新抗の三本煙突と右端が石炭ポケット、左が炭住(昭和25年頃)の写真です。3本煙突は松浦炭鉱のシンボルで石炭運搬その他の動力源でした。三本煙突の背後にそびえる山が東八天岳です。
三本煙突と石炭ポケットの風景の土地は炭鉱閉山後、世知原町が2千円程で買収して造成しました、鉄道の跡地は主に道路、宅地は坪5千円程度で分譲しました。閉山時8千人程の人口が現在3千人程になっています。
この写真は、前の写真三本煙突の風景で右端に見えていた石炭ポケットです、このポケツトの右横に新しい建物がみえます、これが幻の「飯野会館」です、朝鮮戦争が勃発した昭和25年頃に世知原町でも労働争議が激化しました。この争議で警察官舎と飯野会館が全焼し、国家保安委員(仮名)等の自宅にも放火されました、この飯野会館への放火は落成式の数日前の出来事でした。この後多くの共産党員が逮捕され町外追放されました、この体質を持っている世知原町は現在も教宣活動や怪文書が出るのだと考えます。
左側の炭住跡地が新興住宅に鉄道の跡地が道路に変わっています、右側の飯野会館と労働組合事務所の跡地は公衆便所に手前の松浦炭鉱グランドは市民グランドに整備されています。
朝焼けの新抗石炭ポケツトの風景です、左上に霞んでいる山が東八天岳です(昭和25年頃の写真)。炭鉱閉山後火力発電所から原子力発電所に移行していったのです。
新抗石炭ポケットの跡の現在の風景です、炭鉱全盛期13,000人の人口が、現在は3千人程の超過疎化です