週刊 最乗寺だより

小田原のほうではなく、横浜市都筑区にある浄土真宗本願寺派のお寺です。

勝田山 最乗寺
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分陀利華(ふんだりけ)

2012-01-12 00:51:36 | 法話のようなもの

親鸞聖人750回大遠忌法要御正当のネット中継で、梯實圓和上の御法話を聴かせていただきました。

梯和上は御法話の中で、このようなことをお話になられました。


美しいものには二種類あります。
始めは綺麗でも徐々に汚れていくものと、汚れているものを美しくするもの。

泥沼に咲く蓮の華は、その泥沼を美しい花園に変えるものだから後者の象徴とされてきました。

悲華経は、仏を蓮の華に喩えました。
法華経は、法を蓮の華に喩えました。

それに対して、観無量寿経は念仏を称える人を蓮の華に喩えました。

数ある経典の中でも、凡夫を蓮の華に喩えたのは、観無量寿経だけです。


「観無量寿経」には、このような経文があります。

  もし念仏するものは、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり。

「分陀利華」とは、「白蓮華」のこと。
和上のお話になられたのは、この経文のことを示しています。

そして、親鸞聖人がお書きになられた『正信偈』には、このような偈文があります。

  一切善悪凡夫人  聞信如来弘誓願
  仏言広大勝解者  是人名分陀利華

(意訳)
善悪に関わらず、阿弥陀如来の本願を聴いて信ずるすべての人を、お釈迦さまは勝れた智慧を得た者(広大勝解者)と讃えられ、その人を最も高貴な白い蓮の華(分陀利華)と名づけられました。


私たちは凡夫です。
欲に塗れ、怒りを抱き、愚痴を言う。
それらすべてを捨ててしまいたいと思っても、思うだけで捨て去ることのできない毒を抱えて生きています。

蓮の華は、泥沼を彩ることで美しく変えるものではありますが、泥沼自体を綺麗にするものではありません。
お念仏も、阿弥陀さまの本願を聞信し称える凡夫を、「美しい蓮の華」と喩えられる人へと変えていきますが、称える人自身の毒を消すものではありません。

毒を抱えたまま、美しく咲く蓮華の花。
なぜ咲けるのかと問えば、毒を抱えたままでしか生きられないこの私を、阿弥陀さまは否定することなくそのまま受け入れ受け止めてくださっているということに気づきます。

だからこそ、私たちは凡夫であることの慙愧とともに、お念仏させていただくことが大切なんだということを、和上のお言葉に改めて感じ入りました。



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