場所と人にまつわる物語

時間と空間のはざまに浮き沈みする場所の記憶をたどる旅

かつて大山詣で栄えた山(神奈川)

2023-10-29 12:00:00 | 場所の記憶
 江戸時代以来盛んであった大山詣でを実地体験するために、晩秋のとある日曜日、大山をめざした。
 かつて江戸から大山詣でに出かけるには、幾つかのルートがあった。東海道を下り、藤沢から相州大山道を行く表ルート、これに対して、大山街道(矢倉沢往還)を厚木、伊勢原経由でたどるルート、途中、厚木街道から分かれて登戸経由で行く登戸ルート、それに中原街道をたどるルートなど幾つかの脇往還があった。
 時代によって、これらのルートにははやりすたりがあったらしいが、天保2年(1831)の記録によると、夏のシーズン(7月26日~8月17日)だけでも10万人もの参詣客が訪れたというから、かなりの賑わいであったことが知れる。 
 ところで、現代の大山詣では、小田急線の伊勢原駅を起点にする。
 駅を降りると、目の前にどっしりとした銅製の大鳥居が出迎えるように立っている。それは一の鳥居で、この町が古くからの門前町であることを教えてくれる。
 が、大山詣では、そこから徒歩でたどるわけではない。駅前から出るバスに揺られて、まずは大山の麓まで行くことになる。さらに、そこから、ケーブルカーに乗ってお山の中腹にある下社に行き着く。これが一般の参拝客のたどるルートである。
 門前町の風情に多少はひたってみたい気持ちがあった私は、バスを途中で降りて歩くことにした。
 そこは、すでに寺社の門前を思わせる雰囲気がただよう場所であった。道に沿うように渓流が流れ、風情のある橋が架かり、川沿いには点々と和風の宿が並んでいる。宿はいずれもこぢんまりとしたつくりで、先導師旅館とか宿坊旅館などと記された看板がかかげられている。
 先導師旅館というのも変わった名前である。先導師とは、大山参りを世話する御師のことで、先導師は自分たちの住まいを宿として提供し、お得意先の講の人たちの世話を一手に引き受けていたのである。このシステムは現代まで引き継がれていて、今でも夏のシーズンになると、先導師を頼って大山詣でをする講中がある。      
 ゆるやかな勾配をつくる参道は、ところにより桜並木になっていたりする。花の季節にはのどかな花景色が眺められるにちがいない。渓流の奥に小さな滝があるのだろうか、愛宕滝とか良弁滝などという名のバスの停留所を目にする。
 良弁滝のバス停のところで左に折れ、とうふ坂という変わった名前のついた参道に分け入る。
 そこは江戸時代に使われた参道で、とうふ坂という名は、大山詣でにやって来た参詣人が、手のひらに豆腐をのせ、それをすすりながら行ったところから由来するという。手のひらに豆腐をのせて、それを食べながら歩いたとは、ずいぶんせわしないことだと思いながら、ふと、この地の名物は豆腐であることを思い出す。
 大山豆腐の名で知られる豆腐は、山間に湧く清水が育てた逸品である、と地元の人は言う。その豆腐は、今では懐石料理にまでなって高級化している。
 とうふ坂の左右には講中の名を記した玉垣風の石柱がずらりと立ち並んでいる。大山詣でが「大山講」という名の信仰集団に、長い間にわたって支えられていたことが、それを見てもうなずける。
 大山が修験者の山となったのは古くは平安時代の中頃といわれる。修験者は山に入り、そこに定住した。彼らは時代とともに数を増し、やがて集落をなすまでになる。
 ところが戦国の世になると、彼ら修験者(山伏)集団は、時の権力者に利用されることになる。この地に勢力をはっていた北条氏が彼らに目をつけ、戦闘集団として利用したのだ。
 だが、秀吉の小田原攻めで北条氏は滅亡。その結果、彼ら修験者の運命は暗転する。大山修験は解体され、以後は、山を下り、麓で参詣者の世話役に従事することになった。 
 のちになって、この御師の活動が大山信仰をおおいにもり立てることになるのだが、18世紀以降になると、信仰熱は広く一般大衆にまで浸透拡大することになった。特に江戸庶民には人気があった。年に一度の夏の開山の時期になると、押し寄せる参拝客で山はごったがえした。
 この御師の活動はやがて関東一円にまで広がり、彼らは檀家の獲得にはげんだ。そして、檀家になった者たちを地域や職業別に分けて講となし、さかんに大山参詣を誘導した。大山講と呼ばれるものがそれである。
 時代が変わり、明治初年の神仏分離令によって、彼ら御師は先導師という名に改められるが、大山講そのものは生き続けた。神仏分離令ののち、先導師たちは、従来の神仏あわせた大山信仰活動から、阿夫利神社だけの信仰活動にかかわるようになるのである。
 とうふ坂の狭いだらだら道を上るほどに、今しがた、菅笠をかぶり、白い浄衣を身にまとい、腰に鈴をつけた信者の集団が「散華散華、六根清浄、大山石尊大権現」と合唱しながら現れ出たように思えた。 
 御師に引き連れられた一団は、江戸の町からやって来た商家の旦那連のようでもある。なかには女もまじっている。これから、大山寺、石尊大権現(阿夫利神社)とお参りし、大山山頂の上社(奥社)をきわめるのだろう。 
 阿夫利神社へは男坂か女坂をたどることになるが、途中にある大山寺に詣でるには、女坂を行かなければならない。
 大山川に架かる千代見橋をわたると、こま参道と呼ばれる石段の参道が現れる。アーケード街になっているその参道は、軒並みにみやげもの屋が連なっている。
 いかにも観光地のみやげもの屋風情の店では、おばさんたちが、大山名物の独楽や豆腐、伽羅蕗などを通りがかりの参拝客にすすめている。
 参拝前だというのに、すでにみやげ物を買いあさる人がいる。やはり、気分というものなのだろうか。土地のみやげを手にしないことにはお山参りの気分が出ないとでも言いた気である。この「こま参道」のみやげもの店は大山詣での雰囲気を盛り上げる格好の添え物になっているようだ。ここは大山門前町の最前部にあたるところでもある。
 大山川の渓流が美しく眺められる雲井橋という橋をわたり、いよいよ女坂に分け入る。これより先はかつて聖域とされたところである。
 小さな流れをたどりながら山中に分け入ると、急にあたりが静かさに満ちる。野鳥がさえずるほかは、物音ひとつしない。
 道を歩くほどに、女坂七不思議のひとつに行きあう。それは弘法水という、清水のわき出るところであった。曰くを説明する解説板が立っている。
 しばらく行くと、また現れた。こんどは逆さ菩提樹という名のついた、根元にゆくほどに細くなる菩提樹の木であった。どういう理由でそうなったものか、たしかに不思議なことである。
 山中にときおり現れる七不思議の事跡。それらはきっと、山中での無聊をまぎらすために演出されたものなのだろう。今の人はともかく、昔の人はこれでけっこう楽しめたのではないか。
 このあたり、道の左右にいくつもの石碑を目にする。寺に施したお布施の金高を麗々しく彫りこんだ碑であったり、参拝記念を刻する碑であったりする。
 大山寺は長い石段を上りつめたところにあった。いかにも歴史を感じさせる、装飾感のない建物は、質実剛健のたたずまいで建っていた。第一番霊場雨降山大山寺とある。一般には大山不動尊の名で知られている寺である。 
 不動の名は、ここの本尊が不動明王であるからで、関東三十六不動の札所のひとつにもなっている。この大山寺は、女坂の入口から15分ほど歩いたところにある。
 法螺貝の音が聞こえたかと思うと、腹の底をつくような太鼓の音が山間に響きわたり、そのうち読経の声が本堂からもれてきた。いかにも山中の修行地を思わせる気があふれている。 
 女坂と言えば、大体、傾斜が緩やかで登るのに難儀しないようにつくられているものである。が、ここの女坂はかなりきつい。
 なかでも、大山寺を過ぎ、無明橋をわたるあたりから急にきつくなる。急坂の階段がこれでもかこれでもかとつづく。女の名がついていても、決してあなどれないのである。
 膝のあたりの感覚がなくなりそうになった時、ようやく石段が切れて、阿夫利神社下社の境内の前に出た。
 阿夫利神社下社は山を背にした台地状の上に建っている。長い石段を上り、阿吽(あうん)の狛犬が並ぶ鳥居をくぐると、玉砂利の敷かれた明るい境内にいたった。
 すでに大勢の人々の姿があった。神社の参拝者然とした人もいるが、ハイキング風の服装をした人が多い。現代の大山はすでに行楽の山になっていることが知れる。
 明治以前の神仏習合時代、ここは石尊大権現と呼ばれ、大山信仰の原点ともなったところである。ご神体が自然石であると言われる石尊大権現。その霊験のほどとなると、どうも複雑多岐でひと言ではいえないようだ。この山には水の神、豊作の神、豊漁と海上守護の神、除災と商売繁盛の神などが棲んでいるらしい。
 なかでも、雨、水にかかわりが強く、またの名を雨降山と呼ばれるゆえんである。水にかかわりのあるお山であることは、消防関係の団体やら、鳶の講中の名が玉垣や記念碑に散見されることでも了解できる。
 ほとんどの参拝者は、通称下社と呼ばれる阿夫利神社下社を参拝して下山するのだが、なかには、さらに大山山頂にある上社をめざす人たちがいる。
 本来の大山詣では、やはり山頂まで登り、奥社を参拝することで完遂したことになるのだろう。
 案内板を見ると、頂上まで一時間半ほどであるという。登山としては、決して長い距離ではない。勇を起こして、さっそく神社わきの参(山)道のひとつをたどる。
 すぐにきつい登りとなる。雨上がりの急勾配のぬかる道を登るほどに、すぐに息が切れる。それにしても道が悪い。昔の人はこうして皆登っていったのだろうか。
 大岩がころがり、倒木が横たわる、かなり荒れた登山道をあえぎながら登ってゆくうちに、道端に小さな石碑を発見する。
 碑面に「神田竜吐水講中 弘化二巳年正月吉日」とあり、側面に御師邊見民部の名が刻まれていた。ここが信仰の山であり、長い歴史をたずさえてきた山であることを改めて知らされる。
 杉木立がつづく深山の気が満ちた山道をさらに登る。昼前だというのに、すでに下山する人がいる。周囲の植生がやや変化したなと思う頃、「奉献石尊大権現」と大字を刻する背の高い石碑を見る。そこは見晴らしのよい場所で、登山口から小一時間ほどのところである。4メートル近い高さの石碑は、宝暦11年(1761)に初建されたものという。石碑を囲む玉垣に「新吉原三業組合」の名がみえる。 
 じつは、そこは、今たどって来た参道とは異なる、もうひとつの参道(途中に雨乞の水汲場となる二重の滝がある)との合流点にもなっている。そこはちょうど奥社に至る参道の中間にあたるところであるらしく、幾人かの人が思い思いのかっこうでくつろいでいる。
 気を取り直して、さらに先をめざす。
 やや道が広くなったように思える。このあたりから登る人、下る人の行き来がさかんになる。そのたびに、互いに声をかけあって挨拶をしあう。同じ労苦を体験しているという共感が自然とそうさせるのだろう。
 そうしたなかで意外の感にうたれたことがあった。大人でもかなりきつい山道を元気に登る幼児がいた。飼い主に連れられてせっせと登る犬がいる。家族連れあり、カップルあり、グループありで、それこそ老若男女が入り交じってのお山登りである。
 しばらく行くと富士見台と呼ばれる展望地にたどりついた。その名のように富士の眺めがよい場所であるのだろう。生憎、その時は、雲が出ていて富士の雄姿は望めなかったが、奥社をめざす参拝者が、疲れた身体をいっとき休めるには、格好の場所である。別名、来迎谷ともいい、昔は茶屋もあったという。 
 あと頂上までは八丁ほどを残すばかりである。
 いよいよ頂上が近い気配がする。ここで気をゆるめてはいけない、と自分自身に言い聞かせながら、さらに先を急ぐ。足元がやや心もとない。
 なだらかになった道を歩むとやがて、明治34年建立の青銅づくりの鳥居が現れた。東京神田元岩井町大堀講中の名が刻まれている。銅器職人の講中が青銅の鳥居を寄進したのである。
 最後の胸突き八丁をあえぎつつ登る。やがて、もうひとつ鳥居が現れ、それをくぐると奥社の境内に到達した。あちらこちらで歓声の声があがる。
 奥社の境内はじつに狭いものだった。小さな社殿がふたつ、山頂の地形をうまく利用して建っている。境内を入ってすぐ左に三基の灯籠を目にする。灯籠には、東京谷中講中と刻まれていた。
 赤いトタン屋根をのせた奥社は、千木を立て、鰹魚木を屋根に乗せてはいるが、いかにも山の社を思わせ質素である。千木が外削(垂直)であるのは祭神が男神(大山積命)である証拠だ。  
 大山は昔から雨乞いの霊場として知られていたところである。雨乞いの霊場となったのは、そこが雨の降りやすいところであったためである。それゆえに、昔の人は、そこに雨乞いの神さまが棲んでいると考えたのである。
 私が山頂にたどりついた時も、今まで晴れていた空が急に暗くなり、深い霧につつまれることがあった。雨降山とも呼ばれる大山をあらためて実感したのである。完




日光山ー山域にひそむ星辰信仰を探る

2023-10-09 00:05:01 | 場所の記憶
 日光山内に秘められる聖なるものの実体とはいかなるものか、それを実感しようと、一日、日光山中をさまよってみた。
 東武線の日光駅を降り、羊羹や湯葉を並べるみやげ屋や手打ち蕎麦屋などが建ち並ぶ、やや登り勾配の参道をしばらく歩くと、やがて、前方に鬱蒼たる緑におおわれた森があらわれる。
 朱塗りの神橋を左手に見ながら大谷川(だいやがわ)に架かる日光橋をわたる。清涼感がみなぎるのは、瀬音を立てて流れる大谷川の清流を眼下にしているせいかも知れない。これよりいよいよ神域に踏み入るのだという実感が強くわきあがる。
 あたりの樹木がはや色づきはじめている。橋をわたり終えると正面、繁みの中に蛇王権現を祀る小さな祠を見る。
 その昔、日光開山の祖とされる勝道上人一行がこの地を訪れた時に、大谷川の急流に立ち往生してしまった。すると、夜叉のよう な姿をした深沙(じんじゃ)大王があらわれ、手にした二匹の蛇を投げると蛇はたちまち橋に変じ、上人一行は川をわたることができた、という。いわゆる蛇橋(神橋)伝説である。
 勝道上人のことはのちにも触れるが、上人一行が日光を訪れ、大谷川をわたったのは、天平神護2年(766)のことだ。世は天平時代、道鏡が権勢をほしいままにしていた頃である。
 勝道上人が日光を開山したゆえんについては、ある時、夢のなかに、明星天子があらわれ、「汝はこれから仏道を学び、成人したら日光山を開け」と告げられたからだという。
 明星天子というのは、金星のことで、それを祀る星の宮という旧跡が、神橋のすぐ近くにある。勝道上人が日光開山後に祀ったものであるという。 
 無事、大谷川をわたり、山中に分け入ることができた上人は、そののち、とある場所で紫雲が立ちのぼるのを見て、そこに小さな草庵を結ぶことになる。現在、四本竜寺が建つ地で、日光発祥の地とされる場所である。
 今日、日光というと、ほとんどの人が東照宮を想起するのは自然のことだろう。それほどに、日光は徳川家康にゆかりの深い地となっている。が、日光は家康の霊廟がつくられる以前からすでに勝道上人伝説にみるように、聖なる地としてあったのである。家康がみずからの奥津城として、この地を選んだのも、その聖性ゆえであった。
 観光客のほとんどが東照宮の方角に足を向けるのを尻目に、道を右に折れ、人影のない緑陰の奥に分け入ってゆく。すぐに前方に本宮神社と四本竜寺の堂宇が見えてくる。
 古寂びた石段をのぼると、まず目にするのが本宮神社である。唐門、拝殿、本殿といずれも端正なたたずまいで建っている。忘れ去られたような建物だが、いずれも重要文化財になっている。貞享2年(1685)に建立されて以来の社殿という。
 この社が本宮とよばれるのは、男体山の奥宮、中禅寺湖の中宮祠に対する名称で、のちに東照宮の隣に二荒山神社本社(新宮)ができ、二荒山神社の別宮となったのちも呼称は変わらないでいる。それだけに由緒ある建物ということができる。
 陽をさえぎる境内は、まことに深奥という言葉がふさわしく、人影のなさが、それをいっそうきわだたせている。
 さっそく本殿の裏手に足を踏み入れてみる。
 そこは勝道上人がこの地にはじめて草庵を結んだという地で“ある。寄せ棟造りの小さな観音堂と朱塗りの三重の塔がひっそりと建っている。 
 勝道上人がこの地に草庵をもうけたわけについては、つぎのようないわれが伝わっている。
 上人一行がこの地にたどり着いた時のことだ。とつぜん前方に紫雲が立ちのぼり、紫雲はやがて、四つの雲にわかれ男体山の方角にたなびいていった。上人はこの体験から、この地が霊地であることを悟ったという。
 いまも、三重の塔の前には紫雲石とよばれる、四方が平たい石があるが、それが紫雲が立ちのぼったとされる古蹟である。四本竜寺の名の由来もその言い伝えからのものである。  
 四本竜寺をあとにして、柴垣がつらなる、いかにもリゾート風の雰囲気がただよう小道をゆく。 道は北に向かいながら、やがて小玉堂とよばれる小堂にいたる。緑の公園のなかに朱塗りのお堂が建っている。
 そのお堂は弘法大師(空海)にかかわる言い伝えがある。
 弘仁11年(820)、日光山内の滝尾の地で修行していた大師が、この地を通り過ぎたおり、そこにあった池から大小二つの白玉が浮かびあがるのを目撃したという。大の玉はみずからを妙見尊星(北極星)と称し、小の玉は天補星(北斗七星の輔星)と名乗ったという。ありがたく思った大師は、大の玉を妙見菩薩に見立てて中禅寺湖に妙見堂(現存しない)を、小の玉を虚空菩薩の本尊とし小玉堂を建てたとされる。
 この話は、勝道上人が明星天子の導きで日光開山をなしとげ、一方、滝尾神社を創建した弘法大師は北極星にまつわるエピソードに関係している。いずれも日光山域にひそむ星辰信仰をうかがわせるものである
 小玉堂をあとにし、リゾートホテルが散見される広い通りをゆく。このあたり、不動苑とよばれる一帯で、江戸時代、日光参詣に訪れた大名の宿所が建ち並んでいたところだという。そう言われてみれば、土地の風格といったものが漂っている。年をへた赤松が枝を伸ばし、石垣の残骸があちらこちらに残っている。
 せまい通りをたどってゆくと、生け垣にかこまれた別荘風の建物があらわれる。季節の花々が庭を飾っている。道を曲がったところで、大きな犬を二匹散歩させている中年の女性に出会った。
 挨拶をかわし、通り過ぎようとすると、その女性が、「時間があったら庭を見てゆきませんか。この先の木戸をくぐったところが私の家ですので、どうぞ勝手に見ていってください」とすすめる。
 意外な申し出だった。見ず知らずの人間に自邸の庭の観賞をすすめる純朴さに感激した。都会では考えられないことだと思いつつ、何やらすがすがしい気分に満たされたのである。
 東照宮社務所を左に見ながら、さらに北へ向かう。行くほどに左手、木立のなかに朱塗りの建物を見る。 
 山を背にした重層の屋根を置いた宝形造りの建物は開山堂といい、日光開山の祖、勝道上人が祀られている霊廟である。
 弘仁8年(817)三月一日、勝道上人は、この地で八十三歳の天寿をまっとうしたといわれる。その遺体は、上人の弟子たちの手により、開山堂の裏手にある仏岩谷とよばれる巌谷で荼毘に付されたのである。
 ちなみに、仏岩谷は東照宮のほぼ北に接するように位置している。地図を眺めると、勝道上人の墓所(いまは開山堂に改葬されているが)である仏岩谷と家康の墓所とが至近距離にあることがわかる。偶然とは思えない、ある意図が感じられるのである。
 のちの世になって、家康が日光という地にみずからの遺骸を祀るように遺言した、その背景には、日光が古来から聖地として格別の意味をもつ場所であり、風水思想から見ても理想的な位置にあることを認識していたことがあったであろう。いわば、家康の霊廟は、古来からの聖性に守護されてある、ということになる。
 このあたり、東照宮の社域の賑わいと比べると、まるで忘れ去られたように人影もなくひっそりとしている。
 開山堂の堂内には地蔵菩薩が安置されているというが、内部をのぞいても、それらしいものがうすぼんやりと見えるだけであった。裏手にまわると勝道上人之塔と台石に刻まれた五輪塔、それに添うように弟子たちの三基の墓が並んでいる。先に述べたように仏岩谷から改葬された墓である。
 その仏岩谷が切り立った断崖をなして開山堂のすぐうしろに迫っている。崖下に半身を土中に埋めて立つ六部天をかたどった石仏たちが、いまにも動きだしそうな面持ちで並んでいる。
 開山堂のすぐわきに、将棋の駒-それも香車-ばかりを並べる一間社流れづくりの小さな社を目にする。
それは観音堂とよばれる小堂で、香車の駒が奉納されているのは安産に霊験がある駒と信じられているからだという。香車は直進しかできない駒であり、それはすなわち安産につながるというもので、安産祈願に訪れた妊婦が、ここにある香車を借り受けて帰り、出産後に新たにつくった駒とともに返すという習わしになっている。
 “開山堂をあとにしてさらに奥所に足を踏み入れてみることにする。両側に杉の並木がつらなる石畳の道がえんえんと山手の方角につらなっている。
 それは、いかにも散策にふさわしい道で、かたわらに「史跡探勝路」の道標が立っている。その探勝路は空海にゆかりのある滝尾神社にいたるもので、「史跡探勝路」は日光観光協会の指定になるものである。
 奥域とか、奥所とかいう空間概念は、われわれに非日常的なものを想起させる。そこは神秘性がたちこめ、なにかそら恐ろしいものが潜在する場所としてイメージされる。それが山の奥であればさらに近づきがたい印象をあたえ、宗教性を帯びることになった。
 どこまでもつらなる長く細い参道をゆくほどに、ときおり路傍に史跡を見たりする。
 そのひとつ北野神社左手鳥居の奥に巨岩を背にしてあった。
 北野神社となれば、菅原道真公を祀った神社ということになるが、寛文元年(1661)、筑紫の国、安楽寺の大鳥居信幽という人物が、この地に勧請したものという。
 さらにゆくと手掛けの石と名づけられた大岩があり、そなれない大岩がどういうわけか存在していることが不思議がられ、のちの世になって神秘な伝説がつくられたのだろう。
 北野神社に参拝し、この大岩の破片を持ちかえり、神棚に供えると、文字が上達するという。
 苔むした石畳は昔のままの道なのだろう。いにしえ人の行き来した痕跡は、今や摩滅した石畳にわずかに残るばかりだが、“どういう人々が、どのような思いで、この石畳を踏みしめたのだろうかと思うと、ふと不思議な念にとらわれる。 
 人影のない参道はつきるともなく果てしなくつづくようだ。
 やがて、参道の両側にいかにも年をへた巨木の老杉があらわれる。急に周囲の景観が荘厳さを増したように思える。
 これら杉の巨木は、滝尾神社の十五代別当であった昌源という人が植えたもので、今でも昌源杉とよばれているという。以来、数多の杉が、五百年もの年輪を重ねているわけである。
 ようやく参道がつき、滝尾神社の神域に達したようである。
 道の傍らに、「大小べんきんぜいの碑」と刻した石の標柱を見る。それは、これより大小便を禁じる旨を告知した石標なのである。誰にでも読めるようにひらがなで書かれているために、かえって、生々しいものを感じる。今も昔も人間の所業に変わりはないということか。
 かつて、そこには楼門があり、下乗石が置かれ、木の鳥居が立っていたという。
 稲荷川のせせらぎをわたり、左手に古くから白糸の滝の名で知られる小さな滝を見ながら、少し石段をのぼると、平坦な地に出る。右手草むらになっている辺りが、平安時代から江戸の初期にかけて真言宗密教の道場があったところで、「日光責め」で知られる「強飯式」も、じつはここから発祥したという。辺りにいわくありげな岩があったり祠があったりする。いまは痕跡すら残らないが、唱和する読経の声が低く、重く、繁みの奥から聞こえてきそうでさえある。
 前方に石の鳥居があらわれ、その後ろに楼門が見え隠れする。老い杉が林立し、木立がいちだんと密度をます。
 鳥居に近づくと、参拝客が鳥居にむけて、石を投げつけているのを目撃する。見れば、鳥居の額束の真ん中に穴があいている。
 聞けば、その穴に小石を三つ投げてうまく通れば願い事がかなうという言い伝えがあるらしい。運試しの鳥居というニックネームがついているくらいだから、いにしえより、参拝客に親しまれた鳥居なのだろう。徳川三代、家光将軍の遺臣である梶定良という人物が寄進したものというが、遊び心のある人物像がしのばれる。
 重層入母屋造り、漆塗りの堂々とした楼門をくぐると、いよいよ滝尾神社である。入母屋造りの拝殿があり、三間社流れ造りの本殿とつづく。いずれも江戸期のものである。
 いかにも行き詰めたところに鎮座する社の趣がある。紅葉した木々にかこまれて、朱の社殿がいちだんと神々しく映る。
 弘仁11年(820)、弘法大師がこの地に修“行したおりに創建したと言い伝えられる神社である。
 古来から、山岳信仰の霊地として、二荒山神社が男体山の男神を祀るのに対し、滝尾神社は北方にある女峰山と赤薙山(二つの山を結ぶ鞍部の凹形)の二上山の女神(田心姫命)を祀る神社として信仰されたのであった。
 その後、二荒山神社の別宮として新宮(現、二荒山神社)、本宮(神社)とともに日光三社権現のひとつとされるが、それはのちの世になってのことだ。
 かつて、神仏混交の時代には、「院々僧坊およそ五百坊」あったとされるほど栄えたとされる神域は、いまはその面影もなく、ただひっそりと静まりかえっているばかりである。 
 本殿裏手にある三本杉からなる神木のある地に足を踏み入れてみた。弘法大師が修行のおり、天つ神であるところの田心姫命(天照大神の子)の降下があったとされる地。まれは滝尾神社の主神である田心姫命が御手を掛けた岩であると説明書きに書かれてあった。にわかには信じられない話だが、見た、樹間越しに女峰山が遠望できることから、女峰山の遥拝地としても特別な場所とされた。
 空は明るく晴れわたっているが、陽をさえぎる樹林の奥深く眼をこらしてみると、なにやら目に見えない妖気のようなものが立ち込めている気配がする。それはかすかに動くようで動かない。
 ふいに私の身体が重くなったような気がしたのである。 完

画像は滝尾神社