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愛のカタチ 場所と人にまつわる物語  

愛の百態

時間と空間のはざまに浮き沈みする場所の記憶をたどる

志郎の遍歴

2025-04-12 09:27:10 | 場所の記憶
異性に興味を持ったのは小学校1年生の頃。可愛い子を挟んで同級生と決闘?をして、ライバルの相手のお腹を一撃して担任にひどく叱られたのでした。その女の子と中学の頃再会して、昔のイメージとあまりに違うので、急に憧れの熱が冷めてお終いに。

中学になり同級や下級の可愛い子に憧れはしたものの、一方的な憧れで終わりました。

高校は受験校であったため恋だの愛だのということとはほとんど関係なく過ごしました。クラブ活動で可愛いなと思った子はいたものの、何事もなく終わりました。

大学に入るも、当時は学園紛争で学内は荒れ放題。嫌気がさして授業にはほとんど出ることもなくなく図書館で好きな本を読んで過ごしました。が、そんな大学生活にも関わらず、なぜか、無事に卒業式できました。
大学4年の時、卒論を書く目的で伊豆の湯ヶ島の寺に滞在していた時に出会った女子高生に一目惚れし、文通が始まり、東京に戻ってから新宿御苑で初デートしました。その後、彼女は北海道の女子大に寄宿し、手紙のやりとりはあったものの、自然に交際は消滅しました。こちらは社会人で向こうは大学生で、世界が違いすぎて切れてしまったのでしょう。

社会人になると、見るもの聞くもの新鮮で、浮ついた気持ちで職場の女の子2、3人とデートしたりしましたが、すぐに飽きて終わりました。

そんななか、妻が現れました。はじめの出会いに記憶はないのですが、向こうに気に入られて、揺れ動く気持ちを抱きつつ、結婚しました。当時のわたしは童貞でした。妻の実家は裕福な商家でした。

結婚はしたものの、婿入りしたような気持ちが去らず、胸にたまる不満をいつも抱え、会社が終わると、家にまっすぐに帰らず、週末はほとんどスナックや居酒屋のママに入れこんで通い続けました。職場と家の間に存在する止まり木だったのでしょう。

50歳を過ぎる頃、会社での処遇がガラリと変わりました。中高年は、一部の人間を除いて閑職に追いやられ、気分はいつ辞めてもいいという、感じになりました。そうこうしているうちに定年を迎え、気がつけば60歳になっていました。

定年になり家にこもるようになると、あらためて妻との関係が問題になりました。妻は私を鬱陶しく思うようになり、私は妻を小うるさい存在と思うようになりました。だんだん関係が薄まり、家庭内別居という状態になりました。それぞれが別個の人生を作っていたことに気づきました。
考えてみれば、もうこの歳になったら、それぞれの生活、価値観が出来上がっていたのです。期せずして双方から別れの話になりました。

そして志郎は妻に手紙を書きました。

それぞれ一人になっても、今後とも関係を大切にしたいと願っています。今後は会いたい時に会って、語り合うことができればと。日常的に縛り合う関係ではなく、好きな時に好きなように会う、そんな粋な関係が作れればと思っています。




本当の理由

2025-04-10 10:39:33 | 場所の記憶
次郎は一年前に連絡の途切れた志津香のことを心のどこかでいつも思っていた。いつかまたきっと、自分の前に姿を現わすのではないかと。それがいつの日のことかわからないが、そんなことはかまわない、と思うのだった。
気がつけば、もうあたりはすっかり秋めいて、あのひどく暑かった夏の日々が嘘のように思われた。遠くこんもりとかたまる森がいくぶんか赤みを帯びてきているようにも思えた。
それにしてもと次郎は思う。なんで急に音信が途切れたのだろうかと。志津香になにか異変が起きたのだろうか。それとも自分に対する気持ちが何かの理由で変わって、それでメールをよこさなくなったのだろうか、といろいろ考えるが、たしかなことはわからずじまいだった。
いま振り返れば、いろいろと愉しかった思い出がよみがえってくる。
東京郊外のひろい緑地を散策したことがあった。色とりどりの花が咲き始めている花野道を、浮き立つような心持ちで、ふたりで語り合いながら歩いたことなどが思い出される。
もう若くはないふたりだが、気持ちはすっかり青春の頃にもどって、手をつなぎあい、切ないほどのひとときを過ごしたことが思い出された。
こんなこともあった。唯一、忘れられない思い出である。
都心にある新宿御苑に桜を見に行った時だった。ひさしぶりの再会で、いつになく気持ちが昂まり、次郎はすぐに志津香の手をとってこんもり木々の茂った遊歩道へと彼女を導いた。そして、何かつかぬことを話しながら、人目のつかない静かな場所、静かな場所を選びながら。
胸の昂まりはいよいよ頂点に達していた。次郎は志津香の躰を引き寄せると、ふいに口づけをした。しっとり濡れた、柔らかい感触の唇だった。桃色の花びらのようだった。そんな予期しない次郎の行動に志津香は少しも拒む様子がなく、少女のような若い恥じらいを見せた。
あの時のできごとが今も鮮明に記憶に残っている。

次郎は本を読みながら、いつの間にか、白昼夢にふけっていた。
次郎はどうして音信を絶やしたかを志津香に聞いてみた。すると、彼女の声が遠くの方から聴こえてきた。
理由なんかないわ。嫌いだったからではないのよ。好きだから逢いたくなかったの。これ以上つきあっていたら、ずるずるとどこまでも泥沼に引きずりこまれてゆくのが怖かったのよ。
白昼夢からわれに帰ると、次郎は本から顔をあげて、窓の外を眺めやった。
いつの間にか黒い雲が空を覆っていて、風音が窓をことことと鳴らしていた。次郎は耳を澄ました。何かを聞いたような気がした。が、それは気のせいだった。ただ風が吹き抜ける音だった。



情熱が覚めた果ては

2025-04-08 13:55:49 | 場所の記憶
明生は遠い昔のことを思い出していた。
あれは明生が大学を卒業して、社会人3年目のことだった。
妹の咲子が親の反対を押し切って、駆け落ちのようにして家を出て、好きな男と一緒になる、という出来事があった。その時、明生は母親からそのことについて相談されたことがあった。
聞けば、妹の相手は中学校の同級生で、卒業後、クラス会に出席した時にふたりの関係が強まったということだった。その時は、兄弟がみんなその結婚には反対だったが、反対すれば反対するほど、妹は意固地になって言うことを聞かなかった。
親子兄弟が反対した理由は、相手の男に今は仕事がなく、それまでも仕事を転々としていたからである。そんな身持ちの悪い男を何で好きになったのかが分からなかった。
男は祭り好きで、祭笛を吹くのを得意とした。若者に特有な鯔背な姿に妹が惚れ込んだのは想像できた。若い時にはよくそんなことがあるものなのである。
妹夫婦はやがて所帯をもち、浅草は下町の商店街の裏路地にある小体な借家を借りて住んだ。数年するとつぎつぎと子供ができ、四人家族となった。
夫は相変わらず、祭りの時期になると家をあけて、祭りに奔走した。その熱中ぶりに妻の咲子は、なんでそんなに夢中になれるんだろうか、と不思議に思った。
その頃になると、夫は自分の町の祭りだけでなく、近隣の祭りにも呼ばれるようになっていた。笛の腕はたしかなのだろうが、咲子には迷惑なことだった。
ある日、近所の親しくしている酒屋の女将から、あなたの夫が同じ祭笛仲間の若い女性と親しくしている、ということを耳にした。はじめそれはたんなる噂だろうと軽く受け止めていたが、夫が祭りに夢中になって、たびたび家をあけるのはそのせいだったのかと合点した。
ある日、そのことを夫に問い質すと、夫はかんたんに白状した。しかも、相手の女とはもう離れられないと強弁した。
咲子は夫を許せなかったが、夫の言葉からして、もはや夫の気持ちを翻意させるのは無理だと悟った。かつての自分を見る思いだった。
親の反対を押し切って結ばれた二人の関係が、いとも簡単に崩れさったことに、咲子は言いようのない虚しさを感じていた。だから言ったじゃないか、と言う兄の声が聞こえてくるようだった。いまさら実家にもどることはできない、と思った。親兄弟に合わす顔がなかった。ふたりの子供をかかえて、これから生きてゆかなければならないことを覚悟した。
暮れ色の空が冬を予感させた。かたく冷えきった風が頬を吹きすぎていった。先行きの見えない不安を抱えながら咲子は、すぐにも仕事探しをしなければ、と考えながら、落葉の散り始めた観音堂の裏路地をとぼとぼと歩いてゆくのだった。


晩夏の駅

2025-04-04 10:52:05 | 場所の記憶
いつも図書館で一緒になる、希生にとってはマドンナのような存在の女子学生がいた。同じ学部の同学年の女性であるらしいことはわかっていた。というのも、いくつかの授業で顔をみかけることがあったからである。
希生は専攻する学科とは関係のない本を図書館で読むのを楽しみにしていた。特にその頃は詩集を読むことに熱中していた。詩の世界に浸り、さまよっているうちに、いつしか睡魔におそわれて机に顔をふせることもあった。が、その夢ともうつつとも知れない朦朧とした意識のなかでうつらうつらするのが心地よかった。
そんなさなかに、あの目鼻立ちのととのった、柔和な表情をしたマドンナを目撃することがあった。面識はないものの、お互い遠くのほうから意識しているように希生には思えたのである。
夏休みになって、希生はさる神楽坂にある出版社のアルバイトをすることになった。本の発送の仕事で、バイト学生に容赦のない、怖い中年の体のガッチリした係長がいて監督指揮していた。
ある時、何かの理由で遅刻したことがあった希生は、その係長にすごい剣幕で怒られたことがあった。実はその時、もうひとり遅刻した学生がいて、それは同じクラスのAだった。その時は顔見知りであることを伏せて、係長の叱責にひたすら堪える二人だった。これがきっかけで、以前はただの顔見知りである関係だった二人は、お互い親しく話をまじえるようになった。
アルバイトの最終日、バイト代をもらって、開放感にひたりながら希生は出版社をあとにした。外はあいにくの激しい雨で、傘をもたない希生は少しとまどったが、降りしきる雨の中を帰るほかなかった。
その時だった。あのマドンナが傘をさして誰かを待っていたのである。自分を待っているとは到底思われなかったが、希生はすぐに悟った。マドンナはあのAを待っているのだ、ということを。雨に濡れそぼるなか、希生は屈辱感に打ちひしがれた。胸に渦巻く敗北感はたとえようもなかった。
それから数ヶ月後、希生は卒業した。
新しく社会人になった希生は、丸の内に本社のある大手の商社に入社することができた。毎日が、見るもの聞くもの、目新しいことばかりで、自分が何をしているのか分からなくなるほどの忙しさだった。それでも、はつらつとした気持ちで日々過ごせることが新鮮だった。
ある日曜日のことだ。希生は同僚と上司の家を訪ねることにした。前から遊びに来るように言われていたから、ということもあるが、上司の家庭というものを散見してみたい、という興味もあった。
東京の西部、多摩地区に住む上司の家は、ふたりの子供がいる典型的な中流家庭を思わせた。賑やかな子供の声が飛び交う家庭を目にして、いつか自分もこんな家庭をつくることになるのだろうな、とぼんやりと未来の設計図を頭に描いたりした。
思いのほかくつろいでしまった希生は、これ以上、長居しては迷惑をかけるだろうと思い、日が傾く時刻になったのを見計らって、同僚を促して上司の家を辞去することにした。
何か心温まる気持ちにつつまれながら、希生は同僚と帰途についた。
もうあたりはすっかり黄昏時になっていた。
西武線の保谷駅ホームに立って電車を待っている時だった。偶然にも大学時代のAに会ったのだった。懐かしさもあったが、Aのその後のことが気がかりだった。問わず語りにマドンナとの関係を尋ねると、あれから結婚して、まだ子供はいないが、まあなんとかやっているよ、と頼りな気に応えるのだった。
聞けば、今日、会社を辞めてきたのだという。そういえば、Aは学生の頃からふらふらした印象があったな、とふと思い出した。女の子を口説くのは上手いが、どこか頼りなかった。そんなところが女性の母性本能をくすぐったのだろうか。いつのまにかマドンナの心を射止めていたのである。

家に帰ったあとのAのことが想像された。
一度も口をきいたことはなかったが、マドンナの不安な顔が目に見えるようだった。そんな想像をめぐらせているうちに、希生の胸の内に以前からくすぶっていた、二人に対する妬ましい感情が消えていた。かわりに同情の念さえが湧きあがってきたのである。
車窓からみる家々の窓に暖かな灯りがともりはじめていた。
希生の心は軽かった。


突然の・・・

2025-04-01 10:33:39 | 場所の記憶
運命的な出会いからつきあいがはじまった航平と由美であったが、ある日、ふいに由美から別れをほのめかすメールが届いた。約束していた1週間後のフラワーパーク行きが、よんどころない理由で行けなくなった、というのだ。しかも、そのメールは京都からで、今、ツアー旅行を楽しんでいるところだという。
予定していたフラワーパーク行きを断っておいて、その直前に京都旅行をしているとは。航平は由美に不信の念をいだいた。航平は由美とともに旅行しているだろう男の影を感じた。
そのように思えば思うほど、由美が愛おしくも憎らしくも思えてきた。航平にとってはまったく予想もしないことだった。
航平は絶望的になり、打ちのめされて、由美が自分から離れないでくれと切に懇願したい気持ちだった。
航平は由美なしには生きてゆけない、と思いつめた。航平は今、思い返している。由美の黒い瞳、やわらかな唇、みどりの黒髪を。出会いの時から幾度かのデートで急速に深まった関係を反芻しながら、航平は狂おしいばかりの思いにとらわれていた。
由美もたしか、あなたに会うことができたのは運命の女神のおぼしめし、というようなことを言っていたはずである。あの時、由美は嘘を言ったのだろうか。
揺れ動く気持ちがおさまらないなか、航平は「都合がつかないということでしたら約束は取りやめにいたしましょう」と、返事をし、念を押すように、「これからもおつきあいを続ける意思があることを信じます」と付け加えた。そして、由美からの次のメールを待つことにした。
フラワーパーク行きの取りやめは、ほんとうに彼女の都合からであってのことだろうと信じたかった。京都行きもひとりでツワーに参加しているだけかもしれないと思い返した。ここは冷静になって心落ち着けないといけないと自分に言い聞かせた。
ふと、航平は、恋のもつれでストーカーになったり、殺傷事件になるケースを思い出していた。今では加害者の気持ちが、分かるすぎるほど分かる気がする。が、自分はそれに同調してはいけないと強く戒めた。
そんな思いが千々に乱れるなか、由美からのメールが届いた。
過日はすみませんでした。このところの精勤のご褒美にと、急に京都行きを思い立ちました。葉桜の京都はまた違った情趣があり、とてもよかったです。という内容だった。そして、メールの最後に、「男の方って、一度約束を断ると、もうそれきりダメだと思い込むんでしまうようですね。以前にも同じようなことがありました」と添えられていた。
そのメールを読んだ航平は、「ああ。よかった」と心から安堵した。日頃からの心配性が災いして、とり越し苦労をしてしまったようだった。予感めいた不安が音を立てて溶けてゆくようだった。
 
 

不思議な夢

2025-03-31 10:34:50 | 場所の記憶
ある朝、5人ほどの警察官が令状を掲げて家になだれこんで来た。逮捕要件は殺人容疑だという。そして、「わかっているな」と言いながら私に手錠をかけた。そばにいた妻はおろおろして、何があったのかとうろたえ、わたしに向かって「あなた、なにをしたの?」と詰問した。
その時、わたしはふいに未明に見た長い夢のことを思い出していた。

それはこんな夢だった。
何事もなく過ごしている毎日にあって、いつも心のそこに澱のように沈殿している、ある秘密の出来事のことであった。それは20年ほど前に犯した殺人のことであった。わたしは中学の同級の友を、あるトラブルによって強殺したのだった。
友を殺害した理由は、ある女性との間の三角関係だった。
彼女は最初はわたしと同棲していたが、親友である友が家に幾度か遊びに来るうちに、いつの間にか、彼女との間ができていたのであった。
愕然とした私の頭の中は狂気が渦巻き、前後をわきまえないで、友をナイフで刺してしまったのだ。気がつけば、部屋のソフアの上に友が倒れていた。顔を近づけると、もう息はしていなかった。
あとは夢遊病者のように躰が動いて、死体の遺棄と隠匿に走った。夜になり、死体を寝袋に包み込んでから車に運び込んだ。そして、5キロほど走った、土地勘のある山林の、人の踏み込むことのない雑木の茂る窪地に死体を埋めた。
事を終えて安堵したが、まったく不安が解消したわけではなかった。以後、底知れない不安が日々、躰にまつわりつくことになった。
そんな重苦しい夢をみたのである。
そして、その夢から醒めて、明るい朝がやってきてから、すぐに警察官が家になだれこんで来たのであった。夢が現実になったのだ。
そんなこともあるものかと、不思議の念にとらわれている状態のまま、わたしは警察車両に押し込まれて、連行された。
警察署に着くと、物々しくも20人ほどもの警察官がわたしの車を出迎えていた。凶悪犯扱いだった。
車から降ろされて、取調室につれて行かれると、休む暇もなく取り調べがはじまった。
ああ、ついに長い間隠してきた事が白日のもとに晒されることになるのだ、と観念した。ともかく、もうここまできたら、何も隠し立てすることなく吐き出して、さっぱりしたいという気持ちになっていた。
そう思うと、ふいに涙があふれてきた。これも運命だと観念した。

遠くの方で誰かが呼んでいる。それがしだいにはっきりとしてきて、妻の声だと分かるまで、そんなに長い時間は必要なかった。
目をあけると、わたしの顔を覗くように妻の怪訝な顔があった。
「あなた、こんな時間にまだ夢をみていたの?」と妻がわたしを詰るように言った。「苦しい声をあげて、何か言っていたようよ」とも言った。
「そうか、あれもこれも夢だったのか」夢のなかで夢から醒めて、またそのつづきの夢を見ていたようだ。
同級生を殺害した夢は、昨夜、ニュースで見た殺人事件のことが影響したようだった。あらためて、自分の記憶をたどって、そんな事実はないことをたしかめて安堵した。

不思議なものである。何もないことがこれほど仕合わせなことだと感じたことはなかった。あらためて妻を愛おしく思ったことだった。




空白な時を埋めて

2025-03-28 09:37:51 | 場所の記憶
小石川にある出版社に勤めるなるみ35歳には、職場結婚した夫・春樹38歳がいた。職場では階がちがうために顔をあわせることはほとんどなかった。結婚してかれこれ10年ほどたつが、お互い中堅として毎日仕事に邁進する日々を過ごしていた。だから子供も設けなかった。
そんななか夫が同じ職場の女子社員とただならぬ関係にあるという噂を耳にした。相手は入社5年目の、社内でも目立つ存在の女性であった。なるみが夫にそのことを問い質すと、最初は「そんな噂は気にするな」と言っていたが、なるみがさらに証拠をつきつけるとあっさりその事実を認めた。
世間で聞く浮気を原因とする夫婦間の争いが自分の身に起きたことに愕然とした。夫に別の女がいると思うと苛立った。が、来るものがついに来たという感じを、なるみはなぜか冷静に受け止めるのだった。
お互い仕事で忙殺される日々を過ごしているうちに、夫婦の営みも失せて、ただ戦友として同じ家で過ごす関係になっていたことに、なるみは反省もした。だから夫を激しく非難することもなかった。かといってこの事実を認めるつもりもなかった。電池の切れたおもちゃが動かなくなったような、そんな心的状態になった。
相手が自分に対して好意をもっていると思われるあいだは、こちらからその人に対して悪意を抱くことができにくいのは人情である。かと言って、自分の方から先に相手を嫌いになるということも、相手から薄情者と思われそうで、さらに辛く思える。そんな気持ちが逡巡した。
夫の春樹が浮気をみとめ、謝罪もし、これからはちゃんと元の生活にもどると誓ったが、なるみの心は冷めたままであった。とはいえ離婚する気持ちもなかった。一度手に入れたものを手放すことへの面倒くささもあった。冷静に考えれば、今の生活が何か変わったわけではない、ならばこのままセックスレスの生活をつづけていても、なんの支障もないのではないかと思った。世間にはそんな仮面夫婦がたくさんいるのだからと納得した。
それからというもの、なるみは、夫婦関係を割り切った態度でやり過ごすようになった。つとめて自分の愉しみだけに執着した。そうした態度で毎日を送ることになんの違和感も感じなかった。
そんななるみに、ある日、中学校のクラス会の報せが届いた。毎年行われていたクラス会だったが、なるみはずっと欠席の返事を書いていた。クラス会に特別の懐かしさを感じることもなかったためである。が、今回ばかりは少し違っていた。ふと、同級生のSに会いたくなった。Sが出席するかどうかは分からなかったが、ともかく出席すると返事を返した。
クラス会に出ると、みな中年の顔になっていた。すでに髪の毛に白いものが交じる者もいた。それなりの歳月がたっていることを気づかせた。なるみはSがいないかと目を走らせた。すると会場の隅に数人と歓談するSを認めた。期待していたことが現実になって、なるみは心をはげしく揺さぶられた。
Sの歓談の終わるのを待って、なるみは少女のような恥じらいを感じながらSに近づき、「柴さん」と声をかけた。柴は一瞬驚いたような表情をしたあと、目を輝かせて「早瀬さん、いらっしゃったんですね」と応じた。年の功か、柴はいっそう恰幅のよい中年男になっていたが、ひさしぶりに早瀬に逢うと、なるみの胸に懐かしさがこみあげてきた。思わず「本当に逢いたかったんですよ」という言葉が口から出そうになった。
遠い昔になるが、ふたりはテニス部に属していた。練習試合をしたり、合宿に参加したりして共に青春を謳歌した。そんななか、なるみは早瀬のスマートな体躯としなやかなプレイにいつもうっとりとしていた。その思いは早瀬にも少なからず通じていたらしく、彼女を心憎からずと思っていてくれたフシがあった。
卒業とともにふたりは別れ別れになったが、なるみのひとすじな心は早瀬を忘れることはなかった。それから、二十年近くになってからの再会だった。
クラス会は盛況に終わった。会場を変えて二次会にも及んだ。なるみは早瀬が二次会にも出るというので、参加することにした。少し酔いのまわった躰が夜風にこころよかった。
二次会はカラオケ大会になった。何人かが持ち歌を唄い、早瀬も、愛する人に捧げる内容の歌を唄った。感情がこもっていた。なるみの心に響く歌だった。
二次会が跳ねると早瀬が一緒に帰ろうと誘った。なるみは素直に従った。駅に向かう途中、早瀬はなるみの今の状況をいろいろ聞きただした。なるみは訴えるように夫との関係を告白した。早瀬は「なるみさんの今は、あまり幸せではないんですね」と同情した。
刻一刻、別れの時が訪れようとしていた。切ない気持ちがいっそう込み上げて来ていた。間もなく二人は別れなくてはならない。
いよいよ別れる段になって、なるみは、「ときおり会っていただけませんか」と思いをこめて懇願した。すると「おやすいご用です」と早瀬は快く応じ、電車を降りていった。
早瀬と別れたあと、なるみは今日の出来事を振り返りながら、ある熱い思いを巡らせていた。それは日常を踏み越えて、これから道ならぬ恋に走ってゆくだろう我が身の姿であり、堕ちるもよしという堅い決意だった。
車窓の外を、町の灯りがせわしなく走り過ぎていった。


愛と性のはざまで

2025-03-27 10:31:52 | 場所の記憶
・現実には観念的恋愛から性的恋愛への移行は単純ではない。
 多くの女性は多少とも幻滅を恐れる気持ちから注意深く
 自分たちの情熱を避ける。
・ 愛しい偶像が吐き気をもよおす一個の雄になるから逃げる。
・もし男が激しい反応を示すと彼女たちは怒る。男が好かれ
 たのは近づき難く見えたからであり、恋人になると彼は平
 凡になってしまうからである。「他の男と同じじゃあない
 の」若い娘は自分の幻滅について彼を恨む。彼女は処女の
 感性をふるえ上がらせる肉体的接触を拒むためにそうい
 う口実を盾にする。
・相手の中に欲望を生じさせたことに気づくと、嫌悪の念と
 ともに身を引く。男の欲望は賛辞であるとともに侮辱とら
 える。女は自由に自分の魅力が働いていると思われるあい
 だは、自分の魅力にうっとりする。が、すぐに自分の魅力
 が受動的なものだと知ると、女はそういうものを欲情で求
 める、男の無遠慮な自由からそれを隠そうとする。
・ 女もまた快楽に権利があること、男は女に与えることの技術
を知らねばならない。
・ 若い女は快楽を欲しつつ拒絶する。相手に控えめ目を要求しつつ、それによって悩む。
・ 女は不変と連続の世界を作ろうとする


断りの口実

2025-03-26 10:01:31 | 場所の記憶
・思い返すと、いくつか思い当たるふしがある。
以前にも一度、「先約があるのでごめんなさい」と言われた時がある。その時は、具体的に先約の内容を明らかにしていたので、その通りであるのだろうと納得した。それが二度目になると、明らかに口実を設けているに違いないと思われた。先約があるという言い訳は、断る理由として自分も使うことがある。だから、見え透いた嘘が透き通るように見えるのである。相手の内心が知れるのだ。
・ ここで相手の断りの理由である「先約」とは何かをあえて追求してみたくもなるが、あえてそれをすれば、それは相手を疑うことであり、その時点で二人の関係は崩れてしまうだろう。それがいまは怖くて、何となく曖昧にやり過ごしているが、疑念は宙に浮いてサスペンス状態になる。
・ 誘いを断る際は、まず最初に誘ってくれたお礼を言うというのが相手に対するマナーだろう。お礼を言うことで、誘ってくれたことを、好意的にとらえている気持ちを、相手に伝えることができるからだ。さらに、断りの後に、申し訳ない(あるいは残念ながら)というような言葉を添えるべきだろう。それがないのである。相手に対するささやかな気遣いがないのである。これは愛情が薄い証拠に違いない。
・ どんな場合でも、人を誘うのには勇気が要るものだ。誘うという背景には「断られるかも」というネガティブな結果がつきまとうものだ。それゆえに、断る際も気遣いをする心がけが必要だし、また、断る際は相手がそう言われてどう感じるかを想像する必要があるのだ。

人を思わねば老いる

2025-03-25 21:00:43 | 場所の記憶
・ 若さというものは肉体的に鍛えるとか、サプリを飲むとかではなく、なにものかに情念をかたむけることで保たれるものではないか、と思われるケースが多い。まさに恋愛がそれで、人思わねばば老ゆるのである。
・ 妻帯した男と未婚の女の関係の場合、女がこの人と結婚したいと思った途端、男はそこまで考えていないので問題が起きる。ところが、最近では自立した女性が多くなったため、そうした関係になっても結婚は望まない。仮に男が本気になって妻と離婚するなどというと、「離婚したあなたに魅力はないわ」と言って去ってゆく。男も女も気軽に付き合って、気軽に別れてゆく、女性の愛に対する考えも昔とは違ってきているのだ。
・ 一般的に女性は時とともに愛が深まることを期待する。
今日よりも明日、明日よりも・・・という具合に愛のレベルが昂まることを。一方、男の愛ははじめはもっとも強く、徐々に薄まってゆく。そこで衝突が起きる
・  映画の題名ではないが「男と女」については、いろいろ言われる。男は冷めやすく女は持続的、男の愛は有限で、女の愛は無限、気の多い男に対して一途な女。いつもそばに居たい女とすぐ逃げ出したくなる男。

終の住処にふさわしいカナダ、ビクトリア地方

2024-09-09 16:22:41 | 場所の記憶
 最後に訪れたのはカナダ最西部にある州都ヴィクトリアだった。カナダの中でも季候温暖で、カナダ人が人生の最後にはそこに住みたいと念じている場所であるとされる。 
 雪の中から明るい街に来ただけに、見るものすべてが輝いていた。ヴィクトリアはバンクーバー島の最南端にある街で、
別名、ガーデンアイランドの名で呼ばれている。というのも、歴史的な背景から、英国の影響が色濃く残る街並みには花が溢れ、議事堂をはじめ、歴史ある建物が散見されるからである。
 ダウンタウンには、港を囲むように美しい遊歩道が整い、多くの古い建物を活かした店が立ち並ぶなど、風情ある街並みがつづく。
 海岸沿いの遊歩道には人々があふれ、ある者は陽光の下、ぼんやりくつろぐ者、路上演奏を楽しむ者とさまざまな形で、ゆるやかに流れる時を過ごしていた。
 聞くところによれば、カナダ人は老後になったら、この気候温暖なビクトリア地方に住まうことを理想としているという。
 言われて見れば頷ける。若い時はともかく、老後になったら、この気候温暖で、のんびりと過ごすに最適なこの地は、願ってもない終の住処ということなのだろう。
 喧騒で、神経が逆撫でされるような日本の都会とは対照的なたたずまいの、この地が羨ましかった。
 半日、郊外にあるブッチャード・ガーデンを訪ねた。そこは世界有数のフラワーガーデンで、緑濃い森の中には、幾つもの花壇がつくられ、季節の花々が咲いていた。
 そこでトーテムポールというものを初めて見た。
ポールに彫られている動物や人をかたどった彫像には、先住民が語り伝えたさまざまな意味がこめられているのだろうが、どれもが不思議な感じがした。自然と人間が共生している姿を実感した。

 おしなべてカナダは明るく清潔な国という印象が強かった。

真間川、国府台、矢切りの渡し

2024-04-25 15:10:04 | 場所の記憶

 市川という地が歴史に登場するのはかなり以前のことになる。万葉時代にすでにその名があらわれ、そこを訪れる人がいたということである。
 そんな市川の地を、晩秋の、暖かい一日訪れた。
 この地は、作家の永井荷風が、戦後の一時期住んだことのある町で、荷風は、当時のありさまを随筆に詳しく書き残している。
 実を言うと、この地を訪れたのは、はじめてでない。たしか、中学生時代に、クラブの担当教師と訪ねたことがある。それと、高校時代の、これも同じクラブ活動の一環として、貝塚発掘調査でここを訪れている。いずれも半世紀ほど前の、気の遠くなる昔の記憶である。
「市川の町を歩いている時、わたしは折々、四、五十年前、電車や自動車も走ってなかった東京の町を思出すことがある。杉、柾木、槙などを植えつらねた生垣つづきの小道を、夏の朝早く鰯を売りにあるく男の頓狂な声---」というほどに戦後のある時期、この辺のたたずまいは、深閑としていたことが想像される。
「松杉椿のような冬樹は林をなした小高い岡の麓に、葛飾という京成電車の静かな停留所がある。線路の片側は千葉街道までつづいているらしい畠。片側は人の歩むだけの小径を残して、農家の生垣が柾木や槙。また木槿や南天燭の茂りをつらねている。夏冬とも人の声よりも小鳥の囀る声が耳立つかと思われる。」
 かつての畠は、すでに跡形もなくなり、今や商業地をまじえた一大住宅街になっている。そして、もう片方にあったと記されている農家もすでに一軒もない。時折、長い生垣を構えた家を見かけるが、それらは、かつて農家であった家々であろう。耕地は切り売りされ、小住宅に変貌てしまっている。
「千葉街道の道端に茂っている八幡不知の薮の前をあるいて行くと、やがて道をよこぎる一条の細流に出会う。両側の土手の草の中に野菊や露草がその時節には花を咲かせている。流の幅は二間くらいあるであろう。通る人に川の名をきいて見たがわからなかった。しかし真間川の流の末だということは知ることができた。真間はむかしの書物には継川ともしるされている。手児奈という村の乙女の伝説から今もってその名は人から忘れられていない。---真間川の水は堤の下を低く流れて、弘法寺の岡の麓、手児奈の宮のあるあたり至ると、数町にわたってその堤の上の櫻が列植されている。その古幹と樹姿とを見て考えると、その櫻の樹齢は明治三十年頃われわれが隅田堤に見た櫻と同じくらいと思われる。---真間の町は東に行くに従って人家は少なく松林が多くなり、地勢は次第に卑湿となるにつれて田と畠ととがつづきはじめる。丘阜に接するあたりの村は諏訪田(現在は須和田)とよばれ、町に近いあたりは菅野と呼ばれている。真間川の水は菅野から諏訪田につづく水田の間を流れるようになると、ここに初めて夏は河骨、秋には蘆の花を見る全くの野川になる。」
 ここにあるような真間川の堤はすでになく、両岸はコンクリートで固められている。両岸には櫻はあるが、古樹と思われる櫻ではなく、近年、植えられたもののようである。
 弘法寺の岡の麓、手児奈の宮を訪ねてみた。手児奈伝説にかかわる手児奈霊堂と呼ばれる堂宇があった。伝説にまつわる井戸(乙女、手児奈が身を投げ入れたという)は そのすぐそばの亀井院という寺の境内奥に残っていた。
 弘法大師に所縁のある弘法寺は長い階段を登った丘の上にある。この高台から眺めると、荷風が描写している市川のかつて風景がそれなりに想像できる。広い境内には一茶や秋櫻子の句碑があった。なかでも仁王門が印象深かった。
 市川の地を離れて、つぎに訪れたのは国府台にある里見公園だった。江戸川べりにある城跡でもある園内には、ここで幾度か繰り返された合戦にちなむ史跡を見ることができた。国府台はかつて鴻の台と書かれていたらしく、広重の『名所江戸百景』に、高台から遠く富士を遠望する風景が描かれている。
 国府台に城が築かれたのは室町時代のことで、この城をめぐって、足利・里見と後北条両軍との間で二度の合戦がおこなわれ、五千人ほどの兵士が戦死したと伝えられている。今は明るい公園ではあるが、歴史をひも解けば、血生臭い出来事があったことが知れる。夜泣き石、里見塚、城の石垣などが残り、それを伝えている。 
 国府台を離れて、江戸川べりを歩く。広い土手を歩くのは実に気持ちいい。江戸川は、江戸時代は利根川と呼ばれていた。利根川が銚子方面に付け替えられる前は、渡良瀬川と合した利根川の下流であったのである。
 最後は、矢切の渡しを使って柴又へ出た。「矢切の渡し」といえば、伊藤左千夫の『野菊の墓』が思いだされる。
 この地の出身者でない左千夫が、なぜここを地を舞台にしたかが以前から疑問だった。ところが、その疑問に応えるような記述を最近見つけた。「左千夫はたびたび柴又の帝釈天を訪れ、江戸川を渡って松戸から市川へ出て帰ったが、矢切辺りの景色を大層気に入り、こんな所を舞台に小説を書いたら面白いだろうなと洩らしていた」という近親者の証言がそれである。また、ある研究者は「作者はこれを書くに当って、矢切村を調査研究したとも信ぜられるが、これは外来者が外から二度や三度やってきてスケッチしたぐらいでは とても、ああは書けるものではなくて、どうしても矢切村に数年居住した人でなくては描写し得ないほど、それは矢切そのものが描写されている」とも推察している。
 ところで、当の『野菊の墓』のなかで、矢切の渡しは、「舟で河から市川へ出るつもりだから、十七日の朝、小雨の降るのに、一切の持ち物をカバン一つにつめ込み民子とお増に送られて矢切の渡へ降りた。村の者の荷船に便乗するわけでもう船は来ている」と書かれていて、ここでの船は川を渡ったのでなく、川を下ったのである。誰もが船で川を渡ったと思っているがそうではないのである。
 さらに描写はつづく。「小雨のしょぼしょぼ降る渡し場に、泣きの涙も一目をはばかり、一言のことばもかわし得ないで永久の別れをしてしまったのである。無情の舟は流れを下って早く、十分間とたたぬうちに、お互いの姿は雨の曇りに隔てられてしまった。物を言い得ないで、しょんぼりしおれた不憫な民さんのおもかげ、どうして忘れることができよう」
 「矢切渡し」の名を有名にしているのは、この小説や歌謡曲によるが、「矢切」という地名がまずもって人を引き付けているように思う。その矢切の地名の由来は、かつて国府台合戦があった時、里見軍の矢が尽きて、そのことから「矢切」と呼ばれるようになったという言い伝えがある。
タイトル写真提供:ナビタイムジャパン

戸隠山 ・・・農業神を祀る修験の霊地

2023-12-08 22:13:16 | 場所の記憶
 すでに11月のなかばである。戸隠高原は冬の気配であった。夏のシーズンには若者たちで賑わう高原も、今はひっそりとしていて、紅葉のピークをこえた色あせた黄葉をつけた雑木が、長く寒い冬を前にして、身をかたくしている様子であった。
 バスは、正面にひろがる戸隠宝光社の森を仰ぎつつ登り坂をゆくと、やがて門前の集落に着く。
 人影のない戸隠宝光社の社前に降り立った時には、鉛色のどんよりした空から、ちらほら小雪が舞い落ちてきた。
戸隠神社のひとつ宝光社は、山を背にした杉林のなかに鎮座している。古びた鳥居をくぐり、長い石段を踏みしめてのぼると、そこに古格の社殿が姿をあらわした。
 唐破風の張り出した本殿は、規模はさほどではないが、いかにも時をへた味わいがあり、森厳な雰囲気に満ちている。
 軒下をのぞいて見る。そこには華麗とも言える装飾が各部分に施されている。十拱(ときょう)、蟇股(かえるまた)、木鼻(きばな)部分にみる彫刻。それらはこの地方に伝わる伝統工芸品の類いを見る思いであった。さすがに宝光社の名にふさわしいつくりであると感心する。
 社伝によれば、宝光社の創建は康平元年(1058)、後冷泉天皇の御世であるという。戸隠山修験について詳述した『戸隠山顕光寺流記』によれば、その年、大樹の梢に光を放つ御正体が飛び移り来たった。そして、そこに庵が結ばれた。そんな怪異な伝承が残る神社である。 
 祭神は天表春命(あめのうわはるのみこと)といい、学問技芸裁縫、婦女子・子供にとって神徳のある神さまである。「春」という文字をあてているところなど、何やらかそけき色香ただよう神さまを想像させる。
 それにしても人影のない神社の境内というのは、妙に空虚感があって、そら恐ろしさが漂うものだ。神さびた気配がいっそう濃くなるのである。
 社殿わきにある神輿蔵に「文化元年、江戸神田職人」の銘の入った古風な神輿を見る。高さ八尺、重さ二百五十貫というから相当なものである。
 そこにいわくが書かれてあった。それによると、江戸期、その神輿は、七年に一度の大祭を迎えると、遠く江戸にまで繰り出したという。この出開帳ともいうべき興行で、多くの信者を集めることに成功、それによって神社も大いに潤ったという。
 社殿のわきから通じている神道に分け入ってみる。のどかな高原の自然林道のようなその参道は、林のなかをぬって中社に通じている。
 道の両側に冬枯れのクヌギやミズナラが林立し、明るい陽を浴びて、それらはどこか華やいでいる。幾日か前に降った雪で、参道がすっかり白くなっている。
 雪をかぶったクマ笹の葉が陽に輝いて目に痛い。ときおり、かん高い声をあげながら山鳥がすばやく飛び去ってゆく。
 遠い昔、こんな道をたどって、雪に埋もれた山里を訪ねたことがあったような気がする。
 どこまでもひろがる銀世界のなかをさ迷ううちに、やがて、畑地があらわれ、石塊のような小さな墓石がまじる屋敷墓が見え、こんもりとした茂みのなかに茅葺きの屋根があらわれた。
 それは、おぼろで、色あせた記憶のなかの、時がとまったような風景ではある。
 歩くほどに、遠くに黒いものが動くのを目撃した。一瞬、熊かと思って肝を冷やしたが、近づいてみると、それは、薪を集めにやって来た農夫であった
 黒い影を熊と思ったのは、参道の入口に「熊の出没あり注意」の看板を目にしていたからである。そのことを、件の農夫に告げると、「熊はこの時期はすでに冬眠しているわな」という返事でひと安心する。
 農夫と立ち話をしていた場所で、偶然にも、伏拝(ふしおがみ)と刻まれた碑をみつける。碑文によれば、かつて戸隠の奥社は女人禁制であり、また、冬の時期は、雪が深くて、奥社への参拝ができないために、ここから奥社を遥拝したのだという。
 農夫と別れ、さらに行くと、林が切れ、ぽつぽつと茅葺き屋根の民家が見えはじめる。畑があり、キャベツやネギ、大根が雪のなかで元気に育っている。
 大きな屋根をのせた入母屋づくりの宿坊風の家もあらわれる。そろそろ中社が近いことをうかがわせた。
 いわゆる宝光社、中社、奥社の戸隠三社と呼ばれる社のなかでも中社がその中心に位置する。その規模の点ばかりでなく、奥社と宝光社の中間に位置するという地の利からもうなずける。
 大門通りと呼ばれる中社に通じる参道を進んで行くと、道の左右に、トタンや茅で葺いた大きな屋根をのせた旅籠が目に入る。いずれも、かつて御師の家と呼ばれた建物で、豪壮なつくりである。
 昔ながらの、せまい参道を行くと、そのはてに、緑につつまれた、こんもりとした丘陵があらわれる。中社はその森のなかに鎮座しているのである。 
 今しも、観光バスで乗りつけた団体客が三々五々、大鳥居をくぐってゆく。
 社殿に至るには、その大鳥居から急勾配の石段をのぼらなければならないのだが、それにしても、どこの神社にもかならずと言っていいほど、石段というものがある。これも俗界と聖なる場所とをへだてるための空間構成なのだろう。
 石段を一歩一歩、踏みしめるようにのぼる。のぼるほどに、社殿の屋根が少しずつせりあがるように見えはじめる。少しずつ神域に近づいている実感がわきあがる。
 中社の本殿は、宝光社と比べると、全体のつくりが質朴な印象である。たとえば、間口は宝光社より広いが、唐破風の描く曲線がゆるやかであり、軒下の装飾もシンプルにつくられている。    
 この中社の創建は堀河天皇の治世の寛治元年(1087)のこととされ、宝光社と同じように奥社から分祠されたものである。
 創建の縁起は、戸隠山は本来三社であるべきであるという神のご託宣により造られたものという。したがって、三社のなかでもいちばん新しく、宝光社ができてから三十年後の創建である。
 祭神は天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)と何とも読みにくい名前であるが、あの天照大神が天の岩戸に隠れた時に、神楽を舞い、岩戸を開かせた神さまだと聞けば、急に親しみがわく。それもあってか、開運、商売繁盛に神徳があるとされる。
 さきほどまで止んでいた小雪がふたたび風に舞いはじめる。薄日が消えて、黒い雲がおおう。と急に寒気がます。
 杉は神社にはつきものだが、中社にはそのなかでも樹齢八百年に及ぶという、仰ぎ見るような巨大な杉が三本ある。古来より神木と讃えられているその三本の古木は、ちょうど三角形をなす空間の頂点に立っている。その間隔72メートルというのも何か意味があるのだろうか、とにかく大きいのである。古さと大きさがいやがうえにも神々しさをかもしだす。
 中社から奥社への道は、いかにもリゾート気分のあふれる明るいドライブウェイになっている。ミズナラや白樺、唐松の林をぬうその道をたどると、目の前に重畳たる山並みが見えてくる。
 あの山並みこそが、戸隠修験道の霊域として崇められた戸隠連峰だと思うと、思わず、厳粛な気分にとらわれる。
 雪におおわれているが、岩肌もあらわな峻厳な山塊であることが手にとるように分かる。巨岩が露出し、険阻な岩峰がそそり立っているのだろう。
 そうした山中こそが修験者にとっては業を積むにふさわしい場所であったのである。修行のための三十三もの霊窟や蟻の渡り、剣の渡りといった岩登りの難所もあると聞く。   
 雪模様の暗い雲が山の端にずっしりとはりついたようにたなびいている。時折、唐松林を、風がザワザワと音を立てながら吹きわたる。
 奥社入口の標識が立つところで道を折れ、鳥居川の清流をわたり、大鳥居をくぐる。
 奥社の参道はこんなにも長い参道があるものかと思うほどに長い参道がどこまでも延びている。それも真っ直ぐまっすぐに延びている。しかも、そこはすっかり雪におおわれていた。
 これから奥社に向かう人と、参拝を終えて戻る人とが、はるかにつづく白い参道に点々と見える。参道わきのミズナラの木々の枝には、凍りついたような雪がへばりついている。歩くほどに参道の雪が深くなる。
 薄日が射したかと思うと、またかき曇り、風が巻き起こる。すると、一瞬、地吹雪となって雪が舞い上がる。
 かすかに随身門が見えてくる。参道の中間点にある随身門は、すっかり雪のなかであった。朱色に塗られた古びた入母屋づくりの茅葺きの門が、神域らしさをいっそうかもしだしている。 
 この門は、またの名を仁王門とも呼ばれているところからすると、かつて、三間二面の門の左右には仁王像が立っていたのだろう。そこに現在は神像が安置されている。
 今歩いてきた随身門までが参道の外苑にあたるとすれば、そこから先は神域の内苑ともいうべき場所である。
 門をくぐり、奥深い参道をおし進む。随身門から先は杉の巨木が並木をなして連なっている。
 慶長17年(1612)、時の幕府より千石の朱印地を賜ったことで、奥社を中心に院坊が集められたといい、その時、参道にクマ杉が植林され、それ以後、一山の威容を備えたという。
 クマ杉と呼ばれるだけあって、その樹姿はそそり立つように大きく、威厳に満ちている。夏の季節には鬱蒼たる緑のトンネルになるのだろう。歩むほどに、しだいに参道はのぼり道になる。
 随身門から奥社までの参道沿いには、かつていくつもの院坊や大講堂が建ち並んでいたという。今でも草むらを分けると、石垣や礎石を見つけることができる。が、今やあたりの景観は自然そのものに帰っているのである。 
 そう言えば、奥社のある神域一帯は、モミ、イチイなどの針葉樹やブナ、ミズナラなどの広葉樹が森をなし、原始林的な植生が保たれている貴重な山域であるという。神域は、そうした場所でもあるのだ。
 参道に沿うように小さな流れがある。講堂川である。多宝塔や奥社までの距離を示した町石を目にすると、やはり歴史ある参道であることを知らされる。
 のぼりの道がさらに勾配をます。靴が雪のなかにすっぽり埋まってしまう。直進していた参道が大きなカーブを描くようになる。 
 聞くところによると、この辺の参道は、かつてはもっと曲がりくねっていたらしい。それを証明するように、古道の跡が草むらのなかに見つかるという。
 やがて、参道がつま先上がりののぼりになって、大きく屈曲する。さらに、最後の石段を上がると、鳥居があり、雪をいただいた蛾々たる戸隠山を背負うように奥社があらわれた。
 奥のその果てについにあらわれた奥社。古びた社を想像していたのに建物が案外新しい。崖崩れにも耐えられるように社殿が石垣でかためられている。
 この奥社の起源について、前出の『戸隠山顕光寺流記』は次のような伝承を書き記している。 
 この地の開山の祖である学門行者という人が、修行のため飯縄山にのぼった。艱難辛苦のすえ山頂に達すると、あたりには霊気が満ちていた。すでに日没の頃であった。
 そこで行者は、仏法の繁栄を祈願して金剛の杖を投げた。すると杖は光を放って、百余町離れた九頭竜神が棲む岩窟上に落ちたという。まるで流星の落下のようである。
 杖を求めて、件の岩窟に至ると、九頭竜神があらわれ、この地に仏法をひろめる根拠地をつくれ、というご託宣があった。そこで、一堂を設け、戸隠山顕光寺としたという。これが現在の奥社である。
 伝承が伝えるように、かつて戸隠山は仏法の修行地とされた場所であった。なかでも天台派山伏の道場として、つとに知られる場所であった。
 のちに真言派も入り、両派の対峙で中世期をとおして隆盛をきわめ、戸隠三千坊といわれるまでになった。
 その後、戦国時代になって武田、上杉の領地争奪の争いに巻きこまれ、三十年もの間、一山をあげて隣村に避難するという不幸に見舞われるが、江戸時代には天台寺院として位置づけられ存続したのである。
 このように明治維新の神仏分離によって神社となるまで戸隠山は仏教の霊地として栄えたのである。
 ところで、この奥社の祭神は天手力雄命(あめのたちからおのみこと)であるという。天の岩戸を無双の力で押し開けたというあの有名な怪力の神さまである。
 天手力雄命が、天の岩戸をこの地に隠し置いたことから、戸隠と呼ばれるようになったという地名由来説もあるくらいである。祭神にするにふさわしい神さまであったのだろう。 
 が、学門行者の伝承にもあるように、むしろ戸隠の土地神は、九頭竜神社に祀られている九頭竜神なのである。奥社本殿に隣接して建つ古格の風貌をたたえる九頭竜社の創建は年月不祥と言われるほどに古いという。
 九頭竜神は豪雨を呼ぶ神として水神の権化とみなされている。水は農耕生活には欠かせない貴重なもので、それが九頭竜神の信仰に結びついたといえる。
 戸隠山が古来から霊地とされ、地元の人々の信仰の対象になったのは、そうした民俗信仰に支えられた結果であった。 
 戸隠という山がもたらす豊かな自然の恵みを、人々は神話や伝説のかたちに創生し、のちのちの時代に言い伝えてきた。
 いっとき、明るい日差しが戸隠の山々を白く輝かしたかと思うと、すぐさま霧とも雲ともつかないものが山の姿を深くおおい隠してしまっていた。

画像は戸隠奥社への参道

善光寺・・・不思議を秘める万民の寺 

2023-11-26 11:28:16 | 場所の記憶
               
 何かのたとえに、「牛にひかれて善光寺参り」と言われることがあるが、これは「他人に誘われて、知らないうちによい方向に導かれる」というほどの意味である。
 ところで、この箴言のいわれには、次のような言い伝えが残っている。
 善光寺近くに、ひとりの強欲で不信心な老婆が住んでいたという。ある日、その老婆が家の軒先に長い布を晒しておくと、隣家の牛がそれを角にひっかけて持ち去った。それを見た、件の老婆は、その布を取り戻そうと、牛を追って善光寺に駆け込んだ。すると、そこで仏の光明を得るという幸運に恵まれたというのである。じつは牛は善光寺の本尊である如来の化身だったという。
 この言い伝えは、善光寺が万民にとっていかに霊験あらたかな寺院であるか、ということを伝える内容である。
 その霊験の一端に触れてみようと、晩秋のある日、「牛にひかれて善光寺参り」のひそみに倣い、善光寺さんを訪れてみた。
 長野駅を出て、駅前の広場を直進すると間もなく、「善光寺参道」の標識が目に入る。善光寺まで一・八キロの表示が見える。そこを右折すると、まっすぐに北に通じる商店街が開けている。
 中央通りと呼ばれるその商店街は、朝の光を浴びて、開店前のひとときをゆったりと憩っている様子であった。そこが門前町とは容易には想像できない。地方都市にある、ごくありふれた商店街の風情であるからだ。
 しばらく行くと右手に刈萱山西光寺という寺を見る。表通りから少し奥まって建つその寺は、いかにも格式のありそうな本堂を構えている。ここは刈萱道心石童丸物語の縁起のある寺で、門前に掲げられてある蛇の供養塔の説明がおもしろい。それは実話のようなつくり話のような内容で、供養塔に大蛇と小蛇の戒名が刻まれているところなどリアリティがある。
 寺をあとにして、さらに進む。歩道にはときおり、善光寺から何丁目かを記した道標が立っている。そして、そこには、「そば時や月のしなのの善光寺」のような一茶の句がそえられている。
 通りの左右を眺めやると、仏具店や骨董品、民芸品を商う店、ミニ博物館などが散見される。後町、大門町などゆかしい町名があらわれ、古町の雰囲気がしだいにあふれてくる。
 やや通りに勾配がつきはじめる。足裏に伝わる快い感触を味わいながら、ゆったりと、足を踏みしめながら歩く。通りに沿って建てられている昔ながらの土蔵づくりや大壁づくりの家々の屋根が、階段状に連続してリズム感をつくりだしていて何とも目に快い。「ああ昔の町だな」という感慨がわいてくる。
 ところで、この門前通りの町並み景観は、いま現在も日々つくられつつあるという。
 たとえば、アーケードを取り払って建物の正面を露出させる。通りと建物との間の流れを復活させる。さらに、土蔵づくりの家を店舗に改造して、町並みに賑わいをかもし出すといったようにである。
 通りの左手に北野文芸座なる建物を目にする。歌舞伎座風のその建物が、周囲の景観を引き立てる。アールデコ調の洋風建築の旅館、和風造りの郵便局もある。やはりそば処である。九一そばとか、戸隠そばなどの暖簾を下げたそば屋が目につく。
 さらに通りは勾配を強くする。今たどってきた道をふりかえると、そのことがよく分かる。坂が下方にまっすぐに心地よく連なっているのが分かる。歩いている時はあまり感じなかったことである。
 やがて、「善光寺参道」の標識を目にする。そこは大門と呼ばれるところで、善光寺の境内はそこから先である。
 大門からつぎの仁王門までの参道の右手に小庵風の建物が建ち並んでいる。それは宿坊で、何々講御一行様と書かれた旗や看板が入口に掲げられている。
 なかでも智栄講という名が目立つ。聞けばこの講は、善光寺講のなかでも最大の規模を誇る講であるらしく、おもに東京の下町の中年女性が講員であるという。
 今しも旗をかざした斡旋人が、参拝を終えた講員の女性たちに声をかけながら宿坊に呼び込んでいるところである。 
 左手に大きな伽藍を構えるのは大本願と呼ばれる本坊のひとつだ。大本願の境内はそれほど広くなく、真新しい本堂が、菊の御紋を染め抜いた垂れ幕で飾られている。
 その本堂から、「身はここに、心は信濃の善光寺、救はせたまへ弥陀の浄土へ」の「善光寺和讚」を唱和する女性の声がもれ聞こえてきた。
 石畳の敷かれた参道を進むと、目の前に唐破風を張り出した仁王門が現れる。銅板葺きの屋根をいただく門は、左右に迫力ある立体像の阿吽の仁王像を従えている。躍動感あふれる像である。
 御開帳は令和4年の秋におこなわれているので、つぎのご開帳は七年後である。
 仁王門をくぐると、参道は突然賑やかな仲見世に変身する。このあたり元善町といい、道の左右、軒並みに、民芸品を売る店、りんごやあんず、野沢菜などの地元の産物を売る店、湯気をあげながら名物のそばまんじゅうを商う店、門前町らしく仏具を売る店など、まさに店が櫛比する状態である。
 団体客がガイド嬢の旗のもと、ぞろぞろとつき従って通り過ぎる。声高な関西弁が飛び交う。みやげ物の大きな袋を手にする人もいる。これから本堂をめざす参拝客、すでに参拝を終えた人たちが、せまい仲見世を思い思いの態で行き来している。まさに目の前にくりひろげられる光景は、「伊勢参り大神宮へもちょっとより」の物見遊山の人々の雑踏である。
 かつて、この仲見世の商店街には、呉服屋とか床屋とか袋物屋などの生活に密着した店が集まっていたという。それがいつの間にか、参拝客や観光客向けの店に変わってきている。それだけ遠来の客が多く訪れるようになったということだろう。
 おもしろいことに、関東の客と関西の客とでは、みやげの好みがちがうらしい。趣向のちがいといえばそれまでだが、何やら生活文化のちがいがそこに現れているようでもある。 
 また、春から夏場にかけてと冬場とでは客層が異なるために店頭の品種を替えるという。スキー客の多い冬場は、若者向けに包装紙も改めるらしい。たいへんな気の使いようである。
 全般的に団体客の多い場所柄、商売は、はじめの五分間が勝負らしい。道理で客の呼びこみをする店が多いはずだ。積極的にうってでなければ客を引き留められないということか。「昔はもっとのんびりしていたもんだよ」と地元の古老は懐かしむ。
 仲見世が途切れるあたり、目の前にひときわ、きわだつ山門が立ちはだかる。堂々とした重量感のある入母屋づくりのその山門は、二層のつくりで、高さ二十メートルほどあるという。その前に立って、しばらく山門の雄姿を仰ぎ見る。
 山門の手前、左手奥、池に架かる橋の向こうに門構えの立派な堂宇がひかえる。それは大本願と並び称される本坊のひとつ大勧進である。
 石段を上り、山門をくぐり、いよいよ本堂の建つ広い境内に足を踏み入れる。本堂に向かってまっすぐに、四角に切った石畳が連なっている。
 正面に建つ入母屋づくりの本堂は、立棟の拝殿と横棟の内陣がちょうど丁字形をなして結合した格好になっている。これは善光寺独特の様式で、見る者に豪壮な印象を与えるとされる。
 広い境内を思い思いに参拝客がうごめいている。記念写真をとる人、ガイドの説明に耳を傾ける団体客。そのなかを、鳩のひと群れが、明るい空にむかって羽音をたてて舞いあがってゆく。
 かつて霊場はおおむね女人禁制であった。そうしたなかで、女性も含めた衆生にあまねく光明を与えると言われる善光寺が、じつは無住の寺であるということを知る人は案外少ない。そして、男女の区別なく誰でも受け入れるがゆえに無宗派の寺であることも。
 確かに善光寺という寺(本堂)はある。が、じっさいにこの寺を管理しているのは、大勧進と大本願と呼ばれる二寺である。天台宗を宗旨とする大勧進と浄土宗を宗旨とする尼寺の大本願。この両者の間には、江戸時代からいろいろと確執があったと聞くが、現在は、そういうこともなく、日々交替で善光寺の務めを果たしている。
 それは毎朝おこなわれるお朝事ではじまる。本堂で経をあげるこの勤行は、善光寺名物のひとつになっている。それを目当てにやって来る参拝客をあてにして仲見世商店街は、朝の六時頃にはいっせいに店を開ける。 
 この毎朝の勤行とは別に、七年に一度執りおこなわれる御開帳と呼ばれる秘仏公開も、今や善光寺にとっては欠かせない一大行事になっている。
 この御開帳の期間、ふだんは秘仏として公開されることのない本尊を模した一光三尊阿弥陀如来が開扉される。別名、前立本尊と呼ばれるこの仏像の御開帳は、初日の開闢大法要を皮切りに幕を開けるが、なかでも盛大なのは中日におこなわれる庭儀大法要である。
 これは前立本尊を讃える回向として知られるもので、この日、本堂正面に建てられた回向柱を前にして、参道には朱色の傘が整然と立ち並び、香煙が立ちのぼる。これを見ようと三十万人を越す観光客が集まるといい、行事はこの日ピークに達する。
 この御開帳が盛大におこなわれるようになるのは江戸時代になってからのことである。記録によると享保15年から幕末までの百三十六年間に十五回おこなわれたとある。弘化4年(1847)の御開帳の時には、善光寺平を震源とする大地震に見舞われるというハプニングもあった。
 その後、明治、大正、昭和、平成の時代へと引き継がれ、今日にいたるのであるが、御開帳も時代の変化の波にさらされているのが実情である。
 ところで、御開帳の期間に限って衆生の前に姿をあらわすという善光寺の本尊・一光三尊阿弥陀如来とは、前述したように本尊のいわばダミーである。それでは、本尊そのものは、いったいどんな仏さまなのだろうかという興味がわく。
 ひとつの光背のなかに、阿弥陀如来、観音菩薩、勢至観音の三体の仏像が配されているところからつけられたという一光三尊阿弥陀如来。一説にはインドから渡来し、我が国最古と言われる仏像である。その本尊は、白鳳時代に開扉されて以来、開かずのまま今日にいたっているという。
 その本尊の姿を模したというご本尊御影を掛軸にして、善光寺では参拝客に頒布している。それを見ると、前立本尊よりもふくよかな仏像として描かれているのが分かる。
 ところで、この仏さまには秘められた受難物語がある。それはありがたい仏さまであるがゆえの災いといえた。 
 時は戦国時代のことだ。武田信玄と上杉謙信の勢力争いは、この地にもおよび、善光寺は両者の争奪の場になった。
 その頃、善光寺は武田方に属していた。そのため信玄は善光寺を戦火から守るという名目で、甲斐の甲府にこれを移している。現在、甲府にある善光寺はその時のものである。その後、武田氏が滅び、織田信長の時代になると、善光寺は岐阜に移される。岐阜の善光寺がその跡である。
 さらに織田氏が滅亡し、豊臣秀吉の代になると、こんどは京都の方広寺の大仏殿に移される。この間、いちじ甲府に戻されることもあったが、流転の旅は終わらなかったのである。
 ところが、秀吉が善光寺の本尊を京都に持ちこんでから間もなく、秀吉の身体がおかしくなった。かえりみれば、武田氏も織田氏も、ともに本尊を移したことで滅びたではないか。秀吉の近辺の者に、そうした思いがよぎったとて不思議でない。
 彼らは皆一様に祟りを恐れ、本尊を善光寺に返すべきことを秀吉に進言。そして、ついに、慶長3年(1598)8月17日、秀吉は本尊を善光寺に返すことを決意する。 
 それは、奇しくも秀吉がこの世を去る前日のことであった。善光寺本尊は、こうして四十四年ぶりに、晴れて故郷に戻されたのである。
 うす暗がりの本堂のなかに足を踏み入れてみる。ゆったりとした本堂内部は、天井が高く、優に十メートルはありそうである。堂内は外陣、中陣、内陣、内々陣と幾つかの空間に仕切られていて、いかにも奥深い印象を与える。正面奥には祭壇。奥所を感じさせる内陣から先は一段高くなっていて、そこに巻き上げられた朱の簾がかけられている。
 しっきりなしに参拝客がお賽銭箱の前に立ち、手をあわせ、なにごとかを祈願しては立ち去ってゆく。
 この本堂参拝にはじつは極めつけのコースがつくられている。それは内々陣の地下につくられた戒壇めぐりというものである。この戒壇めぐりは、いわば冥土への旅が擬似体験できる場所であるとされている。
 明治26年に発行された『長野土産』という案内書には、戒壇めぐりについて「内陣板敷の下にあり、東に入り口ありて段を下り、三度廻りて元の口に出るなり。其中は暗くして闇夜の如し。俗間に放辟邪見なるものは壇中必ず怪異に逢ふと言ひ伝へり」と記してある。
 これによると、参拝客は、そこで俗世間での日頃の行いを問いただされたことになる。怪異に逢うとは、まさに地獄体験の一端に触れるということを意味しないか。怪異に触れた参拝者は、そこで改めておのれの生き方を反省させられたにちがいない。
 ところで、今はご本尊の真下にある「お錠前」(鍵)に触れることが戒壇めぐりの目的になっている。それに触れると、如来さまと結縁され、極楽往生が約束されるという。どうやら闇の意味が薄れてしまっているようである。
 本堂を出て、明るい境内をひと回りしてみる。大峰山を背後にした善光寺の敷地は、善光寺平のやや西寄りにひらけ、なかなかの立地であることが分かる。そこは四季おりおりの、自然の移りが見事に映し出される場所なのである。
 門前町の風情を味わってみようと、参道裏の小路に分け入ってみた。せまい通りに沿って古風な民家や土蔵づくりの家、白壁をめぐらした造り酒屋、和菓子屋などが軒を並べている。善光寺七小路と呼ばれるほどに小路が多い。
 どの小路を歩いてもゆったりとした時が流れていた。土地の香りに満ちていた。しっとりとした生活のぬくもりが漂っていた。
 それは長い歴史が醸し出す町の味わいというものなのである。

 画像提供:善光寺