2008年11月11日撮影)

 後に見えているのは,「二軒茶屋電停」の記事で紹介した南港踏切だ。
自分が彦四郎川の名前を知ったのもこの場所が最初だったと思う。8・6水害で氾濫して周囲に被害を及ぼした。現在は,写真のように整備されているが,かつては川が線路の下に潜っていくのが見えていたように思う。


(2008年11月11日撮影)

 さっきの写真を撮った橋の上から反対方向を見てみる。急な傾斜で丘の上の方へ向かっている。
 この上まで行くと,こんな感じになっている。


(2008年11月18日撮影)

 堰がある。この奥の風景はこれまでとはまた変わったものとなる。


(2008年11月15日撮影)

 さっきの道はあれ以上進むことはできないが,紫原の上からその後の彦四郎川の流れを見ることができる。奥に見える家が前の写真を撮った南新町だ。
 地形図でも「市街地」として分類されている紫原にもまだこのような原野?が残っている。ちょうど写真の下でまたどこかへつながっている。しかし,この後はどこへ行っているのか分からない。


(2008年11月15日撮影)

 彦四郎川を上から眺めた場所から紫原の中心の方へ向かっていく。
 この場所はかつて工事をしていたが,そのときの案内板に彦四郎川改良工事のように記されていた。この下を彦四郎川が流れているのかもしれない。


(2008年11月15日撮影)

 写真左に見える公園がむらさき公園だ。
 先ほどの工事はこの辺りまで続いていた。
 かつてよく遊んだ公園であるが,まさかこの下に川があるとは考えたこともなかった。(実際あるのかも分からないが・・・)
 余談ではあるが,写真左の家があった場所はかつて生協があった。このせまい場所によく建てたなと今になって思う。(現在は桜並木通り沿いへ移転。)

 ここまで書いた後に「彦四郎川」で検索してみると,鹿児島大学理学部紀要の岩松嘩教授の1976年の論文「シラス崩災の一型式-1976年6月梅雨前線豪雨による鹿児島市紫原台地周縁部の崖崩れについて-」にあたった。その論文には「彦四郎谷の中程にダムを作り,その上流部にシラスを埋め立てて宅地を造成した。現在は1974年当時より人家が建てこみ,空地はほとんどない。」と記されている。そうなると,先ほどの2枚の写真の場所はもともと谷であった場所で,作られたダムより上流部がシラスによって埋め立てられた場所ということになる。


 小さな川ではあるが,それだけに人の手を加えることも容易であり,変化は大きい川だ。

(No.28) 【遡上】 新川(鹿児島市)編 ~その1~

2008年11月22日 08時58分12秒 | 遡上
【遡上・鹿児島市新川】の記事一覧
その1その2 その3 その4



下流から遡っていこうと考えていたが,西之谷集落がちょうど工事中だったので,そちらを優先的に書いた。
 今回はせまい範囲になるが,河口付近だけを取り上げたい。


(2008年11月18日撮影)

 新川の河口。三和橋の上から撮影した。
 なぜかこの場所に来るとほっとする。
 近くに来た時は進んでここを通ろうとしているように思う。
 そんな個人的に落ち着いた気分になれる場所だ。


(2008年11月18日撮影)

 三和橋の上。なかなか昔っぽい感じがするのは自分だけだろうか。

 普段はこんな静かな場所だが,2003年9月にはこんな出来事があった。











(2003年9月7日撮影)

 原因は何だったか忘れたが(おそらく台風),船が座礁してしまった。
 こんな大きな船が,この場所にあるのは違和感がある。
 そのときは大きな出来事だったが忘れてしまうのも早い。


(2008年11月18日撮影)

 川沿いを行くと,クライミングジムがある。
 さらに行くと,消防の訓練施設の下で,彦四郎川と呼ばれる小さな川と合流する。この辺りには舟が停められている。


(2008年11月18日撮影)

その少し上流に鶴ヶ崎橋と交わる。橋にはかにや貝の絵が描かれている。
その脇に鴨池小・中学校,給食センターなどがあり,対岸にはマンションが立ち並ぶ。



(No.18) 【遡上】 稲荷川編 ~その1~

2008年11月12日 20時00分09秒 | 遡上
【遡上・稲荷川】の記事一覧
その1 その2 その3その4


 稲荷川も甲突川同様,川の源流付近までさかのぼったことはない。しかし,途中までの画像はそこそこたまっているので,行けるところまで書いてみたい。清水中前の案内板では,水源ではないが,川の起点というものがあるようだ。旧吉田町へは,あまり行ったことはないのだが,そこまで到達するのを目標としたい。
 
 稲荷川の河口。石橋公園近くの10号線のバイパス上の橋の上から見てみる。


(2008年11月7日撮影)


 写真右側の奥に何か公園のようなものが見える。
 ここに行くには石橋記念公園の中からアクセスするしかない。(車不可)
 記念館前の駐車場から西田橋を渡らずに,手前の道を海側へ道なりに進んでいくと,松林のようになっているところがある。その奥の川沿いの道をたどっていくとそこに着く。
公園奥の階段の上のデッキから桜島をみる。


(2006年12月31日撮影)

 障害物がなく,桜島を眼前に見ることができる。

 川は石橋記念公園の中を通って行き,公園を出るとJRの線路をくぐる。


(2008年11月7日撮影)

 鉄橋を越えると向きをほぼ90度変えて,清水町の学校などがある方向へ流れていく。

 国道10号線に架かる橋の方から川の上流方向を見てみる。


(2008年11月7日撮影)

 正面の堤防の上の白い建物の横に,川でもないところに橋が見える。(この写真は圧縮しているため見えないかもしれない。)

 橋があるのは,若宮公園という公園だ。
 公園の奥のほうに石橋がある。


(2008年11月7日撮影)

 大乗院橋という橋だ。大乗院は今の清水中がある位置にあった寺の名前で,島津家の祈願所であった。しかし,廃仏毀釈で壊されてしまう。その前に架けられていた橋が大乗院橋だ。もともと板橋であったものを1842年に岩永三五郎により石橋に架け替えられた。しかし,かつての橋は,1988年の大雨で一部が流失してしまった。この公園の石橋は1998年に残された石材を使って約2分の1の大きさに小型化したものだ。この橋は下をくぐったり,橋の上を見たりすることは可能だが,柵があって渡ることはできない。

 若宮公園の脇を通った川はまた方向を変える。このあたりを稲荷川は逆コの字型に流れている。いったん国道から離れるが,鳥越トンネル付近で再び国道の脇を流れる。

 清水中の前の現在の大乗院橋。


(2008年11月7日撮影)



(2008年11月7日撮影)

 渡ってみると結構傾斜が急に感じる。
 下の写真の右端が切れているのは,ある政党のポスターが写るのを避けたためだ。しかし,この「生活を守るのは・・・」のポスターを至るところで見ているのは気のせいだろうか。
 
 清水中を前を過ぎると稲荷神社の前を通る。
 この稲荷神社は,島津忠久が郡本(都城)と市来に建てものを,市来の稲荷神社が忠国の時に移されたものということだ。11月3日には流鏑馬が奉納されたことが記録に残っているようだ。

 その後は,国道の鳥越トンネルの方へ向かう。

(その2へ続く)