明治25年に従前の旧校舎を解体して、現在地に中央校舎が新築されました、大正4年大正天皇御大典記念として羽付に運動場が建設されました。昭和20年の初め戦時中の状況ですが、相浦海兵団数百名が校舎を専用した、校舎を兵舎に使用された為に当時の児童達は学習にも不便をきたしたが、高等科二年生は佐々方面、臼浦方面へ砂利運搬や石炭を貨物船に積込む運搬作業に、連日通っていたのである。昭和22年4月1日校名を世知原町立世知原小学校と改称されたました。
ピーク時の昭和34年の児童数は2,269名、学級数は43クラスで教員数は48名でした。ちなみに当時の人口は、凡そ13,500人で3,000世帯でした。その8割りが炭鉱人口だつたと云われている。昭和45年の炭鉱閉山で住民の大量転出により町は過疎化となり、現在の実質人口は、凡そ3,000人、生徒数は2百数十名です。佐世保市に合併された現在耐震構造の校舎に新築されました。児童の姿も見えない全く生活観の無い校舎です。影では税金の無駄遣いだという声も聞かれている。
小学校の正面入り口です、上部には飯野炭鉱の選炭場が見えています
現在出来上がりほやほやの佐世保市世知原小学校の玄関です、人の姿は全く見られません。
佐世保市世知原小学校の全景、校舎、体育館、グランド、遊具の全てが新品です
大正11年5月に東校舎が増築落成、右が小学校講堂です、昭和14年10月飯野商事松浦炭鉱の寄付で西校舎が増築されている。この写真は昭和30年代飯野労組の幹部達と社会党委員長(中央)浅沼稲治郎氏との記念写真である。