場所と人にまつわる物語

時間と空間のはざまに浮き沈みする場所の記憶をたどる旅

新撰組局長芹沢鴨を暗殺したのは誰れ?

2022-07-30 19:08:43 | 場所の記憶
新撰組局長芹澤鴨が誅殺されたのは文久三年(1863)9月18日のことだ。 
その日、久しぶりに島原にある角屋総揚げの宴会が催された。これは当時、京都所司代の任に当たっていた会津侯からお手当が出たということで行われたものだった。
生憎、朝から雨模様の日で、夜に入ってからは篠突くような雨が降りつけていた。昼頃になると、すでに隊士たちが三々五々角屋に集まりだしていた。
宴会がはじまるといつものように座は大いに賑わった。その日ばかりは誰も無礼講で呑み、騒ぐのが習わしだった。
なかでも、ことのほか局長筆頭の芹澤は機嫌よく酔い大声でわめき立てていた。その泥酔ぶりはいつになく目立つものだった。芹澤は酒乱気味で乱暴狼藉する性癖があったが、その日はそういうこともなかった。
酔いすぎたのか、芹澤は、宴会もそこそこに中座し、一足早く駕篭に揺られて屯所に帰ってしまった。珍しいこともあるものだと一同思ったが、その時は別段誰も気にとめる者はいなかった。
芹澤には平山五郎と平間重助という腹心がいた。彼らも芹澤に従って宴会の席を立って、屯所に帰っていた。彼らはいずれも水戸藩出身で、新撰組結党以来、芹澤と行動を共にする仲間だ。同郷ということで気の知れた者同士であった。
その日、夜も深更に及んだ時刻である。
泥酔した芹澤はお梅という女と同衾していた。実は、お梅という女は、芹澤が四条堀川の大物問屋菱屋の主人の妾を力づくで奪い取った女であった。それにも関わらず、不思議なことに、女は芹澤になついて、懇ろになっていた。
その日も夕暮近くなってお梅がやって来た。が、芹澤が不在だったので戻るまで屯所で待っていたのである。
腹心の平山と平間は共に馴染みの女を連れて帰り、隣あわせの部屋でそれぞれ寝ていた。平山は腰が立たないほど酔いしれていたが、平間はほとんど酔っていなかった。る。
そして同衾していた女たちはといえば、芹澤と一緒にいたお梅は芹澤とともに斬り殺された。が、平山と平間と寝ていたふたりの女は助かった。偶然か故意か運命が分かれたのである。
深夜の八木邸の庭先に四つの影が白刃を光らせて立っていた。そのうちのひとつの影が音もなく母屋の玄関から忍び入り、芹澤らが寝ている一番奥の部屋の唐紙をそっと開けて中の様子をうかがった。
それからしばらく立ってからのことである。庭で待機していた黒いかたまりが、互いに頷き合ったかと思うやいなや、玄関から芹澤たちの部屋に飛び込んでいった。 
芹澤を襲ったのは土方歳三と沖田総司だった。山南敬助と原田左之助は平山を斬った。隣室の平間はかろうじて闇にまぎれて逃走した。
芹澤グループが寝起きしていた家は八木源之丞邸であった。新撰組はこの八木邸と隣り合わせの前川荘司邸と南部亀二郎邸に分宿し、これらを屯所としていた。当時これら三つの屋敷は壬生屋敷と呼ばれていた。 
いずれの家も古くからの旧家で、壬生十人衆と呼ばれる由緒ある土地の郷士の家格をもつ家だった。
芹澤とお梅、それに平山と連れの女が寝ていた部屋は、玄関を入った奥の突き当たりの十畳間の部屋だった。二組の男女はそこに六丈屏風を立て、それを仕切りにして寝ていたのである。
高鼾で寝ていた芹澤は、寝所に立て回していたその屏風を蒲団の上に圧しかぶせられ、その上から串刺しにされた。泥酔していたためもあり、ほとんど抵抗する間もない状態であったが、必死の思いで立ち上がり、八木家族が寝ていた隣の八畳間の部屋に転がりこんで、そこで素っ裸の状態で絶命した。日頃から、用心のために枕元に置いていた刀掛けには、ついに手を触れずじまいだった。
平山は喉を突き刺され、首を落とされて落命した。隣室に寝ていた平間と連れの女は蒲団の上から一度は突かれたが、死んだふりをして危機一髪、逃げおおせた。その時の乱闘の刀傷が今も八木邸の鴨居に残ってい
お梅という女は目元のすっきりした、口元の引き締まった色白の美人で、年の頃は二十二、三であった。隊士の誰もがひそかに憧れていた女であった。
暗殺事件とはいえ、これは明らかに下手人が透けて見える犯行であった。日頃から芹澤鴨の狼藉な振る舞いに強い不満を抱いていた芹澤と同格の近藤勇と同腹の者たちが闇夜に乗じて芹澤暗殺に及んだのである。
が、表向きは誰とも知れない暗殺団が芹澤らを襲ったということにした。一方で、長州の人間がやったにちがいないという噂がさかんに流された。
翌日、近藤は事の顛末を伝える届け書を会津侯に提出した。そこには「賊が就寝中を襲い、芹澤ら三人を殺害」したと、あたかも不意の出来事のように書かれてあった。
芹澤と平山の葬儀が盛大におこなわれたのは9月20日のことである。八木邸の裏の蔵の前に棺を安置し、組の一同が参列して、盛大な葬儀が執行された。
虚飾の儀式ではあったが、近藤勇が組を代表しておごそかに弔辞を読み、その後、葬列は静々と埋葬地である壬生寺に隣接する壬生墓地に向かい、そこに埋葬された。
そもそも新撰組の結成は、これより先、旗揚げされた浪士組にさかのぼる。浪士組というのは、庄内藩浪人清河八郎が中心となって結成された、十四代将軍、家茂公警護のためにつくられた組織であった。幕府が音頭をとって結成させたものである。
清河は文久3(1863)年春、浪人230名ばかりを集めると、将軍滞在中の京に向け出立した。京に到着するや本拠を壬生の新徳寺に置いて、宿坊をはじめ付近の民家に分宿した。 
ところがそこでひと悶着が起きた。清河が当初の浪士組上京の目的を変更して、別の意外な目的をぶち揚げたからである。浪士組の目的は攘夷の急先鋒を勤めることにあるというのである。
これは明らかに幕府の意向を逸脱するものであった。 
この宣言に対して、近藤勇ら江戸試衛館道場出身者をはじめ、水戸藩出の浪士たち13名が反対した。彼らはたまたま八木邸に分宿していたグループだった。
結局、話し合いはまとまらず、清河派と、近藤・芹澤派は袂を分かつことになった。そして、近藤らは京に残り、「壬生浪士組」を結成、清河らは江戸にもどり「新徴組」を結成する。 
京に残った13名は、その年の三月、長文の嘆願書を時の守護職に提出。そこには、将軍家の警備のために身命を捧げたいという主旨が書かれてあった。嘆願は即日受理され、彼らは晴れて、会津藩主松平肥後守様お預かりの身となったのである。
彼らの喜びはいかばかりであったことか。ただちに八木邸の表門に、「松平肥後守御領新撰組宿」と墨書した大札がかかげられた。今まではただの浪人集団であったものが、今や公儀の公認を得た集団になったのである。
ただちに隊士募集がおこなわれた。13名で結成された新撰組は、すぐにその数を増していった。京大阪から、浪人たちがぞくぞくと集まってきたのである。
京の西郊にあたるこの辺りは、当時は壬生村とよばれる田園のたたずまいの色濃い土地であった。田圃がひろがり、ところどころに農家と郷土屋敷、それに古寺が点在し、田圃の外れに島原遊郭の灯りが遠くかすんで見えていた。
壬生寺縁起によると、昔から一帯は泥湿地で、建物を建てようにも基礎固めが容易ではなく、他の土地から土を運んで基礎を固めるという状態であったという。 
壬生の地名の起こりも、水生、転じて壬生となったとされる。その泥地を利用して壬生菜とよばれる野菜がつくられていた。
集落の中心には南北に坊城通りが通じていた。その通りに沿って、東側に前川邸、西に八木、南部邸が並び建っていた。
前川邸の前(北側)は一面、広々とした壬生菜畑が広がっていた。そして、屋敷の南側には、清河八郎ら浪士組が一時居候した禅宗の新徳寺が隣接していた。
前川邸の正門は長屋門の構えで北向きに開き、屋敷の西側は坊城通りに接していた。表門の前には東西に走る綾小路という名の通りが通じていた。
長屋門を入ると石畳があり、それを進むと玄関がある。勝手口はその左手にあり、そこから土間を突き進むと広い裏庭に出る。
庭には土蔵が2棟、ひとつは北向きに、もうひとつは西向きに建っている。その西向きの土蔵で、池田屋摘発(その結果池田屋騒動になる)のきっかけになった、長州人古高俊太郎が拷問された。
屋敷の周囲を取り囲むように、北側と西側に畳の敷かれた長屋が連なっていた。隊士が寝泊まりしていた場所である。
そして、北側の長屋左右のそれぞれには武者窓が、西側の長屋には小さな出入口があった。坊城通りを隔てて位置していた八木邸や南部邸へは、隊士がそこから出入りした。
坊城通りの西側にあった、今は菓子舗を営んでいる八木邸は、同じく長屋門が東向きに開き、母屋が南面していた。
隊士は、はじめ母屋の東に建つ離れに寝泊まりしていたが、いつの間にか芹澤らは勝手に母屋にも居座るようになっていた。
近藤や土方らが前川邸の長屋に寝起きしていたのに対して、芹澤をはじめ腹心の者は、八木邸に居候していた。身分と出身地の違いによる対立関係が住まいを分ける格好で鮮明になっていた。
芹澤暗殺後、新撰組は局長近藤勇、副長土方歳三の体制が確立し本営は前川邸と定められた。
この前川邸が本営になってからは、門前に看板をだすわけでもなく、そこが新撰組の屯所であるということさえわからなかったという。また、後の世に知られるようになる、緋羅紗の生地に白く「誠」という文字を抜いた隊旗を門前に飾ることもなかったという。
新撰組の任務というのは、京都守護職の配下として京の市中の警備であった。毎日のように20人ほどの隊士が一団となって、槍をかつぎ、市中を巡回した。 
その服装といえば、例の袖と裾に白い山形のあるぶっ裂き羽織を着た者はほとんどなく、皆めいめい勝手な服装をしていたという。
そうした一方で、厳しい隊中規則が定められていた。隊規の厳正化によって、近藤らの支配力を強めようとしたのである。
隊則には組織を守るために一にも切腹、二にも切腹とあった。結果、疑心暗鬼による切腹、あるいは斬死に追い込まれてゆく者があとを絶たなくなった。規律の強化による組織の団結力は、芹澤暗殺後十カ月後に起きた池田屋騒動において遺憾なく発揮され、新撰組の名を京洛の地に知らしめることとなった。とくに、隊長の近藤は、「近藤ひとたび出づれば、敵も味方も茫然として目を注ぐのみ」と評された。
前川邸を舞台に幾つもの切腹や斬死事件が記録されている。
新撰組の幹部で芹澤の仲間であった野口健司という人物が、何とも知れぬ理由で切腹させられたのは、坊城通りとの角に、今もある武者窓のある部屋だった。また、のちになって、生え抜きの隊士であり副長格の山南敬助が、脱走の罪で同じ部屋で切腹させられている。山南脱走事件は、新撰組の分裂のはじまりを象徴する出来事だった。
またある時は、前川邸の前の壬生菜畑で、ひとりの隊士が惨殺されたことがあった。隊中美男五人衆のひとりといわれた楠小十郎という若者で、その男は、長州の間者であることが発覚して処刑されたのである。
これら切腹ないし斬死事件で落命した隊士たちを埋葬した寺が前川邸の前の綾小路を東に少し歩いたところにある。 
その寺は浄土宗の光縁寺という寺で、今は家が建ち並んで見通せないが、当時は指呼の間に見えただろう。
そこは新撰組のいわば菩提寺のような寺で、現在知られているだけでも二十数人の隊士の墓が確認できる。前述の野口や山南、それに沖田総司に関わりがあるとされる沖田氏縁者と記された墓もある。
死者が出るたびに、葬送の列が屯所から出て、この寺の山門をくぐった。そして、本堂で法要が営まれたあと埋葬された。
ここに口碑が残る。 
寺の門前に、綾小路をへだてて大銀杏の木が聳え立っていた。幹がじつに太く、春になるとそこにゴイサギが巣をつくり、やがて、雛が巣立ち、付近を渡り飛んだ、というのである。
亭亭と空に聳え立つ銀杏の姿は、新撰組隊士たちも日々目にしたはずである。それは激動の日々を過ごす隊士たちにどれほどか心の安らぎとなったことだろうか。

それにしても芹澤鴨が暗殺された夜のことが思い出される。その日は大層な雨が降っていた。雨はしぶきを上げ、何もかも洗い流した。が、果たして、芹沢を暗殺することで、新撰組の汚濁は洗い流すことができたのだろうか。
こののち、壬生屋敷を引き払った新撰組は、幾度か屯所を変えながら、京洛の巷で血塗られた歴史を積み重ねていった。
が、やがて、時代の荒波に呑み込まれ、藻屑となって消えていったのである。


タイトル写真:八木邸内部

虎ノ門事件ー封印された大逆人の痕跡

2022-07-24 11:35:03 | 場所の記憶
荒川土手のほとりのとある寺に、大震災の余韻いまださめやらない大正12年(1929)の暮れ、議会開院式に臨席する途上の皇太子(のちの昭和天皇)のお召し車を狙撃した犯人、難波大助の墓があるらしい、というひそやかにひろまっていた伝聞を、千住に生まれ育った私が耳にしたのは、たしか中学生の頃だった。
 その噂は、東京という都会のはずれに位置する、千住という町にいつの頃からか、よどんだ空気のように漂っていたもので、それが子供の私にも、いつしかもたらされたのであった。
 それを耳にした時は、大人の秘密めいた世界の一端を知ってしまったような妙な気持ちにとらわれたものだった。
死刑囚の墓が自分の住む町の某寺にあるという事実は、その墓がどういう事件にかかわった人物のものなのか定かではなかったものの、私の興味をそそるに充分だった。
 私には、その噂はほとんど間違いなく、本当のことのように思えた。
 千住という町は江戸時代以来の古い宿場町である。古い歴史がある町ならば、その分だけ積もり積もった記憶が残されているはずだし、じっさいその痕跡が残ってもいる。古い寺社も散見されるし、旧街道沿いには、今でも宿場時代の家が残っていたりする。そんな時代の匂いがかすかではあるが今も漂っている。
 そんな町のどこかに難波大助の墓がある。それは、あたかも封印された禍事として、町の片隅にひそかに存在しつづけていたのである。が、その隠微な噂の真偽をたしかめるすべもなく、長い時が過ぎていた。そのうち、その噂のことも忘れ果ててしまっていた。
 それがふとしたきっかけから、その墓のことをふたたび思い出すことになったのである。
 ある日、千住の町はずれ(日の出町)、荒川の土手を背にする場所にある清亮寺という寺を訪ねる機会があった。
その寺に明治のはじめ、死罪人を解剖し、埋葬した墓があるということを耳にしたからである。
 私がその寺をぜひとも訪ねたいと思ったもうひとつの理由は、もしや、あの難波大助の墓もあるのではないか、と直感したからである。
 そこを訪ねてみると、たしかに解剖人の墓はあった。 
「解剖人墓」と刻まれた墓石には、明治3年(1871)8月、この地で解剖がおこなわれたこと、解剖された者はすべて死罪人であったこと、執刀者は日本人医師二人とひとりのアメリカ人医師であったことなどが記されていた。
 その墓は、解剖された11人の死罪人の霊をとむらうために明治5年12月に建てられたが、その後、破損がひどくなったため昭和42年6月新しく建立されたものであった。
墓石には11人の死罪人の名前が刻まれていた。
 武州埼玉郡柿木村、金蔵 28歳、
 武州二合半領加藤村、憲隆 27歳、
 武州中尾村、清兵衛 31歳、
 武州巨摩郡的場村、豊吉 30歳、
 常陸国布施村、文治 34歳、 
 下総国畔田村、治良吉 36歳、
 下総国八幡町、七九良 54歳、
 奥州棚倉村、粂七 30歳、
 下総国堀井村、久蔵 52歳、
 ほかに東京および武州小松川村出氏名不詳(碑面が摩滅していて)の2名
 年齢も出身地もさまざまであり、処刑された日付も明治3年8月から4年までと幅があることが分かる。これから見ると、11人の解剖は、時期を異にして、ひそかにおこなわれた、ということが知れる。
 のちに手に入れた資料によれば、解剖された死罪人はいずれも小塚原刑場で処刑された者たちで、その後、この寺に搬送され、そこで解剖に付されたのだという。
 明治になってからも小塚原が刑場として使われていたことが意外だったが、事実はそういうことだったのだろう。
墓石に刻まれた記録を目にして、私は、あらためて、彼ら罪人がどのような境遇の男たちだったのだろうか、と思いをはせた。
 大きく時代が転変する時代、罪を得て死罪人となった男たち。彼らひとりひとりには、曰く言いがたい事情があったのであろう。
 彼らの生きざまを私は知りたく思った。
 が、寺の住職に聞いてみても、墓石に刻まれた事実以外は、もはや、彼らを知る痕跡は何も残されていないということだった。
 ところで、虎ノ門事件の犯人難波大助のことである。
 冒頭でふれたように、議会開院式に臨席する途上の皇太子(のちの昭和天皇)のお召し車をステッキ銃で狙撃したのは、山口県出身の難波大助という25歳の無職の青年だった。
 事件のあらましは、事件当日の午後、すなわち、大正12年12月27日、ただちに宮内省から発表された。
 「今朝、摂政殿下議会院式に行啓の御途中、午前10時40虎之門跡に御差しかかり遊ばされたる所、一兇漢歯簿の右方よりお召車に対して発砲し、窓ガラスを破損せるも、殿下には些の御障りもあらせられず、そのまま開院式に臨ませられ開院式の勅語を賜はり、終了後御機嫌麗はしく、午後零時10分還啓遊ばされたり。凶漢はただちに逮捕せられたり」
 事件のあった「虎ノ門跡」というのは、現在の虎ノ門交差点のあたりで、かつて、そこに、江戸城の外堀に架かる虎の御門があったことからそう呼ばれていたものである。
 凶行があった当時、外堀はすでになく、そこは現在見るような交差点になっていて、東西南北に路面電車が通じていた。
 その日、お召し車(英国製スペシャル号)は赤坂の離宮を出て虎ノ門の交差点を通って国会に出向く予定になっていた。
 時速12キロで赤坂方面から走ってきたお召し車がちょうど虎ノ門交差点にさしかかった時であった。
 黄ばんだレインコートを着、ロイドメガネをかけた若者が、とつぜん、通りの向こう側(南側)から躍り出たのである。
 お召し車は、少しスピードを落としながら、今まさに交差点を左に曲がりつつあった。
 警備の警察官の間をすりぬけた男は、お召し車に接近するや、隠しもっていたステッキ銃を取り出し、発砲した。
 弾丸は車のガラスを貫通し線条痕をつけたが、そのあと砕けて車内に散乱した。よほど堅いガラスであったことがわかる。
 発砲したあと、男は大声で「革命万歳」を叫び、さらに車に追いすがろうとした。が、後を追ってきた警察官に取り囲まれ、袋だたきにあった。その後、男は目の前にある虎ノ門北公園(文部省の建つ敷地)に連れこまれ、麻縄で手足をしばられた。
 大正12年という年は、9月1日に関東大震災が起こり、東京が未曾有の混乱におちいった年だった。
 大地震後も、東京にはたびたび小さな地震が起きた。それは明らかに大地震後の余震であったが、東京市民は、ふたたび大地震が襲うのではないか、という不安におびえていた。そうしたさなかの出来事だった。
 山本権兵衛総理大臣を首班とする時の内閣は、ただちに緊急の閣議をひらいて、この事件の善後策を協議することになった。
 想定外の出来事が勃発したのである。内閣の動揺はたとえようもなかった。
 難波大助という青年は、無政府主義ないしは共産主義の思想を信奉する、いわゆる主義者で、のちに尋問調書のなかで彼は、皇太子を狙撃した目的について「社会革命を遂行する手段のひとつとして皇族にむかってテロリズムを遂行することは有効なりと認めた」ためと供述している。
 ひとりの青年を、このような大胆な行動に駆り立てたその動機について、当時、さまざまな憶測が取り沙汰された。
そのひとつに、あまりにも大胆すぎる、信じがたい行為であったために、その青年は精神に異常をきたしているのではないか、あるいは、青年が健康を害していた(軽い腎臓病)ところから自暴自棄の行動ではないかと推測する者があった。報道機関もそのように報道する傾向がつよかった。常識を越えた過激すぎる行為であったために、世人はそう理解することで納得しようとした。
 が、彼は異常者でも、単なる跳ね上がりでもなかった。当時の社会に満ちあふれていた不公平と混迷した日本社会を覚醒させようとして、社会主義思想にささえられたテロリストとして立つことを決意した揚げ句の果ての行動であった。
 社会主義思想とテロリストとは、本来、相いれないものであろうが、難波大助は、ふたつを結びつけ、皇室にその刃を向けたのであった。そこには思想的混乱があった。
 さらに、彼の過激な思想を育てた背景に、彼の生い立ち、なかでも父親(父は地方の名士であった)との対立があり、それが不幸の原因であった。
 虎ノ門事件の犯人として捕らえられた難波大助は、犯行後ただちに逮捕され、厳しい取り調べのすえ、十一カ月後の大正13年11月13日、傍聴禁止のもと秘密裡に開かれた大審院法廷で死刑の判決を言い渡された。
 「日本国民にあらざる日本国民滔天の大逆人の裁き」(大阪毎日新聞)はこうして結末をむかえたのである。
そして、判決言い渡しの二日後、死刑が執行された。判決から死刑執行までは通例、一週間ほどの間があるのだが、それは異例の早さといえた。
 死刑判決を申し渡された直後、大助はとつじよ立ち上がり、握りしめた両手を高くかかげながら「革命万歳、国際共産主義万歳」などとを叫んだという。この万歳三唱は、記事差し止めを通告していた当局の意図に反して、のちに世間に知れわたったため、大助への反感感情がさらに高まる結果をまねいた。
 死刑の執行は東京の市ケ谷刑務所でおこなわれた。
 新聞はこの事実を大々的に報道した。
 その時の感慨を、作家永井荷風は日記『断腸亭日乗』の11月16日付けのなかで次のように書きつけている。
 「都下の新聞紙一斉に大書して難波大助死刑のことを報ず。大助は客歳虎之門にて摂政の宮を狙撃せんとして捕へられたる書生なり。大逆極悪の罪人なりと悪むものあれど、さして悪むにも及ばず、また驚くにも当たらざるべし。皇帝を弑するもの欧州にてはめづらしからず。現代日本人の生活は大小となく欧州文明の模倣にあらざるはなし。大助の犯罪もまた模倣の一端のみ。洋装婦人のダンスと選ぶところかあらんや」「非国民」難波大助を非難する声が渦巻くなか、作家永井荷風のさめた眼差しが貴重である。
 執行後、ただちに家族あてに遺体ひきとりを打診する電報がうたれたが、親族会議の結果、家族からは「貴電拝見、死体引き取りがたく、貴所においてなにとぞ適当に御処分をお願いしたし」の引き取りを辞退する返事(あまりにもこの事件が世間に与えた影響の大きさを配慮したのだろう)があった。
 また、その日のうちに、自由労働連盟その他の団体に所属するという五人の男たちが遺体のひきとりに訪れたが、二十四時間経過していないという理由で断られ、揚げ句の果てに五人の男はその場で検束された。さらに、東京帝大法医学教室から解剖の申し出があったが、これも拒否された。
 東京帝大のこの申請は、大助の異常な行為が精神の障害にその因があるとささやかれた当時の風説を受けて、病理学的に解明しようという意図からであった。
 処刑後、難波大助の遺体の処置が問題になった。
 慣例であれば、東京雑司ケ谷にある監獄墓地に埋葬されるはずであった。が、事件が事件だけにそこに埋葬しては 
世間を騒がすことになると当局は考えた。あくまで隠密裡にどこか人知れずの場所に埋葬しなければならなかった。
 そこで白羽の矢が立ったのが東京郊外にある小管刑務所所属の囚人墓地であった。
 そこは、南足立郡綾瀬村弥五郎新田(現在は足立区千住日の出町)という地番で、刑務所のある地番と同じこの村は、荒川放水路(現、荒川)の貫通によって、ふたつに分断されていたのである。
 一帯は松林になっていて、墓地内の南隅にひときわ見上げるような老松がそそり立っていたという。
 四人の看守が見守るなか、青色の尻切り襦袢に股引き、草鞋履き姿の四人の囚人が、その松の下に幅1・5メートル、深さ約2メートルの大きな穴をシャベルで掘り、白木綿につつまれ、荒縄で十文字に縛りつけられた遺骸の入った座棺をそこに埋めた。
 以上は、難波大助の弁護人のひとり松谷與次郎氏が関係者から聞いた話として伝わるものである。
 その難波大助の墓が、偶然にも掘り起こされることになった。昭和45年3月からはじまった東武線の北千住~竹ノ塚間複々線工事にともない、囚人墓地が改葬されることになったのである。
 皮肉なことである。すでに忘却されたはずの難波大助の墓がふたたび世間の目にさらされることになった。
 その時の様子を知りたく思って、私はある日、かつて、その囚人墓地があったとされる場所を訪れてみた。
 そこで、近くに住むひとりの老女から難波大助の墓のことを聞くことができた。
 難波大助の墓があった墓域は、前述した清亮寺に隣接する場所であり、そこはかっこうの子供の遊び場で、子供たちがよくその敷地内を駆けまわっていたという。
 また、墓地の中には三基の墓が建っていて、周囲には椿の木があり、季節になると美しい花を咲かせたという。そして、春の彼岸と、秋の彼岸、毎年10月20日に行はれる獄中死没者法会のおりには、刑務所関係者の墓参がかならずあったという。
 さらに、墓が改葬された当時のことに話を向けると、  
 「いつだったかはっきり覚えていませんがねえ。東武線の工事がはじまったある日、刑務所関係の人が多勢やって来ましてね。墓の発掘作業にとりかかったんですよ。僧侶も見えまして、読経の声が聞こえてきました。テントが張られ、その中で、だいぶ長い期間にわたって作業がつづきましたよ。だから作業の内容は見えませんでしたが、なんでも、三百体くらいの遺骨が出てきたらしいですよ」 
 三百体という数は驚きだった。明治以来の刑死者や獄死者を埋葬した墓地であったのだから、そのくらいの数はあるのかも知れないが、かなりの数である。そのなかに難波大助の遺骨もあったのだろう。
 掘り起こされた遺骨はあらためて火葬にふされ、雑司ケ谷墓地に改葬(三基の墓石がそのまま移されている)されたという。
 雑司ケ谷墓地は、明治5年に東京府から共同墓地として指定されて以来、今日まで著名人の墓があることで知られている。その一角に、現在は法務省管轄になっている刑務所用の墓域がある。
 彼は、生前、獄中から父親に出した手紙のなかで、「けがれた骨は引き取られるようなことはないでしょうが、万が一そういうことをせられるなら、それは絶対に御断りして置きます。私は私の愛する東京の土となることが希望なのです」と遺言したが、はたして彼が希望したような形になったといえようか。 
 難波大助の魂魄はいまも重い錠がかけられ、捕らわれたままの状態にあるように私には思えたのである。








風布異聞

2022-07-18 11:06:20 | 場所の記憶

 風布と書いて「ふうぷ」と読む。この聞きなれない地名が秩父山中にあるということを知る人は少ないであろう。
 風布は現在地番でいうと埼玉県大里郡寄居町と秩父郡長瀞町にまたがって所在する集落で、今なお交通不便な山峽の地にある。
 地形的にいうと、そこは、秩父山中を北に流れ下った荒川が長瀞あたりで東に大きく向きを変え、さらに、下流の寄居町方面に流れ下ることによってできた、弧状の山域のちょうど中ほどに位置している。
 地図を眺めて見ても、その地がかなりの山奥で、地形も入り組んだ峻険な地であることが分かる。村の南端には釜伏山が控え、そこを源とする風布川が村落の東側を北流している。そして、川は七つの支流を集めながら荒川に注いでいる。 
 この風布川の水源に「日本(やまと)水大神」なる水神さまが祀られている。言い伝えによると、その昔、日本武尊が東征のおり、この地に立ち寄り、戦勝を祈願して、岸壁に剣を刺したところ、そこから冷たい水がこんこんとわき出たという。以来、ここの水は霊水とあがめられ、不老長寿、子授け、また、ある時は、旱魃時の雨乞いのもらい水として尊ばれてきた。
 風布は落人伝説が生きる場所でもある。
 かつて、寄居町のはずれには小田原北条氏が居を構えた鉢形城があった。が、その城は戦国の動乱のなかで落城し、その時、この城に立て籠もっていた武将たちが、一族郎党を引き連れて山中に逃れたという。いま風布を訪れると、家の祖先が北条氏の落人であったと語る村人が多い。しかも、彼らはそのことを誇り高く語る。
 史実によれば、鉢形城の落城はつぎのようなものであったという。
 鉢形城の歴史は古く、すでに平安時代の末期にはここに砦が築かれていた。平将門も利用したと伝えられる天然の要害は、のちに、地元の豪族であり、この地域を支配していた山内上杉家が所有することになった。
 実際に居城していたのは、山内上杉氏の家老職であった藤田康邦という武将であったが、その康邦が永禄年間に、その頃、小田原北条氏の頭領であった北条氏康の子の氏邦を養子に迎えることになった。
 以後、鉢形城は藤田康邦の養子になった北条氏邦が居城することになり、小田原北条氏の所有になる。その後、城は大改修され北関東の要としてふさわしい城に生まれ変わるのである。 
 鉢形城は、荒川がつくる扇状地の扇頂部にあたる場所に築かれた平山城であった。そこはちょうど河岸段丘の上にあたり、急直下する数十メートルもの段丘崖が天然の防壁をなしていた。
 その頃の鉢形領は、男衾(おぶすま)、秩父、榛沢(はんざわ)、那珂、児玉、賀美五郡の武蔵国北西部の広い地域に及んでいたといい、それはちょうど、荒川の中・上流流域から神流川(かんながわ)にわたる広い範囲であった。 
 鉢形城は、また、高松城(皆野)、天神山城(長瀞)、用土城(寄居)、八幡山城(児玉)などの幾つもの支城をもっていた。これから見ても、この城がいかに重要視された城であったかがうかがえる。
 時は戦国の力関係が目間苦しく変貌する時代である。北条氏はある時は武田信玄と同盟し、上杉謙信に対抗することがあったかと思えば、また、ある時は、謙信と組んで、信玄に敵対してもいる。
 やがて天下統一の機運が強まるなか、豊臣秀吉の北条氏討伐がおこなわれる。天正十八年(1590)六月十四日、東海道と中山道の両面から四万五千の兵をもって攻め入った豊臣軍は、鉢形城に立て籠もる北条軍三千五百を壊滅させる。大軍を前にして一カ月あまりの間、北条軍はよく戦ったが、ついに城は落城。この時、多くの北条氏の敗残兵が秩父の山中に身を潜めたという。
 今でこそ風布は山中に孤立したようにあるが、江戸時代、そこは寄居と秩父地方を結ぶ秩父甲州往還のほとりにある地として、さまざまな情報がもたらされ、都会文化の流入があった。
 その往還は、寄居から荒川をわたると、西に山中をたどり、途中、釜伏峠を通過する。釜伏峠は標高五八二メートルの釜伏山のふもとにある峠で、山中を登りつめた道は、ここに至ると以後なだらかな尾根道に変わる。街道はこのあと下り道になり、さらに西行して長瀞あたりでふたたび荒川をわたり、西谷(にしやつ)と呼ばれる秩父の西部地域に入る。
 江戸期になり、風布村は忍藩(おしはん)に属することになった。
 寛政四年(1792)の記録によると、田一町六反余、畑五二町余、屋敷九反余とあり、家の数八〇、人数三二六、馬二九、水車一、猟銃鉄砲を所持する者十三とある。
 村の生業は、主に農業、養蚕で、農閑期には男は炭焼き、女は機織りに従事した。村人は山峽に肩を寄せあうように集落をつくり、厳しい環境のなかで、つましい日々を過ごしていた。そうすることで、村落共同体を守りつづけてきたといえる。
 それを裏付けるものとして、この地に伝わる数々の民俗行事をあげることができる。
 例えば、長瀞町に属する蕪木、大鉢形、阿弥陀ケ谷耕地に伝わる、正月と盆の十六日に行われる回り念仏はその好例であろう。
 村人が庭先や村の小祠の前に集まり、太鼓や鐘を叩きながら、輪になって念仏を唱え、大数珠を互いに回してゆくという行事である。
 この行事は、そもそもは落ち武者の祖先を供養するためのものとされるが、それ以上に、日頃、共同体に支えられて生きているということ、互いの関係性の確認をするための行事であることは明らかである。こうした行事をとおして、村人たちは自らの共同体意識を高めあってきたのである。  
 村に伝わる数々の民俗行事は、また、彼らが、さまざまなかたちで、神々とのつながりを強く意識した生活を営んできたことをあらわしてもいる。
 神の宿る地として、そのシンボル的な存在になっているのが風布村の南方に控える釜伏山である。この山には村の産土神を祀る社(奥宮)が鎮座している。風布の民人にとって、そこは土地霊が宿る場所である。また、山のふもとの釜伏峠に近い場所には里宮とも言える釜山神社を祀っている。
 じつは、この神社は、明治初年の神仏分離によって、一時期、さらに麓の姥宮神社に合祀されたことがあった。にもかかわらず、村人の釜山神社に対する信仰は絶えることはなかった。のちになって再興され、今日に至っているのもそれを裏付けている。
 明治十七年十月三十一日、この風布村に異変が起こった。夜八時頃であった。釜伏山中で突如、一発の銃声が鳴り響いたのである。それはある行動を促す合図だった。以前からひそかに企てられていた動きが表面に躍り出たのである。
 風布村の蜂起はこうしてはじまったのである。だが、この動きはいちはやく警察に察知された。寄居警察署長名による次のような第一報がすでに浦和の警察本署にもたらされていたのである。
 「秩父郡風布村金尾村の困民等鳶道具を携へ、小鹿野地方へ向け押し出す模様あり。早く出張あれ。 明治十七年十月三十一日付 午后二時五分」
 その蜂起は高利貸を征伐するための行動だった。負債返済据え置きの農民の要求は、これまでも、ことごとく無視されつづけてきた。それに対する怒りが爆発したのである。
 高利貸を征伐するという行動は、当時、明治政府が推し進めようとしていた富国強兵政策に異議を唱えることを意味した。高利貸こそが明治政府の政策実行者であり、村の共同体を破壊する張本人である、という認識がそこにはあった。 
 風布村は江戸期以来、養蚕を生業にする農民が多かった。その養蚕により作り出される生糸の値段が、その頃、政府が進めていたデフレ政策によって大暴落していたのである。
 生糸の価格の下落は農民の借金を増大させ、農民を身代限り(今日でいう破産)の状況に追い込むことになった。この状況は風布村ばかりではなく、秩父一円の山村に共通していた。追い詰められた秩父の農民がいっせいに蜂起したのは十一月一日のことである。下吉田村(現吉田町)にある椋神社が集結の場所だった。世に言う秩父事件である。
 これに呼応して風布村の農民もいち早く行動に移っていた。荒川を越えた西谷にある椋神社に集合するには、前日の三十一日に風布を立たねばならなかった。八九戸の村からは五八人が参加した。その数は他の村と比較しても決して少ない数ではなかった。
 ここに後日譚が残っている。
 蜂起前日の十月三十一日、先発隊を指揮して山を下り、荒川に沿う下田野村で捕らえられた耕地オルグ大野福次郎という農民についてである。
 福次郎はのちに軽懲役七年半という刑を科せられるのだが、明治二十二年十月の大日本帝国憲法発布で恩赦になり出獄。病人のような状態で家にもどり、その後は、ほとんど寝たきりの日々であったという。だが、その彼が子供たちに言い含めたことがあった。畑仕事は、まず、蜂起で命を落とした家の仕事を手伝えと。そして、自分の家の畑仕事は夜、月明かりの中で行うように、と命じたという。
 その彼が、明治二七年四月十七日に行われた釜山神社の大祭に総代として祭りを取り仕切ることになった。
 体力が少し回復したのだろうか。福次郎は以前から熱心な氏人のひとりだった。彼にとっては、長い間、切望していた祭礼への参加であったろう。  
 ところが、祭典が執り行われているさなか、突然、福次郎の様態が急変、帰らぬ人となってしまったのである。
 この福次郎の死は、村の共同体を守るべく立ち上がり、時の政府に反抗し、その後、苛酷な人生を生きぬいたすえに、ふるさとの神に抱かれて従容と死んでいったひとりの男の死であったと、村人たちには受け止められたのである。     完
 







栃本・・・天空の里・秩父最奥の村

2022-07-02 11:02:11 | 場所の記憶
                
山里の原風景といったものがあるとすれば、そのひとつに秩父山塊の奥処に位置する栃本をあげることができそうである。
 満々と水をたたえる秩父湖を左手に眺めながら、国道140号線をさらに行くこと数キロ、前方の街道沿いに、肩を寄せ合うように建ち並ぶ低い家並みが見えくる。そこが栃本の集落である。
 現在の地番でいうと、秩父郡大滝村大字大滝字栃本となる。そこは白泰山から東に重々と連なる山稜の南斜面にあり、村の南側は深く切れ込んだ荒川がV字谷をなしている。
 それにしても、初めてこの地に足を踏み入れた時の印象は強烈だった。その特異な景観に思わず息をのんだものだ。平坦地がなく、尾根側から谷に向かって、急激に崩れ落ちる斜面ばかりの地である。それを目にした時に私は軽い目眩のようなものに襲われた。
 その体験は、ちょうど、傾きながら滑空する飛行機の窓から外界を眺めた時と似ていた。視線がぐんぐんと斜面を転がり落ち、左手の荒川の谷底に吸い込まれてゆくのであった。 
 かつてその地には関所(今も建物が残る)が置かれ、旅人のための宿が用意されていたということが嘘のように思える。最盛期旅人が往きかう街道は、つねに活気に満ちあふれていたといい栃本の賑わいはかなりのものだったらしい。それが今は、忘れられたように、ひっそりと息づく、ただの山村に変わり果てている。
 往時、栃本は、中山道と甲州路を結ぶ脇街道--旧秩父甲州往還のほとりにある交通の要衝であった。   
 今でこそ、屋根はトタンで葺かれ、そこらにある民家とさほど変わらぬ造りになっているが、賑わった頃は、栗の柾目板を葺いた旅籠が幾棟も並んでいたという。
 旧秩父甲州往還は、その名が示すように、中山道の熊谷宿から寄居、秩父、大滝村とたどり、雁坂峠を越えて甲州へと通じる街道であった。 
 とりわけ、秩父の山中に入ってからの、栃本〜雁坂峠間の四里四丁の険阻な道は難所とされ、旅人は大いに難儀したという。   
 この街道、じつは栃本を通り過ぎたところで、二手方向に分かれる。左すると、前記の雁坂峠越えの甲州路であり、右すると、十文字峠を越えて信州側に抜けることができた。
 いずれの道をめざす旅人も、とりあえず栃本で旅装を解き、そこで一泊したあと、甲州あるいは信州に旅立ったのである。
 この街道が開発されたのは、戦国の世の武田信玄の時代にさかのぼる。信玄は、このルートを甲州と武蔵を結ぶ最短距離の道として着目し、軍用道として街道の一層の整備に力を注いだ。以来秩父甲州往還は、武州、上州、甲斐、駿河を結ぶ重要路になったのである。
 この往還道は、江戸時代になってからも、文物の交流ルートとしてだけではなく、三峰詣、善行寺詣、身延山詣、秩父札所めぐりなどの庶民の巡礼道としても栄えた。
 さらに、明治になってからは、生糸が交易の中心になったこともあり、繭を扱う商人の行き来がさかんになった。
 秩父でとれた繭は、山梨県側の川浦に運ばれ、そこから、塩山に送られたという。そして帰りは、馬の背に甲州の米が積まれたのである。
ところで、この栃本に関所が設けられたのはいつ頃のことなのだろうか。
 記録によれば、竹田信玄が勢力を張っていた天文年間から永禄年間の頃であるとされている。永禄十二年には、信玄が小田原北条を攻めるために、この街道を使って秩父に侵入している。 
 時代は下って、江戸幕府が開かれたのちの慶長19(1614)年になって、関東代官頭の伊奈氏がこの関所を整備。それ以来,関所は、幕藩体制の防備の拠点という、重要な役割をになうことになる。
 幕府がここに、代々世襲の関守を常駐させ、つねに厳重な警備を怠らなかったというのも、そうした役割を重視したためであった。実際、この職務にあたった大村氏は、明治2年に関所が廃止になるまで、十代、250年という長きにわたって、その任についている。栃本の関所が、中山道の松井田、東海道の箱根の関とともに関東三関のひとつに数えあげられたのも、こうした位置づけがあったからこそである。
 当時の関所のあらましは、東西に関門を置き、街道の両側に木柵と板矢来を配するといったものものしいもので、関所は大村氏の役宅も兼ねていた。
 現在見る建物は、天保15年(文政6年焼失後再建)の建築で外観は木造平屋建て、切妻造り、瓦葺き、間口約13メートル、奥行9メートルという規模で、一見するとふつうの民家風の造りである。が、内部をのぞくと、東妻側に、番士が座る十畳の上段の間の張り出しがあり、西寄りには、板敷き玄関、それにつづく十畳の玄関の間がしつらえてあり、この建物が関守屋敷であることを改めて知らされる。
 関所には三道具、十手、捕縄が常備されていたといわれ、通行手形をもたない違法な旅人はすぐに捕らえられた。
 この関所の往来が許可されたのは、明け六つから暮れ六つの間であったといい、江戸初期の寛永20年の記録によると、ここを一日百人をこえる通行人が行き来したという。
建築材として伐採し、その一方で、山の一部は、地元の村民に伐採権として授
 実は、この関所の重要性は、そこが交通の要衝であったということばかりの理由ではなかった。
 江戸幕府はこの地域の原生林から採れる材木に当初から目をつけていた。原生林は御林山と呼ばれ、当時、この一帯は「東国第一の御宝山」と称されていたところであった。
 その規模は、実に東西二十里、南北四里にも及んだといい、大血川の上流地域から中津川の南西部にひろがる地域である。
 幕府がここに関所を設けた真の狙いは、この地域からの原木の盗伐を監視するのが目的であったからだと言われている。
 ところで、奥秩父の原生林と呼ばれるこの地の森林相は、どんな樹木からなっているのだろうか。よく知られているものを数えあげただけでも、ブナ、ミズナラ、カバノキ、シデ、カエデ、シラビソなどその種類は多い。 
 こうした豊富な樹木を、幕府はけられた。それは百姓稼ぎと呼ばれたもので、村人たちは、この山から伐れた材木を一定の目的に限ってなら使える権利を認められていた。 
 伐採された木材は、筏師の手によって、荒川の激流を下り、江戸の町に運ばれた。
 明治になり御用林は官林となるが、明治12年の取り調べ書によると、官林は七万二七八七町歩、村人の稼山が四万三六七二町歩余と記されている。意外に、稼山の持ち分が多かったことが知れる。
 元禄3年((1690)の記録によれば、村の人口は千八百余り。村人は、斜面の耕地を利用して、主に、麦や粟、稗、豆類、そば、芋などを生産し、あとは、幕府から与えられた御林山の一部(稼山)を共同使用して、そこからの林産物や山の幸で生計を立てていた、とある。
 耕作といえば、この地には、土地の人が「さかさっぽり」と呼ぶ、独特の耕地農法がある。傾斜の強い斜面に畑地をつくらざるを得なかった農民たちが考え出した耕法で、それは畑地を耕す際に、斜面の上から下に順次鍬を入れてゆくという方法である。 
 常識的には、こうした地形では、下から上に移動しなければ、身体の安定感がつくれないものである。それを、逆に、上から下に移動しながら、耕作するというのである。逆さ掘りと呼ばれるゆえんである。
 実際、下から上に移動しながら、土を掘り返してみると、土が下方に転がり落ちて、作業にならない。それでなくとも、石ころのまざりあった、いかにも地味の悪そうな耕地であるのだから。
 そこで、身体を斜面下方に向け、インガと呼ばれる八尺ほどもある柄の長い鍬を使って、土を掘り起こすという耕法を考え出したのである。身体の安定感を欠いたこの作業は、さぞかし、重労働であるにちがいない。第一、農作業に時間がかかる。腰は曲がるし、膝に力が入るという具合で、並の労働量ではないのである。
 それにしても、栃本の風景は、そこを訪れる人に、自然の苛酷さを改めて感じさせる迫力をもって迫ってくる。
 斜面にへばりつくように建つ民家のたたずまいといい、急峻な斜面を利用してつくられている耕地は全て畑で、他に焼畑も行われていたが、薄地のため不作が多く、猪・鹿・猿などによる被害も多いという。こうした地形に足を踏みしめて生きなければならない、村人の日々の生活の計り知れない困難さが想像される。
 そういえば、街道脇に一本の形のいい橡の古木が陽に輝いて、この地のランドマークのように立っているのを目撃した。
その存在感ある橡の木は、あたも、栃本の歴史を見守ってきた生き証人でもあるかのように葉を広げ、深い谷を見下ろしていた。
 今も栃本は「天空の村」と呼ぶにふさわしい、秩父最奥の耕地なのである。