場所と人にまつわる物語

時間と空間のはざまに浮き沈みする場所の記憶をたどる旅

秩父事件 ・・・・山の民の反乱ーその2

2022-02-25 22:12:28 | 場所の記憶
 困民党軍が大宮郷に入った時、郡の権力機関はすでに事の成り行きを察知して姿をくらましてしまっていた。
 この事態は困民党軍の予期せぬことであった。警察をはじめとする権力側の抵抗に遭うであろうことをみな予測していたのだが、実際はそうならなかった。意外な感じだった。
 それでも、彼らは事前の打ち合わせどおりに、郡役所、警察署、裁判所、監獄、そして高利貸を次々と急襲していった。総指揮をとったのは副総理の加藤織平である。
 猟銃が放たれるのを合図に、攻撃目標への乱入が始まる。書類が引き裂かれ、投棄され、その一部に火がつけられる。冷えきった空気に包まれた、決して広いとは言えない市中の街道筋には、至るところに紙切れが散乱し、そのさまは、あたかも吹雪が舞うようであったという。
 壊された高利貸七軒、同じく火を放たれたもの三軒。いずれも貸金証書が破棄されたことは言うまでもない。
 一方、豪商を対象に、軍用金の調達が行われた。その際、総理田代栄助名義の革命本部発行の受領書が出されている。また、刀剣類を差し出すことや炊き出しの要求も行われた。
今や大宮の町はパニック状態であった。商家のほとんどが鎧戸を閉めてしまっていたため、町は暗さが一層きわだった。その中を怒号と歓声がどよめき、困民党の面々が黒い塊となってうごめいた。
 疾風のように通り過ぎた困民党軍の破壊行為が一段落すると、町は奇妙に静まりかえった。うっそうたる樹木に包まれた秩父神社の境内に彼らが退いていたからである。すでに東の空がしらみはじめていた。
 困民党軍は郡役所を革命本部と定め、分営を秩父神社近くの小学校に置いた。
 明けて十一月三日。その日は天朝節の日であった。
 夜が明けると、昨夜来の騒ぎがまるで嘘のように、軍団の動きが鈍くなっていた。明らかにひとつの目的を達してしまったあとの虚脱感がただよっていた。
 そんな時である。憲兵隊と警察の一団が群馬県側から西谷の奥にある城峰山に進出し、早晩、大宮郷に向かってくるだろうと“いう情報が困民軍本部にもたらされた。
 恐れていた事態が訪れたのだ。いよいよ本当の戦いがはじまるのだという予感が皆の頭をよぎった。今までの弛緩した気持ちが一気に消し飛んでいた。
 ただちに、それを迎え撃つために、軍団が三隊に分けられた。甲隊は西からの襲撃に備え、荒川の竹の鼻の渡しを守ること、乙隊は北からの攻撃に対して大野原で迎え撃つこと、そして、丙隊は大宮郷にとどまって防衛をかためること、が決められた。
 そうしたなか、しきりに虚報が飛び交っていた。虚報に躍らされて、軍団の統率が乱れはじめていた。当初、決めた各隊の配置にもかかわらず、なぜか、甲隊は小鹿野から下吉田方面へ、乙隊は大野原からさらに北上して皆野へと移動していた。 
 この間、激しい戦闘も行われていた。甲隊の別動隊五百名が、城峰山のふもとにある矢納村で、群馬方面からやってきた警官隊と衝突、警察側に大きな損害を与えたのもそのひとつである。また、皆野に進んだ乙隊は、憲兵隊と荒川の親鼻の渡し付近で戦闘をくりひろげた。憲兵隊はこの時、最新式の村田銃を使用して困民党軍を撃退している。
 四日に入ると、警察、憲兵隊、東京鎮台一中隊の態勢は一段と強化された。秩父に至るすべての街道が封鎖されたのである。
 一方、革命本部の置かれていた大宮郷はというと、そこは蛻の殻になっていた。大宮郷にとどまっていたはずの丙隊のほとんどが、いつの間にか皆野に集結していた乙隊に合流してしまっていたからだった。その空になった町では、赤鉢巻きの武装した町の青年層が、困民軍を迎え撃つための自衛隊を組織していた。
 大宮郷に警察と軍隊が進出してきたのは、それからほどなくしてからだった。同じ頃、東京憲兵隊の一個小隊も皆野から大宮郷に入っている。十一月五日のことである。
 すでにこの時、皆野に布陣していた困民党軍の本部は解体していた。総理田代は持病の胸痛の再発で一線から脱落、ほかの幹部たちもいずこともなく姿を消していた。
 この本部解体のあと、東京をめざして、秩父郡に隣接する児玉郡の金屋に進出した大野苗吉に率いられた一隊があった。彼らは東京鎮台兵との激しい戦いのあと壊滅した。また、菊池貫平に率いられて、信州へ転戦した一隊があった。
 彼らは神流川沿いの群馬県側の山中谷をぬけ、駆り出しを繰り返しながら、佐久の東馬流まで転戦し、さらに八ヶ岳山麓の野辺山原で力尽き壊滅した。東馬流には、今「秩父暴動戦死者之墓」と記された立派な碑が建てられている。
 警察は、十一月五日、早くも事件参加者の逮捕に乗り出した。大宮郷、小鹿野、熊谷、八幡山には暴徒糾問所が設けられ、参加者の厳しい取り調べがはじまった。
 後日、裁判にかけられた者の数が明らかにされた。それによると、埼玉県内の逮捕者三千六百十八名。内訳は重罪二百九六名、軽罪四百四八名、罰金科料二千六百四十二名というものであった。重罪中には、のちに死刑になる、田代栄助、加藤織平、新井周三郎、高岸善吉、坂本宗作、それに、逃亡して欠席裁判で死刑を言い渡された菊池貫平、井上伝蔵の二人が含まれていた。
 事件は終息し、秩父の山峽はもとの静けさに戻ったかのようであった。
 が、事件後、半年たった明治十八年六月二日付けの『東京日々新聞』は、秩父の現況を以下のようになまなましく伝えていたのである。
 「大小の別なく、人家は皆食物に窮し、特に中等以下の人民の惨状は実に目も当てられず・・・。大抵右の貧民は小麦のフスマ或は葛の根を以て常食とし、死馬死犬のある時は悉く秣場(まぐさば)に持ち往きて皮を剥ぎ、其肉を食ふを最上とす」 
 生活の困窮の果てに蜂起した秩父の農民の意思は、強大な権力の前に空しく潰えたのであるが、事件後、彼らの窮状は、さらに苛烈をきわめ、農民たちの肩に重くのしかかってきていたのである。
 それでもなお、蜂起に参加した秩父の農民たちは、その後も、幾重にも連なる山々の峰を日々見つめながら、困苦のなかで生活するしか手だてがなかったのである。そこで生をうけ、育った者にとって、秩父は決して捨て去ることのできない場所であった。
 最後に、欠席裁判で死刑を宣告された参謀長菊池貫平と会計長井上伝蔵のその後について触れておこう。
 菊池は信州に転戦したあと逃れぬき、甲府市内のさる博徒の親分の家に身を寄せているところを逮捕された。明治十九年秋のことである。その後、網走監獄に収監され、幾度かの恩赦をへて、十八年後の明治三八年二月、懐かしい故郷佐久に帰ってきた。白髪の長い髪と長い髭をたくわえた、この不屈の男はどんな思いで故郷の地を踏んだことだろう。その時、貫平五七歳。大正三年三月十七日に亡くなるまで、息子の家に身を寄せ、悠然と構える日々を過ごしたという。
 そしてもうひとり生きばてとされていた井上伝蔵。
 伝蔵は下吉田村で絹の仲買をする商家の主人だった。れっきとした秩父の自由党員で、東京の自由党本部に出入りするほどの人物だった。困民党には早くから加わり、幹部となっていた。
 困民党解体のあと、彼の行方はようと知れず、そのうち人々の噂にもならなくなっていた。
 大正七年六月二十三日のことである。北海道の野付牛村(現在の北見市)の自宅で、今や臨終の床にあるひとりの老人がいた。老人は家族を枕辺に呼び寄せ、ある重大な告白をなした。実は、自分は井上伝蔵といい、あの秩父事件の首謀者のひとりであると。妻をはじめ、これを聞いた家族は皆驚愕した。 
 事件後、伝蔵は新潟から船で逃れ、北海道に渡って、札幌郊外の石狩に住み着いた。そこで再婚し、子供をもうけ、新天地でひそかに生きていたのである。その気の遠くなるような長い歳月を伝蔵はどんな気持ちで過ごしたのだろうか。
 当初は、再起を図ったことだろう。しかし、世の中の動きは彼の思惑をこえて転変していった。ひっそりと市井に生きる伝蔵の、ささやかな楽しみは俳句をつくることだった。地元の結社にも参加し、「柳蛙」の俳号を名乗って句作を楽しんだ。「思ひ出すこと皆悲し秋の暮」の句など多数の句が今も残る。享年六五歳の生涯であった。  完

タイトル写真:映画「草の乱」のスチール写真より










秩父事件 ・・・・山の民の反乱

2022-02-19 08:55:59 | 場所の記憶
 秩父は山深い地である。いまでこそ、その深い山をぬって、舗装された山道が通じているが、その出来事が起きた時代には、どれほどか辺鄙な山峽であったことかと想像される。 
 地図を広げて見ると、秩父という地が荒川によって引き裂かれ、東西に分断されている盆地状の地域であることが分かる。その荒川は、山梨、埼玉、長野三県の分水嶺にあたる甲武信岳に源を発して東に流れ、さらに北流して、この盆地を貫いている。
 地元では、荒川を挟んで東側を東谷(ひがしやつ)、西側を西谷(にしやつ)と呼ぶ。なかでも、西谷と呼ばれる地域は、西方向に奥行き深く延びて、いずれも山深い地であることで知られている。
 大小の河川が谷を縫うようにしてめぐり、それら河川がつくる沢に沿って集落が点在する。集落は、よもやこのようなところにと思われる山の急斜面や、谷の底にうずくまるように、突然、その姿を現すのである。
 それら集落はどれも戸数が少ない。それは10戸、20戸の規模である。家々の前に広がる、わずかな空間に耕地がつくられ、互いの耕地を結びつける私道が行き交っている。せこ道と呼ばれるこの私道が、唯一、村人たちの交流の回路になっている。
 この秩父の山峡は、江戸時代から養蚕の盛んなところであった。耕地が少ない山民は、農作ではなく、蚕を飼い、生糸をつくるという生業で生活を成り立たせていたのである。主業は養蚕で、農耕山林の仕事はむしろ副業であった。彼らは生糸という商品を生産し商うという、小商品生産者的農民であった。
 明治15年頃のことである。当時の政府がおこなっていた緊縮政策(松方デフレ政策)によって全国的にデフレが吹き荒れていた。そうしたなかでおこなわれた、不換紙幣の整理と軍備拡張のための増税は、いっそうの金融閉塞という名の金詰まりをきたし、国民を苦しめた。養蚕による生糸の生産地として繁栄してきた秩父も例外ではなかった。 
 デフレによって、生産物である生糸の値段が大暴落したのだ。ために、養蚕農家は資金繰りに苦しみ、誰も彼も高利貸からの借金が嵩むことになった。ある者は一家逃散、ある者はみずからの命を断つという形で借金地獄から逃れる者が続出した。身代(しんだい)限りという名の生活破産が蔓延した。それは、昔からの生活基盤である共同体の崩壊を予感させた。
 一方、養蚕農家が困窮しているなか、高利貸だけが豊かさを享受していた。彼らは狡猾に農民に対した。 
 借金の累積に苦しむ農民には苛酷に、役所や警察にはあらかじめ手を打っておいて、不当な借金の実態を隠蔽した。養蚕農家の生活はますます逼迫していった。 
 こうした状況下にあって、農民たちも耐え忍んでばかりいたのではなかった。山村共同体の崩壊を目の前にして、彼らの危機感は募っていた。最初は数人の者たちの行動であったが、やがて、行動の輪はひろがり、自らを守るために組織づくりをはじめることになった。はじめは負債延期請願運動として、やがて、それがかなわぬと知ると、武装蜂起を視野においた困民党という名の組織を成立させた。
 組織づくりは山峽を縫い、耕地を駆け巡り、集落から集落へ隠密裡に何カ月にもわたって積み重ねられていった。
 その活動は容易ではなかった。困窮の極限にあってもなお現状に甘んじようとする農民を説得し、組織化するのは、まさに石に穴をうがつ努力に等しかった。
 が、やがて、彼らの努力が成果を結ぶ時がくる。山林集会と呼ばれる農民たちの集まりが、警察の目を逃れ、山林のあちこちで幾度も行われるようになるのである。
 状況はいよいよ切迫していた。一般農民がリーダーたちを突き上げていく。もはや直接行動に出るほかない、というのが彼ら一般農民の考えであった。リーダーの意志は蜂起へと向かっていく。
 山は燃えていた。
 蜂起の日は明治17年11月1日と定められた。そして、その日がやってくる。 
 晴れ渡った秋空が広がるその日の昼過ぎから夕刻にかけて、どの山峽の集落からも続々と農民たちが下吉田村にある椋神社目指して動きはじめた。椋神社は阿熊渓谷を東にみる森につつまれた高台にある。
 その数およそ3000名。いずれの農民も白襷、白鉢巻姿で、各々刀や火繩銃、竹槍を手にしていた。椋神社は秩父神社とともに秩父盆地を代表する神社である。
 黒々とした杉の木立にまざって、見事に紅葉した大きな銀杏の木々が立ち並ぶ境内には秋の気配が濃く漂っていた。
神社のまわりに広がる田の畦道につくられた稲架には、取り込みの遅れた黄金色した稲の束が並べられていた。あるいは、迫り来る冬にそなえて麦まきのさなかであった。 
そのような時である。武装した農民たちが下吉田村にある椋神社に集結したのである。 
 日が落ちると共に、武装農民の黒い塊が境内にあふれた。十四夜の月が煌々と中天に輝く夜の神社。今、その神社の拝殿前にひとりの黒い男の影が浮かびあがっている。
 それは総理にかつぎ上げられた田代栄助の小太りのずんぐりとした黒い影である。彼は大宮郷に住む信望の厚い博徒であった。
 まず、田代が困民党軍の役割を発表。つづいて、参謀長の菊池貫平が高らかに軍律五カ条を読みあげた。菊池は秩父の峠を越えて、はるばる信州の北相木から馳せ参じた、代言人を生業とする男である。菊池の政治目標はこの頃盛んであった自由民権の実現であり、そのための早期国会開設だった。彼は正式の自由党員でもあった。この時、菊池38歳。
 午後8時、鬨の声と共に、甲乙二隊に分かれた軍団は、竹法螺を吹き鳴らし、それぞれが小鹿野を目指して出発した。
 部隊は、鉄砲隊、竹槍隊、帯剣隊とからなる二列の長い縦隊をなして進んで行った。その規模といい、規律のとれたさまといい、それは百姓一揆とはいえない、まさしくひとつの意志をもった農民の軍団であった。 
 甲大隊の隊長は新井周三郎といった。彼は小学校の若き教師である。甲隊千五百名ほどの農民は吉田川をさかのぼり、巣掛峠を越えて小鹿野の町を西から急襲した。
 一方、乙大隊はこれまた教員の隊長飯塚森蔵の指揮のもと、椋神社をそのまま南に下り、下小鹿野に出、東から小鹿野町に入った。小鹿野の町を東西から挟撃する作戦であった。 
 小鹿野の町は街道筋に細長く延びる古い町で、町を背に低い山並みが連なっている。その山影が黒々と夜空を画し、町を一層暗くしていた。
 当時、小鹿野町は大宮郷に次いで大きな町であった。商家も多く西秩父の農村を後背地に控えて、高利貸が集まっていた。
 困民党軍が小鹿野を襲ったのは、そこに彼らが仇敵とする高利貸がいたからである。怒涛の勢いで町に入った農民軍は高利貸の家を打ち壊し、火を放った。が、そこには規律というものがあった。
 農民軍団は、その夜、町の北はずれにある木立に包まれた諏訪神社(現小鹿神社)に参集し、近在の農家に炊き出しを命じて露営した。 
 町は不気味に静まりかえる夜を迎えた。 
 翌二日早暁、困民党軍は隊列を組みながら黒い塊となって諏訪神社を出立する。隊伍の先頭には「新政厚徳」の大旗がひるがえっていた。
 目指すは郡都大宮郷(今の秩父市)である。鉄砲隊を先頭に、3000を越す農民軍は、長い隊列を組んで町の東方面に通じる街道を進む。進むうちに周辺の農民を巻き込みながら、隊列がふくらんでいった。
 やがて軍団は小鹿野原と呼ばれる桑畠の広がる地に出た。その畠道を縫って赤平川を渡った。そこからは、ややゆるい登りとなり、それを登りつめると小鹿坂峠に出る。
 時に午前11時。峠からは、目の前に武甲山の無骨な山容が立ちはだかるのが望めた。眼下には秋の陽を溶かして、荒川がのどかに流れているのが見え隠れする。
 その対岸には、黒い塊となった大宮郷の家並みが南北に細長く望める。農民たちの胸の内には、万感の思いがあふれていた。
 それは、今ようやく、自分たちの苦しみが何がしか解き放たれるのだ、という思いであった。新しい世界をこれから自分たちでつくってゆくのだ、という希望に膨らんだ思いでもあった。
 峠を少し降りたところに秩父札所二十三番の音楽寺がある。黒い軍団はそこにも群がっていた。皆が厳粛な気分に満たされている、その時であった。音楽寺の鐘が力をこめて打ち鳴らされた。
 それはあらかじめ申し合わせておいた大宮郷へ突入するための合図であった。鐘の音は高らかに、響きのある音色を、澄みわたった大気のなかに溶けこませながら流れてゆく。 
 期せずして、勝鬨の声があがる。誰の胸の内にもはち切れんばかりの怒りがこみ上げていた。
 歓声をあげながら、彼らは音楽寺から荒川に下るつづら折りの狭い山道をいっせいに駆け降りて行った。
 秋色濃い荒川の河川敷を目の前にして、誰もが一気に川を渡るつもりでいた。荒川の水嵩が、人が歩いて渡れるくらいになっていることを、彼らは先刻承知していたのである。この時、困民党軍の数は、駆け出しと呼ばれる強制参加の呼びかけの効果もあって、五千という規模に膨らんでいた。
 この蜂起にあたっては駆け出しという伝統的な手法が使われていた。それは共同体を守り抜くための、いわば暗黙の共同体規制であった。
 われ先にと川を渡って行く軍団は、こうして郡都大宮郷になだれ込んで行ったのである。 続く

タイトル写真:秩父・吉田椋神社境内(秩父事件百年顕彰碑)


桜田門の変 ・・・ 鮮血にそまった江戸城の一角ーその2

2022-02-11 18:53:11 | 場所の記憶
 が、ついに、その時がやって来た。
 彦根藩の赤門が開かれ、長い行列が静々と現れたのである。
 行列はきざみ足で堀端のサイカチ河岸をこちらに向かって進んで来る。その数六十名ほどの供回りを従えての、いつもながらの大規模な行列だった。いずれも赤合羽に身を纏い、かぶり笠を被っている。何かを警戒する様子はなかった。
 手はずのとおり、十八名の男たちは、すでにそれぞれの配置についていた。彼らの出で立ちは、合羽姿の者、羽織を着る者とさまざまだった。
 雪の降る見通しの悪い日であったので、互いに鉢巻きし、襷をかけること、合言葉を交わし合うことなどが取り決められていた。
 佐野、大関、海後、稲田、森山、広岡らは濠側に待機していた。一方、黒沢を先頭に、有村、山口、増子、杉山らは杵築藩主松平大隅守屋敷の塀ぎわをそぞろ歩いていた。さらに斎藤、蓮田、広木、鯉淵、岡部らが後攻めとしてその後方についた。そして、ひとり関鉄之介が全体の指揮をとるべく桜田門際の濠側に立っていた。 
 井伊の行列の先頭が、濠沿いから今まさに桜田門方向に向きを変えようとする時だった。 
 襲撃のきっかけをつくったのは桜田門辻番所のそばに潜んでいた森五六郎だった。
 森が下駄をぬぎ捨て、雪中を駆け足で、あたかもなにかを直訴でもするように行列に近づいた。そして、やおら饅頭笠をはねあげると、羽織を脱ぎ捨てた。
 すると、中から白鉢巻きに十文字の襷姿が現れた。森はただちに抜刀すると行列に襲いかかった。
 その時、銃声が一発、鳴り響いた。それは全員が行動を開始するための合図の銃声だった。黒沢が撃ったものだった。
 ついに、襲撃がはじまったのである。
 行列は千々に乱れて、すぐさま乱闘となった。襲いかかる者、それを防ぐ者。
 襲撃の側が左右から押し寄せたので、襲われた方は狼狽した。しかも、井伊家側の供廻りは、雪の降るこの日、刀身が湿気ないように皆、鞘を袋で覆っていたため、すぐさま抜刀できないのが致命的だった。
 慌てたのは襲われた井伊側ばかりではなかった。襲撃側の浪士たちにとっても、前日に決めた段取り通りに事は運ばなかった。
 敵味方、間違わないようにと取り決めた白鉢巻き、白襷姿の装いは守られなかった。雪の降りしきる中、味方同士、刃を斬り結ぶ者がいた。
 狂気の眼は、冷静な判断を失わせていた。間合いをとって斬り合うなどということはなく、身体をぶつけ合い、鍔ぜり合いをしながら斬り結んだ。そのため、指が取れ、耳を切り裂かれるといった者が多く出た。 
 乱闘のさなか直弼の駕籠は地上に放置されていた。駕籠の陸尺が恐怖のあまり逃げ出したのである。それを目ざとく見つけた稲田が深手の身体であるにもかかわらず、よろけながら近寄り太刀を両手で支え、駕籠をぶすりと刺し貫いた。
 これを見た海後がつづいて刺す。さらに佐野が。最後に、有村が業を煮やして駕籠をかき開け井伊直弼の襟首をつかんで引きずり出す。この時、すでに直弼は虫の息であったという。
 有村は直弼の首をかき取り、それを刀の先に突き刺して、ふり絞るような声で何かを叫んで歓声をあげた。
 直弼の首級をあげた後も闘いは散発的につづいたが、戦闘はわずか10分ほどで終わった。白い雪があちこちで真っ赤に染まるなかに、斬り倒された者が点々と横たわっていた。
 この戦闘の結果、浪士側の犠牲者は、その場で斬り倒された稲田をはじめ重傷を負って、その後、自栽あるいは絶命した佐野、広岡有村、山口、鯉淵、斎藤、黒沢ら八名に及んだ。また、大関、森山、杉山、蓮田、森ら5名は、襲撃の後、斬奸状を携えて自首。残りの者は逃亡した。
 一方、彦根藩側の犠牲者は、井伊直弼ほか、8名(内四名は重傷を負ってのちに死亡)が死亡、10名が負傷した。また、この乱闘に藩邸に逃げ帰った7名が斬首されている。
要撃側の人間はほとんどが水戸藩脱藩の下中級の次、三男の青壮年だった。開国か攘夷かで国論が二分されていた幕末の社会状況のなか、彼らもその対立の波に呑まれていったのである。 
 時の幕府は、大老井伊直弼の独断で開国政策をおし進め、対立する尊王攘夷論者の徹底的な粛清を計っていた。世にいう安政の大獄である。
 水戸藩は尊王攘夷論の牙城であった。朝廷は水戸藩に勅命書を下し、攘夷の実行と幕政改革を求めた。これに対し、井伊直弼は勅命を無視して、開国を断行し、強権をもって水戸藩を弾圧した。
 この井伊の措置に反発した一部の水戸藩士たちは、井伊を倒すことで、政治の流れを変えようと試みた。彼らは脱藩し、大老打倒の行動を起こしたのである。
 この桜田門の変のあと、幕末の社会は血生臭いテロが続発し、やがてそれが幕府崩壊への道を加速させたとも言われている。
 力をもって現状を変革できるという期待感を、この出来事は尊王攘夷を信奉する武士たちに抱かせたことになる。 
 回向院には、現在、この事件関係者の墓碑が十六基並び立っている。大関、森、森山、杉山、蓮田ら5名の自首した者と関、岡部ら逃亡ののち捕まった者たちの墓が計七基。彼らはいずれも、武士の名誉としての切腹ではなく死罪を申し渡され、断首されている。
 このほかに戦闘で死亡した者たちの墓が八基。彼ら8名の遺体は事件後、塩漬けにされたあと首を斬られ小塚原に打ち捨てられた。さらに、大老襲撃には直接参加していなかったが、計画の首謀者である金子孫次郎の墓がある。金子はのちに、四日市で捕縛され死罪になった。
 18名の参加者のうち、逃亡した広木松之介は二年後、同志のほとんどが死に絶えたことを知って絶望し自刃した。残る増子金八、海後嵯磯之介の二人は、明治の時代まで生き延びた。
 今、桜田門事件のあった辺りには、過去の面影は微塵もない。旧彦根藩邸には現在憲政記念館が建ち、乱闘のあった警視庁前辺りは広く拡張され、車の往来がしきりである。通り沿いには近代的な建物が林立し、その反対側には静まりかえった濠と、皇居の緑のかたまりを望むばかりだ。
とはいえ、その地に、ひとつの歴史的出来事の記憶が深く刻み込まれていることには変わりない。   完

タイトル写真:回向院(南千住)桜田門外の変、関係者墓地
 

桜田門の変 ・・・ 鮮血にそまった江戸城の一角ーその1

2022-02-04 11:50:41 | 場所の記憶
 JR 常磐線の南千住駅を降り西に少し歩くと、賑やかな商店街に出る。その通りはかつての奥州街道で、通り沿いの鉄道高架線そばに、今は鉄筋づくりになっている回向院の建物を目にする。寺は周囲に住宅街が押し寄せ、かろうじて、その体を保っているといった風に建っている。
 以前は、寺域もかなりあり、その背後には、広大な野晒しの地が広がっていたであろうことなど想像もできない変わりようだ。 
 この寺の開基は古く、寛文七年(1667)といわれる。当初、この寺は行路病者の霊を弔うために建てられたものであった。回向院はもうひとつ本所にもあるが、本所の回向院が手狭になったために新たに開かれたのがこの寺だった。
 この地は、江戸期、小塚原と呼ばれる刑場地として知られ、江戸開府から明治に至るまでの二百数年間、ここで処刑された者は、じつに、25万人を数えるといわれている。人も近づかない空恐ろしいところであった。 
 そもそも小塚原の名の起こりは古く、遠く平安の時代にさかのぼる。
 言い伝えによれば、源氏の頭領、源義家が、奥州征伐の帰途、賊の首四八体をこの地に埋葬したことからその名がついたという。その塚を古塚原とも骨ケ原とも書いたといい、現在の南千住一帯をそう呼ぶようになった。 
 時は下り、江戸の末頃になると、国事犯がここで処刑され、この寺に埋葬されることになる。
 それを物語るかのように、今は狭くなってしまった墓地内には、首切り地蔵が残り、歴史に名を残す刑死者の墓を幾つも見ることができる。 
 そのひとつ、墓地の中央、ブロック塀で四角に区切られた墓域にいかにも、それと分かる墓碑が並んでいるのを発見する。いかにもというのは、肩を並べるように立つ墓列が、ひとつの意志を表しているかのように見えるからである。
 今にも消え失せそうな、墓石に刻まれた死者の名をなぞるように読み取ってゆく。
 吉田松陰、頼三樹三郎、有村次左衛門、関鉄之介、・・・居並ぶ墓碑名をつなげてゆくと、そこにひとつの歴史の記憶がよみがえってくる。墓石のわきに万延元年の没年を刻むものが多い。間違いなく、それは安政の大獄にかかわる関係者たちの墓である。
 なかでも私の目をひいたのは、桜田門外の変で井伊直弼殺害に加わった者たちの墓である。
 あの時、大老襲撃に加わった者は、総勢18名だった。そして、ほとんどの者が捕まるか討ち取られてしまった。
事件の顛末は次のようなものであった。
 万延元年三月三日。その日は上巳の節句にあたり、慣例により、各大名が将軍に拝謁する日と決められていた。大老井伊直弼も当然登城するはずだった。
 一方、水戸藩脱藩の浪士たちは、その日を千載一遇の機会ととらえ、井伊直弼襲撃の日と定めていた。
 例年ならば、桜が開花する時期でもある。が、その日は、あいにく、明け方からの雪が降り積もって、見渡す限りの銀世界になっていた。
 井伊直弼が登城する時刻は遅くとも五ツ半、今の午前九時頃と思われた。
 これに対して、水戸脱藩士たちは、昨夜から止宿していた品川の妓楼、相模屋を早朝に出立していた。
 この妓楼は、土蔵造りであったことから、通称、土蔵相模と呼ばれ、尊王攘夷運動に奔走する浪士たちがよく止宿する妓楼だった。
 実行班に選ばれた者は、関鉄之介をはじめ、佐野竹之介、大関和七郎、森五六郎、海後嵯磯之介、稲田重蔵、森山繁之介、広岡子之次郎、黒沢忠三郎、山口辰之介、増子金八、杉山弥一郎、斎藤監物、蓮田市五郎、広木松之介、鯉淵要人、岡部三十郎、有村次左衛門 ら18名である。有村を除けばすべて水戸藩を脱藩した浪士たちである。
 彼らは、前夜から大老襲撃の打ち合わせを積み重ね、悲憤慷慨して酒を呑み交わしながら夜を明かした。
 朝外を見ると、いつの間にか積ったのか、外は銀世界になっていた。彼らはその雪を計画が成就する吉兆と受け止め、互いに喜びあった。
 やがて、彼らは気取られないように、三々五々宿を出た。めざすは、あらかじめ決めておいた集合場所である愛宕山だった。そこには、すでに薩摩藩からただひとり参加した有村次左衛門が待っていた。
 一同は愛宕権現に大願成就を祈願したあと、新橋を通り、左に道をとって(現在の祝田通りから左折して桜田通りへ)桜田門に向かった。
 桜田門近くの濠端に近づくと、雪の日にもかかわらず、すでに人の影があった。登城する大名行列を見物する人を当てこんだ傘見世と呼ばれる屋台も出ていた。 
 彼らはその見物人にまじって、「鑑」(大名行列の詳細を記したガイドブック)を手にしたり、屋台にたむろしたり、ある者は濠の鴨を見物するふりをしたりして時を待った。誰もが胸の高まりを押さえ切れない状態にあった。寒さも加わり、武者震いが止まらなかった。その時が待ち遠しくもあった。 つづく

タイトル写真:「桜田門外の襲撃之図」(月岡芳年)