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愛のカタチ 場所と人にまつわる物語  

愛の百態

時間と空間のはざまに浮き沈みする場所の記憶をたどる

藤沢周平ワールドー

2021-09-27 22:42:39 | 場所の記憶
藤沢周平作品より
藤沢作品には断念のあとの後悔、悔悟が描かれている。それが読む者の胸を打ち、思わず落涙することが多い。「作者の中には人間を視る目の暖かさ、深さが存在する。悲運に泣く者、その誠実さゆえに悲運に見舞われる者などが描かれる。

さまざまな人が読後感を評している。

「一話一話が二重にも三重にも趣向を凝らした、厚みのある短編だ。そして場景描写が的確である」
「暗い情念にあふれた小説だ」
「ひたひたと小さな波が打ち寄せるように、心を満たしてくれる」
「男と女の哀切な関係が描かれる」
「長い間せき止められていたものが、いっぺんに胸に溢れるのを感じる」
「人肌の温もりがある作品群」
「自然描写がたいへん美しい。そして、その美しさは、何かしら我々を望郷の想いに誘う」
「憂いを帯びた風景が過去の記憶と結びついている」
「端正な文体、悲劇的な美しさをもつ自然描写」
「日本人の心の裡にある自然の形を描いている」
「藤沢作品の魅力は、自分もそこにいる臨場感があることだ」
「藤沢作品は、人が人に抱く共感、同苦の感情によって、生き死にする瞬間が、小説のクライマックスになっている」
                             



文学的温泉地・湯ヶ島ーその2

2019-09-17 11:04:36 | 場所の記憶
 梶井基次郎が結核療養のため湯ヶ島を訪れたのは昭和元年12月31日のこと。落ち着き先は落合楼という湯宿だったが、その後、湯ヶ島滞在中の川端の紹介で、もっと谷奥の猫越川畔にある湯川屋に移ることになる。
 梶井は以降、川端をしばしば訪ね、当時執筆中の『伊豆踊子』の校正を手伝ったり、囲碁の相手をしたりした。
 この間、知友の、詩人三好達治、フランス文学者の淀野隆三などが梶井の病気見舞いに来る。さらにのちになって、川端に呼ばれて当地にやって来た尾崎士郎を通して宇野千代を知ることになる。そして、萩原朔太郎や広津和郎とも知り合いになった。
 特に、宇野千代とはこの時が機縁になって「恋情に似た感
情が混じった友情」がつくられた。これがのちに宇野と尾崎士郎との離婚問題の引きがねになるのである。
 昭和2年4月、川端が湯ヶ島を離れる。この秋に、梶井もいちじ湯ヶ島を離れるが、医者の薦めもあり、ふたたび湯ヶ島に戻り、療養しながら、そこで執筆活動に専念する。
 谷川の瀬音を聞きながら、内省の生活が始まる。感覚の研ぎすまされた作品が次々と生まれることになる。作品『闇への書』、『蒼穹』、『筧の話』、『冬の蝿』などがその代表である。
 これら作品群の中で、梶井は湯ヶ島の風景をこと細かく描写している。「ずっと以前から私は散歩の途中に一つのたのしみを持っていた。下の街道から深い溪の上に懸かった吊橋を渡ってその道は杉林のなかへはいってゆく。杉の梢が日光を遮っているので、その道はいつも冷たい湿っぽさがあった。」
(『闇への道』)。
 この吊橋はいまは朽ち果てているが、暗い闇に通じる雰囲気は充分に伝えている。
「この径を知ってから間もなくの頃、ある期待のために心を緊張させながら、私はこの静けさのなかを殊に屢々歩いた。私が目ざしてゆくのは杉林の間からいつも氷室から来るやうな冷気が径へ通つているところだった。一本の古びた筧がその奥の木暗いなかからおりて来ていた。耳を澄まして聴くと、幽かなせせらぎの音がそのなかにきこえた。私の期待はその水音だった」(『筧の話』)
 「夜になるとその谷間は真っ黒な闇に飲まれてしまふ。闇の底をごうごうと溪が流れている。私の毎夜下りてゆく浴場はその溪ぎわにあった。浴場は石とセメントで築きあげた、地下牢のやうな感じの共同湯であった。・・・その浴場は非常に広くて真中で二つに仕切られていた。一つは村の共同湯に、一つは旅館の客にあててあった。私がそのどちらかにはいっていると、きまってもう一つの方の湯に何かが来ている気がするのである」(『温泉』)
 狩野川の支流・猫越川畔に立つ湯川屋に逗留すること一年有半、昭和3年9月、病勢が著しく悪化した梶井は大阪の実家に帰ることになる。
 梶井が滞在した、今は廃業している湯川屋近くに「檸檬塚」と呼ばれている文学碑が立っている。碑文は川端康成の筆によるもの。梶井基次郎、昭和7年3月、死去。享年32歳。




文学的温泉地・湯ヶ島ーその1

2019-09-05 12:17:34 | 場所の記憶
 伊豆湯ヶ島という温泉地がある。私も学生の頃、しばしば訪れたことがある。そして、そこは今や第二のふるさとと言っていい場所になっている。
 のちに、井上靖をはじめ、梶井基次郎、川端康成、宇野千代など幾人もの文学者がそこに育ち、あるいは、訪れ、作品をものにしていることを知った。
 井上靖は自身の生い立ちを随筆の中で、「私は幼少時代を伊豆天城山麓の郷里湯ヶ島で送った」と記し、その頃の湯ヶ島の風景を、「当時の湯ヶ島は一応湯治場ということになっていたが、都会からの客はごく少なかった。旅館も二軒しかなかった。村の共同湯は二カ所、その一つの共同湯の隣には馬専用の風呂があった。実にのんびりしていた」と記している。さらに、「郷里湯ヶ島は、私にとっては特別な土地である。私の祖先が眠っているところであり、私が生い育ったところである。世界中でこの土地だけが特別な陽の輝きを持ち、特別な空気の匂いを持っている。・・・私にとって天城は特別な山であり、狩野川は特別な川である。」と思い入れを記している。大正時代のはじめの頃の風景である。
 たとえ、ふるさとの地につながる人間がいなくなっても、やはり残るのは、馴染深いふるさとの山河であろう。幾年月もへたとしてもふるさとの山河は残る。そこを訪れれば、しみじみと郷里に帰ったという実感が身に迫るのである。
 かつてはひなびた山間の温泉地であった湯ヶ島の名が、世間に知られることになるのは川端康成の『伊豆の踊子』が書かれてからのことだ。
 作品の中に湯ヶ島が登場するし、川端が『伊豆の踊子』を執筆したのがこの地にある湯本館という旅館であったからである。
 その川端が湯ヶ島と関わりを持つきっかけになったのは大正7年(1918)のこと。井上靖が湯ヶ島小学校に通っていた頃のことである。川端は当時一高の学生で、リュウマチに病んだ時、初恋に破れた時、創作に行き詰った時、湯ヶ島に来て傷を癒していたのである。若い時に親を失い、親族を失い、天涯孤独な身を湯ヶ島の山河が慰めてくれたのだった。川端は、その頃を題材にした短編を幾つか書いている。
 その川端が、当時、文壇デビューした尾崎士郎を湯ヶ島に呼んだのである。川端は尾崎の作品を高く評価し、二人の友情が深まっていた頃である。昭和2年2月のことだ。その頃、尾崎の身辺は、妻である宇野千代との関係が行き詰まり、創作活動もままならなかった。そんな時、川端が尾崎に湯ヶ島に来るように声をかけたのである。川端は尾崎より一歳年下であった。
 当時の湯ヶ島について尾崎は、「たしかに一つの雰囲気があり、それが当時の文壇的風潮からはおよそ反時代的な方向で、何か新鮮であり、純粋であり、いきいきとしたものがあった」と述懐している。
 川端によって湯ヶ島行きを誘われたのは、尾崎ばかりでなく、当時、川端が所属していた『文藝時代』の仲間たちも代わる代わる訪れた。
 これより少し前の大正15年末、作家の梶井基次郎が結核の療養のため湯ヶ島に滞在することになる。梶井は人づてに川端が湯ヶ島に滞在していることを知り、川端が滞在していた湯本館を尋ねる。
 梶井が湯ヶ島に滞在することになってから、この地は梶井基次郎を中心に人の交流が頻繁になる新しい時代に入る。




















南部の作家たち

2019-08-01 10:20:34 | 場所の記憶
 青森県の太平洋側と岩手県の大部分を占めるのが南部地方。遠くは、中世の三戸地方に拠点を置いて、この地方を治めた南部氏に由来する。南部氏は、故地・山梨から御神体を奉戴した櫛引八幡宮を一族の守り神として崇めたとされる。
名誉ある地位を託された八幡さまが見守る南部の地。その誇りは、革新をもって歴史と伝統を引き継ぐ気質をも生んだ。
 盛岡は南部富士と呼ばれる雪を頂いた岩手山(2038m)の全貌が見え、北上川、高松池など自然の映える美しい町である。
 戦後一時期、岩手に住んだことのある詩人・高村光太郎は「此の地方の人の性格は多く誠実で、何だか大きな山のような感じがします。為ることはのろいようですが、しかし確かです」と述べている
 そんな地に生まれた文学者に石川啄木、宮沢賢治がいる。また言語学者の金田一京助、俳人の山口青邨がいる。
 啄木、賢治、金田一に共通することがある。いずれも当時の県立盛岡中学(現、盛岡第一高校)の出身者であることだ。啄木は明治31年入学、啄木を生涯支えた金田一京助は啄木の3年先輩、賢治は明治42年に入学している。
 ちなみに、この伝統校からは、啄木の1学年上の『銭形平次捕物控』で知られる小説家・野村胡堂、そして4年上には第37代総理大臣をつとめた米内光政などがいる。
 その盛岡で育った宮沢賢治は、作品『イーハトーヴ』の中で、この地を「ドリームランドとしての日本陸中国岩手県である」とし、現実の岩手の風土と、賢治の想像力が溶け合って生み出された、不思議な理想郷ともいうべき場所とした。
 イーハトーヴの首都で、一番大きな町がイーハトーヴ市、あるいはモリーオ市と呼ばれるその町は、盛岡市がモデルであることは明らかである。賢治は 13歳から22歳まで盛岡で過ごし、その後の賢治に大きな影響を与えた地になった。
 一方、渋民村(現在の盛岡市渋民)で神童と言われた啄木は、128人中10番の成績で盛岡中学に入学。が、次第に文学に傾倒し学業はおろそかになっていく。英語学習のためのユニオン会の立ち上げや教員の欠員と内輪もめに対するストライキへの参加、あげく、卒業を目前にしてカンニングをきっかけに退学する(明治35年)などエピソードには事欠かなかった。
 盛岡中学時代に詠んだ「不来方のお城の草に寝こびて空に吸われし十五の心」は有名だ。これは盛岡城で詠んだ歌である。また、市内には啄木夫妻が新婚時代に住んだという家が残っている。
 盛岡を去ってからの啄木は、生活の糧を求めて、その後北海道、東京と転々とし、それは苦難の生活の連続だった。そのような状況下で謳った歌に、「はたらけどはたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざりぢつと手を見る」がある。
 ついに故郷に帰ることなく異境で命を落とした啄木が、故郷に思いをいたして詠んだ歌がある。それはどれも悲しい調べである。 「かにかくに渋民村は恋しかりおもひでの山おもひでの川」「ふるさとの山に向ひて言ふことなしふるさとの山はありがたきかな」
 俳人・山口青邨は我が故郷を、「私の頭の中にはみちのくの春、みちのくの秋が閃めく、私の目の前にみちのくの山、みちのくの川が髣髴する」と回想している。みちのくの山は岩手山であり、川は「北上夜曲」で知られる北上川に代表される山河のことであろう。






津軽出身の作家たち

2019-07-11 10:22:15 | 場所の記憶
 弘前は旧津軽藩の居城があった地である。藩祖津軽為信が津軽藩の基礎をここに築いて以来の城下町だ。城下町としての歴史を積み重ねた弘前は、当然ながら多様な文化を育んだ。なかでも、文学的な気質が色濃く漂う。司馬遼太郎はこの津軽の風土を「言葉の幸(さきわう)国だから」と言っている。その意味は、表現意欲が溢れるほど強い地ということのようである。
 弘前出身の作家として、石坂洋次郎、佐藤紅緑、葛西善蔵、福士幸次郎などの名があげられる。また、旧制弘前高校に3年間学んだ太宰治がいる。ついでながら、今東光、日出海兄弟も弘前の氏族出身の両親にして他郷で育った津軽人だ。
 私は弘前出身の典型的な作家として葛西善蔵をあげたい。破滅型の私小説家として知られている善蔵は、学歴もなく、手に職もなく東京に出て、苦闘の連続のなか、小説を書き続け、いっこうに生活が楽にならぬまま、ついに憤死したのである。彼自身、「生活の破産人間の破産、そこから僕の芸術生活は始まる」と言い放っていた。
 作品『津軽』のなかで、太宰治が「弘前の城下の人たちには何が何やらわからない稜稜たる反骨精神がある」と書いたその反骨はなんの体系もなく目的もなく、ただ気質としての反骨である。
 葛西善蔵にもこの反骨精神がみなぎっていて、その結果が、「いまの日本でいちばん不幸な作家である」(太宰)と言わせる人生を歩ませたと言えないか。頑固な性格を、この地では「じょっぱり」と言う言葉で言い表すが、まさにそれが弘前を含めた津軽人の典型的な性格の一つなのである。弘前の町に古い建造物が残されているのは、この「じょっぱり」のなせるわざと言う説もある。
 彼らに共通する鬱屈した性格は、自然風土が濃厚に影響しているように思えるが、津軽気質とは対照的とも思えるあの石坂洋次郎さえ、自身の作品がただ明るい小説と捉えられていることに日頃から異議を持っていた、と聞く。ある時、金策に訪れた葛西善蔵に、なけなしの金を与えた石坂は、のちに「あの人は困らされても困らされても好きな人」と語っている。心の中に棲む同質のものに共感を持っていたのだろう。
 その石坂は、自身の生まれ育った風土について、「物は乏しいが空は青く雪は白く,林檎は赤く,女達は美しい国,それが津軽だ。私の日はそこで過ごされ,私の夢はそこで育まれた」と回顧している。 雪深い故郷は「生き涯や雪は山ほど積もりけり」(洋次郎)地であったのである。

 

桜爛漫の弘前城

2019-07-02 09:18:17 | 場所の記憶
 初めて弘前を訪ねたのはもう20年以上も前の厳冬の季節だった。雪降る街中を、車を駆って弘前城の近くまで赴いたことがある。案の定、城は雪に埋もれていて、ひたすら雪の景を眺めるしかなかったが、そのモノトーンの世界が妙に美しかった。そして今、ふたたび弘前を訪ねたことになった。しかも、桜が満開の、ここを訪ねるにはこの時しかないという僥倖に恵まれたのである。
 この時を逃すまいと、桜見物の人たちの黒い塊が、城門に押し寄せていた。城の表門である追手門を潜ると、そこはもう城内で、三の丸広場は絢爛たる桜の屏風絵のようだった。そこには、心に描いていた弘前城の桜があった。
 さらに、辰巳櫓を過ぎ、杉の大橋を渡ると、南内門。城門はどれも古格な威厳のある雰囲気を漂わせている。堀に沿って右手の道を進むと、朱塗りの下城門が見えてくる。観光写真でよく見る弘前城を象徴するような古い木橋である。記念写真を撮る人が群がっている。
 この辺の桜は、幹がくねり、黒ずんだ、かなり樹齢をへたものばかり。それだけに時代の雰囲気がみなぎる。眼下を望むと、桜見物の船がのんびりと遊覧していた。
 城と桜はよく似合う。堀があり、石垣があり、櫓があり、なおかつ天守があれば、言うことはない。しかも、桜には、どこか歴史を感じさせる雰囲気がある。
 歴史の降り積もる城を巡ると、必ず、いくつかの語り継がれる物語がある。それらは、たいてい悲話に関わるエピソードであるが、それを知ることで、城を眺める態度がまったく違ってくるのだ。
 弘前城を築いたのは、津軽藩の藩祖津軽為信である。当時、南部藩の所領であった津軽を掠め取ったとされる為信が、みずからの威信を高めるためにも必要な弘前城築城だったのである。関ヶ原の戦いで、東軍に味方した津軽為信が、この城を築いたのが慶長3(1603)年のこと。
 本丸跡に立つと、津軽平野が一望でき、天然の要害として岩木川が城を巡り、城を守っていることがわかる。
 本丸にある天守は、じつは天守閣ではなく、物見櫓の一つを移築したものである。天守閣は江戸時代に落雷により焼失し、再建されなかったのだ。櫓の一つではあるが、装飾を施され、小ぶりの天守と言った景観を呈している。今回は果たせなかったが、この本丸から西方、雪をいただいた岩木山が望めることができると言う。
 城のどこを巡っても、桜、桜の連続だった。弘前さくら祭がたけなわの時であった、

弘前の寺院群を巡る

2019-06-27 11:22:48 | 場所の記憶
桜の名所になっている弘前城は、弘前駅からバスで10分ほどのところにある。この時期を選んでやって来た観光客でバスは満員状態だった。
 弘前城を中心に広がる弘前は、津軽氏が270年にわたって統治した、かつての城下町である。今も城を中心に藩政時代の面影を伝える武家屋敷が残っていて、いかにも城下町といった雰囲気が立ち込める。それに、古い町並みの中にいくつか明治の洋館が残っていて、それらが町並みと溶け合って不思議な魅力を醸し出している。
 城に向かう前に、私は津軽藩主の菩提寺である長勝寺をはじめとする寺々が集まる禅林街を訪れた。
 高麗門を潜ると、長い参道が連なり、その左右にいくつもの寺の堂宇が立ち並んでいた。領内の寺院33カ寺をここに集めてつくられた禅林街は、この城下町の防衛のためにつくられたものと言われるだけに、いずれの寺も質実剛健の気風がみなぎっているように思われた。禅林と呼ばれる所以は、ここに集められた寺院がみな禅宗であるところから、そう呼ばれているものである。
 長勝寺の三門は入母屋造りで寛永6(1629)年建立というから古い。飾り気のない剛毅な気風のみなぎる建造物だ。
 門をくぐり境内に入ると、目の前に入母屋造りの本堂、右手に切妻屋根が美しい庫裡、それに鐘楼、御影堂などが立ち並ぶ。全体の雰囲気は、いかにも北国の風土に見合った、質実剛健さを漂わせている。代々の藩主の御霊を祀る霊廟は境内左手奥にあった。
 ついでながら、この長勝寺とは別に、市内を南北に流れる土淵川のほとりの高台に立つ最勝院の五重の塔はぜひ訪ねたいところだ。この寺は、津軽藩統一後の戦さで戦死した、敵味方双方の将兵を慰霊するために江戸初期につくられた寺で、五重の塔は国の重要文化財になっている。
 その塔は、三間五層で高さ31・2メートルあり、均整のとれた美しい姿で知られている。高台にあるだけに、ひときわ大きく見える。五重の塔の少ない東北地方でも珍しい遺構で、本州最北にある寺として一見の値がある。
 

みちのくの小京都・角館

2019-06-17 10:56:21 | 場所の記憶

 枝垂れ桜が爛漫と咲き誇る姿を思い描きながら、角館駅に到着する。やはり花のシーズンである。たくさんの人が駅に溢れていた。駅近くにある観光案内所で散策地図を手に入れ、さっそく町歩きを開始する。
 まずは駅通りと呼ばれる広い通りを西に歩く。しばらく行くと、町を南北に貫く通りに突き当たる。その通りが武家屋敷通りだ。その通りの北側に位置するのが武家町(内町)で、深い木立に覆われた閑静な地域になっている。一方、南側は町人町(外町)で、たてつ家や西宮家などの幾つかの商家が今も残り、家並みが櫛比する地区になっている。
 この地に城下町がつくられたのは、元和6年(1620)と古い。この地を所領した芦名氏が現在見るような城下町をつくり、その後、秋田藩の所領となり佐竹家が入部した。以来400年近く城下町として栄えたのである。
 今は桜の名所として、観光宣伝されている場所であるが、この町が貴重なのは、当時の武家屋敷のただずまいが現在も残されていると言うことにある。
 武家屋敷通りをそぞろ歩くと、道の左右に今も武家屋敷が散見される。中級武士の屋敷である小野田家、藩政時代の建築様式を伝える譜代級の河原田家、同じく中級武士の典型的な間取りを残す岩橋家、さらに北上すると、現在角館歴史村として一般開放されている青柳家(有料)が見えてくる。そして、その先にあるのが角館最古とされている石黒家(有料)などがある。
 それら武家屋敷の残る通りを歩くほどに、満開の枝垂れ桜が、黒塀越しに、あるいは庭に眺められるのだ。樹齢300年を越す400本あまりの枝垂れ桜が華麗に咲き誇るさまは確かにここならではの景観である。この地が伝統的建造物保存地区に指定されているのも故ないことであると合点する。
 外国からの観光客もまじるなか、どの人の顔にもたおやかな面差しが見られ、そこには穏やかな時が流れていた。世界の人々が平和な世界に生きるとは、こうした雰囲気に浸ることができると言うことではないか、とつくづく感じたのである。
 武家屋敷通りを北に進み、その通りの尽きたところで左し、桧木内川添いの土手の桜を見物した。が、あいにくまだ三分咲きといった状態で、あの写真に見るような2キロにわたる花のトンネルは見られなかったのが残念だった。
 

 

作家三浦哲郎の故郷・岩手県二戸郡一戸町

2019-06-02 11:33:00 | 場所の記憶
 三浦哲郎といえば私小説作家として知られている。出世作『忍ぶ川』は芥川賞を受賞している。
 三浦の生まれ故郷は青森県の八戸であるが、本人が東京の大学に通うようになってからは、一家は岩手県二戸郡一戸町に移住している。以来、三浦はそこが帰省の地になったと述懐している。
 実際は結婚後、一時そこで暮らし、子供も設けている。氏の作品の中には、この地を題材にしたものも多い。
 桜の花が咲き誇る、五月のある日、(それは二〇一八年十月のことである)私は一戸を訪ねた。盛岡から「いわて銀河鉄道」のローカル線に揺られること一時間ほどで一戸に着いた。
 車窓からは、ようやく春を迎えたという初春の、まだ冬枯れの様相を呈している潅木の林や所々に蕗の薹が顔をだす畑が眺められた。車内を見渡すと、通学の学生やらいかにもこの地方特有の風貌をした年配の乗客が多いのに気づく。ローカル線とはいえ、乗客が多いのは、この鉄道が地元の人々の生活の足になっているためだろう。
 今回は一戸を目指しての小旅行であったこともあり、この沿線に石川啄木の生まれ故郷・渋民村(現玉山村)があることを知らなかった。岩手山を背にした渋民村の写真をかつてみたことがある。その岩手県のシンボルとも言える岩手山が車窓の左手に見えていた。
 三浦哲郎が「北上山地の北はずれの山間にあるこの古い町」と記した一戸の町は、すでに午後の日が傾き始める時刻になっていた。このまま歩いての文学散歩で、日が暮れないだろうかと少し心配になったが、タクシーも見当たらないし、ともかく歩くことにした。
 いつものことながら、文学散歩には胸の昂まりを覚える。その理由は、小説世界に描かれた舞台が目の前に開かれるという期待感である。
 駅からしばらく歩くと馬淵川にかかる橋に差しかかった。さっそく、橋の袂に三浦哲郎の筆跡による「しのぶ橋」と刻んだレリーフを発見する。眼下の馬淵川が勢いよく音を立てて流れている。河畔には辛夷の白い花が咲いていた。
 川を渡り、川沿いを歩くと、しのぶ橋の一つ下手にある岩瀬橋近くに小さな公園があった。隅に文学碑があり、そこに『忍ぶ川』の一文が刻まれていた。
 この岩瀬橋については、『妻の橋』の中で、「橋の上には朽ちてあちこち隙間だらけの橋板に重ねて、幅五十センチほどのいくらか増しな板の細道がつけてある」といったようなぼろ橋だったが、今は改装されてそれなりの橋になっている。
 駅から実家に帰るにはこの橋を渡るのがいちばん近道であることから、しばしば作品に登場する橋である。
 帰省する氏を出迎えるために、父がいつもそこで待っていた橋であり、下を流れる馬淵川は、父がよく打ち釣りをしていたことがある懐かしい川である。
 文学碑をすぎて、さらに川沿いの上り勾配の道を行くと、左手に氏の実家が見えてくる。家は二階建てで、今は無住の家になっているため、少し荒んだ印象があった。
 この家もしばしば小説に登場するし、今や史跡といっていい部類に入る。親族の意向もあるだろうが、いずれの日にか公共的な保存が必要ではないか、と思われた。
 無住の建物は日々風雨にさらされて、次第に朽ちて、あばら家のように成り果ててしまう。それが痛々しい。
 前述の小作品の中で、「家では二階にも階下にも、あかるく電燈をつけていて、窓々からあふれたひかりがサーチライトのように、降りしぶく雨脚をとらえていた。私は一瞬、立ちどまってわが家の夜景にみとれた」とあり、それは臨終近い父を見舞うために近親者が集まる家の光景であった。
 そして、この家は新しい妻を迎えて、家族だけの、ささやかな婚礼を執り行った場所でもある。
 その家の裏の崖下には馬淵川が流れていた。冬になると「凍った川が、雪の重みでひび割れる音」がする川である。
           *
 私はどうしても氏の菩提寺を訪ねたかった。氏が眠っている場所でもあり、この寺も小説の舞台にしばしば登場する寺であるからだ。
 川沿いの道から離れ、しばらく上りの道を歩くと、町の裏山の中腹に広全寺という名の寺の山門が現れた。寺の名を刻んだ石塔があり、長い石段を上ると、本堂の前に出た。
 寺域は広く、山の斜面に墓地がつくられてあった。三浦家の墓所を訊ねると、大黒さんと思われる人が案内してくれた。
 三浦家の墓は「先祖代々の墓」と刻まれていて、下に「三浦」とあるので、それが三浦家の代々の墓であることが知れる。
 墓の側面には、本人の名前の他に、親兄弟の名が刻まれていて、そこでまた氏の作品世界(『恥の譜』など)が思い出されたのである。しばし、墓前に手を合わせてからそこを離れた。
 大黒さんの、「奥様がときおり墓参に参ります。綺麗な方ですよ」というひと言がいつまでも心に残った。氏の妻は
志乃の名で『忍ぶ川』や『初夜』に登場する人その人である。




啄木ゆかりの地、盛岡

2019-05-18 11:48:08 | 場所の記憶
 盛岡はかつての城下町である。それを物語るように、町の中心地にある盛岡城のあたりには、旧城下町を思わせる古い街並みが残されている。
 市中を南北に流れる北上川と、雫下川と中津川とがそれに流れこむ、まさに水の都とであり、緑の多い杜の都でもある。
 やや冷たさを感じる駅を降り立ち、駅前から東に延びる広い通りを歩くと、すぐに開運橋という名の大きな鉄橋が見えてくる。橋の下を流れるのは北上川。瀬音を立てて勢いよく眼下を流れ下る。
 さらに行くとやがて前方に深い緑の森があらわれ、そこが盛岡城址であることが知れる。城壁を巡り北側の入口から城内へ。
 ちょうど桜の季節であったので、桜がかしこに眺められる。三の丸、二の丸、本丸と上り詰める。二の丸と本丸の間に空壕があった。かつては水をたたえていた内濠であろう。台座だけの銅像があったり、全体にがらんとした印象があるのは、城の建物があまり残っていないためだろうか。御多分におもれず、この城も明治のはじめ発令された「廃城令」によって破壊されたのである。
 本丸跡に立って盛岡市街を見渡して見た。北西方面に霞にかすんだ岩手山が見える。東側、眼下に流れるのは中津川である。
 ふとここで石川啄木が詠んだ「不来方( こずかた )のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心」を思い出した。この歌を刻んだ歌碑が城内にあることを知り、そこを訪ねて見る。碑はちょうど城の西北隅にあり、その奧に岩手山が望めるという場所であった。啄木の青春の気概を詠んだこの歌に、啄木の当時の心を想像して見たりする。
 そういえば、町の商店街の一角に啄木の少年時代の姿を模した銅像が立っていた。啄木がこの道を、こんな姿で、当時の盛岡高等中学校に通っていたのかと思えば、感慨しきりである。
 ところで、この盛岡城(不来方城)、かつてこの地方を治めた南部氏の居城であった。白い花崗岩の石垣が組まれているという珍しい城で、東北三名城のひとつに数えられている。
 もう20年近く前のことになるが、ある冬の季節にこの町を訪ねたことがあった。その時の印象は、町全体が雪に覆われ、寒々とした外観でしかなかったが、清冽に流れる北上川が、いかにも北国を思わせ、みちのくの遠い地にやって来たな、という思いがしきりだった。
 その時は、町中をどう歩き回ったのか、今や定かではないが、とある道をさまよっている時に、偶然にも、啄木が新婚時代にたったひと月だけ住まったという旧宅に出くわした。
 小体な木造平屋の建物で、「石川啄木」の表札が掲げられてあって、いまも啄木家族が居住しているような錯覚にとらわれたものである。当時の生活ぶりは啄木の『我が四畳半』に書かれている。聞けば、現在は内部の見物もできるという。

北上展勝地の花の雲

2019-05-04 13:35:55 | 場所の記憶
 北上駅に近づくと左手に雪を冠した山塊が見えてくる。先ほどから霞んで見えていた山並みである。多分、栗駒山塊だろうと比定する。
 やがて、車内アナウンスが北上駅到着を告げる。この時期の桜を求めての観光客が多いらしく、列車を降りる乗客がぞろぞろと車内を移動している。私もその一人として列車を降りる。
 北上駅は新幹線の駅らしくまだ新しい駅舎で、特になんと言うこともない駅であった。
 この地の桜は、「みちのく三大桜の名所」とされ、北上展勝地の名で知られるところである。北上川の河岸、およそ2キロにわたって、1万本のソメイヨシノが連なっている。
 観光ポスターや写真で見たことのある展勝地と、実際訪れてみた現地の景観にどれほどの違いがあるのか、あるいは、見た通りの眺めなのかと言うことが気になった。
 駅からしばらく歩くと、北上川にかかる珊瑚橋に出る。白色の鉄橋のような形をした橋だ。橋上からはすでに対岸に桜並木が遠望できる。
 橋を渡り終えると、そこはもう展勝地の只中であった。さっそく
歩きはじめる。土手に沿って、まっすぐに桜のトンネルが連なっている。花色はやや薄めだが、それでも、花の多さが圧倒的で、まさに桜大路である。    
 たくさんの見物客が行き来している。明らかに外国からの観光客と思しき人たちがいる。欧米人、中国人、タイ人とさまざまの顔色がある。
写真を撮りあったり、土手に寝そべり、語り会い、思い思いにくつろいでいる。
 これら桜は、すでに樹齢百年近くになると言い、見るからに老木であることが知れる。老幹は屈曲し、あるものは朽ち果てる寸前であるようにも見える。にも関わらず、依然と花を咲かせていることが痛々しくも、かいがいしい。
 進むほどに、二列になった鯉のぼりが、向こう岸まで連なり、北上川の川面を渡る風の中を泳いでいるのが目撃された。とみれば、観光馬車が桜のトンネルをくぐってこちらに走ってくる。目を転じれば、今しも、渡し船がこちらの岸に向かってゆったりと漕ぎ出して来るのが眺められる。
 桜大路が尽きるあたり、さまざまなこの地方の民家を集めた「みちのく民俗村」があった。また、北上川河畔には「北上夜曲」の歌碑が建っていた。この歌の実際の場所は北上市の南にある水沢であるらしいが、北上という地名にちなんでこの地にに建てられたのだろう。作詞者の筆による歌詞に、作曲者自筆の楽譜が付せられた珍しい碑で、ボタンを押すと曲が流れる仕掛けになっている。
 それにしても良い天気に恵まれたと思う。桜はやはり晴天の下で見るのが何よりである。晴れてこそ、空の蒼さとうすピンク色に染まった花の塊が映えるのである。こののどかな景色とそこに佇む気分が忘れられないで、人々は桜の季節になると、あちらこちら桜を求めてさまよい出るのであろう。

舟屋のある風景・丹後半島の北東端・伊根

2018-12-19 10:40:10 | 場所の記憶
 舟屋で知られる井根は、丹後半島の北東端、若狭湾に通じる、海沿い3キロほどのリアス式海岸になる井根湾に位置する。舟屋というのは、二階建ての舟のガレージのある建物で、一階部分は舟置き場、そして二階部分が住宅スペースになっている、この地方独特の建造物である。
 一日、宮津からバスで井根に向かい、あと遊覧船で海上から井根の漁村風景を満喫した。30分ほどの遊覧であったが、湾内に櫛比する舟屋風景が遠望できた。
 薄もやのかかったような海上に舟が出ると、海猫やトンビが騒がしく舟にまつわりついてきた。最近は海猫よりもトンビの数が多いとは、ガイド嬢の話だった。
 海はどこまでも凪ぎ、のどかな舟屋風景が無性に懐かしく感じられる。聞くところによれば、舟屋は230軒ほどあるといい、なかに江戸時代の遺構を残すものもあるという。  
 簡素な切妻屋根の妻入り、細長の二階建ての家屋が連続するこの独特の建物群は、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
 建物はおおむね昭和初期につくられたものが多く、一様に海側に口を開けている風景が独特の景観を呈している。
 こうした景観はこの地域独特の自然条件に支えられている。井根湾はリアス式で、深く切り込んだ入江は波がなく穏やかで、干満の差が少なく、海際に位置する舟屋が波に洗われることがないこと、海岸の地盤が硬く、基礎がしっかりしているので、地震などの衝撃にも建物が持ちこたえられるということがある。
 遊覧船で湾内を一巡したあと、 舟屋が立ち並ぶ狭い通りをそぞろ歩いてみた。通りは人声もなく深閑としている。
 舟屋のガレージを覗くと、舟の出たあとのガレージには干物の魚が干してあったり、魚網を広げたりしてあった。最近は舟屋の二階を民宿として開放している家もある。
 海側に立ち並ぶ舟屋と狭い通りをはさんで住宅が並んでいる。舟屋は住宅兼用の舟のガレージであるが、二階の住宅はあくまで仮屋として使われたもので、本来の住まいは、狭い通りをはさんで、山側に背をむけて母屋が立ち並んでいる。その建物はおおむね立派な造りで、蔵を備えた家もあり、この地域が豊かな生活を営んでいることがうかがえる。
 なかに白壁の一軒の醸造屋があった。この地区唯一の地酒をつくっている酒屋で、まろやかな、口当たりのいい美酒として評判がいい。ほかに伝統工芸をつくる工房があったり、観光客目当てのみやげ屋もあった。
 半日の慌ただしい観光であったが、いっとき現実を忘れさせる、ゆっくりとした時の流れる風景のなかで過ごせたことが実に快かった。

天橋立探訪

2018-12-06 19:27:48 | 場所の記憶
   「大江山 いくのの道は遠ければ まだふみもみず天の橋立」の歌で知られる天橋立を訪ねてみた。天橋立は東北の松島、
広島の宮島と並ぶ日本三景のひとつで、全長36km、幅20〜170mの美しい砂嘴が天橋立である。かつて雪舟の「天橋立図」なるものを観てから、一度は訪ねたいと思っていた。
 雪舟の水墨画が描く天橋立の景観は、何か、この世のものとは思えない雰囲気を醸し出していた。現実の姿ではないことは分かっていても、実際、この目で確かめてみたい、という衝動にかられたのである。
 訪れたその日は、晩秋の暖かな日だった。古来からの名所らしく、さすがに見物客でいっぱいだった。最近の傾向であるが、どこを訪ねても外国人の多いのはここも例外ではなかった。なかでタイ人の観光客が目立ったのは、何か、この地とタイとが関係があるからだろうか。
 私はまず遊覧船に乗って天橋立の全体像を眺め見ようと思った。少し冷たい風がそよぐ海上に出ると、すぐに右手に松林に覆われた長い砂嘴があらわれた。たくさんの鴎が船の周囲を飛び交い、さかんに餌を求めて近づいてくる。鴎のための餌も売っていて、それを鴎に向かって投げる人がいる。
 しかし、天橋立の全体像を観賞したいと思っていたが、その規模が大きすぎて、全体を見渡すことができなかった。うねうねと伸びる砂嘴がつづくばかりであった。
 遊覧船は十分ほどで対岸の一の宮に着いた。ここはちょうど砂嘴の根元にあたるところである。一帯は府中と呼ばれるエリアで、ここには元伊勢籠神社があり、成相山の中腹には傘松公園や成相寺がある。
 元伊勢神社は、あの伊勢神宮の両神が一時、この地に滞在したという故事にちなんでつくられた格式のある社らしい。
 そこをやり過ごし、私はただちに傘松公園へ至るケーブルカーに乗った。
 やはり、天橋立の全貌を眺めたいという気持ちが捨て難かったからである。
 「天橋立の股のぞき」で知られる公園には、股のぞきの台座が設けられていて、そこから、天橋立が昇り龍のように見えることから名付けられた「昇龍観」を眺めることになる。
 さっそく、石の台座に股を開き、股の間から覗いてみた。誰が発見したか知らないが、まるで龍がのたうつように、長々とうねる砂嘴が望まれた。
 しばし、黙念としてパノラマ風景を眺め渡した。少し靄のかかった天橋立一帯は、どこまでものどかで、平和な雰囲気だった。鳥の囀りは聞こえるが、よけいな音がないのがいい。
 次に訪れたのは、同じく成相山中腹にある成相寺だった。
今回の旅でいちばん紅葉の美しいところだった。赤や黄色の紅葉が古色を帯びた寺の堂宇を引き立てていた。
 この寺は高野山派の真言宗寺院で、西国巡礼28番の札所でもある。本尊の聖観世音菩薩で、美人観音として知られる秘仏である。本堂のいちばん奥の薄暗がりのなかに観音が安置されていたが、暗くてよく拝顔できなかった。
 そういえば、本堂への石段の途中に「撞かずの鐘」と命名された鐘楼を見かけた。そこに曰くが書かれていた。
 その鐘を撞くと、響きのなかに幼子の泣く声が聞こえてくるという不思議な鐘だという。実は、その鐘が鋳造される時、村人の子供が坩堝のなかに誤って落ち、命を落とした。以来、その鐘を撞くと、子供の泣き声が聞こえてくるため、鐘を撞くのをやめにしたという。何やら悲しい話ではある。燃えるような紅葉が美しいだけに、その曰くがひどく切ないものに思われたのである。
 

赤穂義士ゆりの地探訪

2018-11-09 10:42:16 | 場所の記憶
 コース:①皇居東御苑(旧江戸城本丸跡・松の廊下刃傷の地)〜②東京駅八重洲口(吉良邸江戸上屋敷跡)〜③両国橋(大高源吾句碑)〜④本所吉良邸(討入りの地)〜⑤義士アジト跡〜⑥堀部安兵衛の碑〜⑦永代橋〜⑧浅野家上屋敷〜⑨間新六の墓(西本願寺)〜⑩浅野内匠頭自刃跡〜⑪仙石伯耆守屋敷跡(日本消防協会)〜⑫毛利家上屋敷(テレビ朝日)〜⑬寺坂吉右衛門の墓(麻布曹渓寺)〜⑭細川家下屋敷〜⑮泉岳寺

① 松の廊下刃傷の地
まずは皇居大手門をくぐり、一ノ門跡、二ノ門跡、旧二の丸跡、百人番所、中之門跡、本丸跡をたどる。松の廊下は、本丸跡の広い敷地の左手植え込み沿いの遊歩道を北に進んだ木立の中にある。
 元禄14年3月14日、この松の廊下で浅野内匠頭の刃傷があった。内匠頭はただちに捕らえられ、平川門(不浄門)から運び出された。内匠頭を乗せた網乗物駕籠は、平川門から大手門、日比谷御門を通過して、桜田、愛宕下を抜けて田村屋敷に運ばれた。警護の者総勢75人というものものしい護送だった。

② 吉良邸江戸上屋敷跡
東京駅八重洲口の国際観光会館前。北町奉行所跡地であり、元の吉良邸はここにあった。吉良上野介が本所松坂町に住まいを移したのは元禄14年8月19日のこと。事件後、上野介は世間をはばかり高家筆頭の辞職願いを提出。居宅を移したのは、隣家の蜂須賀家から、赤穂浪人討入りの危険があり物騒である、との苦情が出たためといわれている。

③ 両国橋
両国橋東詰に、大高源吾の「日の恩や忽ちくだく厚氷」の句碑がある。この句、深読みすれば、なにやら討入りを想定して詠んだ句にもみえる。
 大高源吾は俳号を子葉といった。講談では両国橋の上で宗匠の宝井其角に出会った際に、「年の瀬や水の流れと人の身は」(其角)と源吾のやつれた姿を哀れんで詠んだのに対し、「あした待たるるその宝船」(子葉)と返したことになっている。

④ 本所吉良邸
敷地の一部が現在は本所松坂町公園(両国3丁目8番地)という小さな広場になっていて、白塀に囲まれた園内には、上野介首洗いの井戸や松坂稲荷大明神などが残る。
 この地は、いわずと知れた、元禄15年12月15日、赤穂浪士による討入りがあった場所である。
 討入りによる激闘は早朝の4時から2時間にも及んだといわれ、この結果、吉良側の家臣20人が討ち死にした。赤穂浪士側には負傷した者はいたものの、死者は一人もなかった。吉良側は不意をつかれたため犠牲者が多かったことがわかる。

⑤ 義士アジト跡
堀部安兵衛ほか7人は本所林町5丁目(竪川南岸、現立川3丁目)の紀伊国屋、杉野十兵次ほか3人は本所徳右衛門町1丁目(竪川南岸、現立川3丁目)の大野長十郎店、前原伊助、神崎与五郎、倉橋伝助の3人は本所二つ目、相生町3丁目(竪川北岸、二ツ目之橋付近)にアジトをつくっていた。討入り当日、浪士たちが参集したのもこれらのアジトである。ここから四十七士は東西二隊に分かれ、表門と裏門に向かった。いずれのアジトも竪川のほとりにあった。

⑥ 堀部安兵衛の碑
亀島川にかかる亀島橋の北詰にある。石碑には安兵衛の生い立ちと行跡が刻まれている。安兵衛の住まいがこの近くにあった。大酒の呑みと伝えられる安兵衛は本当は下戸であったという。なお、安兵衛の碑は高田馬場にもある。(西早稲田3丁目、水稲荷神社内)

⑦ 永代橋
討ち入り後、四十七士は隅田川東岸を南下し、深川に至り、永代橋を渡るが、一行は橋の袂にあった乳熊屋味噌店(現乳熊ビル)で甘酒をふるまわれたという。さらに、その後、霊岸島、稲荷橋を経て浅野家上屋敷前に至った。

⑧ 浅野家上屋敷跡
現在、聖路加病院がある敷地を含む八千九百余坪が屋敷地だった。石碑あり。

⑨ 間新六の墓
西本願寺の境内に四十七士のひとり間新六の墓がある。彼は本願寺の檀徒のひとりで、切腹した新六(23歳)の遺体は彼の姉婿中堂又助の願いにより引き取られ、この寺に埋葬された。

⑩ 浅野内匠頭自刃跡
浅野内匠頭が切腹した地。通り沿いに「浅野内匠頭終焉之地」と刻む大きな碑が立っている。田村右京太夫屋敷跡。港区新橋4丁目。切腹が行われたのは元禄14年3月14日、午後6時頃のことだった。

⑪ 仙石伯耆守屋敷跡
現日本消防協会ビル。港区虎ノ門2丁目。幕府大目付仙石伯耆守屋敷跡。大石内蔵助に指示されて、吉田忠左衛門と富森助右衛門の両名は大目付の仙石屋敷に走り、吉良の仇討ちを自訴した。二人が足を洗ったとされる井戸の跡に、モダンなつくりの泉水が湧き出ている。由来のプレートあり。

⑫ 毛利家上屋敷
現テレビ朝日の敷地。港区六本木6丁目9。岡島右衛門、村松喜兵衛ら10名がここで切腹した。

⑬ 寺坂吉右衛門の墓
麻布曹渓寺内、境内裏手高台にある。港区南麻布2丁目。吉田忠左衛門の足軽だった寺坂は、内蔵助の命を受け、義士の行跡を後世の人々に伝え残すために、途中、義士の一行から離脱した。のち、山内家に仕官し、83歳の天寿をまっとうした。

⑭ 細川家下屋敷跡
高松宮邸と高松中学の敷地にかつての屋敷があった。港区高輪1丁目4。大石内蔵助ら自刃跡の碑が立つ。背後の林が切腹の場所と伝わる。細川家では藩主みずから義士に面接して労をねぎらったという。

⑮ 泉岳寺
浅野家の菩提寺。泉岳寺にたどり着いた四十六士は吉良の首級を主君の墓前に供えたあと、それを泉岳寺に預けた。首はその後、吉良家に返されたという。
 みどころは、吉良の首を洗った首洗いの池、内匠頭の墓、夫人・瑶泉院の墓、内匠頭の弟・大学の墓、父長友の墓。義士の墓は預けられた四家ごとに祀られていて、四十八基ある。入口の門は、浅野家上屋敷の裏門を移築したもの。左手端の「刃道喜剣信士」は萱野三平の供養碑、右手、水野家預かりの9人の端にある「遂道退身信士」の墓は寺坂吉右衛門の追悼碑。切腹した義士の墓にはすべて「刃」の文字がつけられている。
 また、境内には義士記念館がある。四十七士の木像はじめ、陣太鼓や衣装などが展示されていて、義士たちの面影をしのぶにふさわしい場所になっている。
 毎年、討ち入りの行われた12月14日には「義士祭」が行われる。






















旧千住宿探訪

2018-10-27 12:34:56 | 場所の記憶
 最近は大学の移転などで、かつてのイメージを払拭しつつある千住。江戸四宿の一つといわれる千住宿は、じつは三つの地域に分かれていた。
 隅田川の南側の旧小塚原町と中村町を含む千住南組(現在の南千住5、6、7丁目の一部)、それに隅田川の北側にある中組(現在の橋戸、河原、仲町)と北組(北千住1〜5丁目)とがそれである。中町と北組を総称して大千住と呼んだ。
 秋の一日、かつて大千住と呼ばれた、中組、北組の旧街道沿いを歩いてみた。
 千住宿には公用宿と一般宿があった。公用宿は本陣、脇本陣などを言い、一般宿には平旅籠屋(別名、百姓旅籠と呼ばれ、一丁目に多かった)と食売旅籠(飯盛女をかかえる宿で、2、3丁目に多く集まっていた)があった。明和2年(1765)の統計によれば、旅籠93軒で、飯盛女150人をかかえていたと言う。
 千住大橋を北に渡り、旧街道を右手に進むと、すぐに中央卸売市場(足立市場)が見えてくる。かつて、やっちゃ場(市場)と呼ばれた、主に野菜を扱った市場である。
 この市場の歴史を知るには、千住宿歴史プラテラスという、千住の歴史的建物(蔵)を移築した小さな展示館がすぐ近くにあるので訪ねるといい。
 旧街道は歩くほどになにやら和んだ雰囲気につつまれる。このあたり千住河原町という。ほどなく墨堤通りと名のつく広い通りと交差する。
 左手、この墨堤通り沿いに源長寺という由緒ある寺がある。
慶長3年(1598)当地を開拓した石出掃部亮吉胤が創建したと伝わる寺だ。石出掃部という人物は千住の開拓に尽くしたことで知られている。千住七福神の一つ寿老人を祀る。
 旧街道にもどり、さらに北上する。
 街道らしく通りがまっすぐに連なっている。しばらく行くと、区役所通りと名のつく通りとぶつかる。
かつてここに区役所が置かれていたのだろう。
 この通りとの交差する右角に一里塚跡が、そして左角には高札場跡がある。そこを越えると、しだいにブティックや飲食店などの店が多くなり、庶民的という言葉がぴったりの町の賑わいになる。
 ここで少し街道をはずれて、左手、現在の日光街道に近いところにある寺を訪ねてみる。
 慈眼寺と名のつくこの寺も創建が正和3年(1314)と古く、寺紋に葵の紋が使われている。というのも、この寺が江戸城の北方鬼門の寺としてされ、徳川将軍の休息所として使われた寺であるからだ。藤の咲く季節には4つの藤棚に見事な藤の花が咲く寺としても知られている。
 このほか、付近には、赤門の「おえんまさま」で親しまれる勝専寺、それと宿場女郎の投げ込み寺で知られる金蔵寺など、いずれも見落とせない寺がある。
 勝専寺には千住の名の起こりになったとされる千手観音が祀られている。本堂がレンガ造りであるのも珍しく、江戸時代には将軍の鷹狩りや日光参拝の休息所であったとも伝わる寺である。
 また、町の喧騒から離れたところにある、落ち着いた雰囲気の金蔵寺には幾つかの供養塔がある。千住の宿場で亡くなった飯盛女の供養塔、それに、天保飢饉の餓死者や行路不明者の供養塔などが並んでいる。
 旧街道も千住2、3丁目あたりに来ると、人の行き来が頻りになる。いわゆる商店街である。
 千住の本陣跡があったのは、2、3丁目の角にあたる(左手)ところで、現在、本陣跡の石碑が立つ。付近はかつて見番横丁と呼ばれ、千住宿の中心地だった。
 ちなみに、千住宿を利用した通行大名の数は60家にのぼったというから大変な賑わいであったに違いない。明治10年、奥州巡幸の際に明治天皇もここに宿泊している。
 櫛比する商店を見過ごしながらさらに行くと、右手、公園が見えてくる。ここはかつて高札場があったところで、由来の解説版がある。
 千住は蔵の多い町でもある。旧街道沿いには今も往時の蔵がそのまま残る。なかでも必見は横山家の蔵づくり。建物は江戸期のもので、昔のままの風情が残る。また、すぐ前にある「千住の絵馬屋」で知られる絵馬屋の建物も、街道の町家づくりの建物として一見の値がある。
 また、荒川の土手近くにある、骨つぎで有名な名倉家建築も見逃せない。長屋門を構えた、現役の整形外科医院には旧主屋、手入れの行き届いた庭、3つの蔵など、いずれも江戸期の歴史的建造物が残っている。
 時間があれば、足を延ばして、日光街道から分岐した旧水戸街道沿いにある清亮寺に立ち寄ってみたい。この寺にある「解剖人」の墓は、明治初年にここで解剖がおこなわれた事実を伝えている。
 帰りは、旧街道の東側に並行する瀟洒な建物が散見される閑静な裏通りをそぞろ歩きながら、千住のまた違った趣きを味わってみたい。