場所と人にまつわる物語

時間と空間のはざまに浮き沈みする場所の記憶をたどる旅

「江戸切絵図」を携えて、三ノ輪〜旧吉原〜浅草へ

2018-08-23 12:07:38 | 場所の記憶
 地下鉄日比谷線の三ノ輪駅で降り、まず、はじめに訪れたのは浄閑寺だった。
 町場の真ん中にそこだけ緑濃い一角があった。門をくぐり、あまり広くない境内に足を踏み入れると、そこはすでに異界のような雰囲気に満ちていた。投げ込み寺の名で知られるこの寺は、かつて新吉原に囲われていた遊女が死ぬと、引き取り手がない場合は、この寺に埋葬されたところからの名前である。それを伝える新吉原総霊塔なる記念碑が墓域の奥にひっそりと立っていた。この寺には、じつに2万人もの遊女の霊が祀られていると聞けば、尋常な気持ちではいられない思いがするが、総霊塔の地下室に骨壷が累々と積まれているのを目撃した時、その思いはいっそう現実感となってせまってきた。
 つぎに向かったのは、樋口一葉にゆかりある地、竜泉町。「切絵図」では、田畑のひろがる一帯になっているなかに、下谷滝泉寺町としるされた町人地の一角が見える。そこは吉原の遊郭地とは目と鼻のさきである。
 明治26年から1年ほどの間、この町に家族とともに住んで、吉原がよいの客を相手に雑貨屋をいとなんだ一葉は、この借家で「にごりえ」や「たけくらべ」の作品をつくりだしている。現在、その地には、旧居をしるした石碑が立っていて、付近には一葉記念館がある。記念館には一葉ゆかりの原稿、短冊、書籍、明治文献資料などが展示されている。
 そこをあとにして、しばらく行くと“おとりさま”で親しまれている鷲神社に出た。縁日でない境内は人影もなくひっそりとしていたが、毎年11月の酉の日ともなると開運、商売繁盛を祈願し、熊手を求める参拝客で黒山にひとだかりとなる場所である。
「切絵図」を覗いても、今やその頃の痕跡がほとんど失われているなかで、吉原遊郭があった道筋は、いまもほぼ原型をとどめているといってよい。“お歯黒どぶ”こそないが、その旧遊郭街に足を踏み入れる。
 まず、目にしたのは吉原弁天である。以前、この地にはひょうたん池とよばれる池があったが、いまやそれはあとかたもなく、せまい境内にはいくつもの記念碑が立っている。花吉原名残碑をはじめ、吉原の創始者庄司甚左衛門の記念碑、大門を模したという入口の石柱、遊女の慰霊観音堂などがある。
 旧吉原の中央通り、仲の町通りにあたる曲がりくねった道を北上すると吉原神社があらわれる。そこが旧吉原の南端、水道尻にあたる場所で、昔は遊郭街の四隅にあった神社で、遊女たちの信仰厚つかった神社という。
 道なりに仲の町通りを歩く。かつて引き手茶屋が立ち並んでいたといわれる紅燈の巷は、今はないが、かたちをかえてソープランド街になっている。客引きの男たちの前をすりぬけるようにして足ばやに進む。最近までオイランショーが催されていた松葉屋も店を閉じ、ひっそりとしている。そこが吉原大門跡であることは、知る人ぞ知るといったところか。
 ゆるやかなカーブをつくる、かつて五十軒ほどの外茶屋が並んでいたという衣紋坂をぬけ、ガソリンスタンド前の小さな見返りの柳を見たところで旧吉原探索は終了する。
 昼食後、旧日本堤(山谷堀)をたどって今戸、浅草へむかう。途中、2代目高尾大夫の墓がある春慶寺、江戸六地蔵のひとつがある東禅寺に寄り、今はない山谷堀(公園緑地になっている)に架かっていた橋の名が残るいくつかの橋を通りすぎて墨田川河畔に出る。そこが今戸で、そこからさらに、これも今や石碑のみに痕跡を残す芝居町をめぐり、墨田公園をぬけて浅草寺の境内にいたった。浅草寺は暮れの賑わいのなかにあり、江戸の時代もこのようであったのか、と思いをめぐらせた。

東海道と中山道が交差する宿場町、草津

2018-08-14 11:55:28 | 場所の記憶

 草津は江戸時代以来、東海道と中山道がまじわる宿場町として発展した。その宿場の状態が現在どうなっているのか以前から興味をもっていた。
 今では東海道のローカル線の一駅になってしまっているが、かつての街道筋は宿屋や茶店が並び立ち、さぞかし賑わっていたことであろう。
 そんな草津の駅に降り立ってみた。線路と交差するように、街の東西を走るメインストリートは、明るく閑静なたたずまいだった。街全体に高層ビルがないのがいい。空が広く、それだけに街が明るく感じられた。
 地方都市を訪れると、私はいつも、この街に住めるかどうかを私なりの基準で判断してみることにしている。買い物の便利さ、医療施設の充実、環境はどうか、気候はどうかなどを詮索してみるのだ。
 これらの基準からすると草津はとりあえず合格点を越えるだろうと思えた。駅内にある観光案内所のスタッフに、この街の住み心地について尋ねたところ、冬には雪も少なく、住み良いところですよ、という応えが返ってきた。
 東海道線の線路に並行するように中山道が南北に走るが、街中を通る部分は、今は一部、昭和のレトロな雰囲気の商店街になっていて、そこを抜けると、昔ながらの風情を漂わす店が散見される。
 かつての中山道の道幅は今も昔のままなのだろう。車のすれ違いままならぬほどに狭い。その昔ながらの通りに立てば何かが蘇ってくる。その感覚がたまらない。
 ところで、私はここで不思議な風景に出会った。中山道の上を川が流れていたからである。いわば、道は川底をくり抜いて、トンネルをなして通じているのだ。
 川はいわゆる天井川と呼ばれる川で、度々の洪水で川底に土砂がたまり、それが次第に川底を浅くしいった結果の姿らしい。
 聞けば、明治十九年に、今見るようなトンネルができるまで、中山道をたどって来た旅人は、川を渡っていたという。これから見ると、少しずつ堤防が高くなっていったさまが読み取れる。
 ところで、この草津川は数年前に廃川になり、細長い公園に変わり、現在は市民の憩いの場になっている。
 東海道と中山道が交わる、いわゆる追分には、常夜灯をそえた道標が立っている。そして、そこからすぐのところに、かつての本陣が残っている。
 道標には「右東海道いせみち、左中仙道」と刻まれている。その古色のたたずまいが、いかにも歴史を感じさせる。
 ここを通り抜けて行った旅人たちは皆この道標を横目にしながらこの先の旅の安堵を念じていたのかと思うと、取り残されたような道標が昔を語りかけているような気がした。
 格式のある門構えの本陣跡は、長い塀に囲まれていて、当時の威厳を残している。この本陣には忠臣蔵に関係する吉良上野介や浅野内匠頭、時代は下って皇女和宮やシーボルトなどが宿泊したと記録があるという。
 北から南下してきた中山道は、追分で東からの東海道に合することで尽き、東海道と合流する。
 私は街道から裏路地をたどってみた。決して綺麗とはいえないが、古い家並みが軒を並べる路地には、昔の風情があふれ出ていた。寺があり、格子のついた宿屋がある。
 大都会と比べてみて、この格差はどれほどのものだろうか、とふと考えさせられた。人間が生活するということの意味をこうした路地を歩いていると、あらためて考えさせられる。
風の音を聞きながら、草花を愛でながら、季節の移りを感じながら、そうして生きていることがいかに大事なことか、都会生活にどっぷり浸かっていると、皆、そんなことを忘れ去ってしまう。恐ろしいことだと思う。

哀愁漂う、おわら風の盆

2018-08-11 19:12:01 | 場所の記憶
                
 八尾の「おわら風の盆」を一度は見たいと思ってから、ひさしい時が流れていた。そして、その日がついにやってきた。
 9月1日からの3日間、いつもは静かな街は人であふれ、哀調をたたえた胡弓の音色と唄にのって、編み笠を目深にかぶった男女が踊りながらせまい街中を練り歩く。
                        
 夕刻6時過ぎ、JR富山駅から高山線に乗る。揺られること20分ほどで越中八尾駅に着いた。車内はおわら盆目当ての老若男女であふれていた。が、事前に乗車整理券が配られていたこともあって、ゆったり座ることができた。
 越中八尾駅を出てしばらく歩く。井田川を渡り、急勾配の坂をのぼると、もうそこは八尾の街中になる。八尾は坂の街なのである。
 坂の途中の、下新町にある八幡社の前では、すでに踊りがはじまっていた。ここで見た踊りの輪は、編み笠をかぶっていなかった。踊りはあくまで地元の人のためにおこなわれているようだった。一気に祭り気分が盛り上がる。
 そこを過ぎ坂をのぼりつめたところに聞名寺(もんみょうじ)という寺があった。八尾の街は、この聞名寺の門前町として発展したとされる。
 さらに、今町、西町と人であふれる狭い街中を行くほどに、幾組みもの町流しの踊りに出会った。地方(じかた)が奏でる胡弓や三味の音に乗せて、編み笠をかぶった法被姿の勇壮な男踊り、それと対照的に、同じく編み笠をかぶり、浴衣姿の華麗な仕草の女踊りがつづく。
 そして、渋い声で唄う、「二百十日に風さえ吹かにゃ 早稲の米食うて(オワラ) 踊ります 来る春風 氷が解ける うれしゃ気ままに (オワラ) 開く梅」の「正調おわら」がいやがうえにも情感を盛り立てる。
 町流しを探し求めるように歩き進んでいるうちに、いつの間にか、町の最奥部にある諏訪町に至った。そこは町流しのハイライトになる場所らしく、狭い通りの左右は、町流しを待つ見物客で埋め尽くされていた。
 私は通りの左右を見渡してみた。踊りばかりに気を取られていたために気づかなかったが、通りに面して、伝統的なつくりの、千本格子を備えた町家が建ち並んでいる。窓にはほの明るい灯りがゆれ、いかにも風の盆にふさわしい佇まいである。それが何とも懐かしく、快い。見ると、和紙を商う店、人形を扱う店、甘味屋があり、喫茶店がある。ここは「日本の道百選」に選ばれている通りなのである。
 ふと、見物客のなかに、清々しい浴衣姿の女性と、スーツ姿の男性が、ふたり寄り添って、なにやら語りあっているのが目に入る。その時、私は、ああ、『風の盆恋唄』(高橋治)の世界だな、と思った。空には弦月が、地上には虫の音がかさなりあいながら鳴いていた。
「逝く人も笠に隠れて風の盆」四万歩



かつて北前船交易で栄えた港町・岩瀬

2018-08-11 09:57:32 | 場所の記憶
 富山市の郊外、富山湾に注ぐ神通川の河口にある岩瀬という地区がある。この地は、幕末から明治にかけて北前船交易で栄えた港町だ。そこは富山駅北口から富山ライトレール富山港線という路面電車で約20分のところにある。
 東岩瀬駅という、瀟洒な駅に降りたち、少し歩くと、目の前に閑静な古町があらわれる。街道(旧北國街道)の両側に古風な商家風の建物が立ち並び、いかにも、ここがかって北前船で賑わった地であることをうかがわせる。
 ゆっくりと、通りの左右に注意を払いながら歩を進める。かつて、この通りには廻船問屋が立ち並んでいたというだけに、格式を感じさせる建物群が並んでいる。いずれも二階建ての町家で、東岩瀬廻船問屋型町家とよばれるものである。  
 なかに往時の廻船問屋の家屋をそのままに残している森家という建物があった。明治初年に建てられた、国の重要指定文化財になっている建物である。
 平入りの表構えは、屋根はむくりのついたコケラ葺き、一階はスムシコのはめられた出格子づくり。二階の卯建のついた壁にはこれまた横組みの竹製のスムシコ(格子)が設えられている。
 「むくり」というふくらみのある屋根は、雨水の流れをよくするようにつくられた日本の伝統的屋根のつくりのひとつである。そして、一、二階の窓のスムシコ。内側から外は見えるが、外からは内が見えない構造になっている。
 内部は前庭を備えた三列四段型で、家屋の裏手にある船着場に通じる通り庭(土間廊下)があり、それに沿って、表から順に母屋、道具蔵、米蔵、肥料蔵と続いていたが、今は、母屋と道具蔵だけが残る。オイとよばれる母屋(居間)は、吹き抜け天井にはむき出しの梁が行き交い、重厚な雰囲気を醸し出している。
 森家の家屋構造を見学して気づいたことがある。そこにつくられている独特の空間概念というものである。それは奥と隙間にあらわれている。人と物との関わりが合理的につながるような空間のつくりである。
 この森家だけでなく、馬場家、米田家、佐藤家、佐渡家、宮城家などといった旧家が今も残り、家の形を残したまま、カフェやギャラリー、土産物店などを営んでいる。
 時が止まったような界隈ではあるが、往時、この通りは人馬行き交う賑やかな通りであったのだろう。そんなことを想像しながら、店を覗きながら、そぞろ歩いていると、なんとも楽しい気分になってくるのである。
 街並みは町の歴史や文化を、そこを訪れる者に語りかけてくれる最良の表現体だ、ということをどこかで聞いたことがあるが、なるほど頷けることである。
 昔町はなぜか懐かしい。どこか床しい。











小京都、城端を歩く

2018-08-09 20:34:24 | 場所の記憶
   越中の小京都と呼ばれる城端(じょうはな)。その雅な響きの街が富山県下にある。地元の観光パンフレッドは「情華舞歩」と書いて城端を紹介している。
 あいの風鉄道、高岡駅から城端線に揺られること50分ほどで終点の城端駅に着く。
 駅から街中へは10分ほど歩くことになるが、街の北側を流れる山田川を渡り、御坊坂をのぼりつめたあたりから、町並がひらけてくる。
 すぐに右手に、いかにも荘厳なたたずまいの寺域が現れた。善徳寺と記された看板が見える。道を回り込んでから、さっそく山門から境内に足を踏み入れてみた。
 まず、目をひくのは、二階建ての山門(大門)である。浄土真宗の寺院によく見られる、豪壮なつくりで、二重門になっている。今から200年も前に建造された大門といわれ、城端のシンボル的存在になっている。
 この門については、つぎのような逸話が残っている。明治に起きた町の大火の際には、町衆が我が身も顧みず、この大門の防火につとめ、火災から守ったというのである
 大門をくぐると正面に本堂がそびえ立つ。入母屋造り、桟瓦葺きの大屋根が圧倒的である。本堂に連なって対面所、大納言の間などの建物が立ち並ぶが、いずれも由緒ある建物群だ。
 この善徳寺、正式な名称は、廓龍山城端別院善徳寺といい、蓮如上人が開基したものだという。
 次に訪れたのは、城端町史館蔵回廊だった。そこには見事な土蔵造りの建物群が残っていた。この土蔵群は、銀行家の野村利兵衛氏が自宅として建造したもので、のちに住宅は解体されたが、土蔵だけが展示施設として改修され、今に残る
 館内の見学ができ、伝統的な土蔵建築の様子が分かる。
 建物の裏側にあたる細道から眺める土蔵群の外観が実に風情があって心地よい。
 地図を眺めてみると分かるが、この地は、山田川と池川のふたつの川に挟まれた舌状段丘に展ける町であることが知れる。そこには、かつて城ケ鼻城という城があったという。
 さらに時代が下って、その城の跡地に浄土真宗派の善徳寺ができ、町は寺内町として発展する。
 寺内町というのは、敵の侵入を防ぐべく、防衛体制を整えた集落のことで、寺域の周囲に堀をめぐらせ、土塁をつくった。要害の地である城跡につくられたのも故なきことではなかったのである。
 この町にはまた、春と秋に行われる祭りがある。春は、5月14、15日の曳山祭。この祭りは城端神明宮の祭礼として行われる祭りで、情緒あふれる男衆の、「空ほの暗き東雲に木の間隠れの時鳥」と唄う、庵唄が流れる庵屋台の祭囃子に導かれて、華麗な曳山の行列が進む。春の到来を告げる祭にふさわしい祭りである。この曳山祭の様子は曳山会館という常設の施設で見物できる
 そして、秋のむぎや祭。これは毎年9月の14、15日の両日に行われるもので、哀愁を帯びた旋律にのったむぎや節と紋付袴に白襷の勇壮なむぎや踊りが披露される。
 ほかに、その向きの人には、芭蕉門人の八十村路通、各務支考などの句碑巡りや、町の南郊・水車の里での水車巡りが楽しめる

姉川古戦場を訪ねて

2018-08-07 12:12:41 | 場所の記憶
 時は元亀元年(1570)、織田信長率いる織田連合軍が浅井、朝倉連合軍と対峙し、その後激突した場所が姉川である。姉川は大河ではなく、東西に東から西に流れ落ち、琵琶湖に注いでいる。
 十一月中旬、私はこの合戦に関係する地を訪ねた。
 まず訪れたのが浅井家代々の居城があった小谷城。城は琵琶湖の東、伊吹山系が西に切れるその縁に位置する標高四九五メートルの小谷山の尾根沿いに築城された山城である。守りに堅固なことで知られ、日本五大山城に数えられている。
 私がこの城に関心を持ったのは、やはりこの城の悲劇の顛末である。織田信長による三年にわたる執拗な攻撃で、ついには落城し、城主は切腹自刃、妻子はかろうじて逃れるが、その顛末がまた数奇というほかない。
 今はただの山にしか過ぎないが、そこがかつての悲劇の山城となれば、眺めるこちらの眼差しも尋常ではない。かつての合戦の有様を想像し、そこでどれだけの人間たちが生死を争ったのかを思えば気分はおのずと重苦しくなるというものだ。
 雲に覆われた空の下、何か悲しみを背負ったような山の姿が痛々しい。
 戦国時代とはいえ、各大名が各々の領分に甘んじていれば何ごともないはずである。が、実際は、そうはいかなかった。誰かが天下統一の覇権を目指せば、まずはその隣国との争いとなる。覇権を押し出して攻める側と自国の領土を安堵させようと守る側。戦いは避けることができなかったといえる。
 織田信長は覇権を目指して湖東の地、浅井家の領土を狙っていた。これに対抗して浅井家は隣国朝倉家と同盟する。領土拡大の野望に走る信長を何とか食い止めなければならない。
 この争いには複雑な事情が絡んでいた。浅井家三代目当主・浅井長政の妻  そもそもこれは政略結婚であったが、こんな結果になるとは予期せぬことだった。政略結婚にあたり、浅井と織田は同盟を結び、その際、浅井の同盟者である朝倉への不戦を誓っていたのである。が、信長はそれを破り、三河の徳川家康と共に越前の朝倉方の城を攻め始めたのだ。
 近江を手中にしなければ天下を取れない。そのためには、まず朝倉氏の領土である越前を服従させ、それから浅井の領国を臣従させる。それが信長の戦略だった。
  長政は板挟みになった。縁戚を優先するか、同盟という義に従うか。長政は悩んだことだろう。が、信長に従えば、やがて自分の所領  かくて以後三年にわたる朝倉、浅井軍と信長連合軍との熾烈な戦いがつづく。そのなかで起きたのが姉川の合戦だった。
 元亀元年六月二十八日、太陽暦でいうと七月三十日。午前6時頃に戦闘開始。浅井軍は姉川の西から、織田軍は東から、姉川を挟んで対峙した。ほどなく、浅井・朝倉連合軍は姉川を渡渉して進撃するが、その陣形が伸びきっているのを見た信長配下の家康軍が側面からこれを攻撃。そのあたりで激戦が繰り広げられた。やがて
朝倉軍が敗走。続いて浅井軍も敗走した。結果的に織田・徳川側が千百余りの敵を討ち取って勝利。
 今も合戦場付近に残る「血原」(公園になっている)や「血川」という地名は往時の激戦ぶりをうかがわせ、背筋が引き締まる。今は広い田園地帯になっているその辺りを歩くと、姉川戦死者の供養碑や陣跡などを彼処に目にする。
 この姉川合戦ののち織田、浅井・朝倉の両勢力は拮抗を保ちながら年を経るが、三年後の一五七三年七月、織田軍に攻められた朝倉氏は越前の一乗谷の戦いで滅亡、同年八月、長政は小谷城が落城。自刃する。二十九歳の若さだった。
 信長の天下統一の野望に翻弄され、ついには命を落とした浅井長政、そしてその家族の離散と敗者の悲劇は今も大地に刻み込まれている。一方の勝者である信長も
十年もたたぬのち、みずからの命が断たれようとは神のみぞ知るである。
 それにしても古戦場跡は何故かこうも無常感を誘うものか。古戦場に立つと、芭蕉の「夏草や兵どもが夢の跡」ではないが、茫々とした寂寥感が迫ってくる。
 今は何ごともなかったような、ただの田園地帯であるが、往時、そこでおびただしい軍兵が血みどろになって戦い、ある者は倒れ、ある者は生き延びて、それぞれの人生を分けあったかと思うと、粛然たる気持ちになってくる。風の中に彼らの雄叫びが聞こえてくるようであった。