小石川にある出版社に勤めるなるみ35歳には、職場結婚した夫・春樹38歳がいた。職場では階がちがうために顔をあわせることはほとんどなかった。結婚してかれこれ10年ほどたつが、お互い中堅として毎日仕事に邁進する日々を過ごしていた。だから子供も設けなかった。
そんななか夫が同じ職場の女子社員とただならぬ関係にあるという噂を耳にした。相手は入社5年目の、社内でも目立つ存在の女性であった。なるみが夫にそのことを問い質すと、最初は「そんな噂は気にするな」と言っていたが、なるみがさらに証拠をつきつけるとあっさりその事実を認めた。
世間で聞く浮気を原因とする夫婦間の争いが自分の身に起きたことに愕然とした。夫に別の女がいると思うと苛立った。が、来るものがついに来たという感じを、なるみはなぜか冷静に受け止めるのだった。
お互い仕事で忙殺される日々を過ごしているうちに、夫婦の営みも失せて、ただ戦友として同じ家で過ごす関係になっていたことに、なるみは反省もした。だから夫を激しく非難することもなかった。かといってこの事実を認めるつもりもなかった。電池の切れたおもちゃが動かなくなったような、そんな心的状態になった。
相手が自分に対して好意をもっていると思われるあいだは、こちらからその人に対して悪意を抱くことができにくいのは人情である。かと言って、自分の方から先に相手を嫌いになるということも、相手から薄情者と思われそうで、さらに辛く思える。そんな気持ちが逡巡した。
夫の春樹が浮気をみとめ、謝罪もし、これからはちゃんと元の生活にもどると誓ったが、なるみの心は冷めたままであった。とはいえ離婚する気持ちもなかった。一度手に入れたものを手放すことへの面倒くささもあった。冷静に考えれば、今の生活が何か変わったわけではない、ならばこのままセックスレスの生活をつづけていても、なんの支障もないのではないかと思った。世間にはそんな仮面夫婦がたくさんいるのだからと納得した。
それからというもの、なるみは、夫婦関係を割り切った態度でやり過ごすようになった。つとめて自分の愉しみだけに執着した。そうした態度で毎日を送ることになんの違和感も感じなかった。
そんななるみに、ある日、中学校のクラス会の報せが届いた。毎年行われていたクラス会だったが、なるみはずっと欠席の返事を書いていた。クラス会に特別の懐かしさを感じることもなかったためである。が、今回ばかりは少し違っていた。ふと、同級生のSに会いたくなった。Sが出席するかどうかは分からなかったが、ともかく出席すると返事を返した。
クラス会に出ると、みな中年の顔になっていた。すでに髪の毛に白いものが交じる者もいた。それなりの歳月がたっていることを気づかせた。なるみはSがいないかと目を走らせた。すると会場の隅に数人と歓談するSを認めた。期待していたことが現実になって、なるみは心をはげしく揺さぶられた。
Sの歓談の終わるのを待って、なるみは少女のような恥じらいを感じながらSに近づき、「柴さん」と声をかけた。柴は一瞬驚いたような表情をしたあと、目を輝かせて「早瀬さん、いらっしゃったんですね」と応じた。年の功か、柴はいっそう恰幅のよい中年男になっていたが、ひさしぶりに早瀬に逢うと、なるみの胸に懐かしさがこみあげてきた。思わず「本当に逢いたかったんですよ」という言葉が口から出そうになった。
遠い昔になるが、ふたりはテニス部に属していた。練習試合をしたり、合宿に参加したりして共に青春を謳歌した。そんななか、なるみは早瀬のスマートな体躯としなやかなプレイにいつもうっとりとしていた。その思いは早瀬にも少なからず通じていたらしく、彼女を心憎からずと思っていてくれたフシがあった。
卒業とともにふたりは別れ別れになったが、なるみのひとすじな心は早瀬を忘れることはなかった。それから、二十年近くになってからの再会だった。
クラス会は盛況に終わった。会場を変えて二次会にも及んだ。なるみは早瀬が二次会にも出るというので、参加することにした。少し酔いのまわった躰が夜風にこころよかった。
二次会はカラオケ大会になった。何人かが持ち歌を唄い、早瀬も、愛する人に捧げる内容の歌を唄った。感情がこもっていた。なるみの心に響く歌だった。
二次会が跳ねると早瀬が一緒に帰ろうと誘った。なるみは素直に従った。駅に向かう途中、早瀬はなるみの今の状況をいろいろ聞きただした。なるみは訴えるように夫との関係を告白した。早瀬は「なるみさんの今は、あまり幸せではないんですね」と同情した。
刻一刻、別れの時が訪れようとしていた。切ない気持ちがいっそう込み上げて来ていた。間もなく二人は別れなくてはならない。
いよいよ別れる段になって、なるみは、「ときおり会っていただけませんか」と思いをこめて懇願した。すると「おやすいご用です」と早瀬は快く応じ、電車を降りていった。
早瀬と別れたあと、なるみは今日の出来事を振り返りながら、ある熱い思いを巡らせていた。それは日常を踏み越えて、これから道ならぬ恋に走ってゆくだろう我が身の姿であり、堕ちるもよしという堅い決意だった。
車窓の外を、町の灯りがせわしなく走り過ぎていった。