江戸時代以来盛んであった大山詣でを実地体験するために、晩秋のとある日曜日、大山をめざした。
かつて江戸から大山詣でに出かけるには、幾つかのルートがあった。東海道を下り、藤沢から相州大山道を行く表ルート、これに対して、大山街道(矢倉沢往還)を厚木、伊勢原経由でたどるルート、途中、厚木街道から分かれて登戸経由で行く登戸ルート、それに中原街道をたどるルートなど幾つかの脇往還があった。
時代によって、これらのルートにははやりすたりがあったらしいが、天保2年(1831)の記録によると、夏のシーズン(7月26日~8月17日)だけでも10万人もの参詣客が訪れたというから、かなりの賑わいであったことが知れる。
ところで、現代の大山詣では、小田急線の伊勢原駅を起点にする。
駅を降りると、目の前にどっしりとした銅製の大鳥居が出迎えるように立っている。それは一の鳥居で、この町が古くからの門前町であることを教えてくれる。
が、大山詣では、そこから徒歩でたどるわけではない。駅前から出るバスに揺られて、まずは大山の麓まで行くことになる。さらに、そこから、ケーブルカーに乗ってお山の中腹にある下社に行き着く。これが一般の参拝客のたどるルートである。
門前町の風情に多少はひたってみたい気持ちがあった私は、バスを途中で降りて歩くことにした。
そこは、すでに寺社の門前を思わせる雰囲気がただよう場所であった。道に沿うように渓流が流れ、風情のある橋が架かり、川沿いには点々と和風の宿が並んでいる。宿はいずれもこぢんまりとしたつくりで、先導師旅館とか宿坊旅館などと記された看板がかかげられている。
先導師旅館というのも変わった名前である。先導師とは、大山参りを世話する御師のことで、先導師は自分たちの住まいを宿として提供し、お得意先の講の人たちの世話を一手に引き受けていたのである。このシステムは現代まで引き継がれていて、今でも夏のシーズンになると、先導師を頼って大山詣でをする講中がある。
ゆるやかな勾配をつくる参道は、ところにより桜並木になっていたりする。花の季節にはのどかな花景色が眺められるにちがいない。渓流の奥に小さな滝があるのだろうか、愛宕滝とか良弁滝などという名のバスの停留所を目にする。
良弁滝のバス停のところで左に折れ、とうふ坂という変わった名前のついた参道に分け入る。
そこは江戸時代に使われた参道で、とうふ坂という名は、大山詣でにやって来た参詣人が、手のひらに豆腐をのせ、それをすすりながら行ったところから由来するという。手のひらに豆腐をのせて、それを食べながら歩いたとは、ずいぶんせわしないことだと思いながら、ふと、この地の名物は豆腐であることを思い出す。
大山豆腐の名で知られる豆腐は、山間に湧く清水が育てた逸品である、と地元の人は言う。その豆腐は、今では懐石料理にまでなって高級化している。
とうふ坂の左右には講中の名を記した玉垣風の石柱がずらりと立ち並んでいる。大山詣でが「大山講」という名の信仰集団に、長い間にわたって支えられていたことが、それを見てもうなずける。
大山が修験者の山となったのは古くは平安時代の中頃といわれる。修験者は山に入り、そこに定住した。彼らは時代とともに数を増し、やがて集落をなすまでになる。
ところが戦国の世になると、彼ら修験者(山伏)集団は、時の権力者に利用されることになる。この地に勢力をはっていた北条氏が彼らに目をつけ、戦闘集団として利用したのだ。
だが、秀吉の小田原攻めで北条氏は滅亡。その結果、彼ら修験者の運命は暗転する。大山修験は解体され、以後は、山を下り、麓で参詣者の世話役に従事することになった。
のちになって、この御師の活動が大山信仰をおおいにもり立てることになるのだが、18世紀以降になると、信仰熱は広く一般大衆にまで浸透拡大することになった。特に江戸庶民には人気があった。年に一度の夏の開山の時期になると、押し寄せる参拝客で山はごったがえした。
この御師の活動はやがて関東一円にまで広がり、彼らは檀家の獲得にはげんだ。そして、檀家になった者たちを地域や職業別に分けて講となし、さかんに大山参詣を誘導した。大山講と呼ばれるものがそれである。
時代が変わり、明治初年の神仏分離令によって、彼ら御師は先導師という名に改められるが、大山講そのものは生き続けた。神仏分離令ののち、先導師たちは、従来の神仏あわせた大山信仰活動から、阿夫利神社だけの信仰活動にかかわるようになるのである。
とうふ坂の狭いだらだら道を上るほどに、今しがた、菅笠をかぶり、白い浄衣を身にまとい、腰に鈴をつけた信者の集団が「散華散華、六根清浄、大山石尊大権現」と合唱しながら現れ出たように思えた。
御師に引き連れられた一団は、江戸の町からやって来た商家の旦那連のようでもある。なかには女もまじっている。これから、大山寺、石尊大権現(阿夫利神社)とお参りし、大山山頂の上社(奥社)をきわめるのだろう。
阿夫利神社へは男坂か女坂をたどることになるが、途中にある大山寺に詣でるには、女坂を行かなければならない。
大山川に架かる千代見橋をわたると、こま参道と呼ばれる石段の参道が現れる。アーケード街になっているその参道は、軒並みにみやげもの屋が連なっている。
いかにも観光地のみやげもの屋風情の店では、おばさんたちが、大山名物の独楽や豆腐、伽羅蕗などを通りがかりの参拝客にすすめている。
参拝前だというのに、すでにみやげ物を買いあさる人がいる。やはり、気分というものなのだろうか。土地のみやげを手にしないことにはお山参りの気分が出ないとでも言いた気である。この「こま参道」のみやげもの店は大山詣での雰囲気を盛り上げる格好の添え物になっているようだ。ここは大山門前町の最前部にあたるところでもある。
大山川の渓流が美しく眺められる雲井橋という橋をわたり、いよいよ女坂に分け入る。これより先はかつて聖域とされたところである。
小さな流れをたどりながら山中に分け入ると、急にあたりが静かさに満ちる。野鳥がさえずるほかは、物音ひとつしない。
道を歩くほどに、女坂七不思議のひとつに行きあう。それは弘法水という、清水のわき出るところであった。曰くを説明する解説板が立っている。
しばらく行くと、また現れた。こんどは逆さ菩提樹という名のついた、根元にゆくほどに細くなる菩提樹の木であった。どういう理由でそうなったものか、たしかに不思議なことである。
山中にときおり現れる七不思議の事跡。それらはきっと、山中での無聊をまぎらすために演出されたものなのだろう。今の人はともかく、昔の人はこれでけっこう楽しめたのではないか。
このあたり、道の左右にいくつもの石碑を目にする。寺に施したお布施の金高を麗々しく彫りこんだ碑であったり、参拝記念を刻する碑であったりする。
大山寺は長い石段を上りつめたところにあった。いかにも歴史を感じさせる、装飾感のない建物は、質実剛健のたたずまいで建っていた。第一番霊場雨降山大山寺とある。一般には大山不動尊の名で知られている寺である。
不動の名は、ここの本尊が不動明王であるからで、関東三十六不動の札所のひとつにもなっている。この大山寺は、女坂の入口から15分ほど歩いたところにある。
法螺貝の音が聞こえたかと思うと、腹の底をつくような太鼓の音が山間に響きわたり、そのうち読経の声が本堂からもれてきた。いかにも山中の修行地を思わせる気があふれている。
女坂と言えば、大体、傾斜が緩やかで登るのに難儀しないようにつくられているものである。が、ここの女坂はかなりきつい。
なかでも、大山寺を過ぎ、無明橋をわたるあたりから急にきつくなる。急坂の階段がこれでもかこれでもかとつづく。女の名がついていても、決してあなどれないのである。
膝のあたりの感覚がなくなりそうになった時、ようやく石段が切れて、阿夫利神社下社の境内の前に出た。
阿夫利神社下社は山を背にした台地状の上に建っている。長い石段を上り、阿吽(あうん)の狛犬が並ぶ鳥居をくぐると、玉砂利の敷かれた明るい境内にいたった。
すでに大勢の人々の姿があった。神社の参拝者然とした人もいるが、ハイキング風の服装をした人が多い。現代の大山はすでに行楽の山になっていることが知れる。
明治以前の神仏習合時代、ここは石尊大権現と呼ばれ、大山信仰の原点ともなったところである。ご神体が自然石であると言われる石尊大権現。その霊験のほどとなると、どうも複雑多岐でひと言ではいえないようだ。この山には水の神、豊作の神、豊漁と海上守護の神、除災と商売繁盛の神などが棲んでいるらしい。
なかでも、雨、水にかかわりが強く、またの名を雨降山と呼ばれるゆえんである。水にかかわりのあるお山であることは、消防関係の団体やら、鳶の講中の名が玉垣や記念碑に散見されることでも了解できる。
ほとんどの参拝者は、通称下社と呼ばれる阿夫利神社下社を参拝して下山するのだが、なかには、さらに大山山頂にある上社をめざす人たちがいる。
本来の大山詣では、やはり山頂まで登り、奥社を参拝することで完遂したことになるのだろう。
案内板を見ると、頂上まで一時間半ほどであるという。登山としては、決して長い距離ではない。勇を起こして、さっそく神社わきの参(山)道のひとつをたどる。
すぐにきつい登りとなる。雨上がりの急勾配のぬかる道を登るほどに、すぐに息が切れる。それにしても道が悪い。昔の人はこうして皆登っていったのだろうか。
大岩がころがり、倒木が横たわる、かなり荒れた登山道をあえぎながら登ってゆくうちに、道端に小さな石碑を発見する。
碑面に「神田竜吐水講中 弘化二巳年正月吉日」とあり、側面に御師邊見民部の名が刻まれていた。ここが信仰の山であり、長い歴史をたずさえてきた山であることを改めて知らされる。
杉木立がつづく深山の気が満ちた山道をさらに登る。昼前だというのに、すでに下山する人がいる。周囲の植生がやや変化したなと思う頃、「奉献石尊大権現」と大字を刻する背の高い石碑を見る。そこは見晴らしのよい場所で、登山口から小一時間ほどのところである。4メートル近い高さの石碑は、宝暦11年(1761)に初建されたものという。石碑を囲む玉垣に「新吉原三業組合」の名がみえる。
じつは、そこは、今たどって来た参道とは異なる、もうひとつの参道(途中に雨乞の水汲場となる二重の滝がある)との合流点にもなっている。そこはちょうど奥社に至る参道の中間にあたるところであるらしく、幾人かの人が思い思いのかっこうでくつろいでいる。
気を取り直して、さらに先をめざす。
やや道が広くなったように思える。このあたりから登る人、下る人の行き来がさかんになる。そのたびに、互いに声をかけあって挨拶をしあう。同じ労苦を体験しているという共感が自然とそうさせるのだろう。
そうしたなかで意外の感にうたれたことがあった。大人でもかなりきつい山道を元気に登る幼児がいた。飼い主に連れられてせっせと登る犬がいる。家族連れあり、カップルあり、グループありで、それこそ老若男女が入り交じってのお山登りである。
しばらく行くと富士見台と呼ばれる展望地にたどりついた。その名のように富士の眺めがよい場所であるのだろう。生憎、その時は、雲が出ていて富士の雄姿は望めなかったが、奥社をめざす参拝者が、疲れた身体をいっとき休めるには、格好の場所である。別名、来迎谷ともいい、昔は茶屋もあったという。
あと頂上までは八丁ほどを残すばかりである。
いよいよ頂上が近い気配がする。ここで気をゆるめてはいけない、と自分自身に言い聞かせながら、さらに先を急ぐ。足元がやや心もとない。
なだらかになった道を歩むとやがて、明治34年建立の青銅づくりの鳥居が現れた。東京神田元岩井町大堀講中の名が刻まれている。銅器職人の講中が青銅の鳥居を寄進したのである。
最後の胸突き八丁をあえぎつつ登る。やがて、もうひとつ鳥居が現れ、それをくぐると奥社の境内に到達した。あちらこちらで歓声の声があがる。
奥社の境内はじつに狭いものだった。小さな社殿がふたつ、山頂の地形をうまく利用して建っている。境内を入ってすぐ左に三基の灯籠を目にする。灯籠には、東京谷中講中と刻まれていた。
赤いトタン屋根をのせた奥社は、千木を立て、鰹魚木を屋根に乗せてはいるが、いかにも山の社を思わせ質素である。千木が外削(垂直)であるのは祭神が男神(大山積命)である証拠だ。
大山は昔から雨乞いの霊場として知られていたところである。雨乞いの霊場となったのは、そこが雨の降りやすいところであったためである。それゆえに、昔の人は、そこに雨乞いの神さまが棲んでいると考えたのである。
私が山頂にたどりついた時も、今まで晴れていた空が急に暗くなり、深い霧につつまれることがあった。雨降山とも呼ばれる大山をあらためて実感したのである。完
かつて江戸から大山詣でに出かけるには、幾つかのルートがあった。東海道を下り、藤沢から相州大山道を行く表ルート、これに対して、大山街道(矢倉沢往還)を厚木、伊勢原経由でたどるルート、途中、厚木街道から分かれて登戸経由で行く登戸ルート、それに中原街道をたどるルートなど幾つかの脇往還があった。
時代によって、これらのルートにははやりすたりがあったらしいが、天保2年(1831)の記録によると、夏のシーズン(7月26日~8月17日)だけでも10万人もの参詣客が訪れたというから、かなりの賑わいであったことが知れる。
ところで、現代の大山詣では、小田急線の伊勢原駅を起点にする。
駅を降りると、目の前にどっしりとした銅製の大鳥居が出迎えるように立っている。それは一の鳥居で、この町が古くからの門前町であることを教えてくれる。
が、大山詣では、そこから徒歩でたどるわけではない。駅前から出るバスに揺られて、まずは大山の麓まで行くことになる。さらに、そこから、ケーブルカーに乗ってお山の中腹にある下社に行き着く。これが一般の参拝客のたどるルートである。
門前町の風情に多少はひたってみたい気持ちがあった私は、バスを途中で降りて歩くことにした。
そこは、すでに寺社の門前を思わせる雰囲気がただよう場所であった。道に沿うように渓流が流れ、風情のある橋が架かり、川沿いには点々と和風の宿が並んでいる。宿はいずれもこぢんまりとしたつくりで、先導師旅館とか宿坊旅館などと記された看板がかかげられている。
先導師旅館というのも変わった名前である。先導師とは、大山参りを世話する御師のことで、先導師は自分たちの住まいを宿として提供し、お得意先の講の人たちの世話を一手に引き受けていたのである。このシステムは現代まで引き継がれていて、今でも夏のシーズンになると、先導師を頼って大山詣でをする講中がある。
ゆるやかな勾配をつくる参道は、ところにより桜並木になっていたりする。花の季節にはのどかな花景色が眺められるにちがいない。渓流の奥に小さな滝があるのだろうか、愛宕滝とか良弁滝などという名のバスの停留所を目にする。
良弁滝のバス停のところで左に折れ、とうふ坂という変わった名前のついた参道に分け入る。
そこは江戸時代に使われた参道で、とうふ坂という名は、大山詣でにやって来た参詣人が、手のひらに豆腐をのせ、それをすすりながら行ったところから由来するという。手のひらに豆腐をのせて、それを食べながら歩いたとは、ずいぶんせわしないことだと思いながら、ふと、この地の名物は豆腐であることを思い出す。
大山豆腐の名で知られる豆腐は、山間に湧く清水が育てた逸品である、と地元の人は言う。その豆腐は、今では懐石料理にまでなって高級化している。
とうふ坂の左右には講中の名を記した玉垣風の石柱がずらりと立ち並んでいる。大山詣でが「大山講」という名の信仰集団に、長い間にわたって支えられていたことが、それを見てもうなずける。
大山が修験者の山となったのは古くは平安時代の中頃といわれる。修験者は山に入り、そこに定住した。彼らは時代とともに数を増し、やがて集落をなすまでになる。
ところが戦国の世になると、彼ら修験者(山伏)集団は、時の権力者に利用されることになる。この地に勢力をはっていた北条氏が彼らに目をつけ、戦闘集団として利用したのだ。
だが、秀吉の小田原攻めで北条氏は滅亡。その結果、彼ら修験者の運命は暗転する。大山修験は解体され、以後は、山を下り、麓で参詣者の世話役に従事することになった。
のちになって、この御師の活動が大山信仰をおおいにもり立てることになるのだが、18世紀以降になると、信仰熱は広く一般大衆にまで浸透拡大することになった。特に江戸庶民には人気があった。年に一度の夏の開山の時期になると、押し寄せる参拝客で山はごったがえした。
この御師の活動はやがて関東一円にまで広がり、彼らは檀家の獲得にはげんだ。そして、檀家になった者たちを地域や職業別に分けて講となし、さかんに大山参詣を誘導した。大山講と呼ばれるものがそれである。
時代が変わり、明治初年の神仏分離令によって、彼ら御師は先導師という名に改められるが、大山講そのものは生き続けた。神仏分離令ののち、先導師たちは、従来の神仏あわせた大山信仰活動から、阿夫利神社だけの信仰活動にかかわるようになるのである。
とうふ坂の狭いだらだら道を上るほどに、今しがた、菅笠をかぶり、白い浄衣を身にまとい、腰に鈴をつけた信者の集団が「散華散華、六根清浄、大山石尊大権現」と合唱しながら現れ出たように思えた。
御師に引き連れられた一団は、江戸の町からやって来た商家の旦那連のようでもある。なかには女もまじっている。これから、大山寺、石尊大権現(阿夫利神社)とお参りし、大山山頂の上社(奥社)をきわめるのだろう。
阿夫利神社へは男坂か女坂をたどることになるが、途中にある大山寺に詣でるには、女坂を行かなければならない。
大山川に架かる千代見橋をわたると、こま参道と呼ばれる石段の参道が現れる。アーケード街になっているその参道は、軒並みにみやげもの屋が連なっている。
いかにも観光地のみやげもの屋風情の店では、おばさんたちが、大山名物の独楽や豆腐、伽羅蕗などを通りがかりの参拝客にすすめている。
参拝前だというのに、すでにみやげ物を買いあさる人がいる。やはり、気分というものなのだろうか。土地のみやげを手にしないことにはお山参りの気分が出ないとでも言いた気である。この「こま参道」のみやげもの店は大山詣での雰囲気を盛り上げる格好の添え物になっているようだ。ここは大山門前町の最前部にあたるところでもある。
大山川の渓流が美しく眺められる雲井橋という橋をわたり、いよいよ女坂に分け入る。これより先はかつて聖域とされたところである。
小さな流れをたどりながら山中に分け入ると、急にあたりが静かさに満ちる。野鳥がさえずるほかは、物音ひとつしない。
道を歩くほどに、女坂七不思議のひとつに行きあう。それは弘法水という、清水のわき出るところであった。曰くを説明する解説板が立っている。
しばらく行くと、また現れた。こんどは逆さ菩提樹という名のついた、根元にゆくほどに細くなる菩提樹の木であった。どういう理由でそうなったものか、たしかに不思議なことである。
山中にときおり現れる七不思議の事跡。それらはきっと、山中での無聊をまぎらすために演出されたものなのだろう。今の人はともかく、昔の人はこれでけっこう楽しめたのではないか。
このあたり、道の左右にいくつもの石碑を目にする。寺に施したお布施の金高を麗々しく彫りこんだ碑であったり、参拝記念を刻する碑であったりする。
大山寺は長い石段を上りつめたところにあった。いかにも歴史を感じさせる、装飾感のない建物は、質実剛健のたたずまいで建っていた。第一番霊場雨降山大山寺とある。一般には大山不動尊の名で知られている寺である。
不動の名は、ここの本尊が不動明王であるからで、関東三十六不動の札所のひとつにもなっている。この大山寺は、女坂の入口から15分ほど歩いたところにある。
法螺貝の音が聞こえたかと思うと、腹の底をつくような太鼓の音が山間に響きわたり、そのうち読経の声が本堂からもれてきた。いかにも山中の修行地を思わせる気があふれている。
女坂と言えば、大体、傾斜が緩やかで登るのに難儀しないようにつくられているものである。が、ここの女坂はかなりきつい。
なかでも、大山寺を過ぎ、無明橋をわたるあたりから急にきつくなる。急坂の階段がこれでもかこれでもかとつづく。女の名がついていても、決してあなどれないのである。
膝のあたりの感覚がなくなりそうになった時、ようやく石段が切れて、阿夫利神社下社の境内の前に出た。
阿夫利神社下社は山を背にした台地状の上に建っている。長い石段を上り、阿吽(あうん)の狛犬が並ぶ鳥居をくぐると、玉砂利の敷かれた明るい境内にいたった。
すでに大勢の人々の姿があった。神社の参拝者然とした人もいるが、ハイキング風の服装をした人が多い。現代の大山はすでに行楽の山になっていることが知れる。
明治以前の神仏習合時代、ここは石尊大権現と呼ばれ、大山信仰の原点ともなったところである。ご神体が自然石であると言われる石尊大権現。その霊験のほどとなると、どうも複雑多岐でひと言ではいえないようだ。この山には水の神、豊作の神、豊漁と海上守護の神、除災と商売繁盛の神などが棲んでいるらしい。
なかでも、雨、水にかかわりが強く、またの名を雨降山と呼ばれるゆえんである。水にかかわりのあるお山であることは、消防関係の団体やら、鳶の講中の名が玉垣や記念碑に散見されることでも了解できる。
ほとんどの参拝者は、通称下社と呼ばれる阿夫利神社下社を参拝して下山するのだが、なかには、さらに大山山頂にある上社をめざす人たちがいる。
本来の大山詣では、やはり山頂まで登り、奥社を参拝することで完遂したことになるのだろう。
案内板を見ると、頂上まで一時間半ほどであるという。登山としては、決して長い距離ではない。勇を起こして、さっそく神社わきの参(山)道のひとつをたどる。
すぐにきつい登りとなる。雨上がりの急勾配のぬかる道を登るほどに、すぐに息が切れる。それにしても道が悪い。昔の人はこうして皆登っていったのだろうか。
大岩がころがり、倒木が横たわる、かなり荒れた登山道をあえぎながら登ってゆくうちに、道端に小さな石碑を発見する。
碑面に「神田竜吐水講中 弘化二巳年正月吉日」とあり、側面に御師邊見民部の名が刻まれていた。ここが信仰の山であり、長い歴史をたずさえてきた山であることを改めて知らされる。
杉木立がつづく深山の気が満ちた山道をさらに登る。昼前だというのに、すでに下山する人がいる。周囲の植生がやや変化したなと思う頃、「奉献石尊大権現」と大字を刻する背の高い石碑を見る。そこは見晴らしのよい場所で、登山口から小一時間ほどのところである。4メートル近い高さの石碑は、宝暦11年(1761)に初建されたものという。石碑を囲む玉垣に「新吉原三業組合」の名がみえる。
じつは、そこは、今たどって来た参道とは異なる、もうひとつの参道(途中に雨乞の水汲場となる二重の滝がある)との合流点にもなっている。そこはちょうど奥社に至る参道の中間にあたるところであるらしく、幾人かの人が思い思いのかっこうでくつろいでいる。
気を取り直して、さらに先をめざす。
やや道が広くなったように思える。このあたりから登る人、下る人の行き来がさかんになる。そのたびに、互いに声をかけあって挨拶をしあう。同じ労苦を体験しているという共感が自然とそうさせるのだろう。
そうしたなかで意外の感にうたれたことがあった。大人でもかなりきつい山道を元気に登る幼児がいた。飼い主に連れられてせっせと登る犬がいる。家族連れあり、カップルあり、グループありで、それこそ老若男女が入り交じってのお山登りである。
しばらく行くと富士見台と呼ばれる展望地にたどりついた。その名のように富士の眺めがよい場所であるのだろう。生憎、その時は、雲が出ていて富士の雄姿は望めなかったが、奥社をめざす参拝者が、疲れた身体をいっとき休めるには、格好の場所である。別名、来迎谷ともいい、昔は茶屋もあったという。
あと頂上までは八丁ほどを残すばかりである。
いよいよ頂上が近い気配がする。ここで気をゆるめてはいけない、と自分自身に言い聞かせながら、さらに先を急ぐ。足元がやや心もとない。
なだらかになった道を歩むとやがて、明治34年建立の青銅づくりの鳥居が現れた。東京神田元岩井町大堀講中の名が刻まれている。銅器職人の講中が青銅の鳥居を寄進したのである。
最後の胸突き八丁をあえぎつつ登る。やがて、もうひとつ鳥居が現れ、それをくぐると奥社の境内に到達した。あちらこちらで歓声の声があがる。
奥社の境内はじつに狭いものだった。小さな社殿がふたつ、山頂の地形をうまく利用して建っている。境内を入ってすぐ左に三基の灯籠を目にする。灯籠には、東京谷中講中と刻まれていた。
赤いトタン屋根をのせた奥社は、千木を立て、鰹魚木を屋根に乗せてはいるが、いかにも山の社を思わせ質素である。千木が外削(垂直)であるのは祭神が男神(大山積命)である証拠だ。
大山は昔から雨乞いの霊場として知られていたところである。雨乞いの霊場となったのは、そこが雨の降りやすいところであったためである。それゆえに、昔の人は、そこに雨乞いの神さまが棲んでいると考えたのである。
私が山頂にたどりついた時も、今まで晴れていた空が急に暗くなり、深い霧につつまれることがあった。雨降山とも呼ばれる大山をあらためて実感したのである。完