場所と人にまつわる物語

時間と空間のはざまに浮き沈みする場所の記憶をたどる旅

会津藩遠流・・・・ 風土性が育んだ会津人気質ーその2ー

2021-12-31 20:42:37 | 場所の記憶

  思うにそれは、会津人の狷介ともいえる性格にあったのではないか。それが相手に遺恨の残る結果を招いてしまっ
た、ということではないのか。融通の利かない狷介な性格はともすれば相手の気持ちをおもんばかることのない態度となって現れる。
 権力に裏うちされた狷介は怖い。正義の名において、相手に容赦のない規範の順守を求める。それは往々にし、曖昧なもの、不明瞭なこと、欠けたもの一切を許さない、完膚なきまでの恭順を相手に要求する。その結果、当然、相手に遺恨が残る。 
 日本の政治的対立がピークに達した時、会津藩が京都守護職を引き受けたことが会津の悲劇であった。
 西郷頼母は、藩の役割の悲劇的結末を予感して、藩主容保に諌止した。だが容保は聞く耳をもたなかった。自らの大義名分を押し立てた。容保にもある種のかたくなさを感じる。容保という人は、実は大垣藩から入った養子藩主である。会津に住んで、会津気質を身に帯びたのだろうか。
 その結果、当時の政治の中心地でとった行動が、会津人気質をいやがうえにも鮮明に敵側である倒幕派に印象づけることになった。会津憎しの怨嗟の声が渦巻いたのも故なしとしない。
 風土性というものがある。
 山に囲まれた盆地である会津地方は、その自然環境からして、外部と隔絶するきらいがあった。そのうえ自然条件が厳しい。冬の季節が半年近くもつづくという土地柄である。自然環境の閉鎖性は人の気質をかたくなにする。ひらたくいえば頑固者が多い。人心が停滞し、新しいものを採り入れるという性向より、古いものを守り抜こうという姿勢が強くなる。その一典型が会津に生きている。 
 会津というと、「伝統」というイメージが浮かぶのも、古いものを綿々と育て上げる風土性が、会津の特徴として今も生きているからであろう。 
 自然条件の厳しさは一方、そこに住む人を辛抱強く、かつ粘り強くする。この性向が、会津気質の芯をかたちづくっている。
 明治維新になってから苛酷な運命にさらされた会津の人々の心を支えたものも、皮肉なことに、この性向である。
新政府の追い打ちをかけるような施策によって、維新後、会津藩は解体される。そして東北の一寒村に移封されることになる。
 そこは南部藩領から削りとった陸奥三郡およそ三万石の土地であった。斗南藩と呼ばれるその所領に、藩士とその家族一万七千人が移住した。 
 明治の世になり、陸軍大将に昇進した会津出身の柴五郎はその遺書の中で、少年時の思い出を次のように回想している。
 「今はただ、感覚なき指先に念力をこめて黙々と終日縄を綯うばかりなり。今日も明日もまた来る日も、指先に怨念をこめて黙々と縄を綯うばかりなりき」
 ひたすら忍従することは、たたかれ打ちひしがれても生きぬこうとする強靭な心をつくりだし、やがて、それは怨念という名の情念と化する。             
 ここに、その情念を新たな新国家建設に向けて積極的に放出した人物がいる。
 そのひとりに旧会津藩家老・山川浩がいる。彼は籠城戦当時、遊撃隊長として、城の外にあって、薩長軍に対し巧妙な戦いを展開した。降伏後、最北の地、斗南藩に移住させられた時、権大参事(藩知事)の要職にあって、藩の実質的な指導者となった人物である。
 斗南藩の経営は困難を極めた。自然はあまりにも苛酷であった。新天地に移り住んだ旧会津藩士を待ち構えていたものは飢餓地獄そのものであった。不毛ともいえる荒野は、尋常な手段では人間に服従するような相手ではなかった。
そして、ついに新国土建設は、苛酷な自然を前にして、虚しく潰えてしまう。
 この斗南藩経営の失敗のあと、山川は東京に出る。薩長政府への怨みをもう少しちがった形で果たそうとしたのである。それは体制内に入って、いずれの日にか汚名を雪(そそ)ぐという考えであった。
 薩長政府に真正面から対決する姿勢ではなく、むしろ、体制内で自己の立場を確立し、藩の汚名を返上しようというリアリストとしての見識である。
 山川はこうして官途の道を選ぶ。その企てに手を差しのべたのは、旧敵土佐の谷千城であった。谷の推挙により、山川はまず陸軍省八等出仕を申しつけられる。そして、のちに陸軍裁判大主理に任官することになる。明治六年七月のことである。
 その後、山川は異例の出世をはたし、明治十年の西南戦争のおりには、陸軍中佐として参謀職を勤め大いなる功績を残す。
 結果、山川が果たそうとした、自己の立場を確立し、そのうえで一定の自己主張をし、自らの存在を認めさせる、という願いがかなうことになるのである。
 この山川浩のほかにも、会津出身で、のちに世に出て名をなした人々が数多くいる。
 まず、山川浩の弟の健二郎。彼はのちに東京帝国大学の総長になっている。また、この山川兄弟の末妹である咲子(のちの捨松)は津田梅子らと初の女子留学生として渡米し、のちに陸軍卿大山巌と結婚している。
 兄弟で名をなした人に、ほかに、山本覚馬、八重子兄妹がいる。覚馬は新島譲とともに同志社大学の創立に貢献した人物であり、八重子は、その新島譲の妻になった人である。彼女自身もその後、幾つもの社会福祉事業に貢献している。
 このほかに、『ある明治人の記録』に登場する、のちに陸軍大将になった柴五郎、明治大正期に外交官として活躍した林権助、明治学院の創立者のひとり井深梶之助、クリスチャンとして明治の教育界で活躍した若松賎子などの名を見いだすことができる。 
 ひと言で生き方の違いということでは片づけられない会津人のこの堅忍の姿勢は、やはり風土性のようなものを考えなければ理解できないと思う。
 猪苗代湖を前に、磐梯山を背後に控えた会津という地は、日本の古典的な地方風景が広がる場所である。
 貧しさが張りついたような苛酷な風土、時の流れが回遊しているような社会、そうしたものに包み込まれて生きる人間は、ただひたすら忍従することで、日々の苦難を切り抜けるしかないのである。
 さらに、そこに長い厳しい冬の季節が加われば、何人と言えども、そこでは、どのように生き、自然の苛酷さにどう耐えなければならないかを身体で知ることになる。かつての日本の田舎は多かれ少なかれ、そうした地の風を備えていたのである。忍従はそうした地に生きる人々の共通の規範でもあった。
 会津というと、わたしは猪苗代湖畔の貧しい家に生まれ育った野口英雄を思い浮かべる。貧しい家に生まれたにもかかわらず、やがて、忍従と勤勉を積みかさねて、ついに立身出世していった野口英雄の行跡は、ひとり会津人のみならず、日本人すべてが理想とする姿であった。それゆえに、教科書にも取り上げられ、幾世代にわたって、日本人の鏡でありつづけた人物であった。
 会津人が規範とした生き方が、そのまま、日本人の生き方として通用していた時代があったのである。
      




会津藩遠流 ・・・・ 風土性が育んだ会津人気質ーその1ー

2021-12-24 13:17:58 | 場所の記憶

 歴史的雰囲気の漂う町というものがある。長い年月をへることによって歴史の香りが色濃く出ている町。そんな町のひとつに会津若松がある。
 会津若松という町は盆地の中にある。町は鶴ガ城を囲むように広がっている。城は昔も今も、町のシンボルだ。今見ることのできる城は、昭和40年、コンクリート造りの城として復元したものである。かつての城は、あの戊辰戦争のさなか、灰燼に帰して、その後取り壊されてしまった。
 この町の歴史を語ろうとする時、やはり、幕末の一時期に起きた会津戦争について語らなければならないだろう。  
 それは会津藩士五千人が、時の藩主松平容保を擁して、城に立て籠もり、薩長の官軍に対抗して戦った戦争である。
 この戦いの結果、会津という土地は怨念の逆巻く地になった。今も町の歴史の奥底に分け入れば、そこに満ち満ちている怨嗟の声にゆきつくことだろう。
 わたしが会津若松を訪れたのは、ちょうど秋祭りがとりおこなわれているさなかであった。そのためもあってか、市内は時が逆戻りしたように古色につつまれていた。
 武者行列が町のせまい街路を練り歩き、天守閣がそびえる広い中庭では、居合抜きの競技会がおこなわれていた。町は、なにやらあの籠城戦の時の雰囲気を彷彿させるあわただしさに満ちていた。
 会津戦争は慶応四年8月23日にはじまった。兵員三万とも四万ともいわれる官軍が、怒涛の勢いで一気に城下に突入したのである。以来、9月22日の落城にいたる一カ月ほどのあいだ、壮烈な籠城戦が繰り広げられた。
 この戦いの最中、数え切れぬほどの悲劇が生起した。戦いはつねに悲劇をともなうものである。しかも、それら悲劇のひとつひとつには拭いがたい残酷さが付着している。負けた側が引き受けねばならない悲惨というべきか。幾つもの悲劇が今でも土地の人々に語り継がれている。
 そのひとつに城代家老西郷頼母の家族の自刃がある。旧城下の大手筋にあたる甲賀通り沿い、ちょうど城の北出丸の追手門を目の前にする通りの東側に西郷邸はあった。甲賀通りは、幅18メートルほどの広さの通りである。ちなみに、市内の道路は、南北の通りを「通」と言い、東西の通りを「丁」と呼びならされている。
 出来事の顛末は次のようなものであった。 
 官軍が市内に迫った8月23日のことである。土佐藩を主体とする突撃隊は、鶴ガ城の北出丸に向けて突進していた。一隊は城の前面に建つ広壮な邸宅に足を踏み入れようとしていた。屋敷の内部は妙に静まりかえっている。突撃隊は屋敷の中の廊下を突き進んでいく。すると奥の間に突き当たった。
 隊長の土佐藩士中島信行は、その襖を勢いよく開け放った。中島は、その瞬間、あっと息を呑んだ。死装束をまとった幾人もの女たちが血の海の中で悶絶していたのである。
女たちは、城代家老西郷頼母の妻女をはじめ、その娘たち四人と西郷家一門の家族、総員21人の老幼男女であった。
 この出来事は、惨劇からまぬがれた頼母の長子吉十郎が、のちに登城し、父にそれとなく話したことで会津側にも明るみになった。 
 じつは頼母は、こうなることを先刻承知していたのである。登城前、頼母は自分の家族を集め、西郷家の身の処し方について言い残しておいた。そして、一人ひとりに辞世を作らせ、みずからその添削に手を染めた。
 そして、敵が押し寄せた時には、みずからの命を断つようにと、妻女らに諄々と説いておいたのである。その結果の自刃であった。
 頼母が家族にそうすることを強いた確かな理由があった。
西郷頼母は恭順派、非戦論者として知られていた。藩主松平容堂の京都守護職就任に反対し、そのために家老職を解かれ、以来、五年間藩政とのかかわりを断っていた人物であった。
 ところが、慶応4年正月の鳥羽伏見の戦いの敗北が会津に伝えられるや、藩国存亡の秋(とき)来る、ということで頼母は再度登用されることになった。 彼はその時もなお恭順を説いたが、事態はもはや恭順論が受け入れられる状況ではなかった。そして、止むなく会津軍の白河口総督として出陣することとなった。
 大勢に抗しつつ、それに押し流されて行かざるを得なかった無念さはいかばかりであったであろうか。とはいえ、今や体制の外にいつづけることは、自分の気持ちが許さなかった。当時の封建道徳を信奉する者としては当然の考えであったろう。 
 すでに決死の覚悟であった。彼は自らの家族にも生き死についてのありようを悟らせていた。この姿勢は、敵味方双方に対して、武士としての気概を示そうとするものだった。それは軟弱と非難されてきた我が身に対する最後の矜持の証明といえた。
 矜持をつらぬいて自刃したこの西郷頼母家と同じような悲劇は、会津戦争のさなかにほかにも数々あった。
 寄合組中隊頭井上丘隅の家は甲賀口の本五ノ丁の角にあった。井上は敵が家のすぐそばまで押し寄せてきたことを知り、妻と子を介錯して自刃、「もろともに死なむ命も親と子のただ一筋のまことなりけり」という辞世を残している。
 本四ノ丁角に住まう寄合組中隊頭木村兵庫は、八人の家族を刺し殺したあと、自身も自刃した。
 同じく寄合組中隊頭の西郷刑部の妻は留守家族五人とともに自害している。小隊頭永井左京は戦いで負傷した身体を家で横たえている時、敵の来襲にあい、家族七人とともに自刃している。
 ほかにも、野中此右衛門とその家族の死、高木豊次郎家の死、有賀惣左衛門の妻子の死などがあげられる。さらに、悲劇は下士の家族にも及んでいる。
 これら一連の悲劇は、8月23日、薩摩、長州、土佐藩などの連合軍三千の兵が市内に突入したその日に、すべて起きたことであった。
 一方、誇りを捨てず、命を賭して戦った者たちもいた。
会津戦争最大の激戦と言われた甲賀口で、最後まで防戦し討ち死にした田中土佐と神保内蔵助は、ともに家老職の身分だった。
 甲賀町通り沿いは上級の武家屋敷が集まる地区であったが、そこが官軍の侵入通路になり、主戦場になったのである。 
 女たちも戦った。会津娘子軍の名で知られる婦女薙刀隊の隊長格であった中野竹子の討ち死にもそのひとつである。
竹子の率いる薙刀隊は、若松郊外の柳橋(市の西北)という地で敵とわたりあったが、この時竹子は敵の弾にあたって戦死した。この薙刀隊員の服装は、髪は斬髮、白羽二重を着込み、鉢巻き姿の、男勝りのいで立ちで話題になった。
 家老職にありながら城の外にあって、野戦の総指揮にあたった佐川官兵衛の、何物かにとりつかれたような戦いも、のちのちの語り草になった。
 そして、会津藩の代表者として責任を取らされた家老職のひとり管野権兵衛の死も武士の誇りを示すに充分の行いだった。落城後、管野は藩主になりかわり、この戦いの最高責任者として切腹させられたのである。
 同じ朝敵になった藩の中で、会津藩ほど薩長側から憎悪の標的とされた藩はなかった。それはいかなる理由からであったのか。   続く

五稜郭興亡 ・・・・泡と消えた蝦夷政府の拠点ーその2ー

2021-12-17 10:32:47 | 場所の記憶
 2
 五稜郭の築造が始まった安政という年は、ペリーの再来日によって開国が決まり、幕府が日米和親条約の締結に踏み切った年である。同じ年、ロシア、英国とも和親条約が結ばれ、その結果、下田、長崎、箱館の開港が約束される。 このことで、幕府は、一層海防の強化に迫られることになる。特に幕府は蝦夷地の防備を重視、五稜郭の築造もそうした流れのなかで発意されたものであった。
 この五稜郭が完成する一年前の文久三年(1863)には、すでに海防の目的で、今の函館ドック辺りに弁天台場が造られ、国産の大砲を備えた砲台が出現している。この台場は安政三年(1856)に着工、七年を経て完成したものだ。
 一方、五稜郭の工事は安政四年の春にはじめられるが、元治元年(1864)には予算不足のため中断。計画の五分一段階での終了であった。未完成の理由は予算不足だったのである。
 そもそも、弁天台場と五稜郭の築造はセットで計画され、工事が行われたものだった。弁天台場に対して、五稜郭が奥の台場と呼ばれたのもそれを裏付けている。
 その弁天台場も五稜郭も設計、監督者は竹田斐三郎という人物であった。
 彼は伊予大洲の出身の洋式軍学者で、大坂にあった緒方洪庵の適塾に入門。その後、江戸に出て、佐久間象山の弟子になる。
 その彼が、ふとしたことで、当時箱館にあった箱館奉行支配の学問所・諸術調所の教授になった。そこで彼は蘭、英、露語をはじめ、航海術、測量術、築城術などを教えることになる。自由な気風にあふれた学問所にはたくさんの俊才が集まったという。
 生来、器用なところがあり、なんでもつくってしまうという異才を発揮していた竹田に、ある日、奉行所から特命が下った。それが溶鉱炉の建造であり、台場砲台、五稜郭の築造であった。
 実際、工事が始まってからの竹田の苦労は大変なものであったらしい。
 机上プランは、幾度か現場の状況によって変更を余儀なくされ、そのため予定外の出費がかさなることになった。
五稜郭の工事は日に六千人もの労役人を使役して行われたといわれている。広く全国各地から人夫の募集がなされたが、それだけでは追いつかず、付近の農民までが労働に駆り出されることになった。
 このため大量の人が五稜郭周辺に人が集まり、にわかの町ができて賑わったという。安政六年には、先の条約に従って、箱館が貿易港として開港したこともあって、さらに人口が急増した。 
 海防強化の目的の一環で造られた五稜郭が、後年、榎本武揚ら幕府脱走軍の立て籠もる砦になったのは皮肉なことである。 
 ところで、その榎本脱走軍は、どのような経緯で五稜郭に拠ったのだろうか。
 慶応四年(1868)八月、幕府海軍副総裁、榎本武揚率いる八隻の軍艦、輸送船が、江戸湾を脱出した。そこには新政府に不満な旧幕府の武士たちが乗り込んでいた。
 この艦隊のなかに、八年前の万延元年、勝海舟、福沢諭吉らが遣米使節団に随行した際に乗船した咸臨丸もまじっていた。咸臨丸はその後、銚子沖で座礁してしまい、箱館には行けなかったのだが。
 艦隊の船上にあったのは武士ばかりではなかった。町人や農民までもまじっていた。彼らはいまやフランス式歩兵大隊の兵士の一員であった。それに上野の戦争に敗れ、逃れてきた彰義隊士や土方歳三をはじめとする新撰組の残党もいた。  
 当時、その艦隊がいずこに向かうか誰も知らなかった。北へ進んだ艦隊は、仙台湾を通過したあと、北海道の南、噴火湾内森町付近の鷲ノ木沖にその姿を現した。
 そこは箱館のはるか北方に位置する場所である。直接、箱館に行かず、鷲ノ木に上陸したのは、外国船が出入りする箱館湾で一戦を交えた際の、周辺の被害を考えてのことだった、といわれている。
 すでに明治と改元された、同じ年の旧暦十月二十日(現在の十一月)のことである。 彼らは鷲ノ木に上陸するや、雪降るなかを、二手にわかれ、一隊は本道の森〜峠下の内陸コースを、他の一隊は森〜川汲の間道をたどって、一路、箱館郊外にある五稜郭を目指した。
 彼らは以前から、箱館に五稜郭という要塞があり、そこを根城にすることが、戦略上有利であることを知っていた。
そのことをいちばん知りぬいていたのは、総督の榎本本人であった。彼は、若かりし頃そこを訪ねたことがあった。わずかながら土地勘があった。
 五稜郭に入城するにあたって、そこは無人の地であったわけではなかった。すでに、新政府は、そこに知事府を置いていた。それを排除しての入城となった。 
 庁舎は平屋建ての入母屋造りで、屋根の中央に太鼓やぐらが載っていた。その太鼓やぐらからは、起床、点呼、食事、就寝を告げるラッパの音が響きわたった。庁舎の広間は会議室として使われ、そこでは連日軍議が開かれた。
 五稜郭に地歩を固めてからの旧幕榎本軍は、そこを根城にして、ある時は、江差、松前方面へ進撃。また、ある時は、海陸両方面から攻勢をかけるという巧みな作戦でしだいに軍事的勝利を収めていく。
 こうして、籠城というよりも、五稜郭を出陣基地として、彼らは周辺に勢力を拡大していった。
 そして、その年の十二月十五日、晴れて蝦夷全島平定祝賀会なるものが開かれる。これは事実上の、蝦夷政府の宣言であった。
 新政府が、彼ら旧幕脱走兵に追っ手を差し向けるには、多少の時間が必要だった。
 新政府が、幕府脱走軍追討の行動を開始したのは、翌年の明治二年三月。追討軍はアメリカから買い入れた新鋭軍艦「甲鉄」を先頭に箱館を目指した。
 政府軍艦隊はやがて青森に集結、そこから津軽海峡を越えて、渡島半島の西部、乙部に上陸する。四月九日のことだ。
 政府軍は上陸するや、ただちに内陸部に侵入した。そこは、さしもの脱走軍も防備を固めていない場所であった。
 官軍の艦隊は乙部に一部の軍勢を上陸させた後、その足で南下。江差を砲撃したあと、松前、木古内、矢不来と進み、じわじわと箱館に迫り、脱走軍を追い詰めていった。
 そして、五月十一日、ついに五稜郭総攻撃の火蓋が切って落とされる。
 政府軍はまず、軍艦による艦砲射撃を開始。その後、箱館山に三門の大砲を引き上げ、陸から砲撃を仕掛けた。
大砲の狙いは正確であった。地面に張りつくように造られた要塞ではあったが、庁舎の屋根に取り付けられた太鼓やぐらが目標になっていた。
 この攻撃により、弁天台砲台は陥落、五稜郭も甚大な被害をこうむった。前衛基地である千代ケ岱砦は、白兵戦のうえ多数の戦死者を出し崩れ去った。この間、新撰組の副長であった土方歳三(34歳)が、官軍に占拠された箱館市内を奪い返すために出撃し、一本木の関門付近で戦死している。同じ頃、箱館湾で敵を迎え撃つべく待機していた旧幕軍の生き残り艦隊の回天、蟠竜、千代田もことごとく官軍の手に落ちることになる。
 が、この戦闘のさなか、幾度か出された降伏勧告にもかかわらず、五稜郭側は抵抗しつづけた。
 次第に籠城軍は補給路を断たれ、戦闘力を失っていった。逃亡者もあとを断たなかった。そうしたなか、五月一七日、本営内では最後の軍議が開かれた。結論は、涙をのんで降伏するということだった。結果はすでに見えていたのである。
 その夜、官軍から差し入れられた酒樽が開かれ、苦い酒を口にしながら、士官、兵士たちは最後の夜を過ごした。   
明治二年五月十八日朝、郭内の広場に、改めて全員が集められた。榎本はそこで「五稜郭は降伏する」旨の宣言をした。
 榎本はその後、幹部三人を連れ、郭内を出た。正式に降伏の申し出をするためであった。官軍は彼らを丁重に扱い、そののちいずこかに連行していった。そして、あとに残された六百人近くの士官や兵士たちは、郭内を清掃し、武器を一カ所に集めてから、全員要塞を出た。彼らはその後、青森まで護送され、そこで全員が釈放された。
 ここに明治維新の動乱は終結をみたのである。それとともに、榎本が夢見たエゾ共和国の建設も潰え去るのである。  
 その後の五稜郭について語ろう。
 明治五年、榎本軍が本営として使っていた庁舎が取り壊される。これは廃城令に基づいての措置であった。そして、その一部は、解体された後、しばらく函館市の役所の建物として使われていたという。
 現在、郭内に残る当時のものとしては寒冷地に強いということで植えられた赤松の林と古井戸と糧秣庫がある。 糧秣庫は、明治の後年、兵舎として使われた後、無人の建物として残り、あたりは雑草が生い茂る、まさに廃墟の状態であったという。
 それらはいま、廃墟のなかから五稜郭公園としてよみがえり、緑が目に映える季節になると、市民の格好の憩いの場所になる。
 年移り、人替わり、五稜郭の過去の記憶が遠のくなかで、そこにわずかに残る歴史の痕跡をたどれば、ありし日のできごとが改めて彷彿としてくるのである。 完





五稜郭興亡 ・・・・泡と消えた蝦夷政府の拠点ーその1ー

2021-12-10 10:35:00 | 場所の記憶
1 
 幕末から明治維新のはざまに、榎本武揚をはじめとする旧幕臣が最後の抵抗の砦とした五稜郭。その五稜郭の写真を初めて目にしたのは、たしか高校の教科書の中であったような記憶がある。星形の妙に近代的な風貌を備えた要塞というのがその時の印象だった。 
 江戸時代の末期に築造されたとはいえ、あのように異風の要塞が造られていたことに、ある種の驚きと、不思議さを感じたものである。築造の目的と、なにゆえに函館という地に造られたのか、それが長い間、私の関心事であった。
 いつか訪れてみたいと、以前から心に描いていた五稜郭をある年の二月、ふいに訪ねることになった。雪が舞い散る、まさに冬のさなかである。
 函館に着いたその日は、前日来の雪で、町は白一色に包まれていた。さっそく、函館駅前から市電に乗り、凍りついたような町をぬけて五稜郭に向かう。
 五稜郭はすっかり雪のなかにあった。
 まずはその姿を俯瞰してみようと、隣接する五稜郭タワーに上ってみる。 
 ところが、案に相違して、上空から眺め見ようとした五稜郭は、舞い落ちる雪のため、すっかり霞んでしまい、その全貌を見通すことができなかった。目にしたものは、要塞の外郭をぐるりとかこむ凍てついた濠ばかりであった。 
 それにしても、かつては、荒野の真ん中に、突如生まれた要塞であったというが、いま上空から眺めるそれは、古代古墳のように町並みにぐるりと囲まれて片身がせまい。
 要塞の敷地内には幾つかの構築物が立っていたはずである。それらが消えてしまっているためと、城郭がすっぽり雪の中に埋まってしまっているので、要塞全体がじつに立体感を欠いた、変哲のないものに見える。まさに廃墟というにふさわしい眺めである。
 実際、五稜郭を見るまでは、もっと起伏のある場所にあるものと想像していた。城郭というものは、そうしたものだという先入観がつくりだした幻像であったかも知れないが。
 ところが、意外なことに、それはじつに平坦な地に横たわっているのであった。しかも、ずいぶんと内陸部に位置している。 海防の目的で構築された要塞にしては海からだいぶ離れているのである。
 五稜の位置については、当初、もっと内陸に築造すべき、という意見があった。五稜郭の設計者、竹田斐三郎は、海から放たれる大砲の飛距離から考えて、充分に安全な地ではないと終止反対したという。当時、すでに大砲の飛距離は四キロもあったのである。
 実際、函館戦争のおり、政府の最新鋭艦ストンウォール号から放たれた砲弾が、この五稜郭に着弾している。
 結局、反対意見があるにもかかわらず、現在の地に定められたのは、ここが要塞以外の役割、すなわち、公的機能をもつ拠点にするという役割をも持たせられたからだった。となれば、あまり辺鄙なところではなく、人の出入りが容易な、地形的にも平らなところである必要があった。
 五稜郭タワーをおり、地上から五稜郭を観察することにする。
 降り積もる雪の中を、半月堡に架かる橋を渡り、さらに大手門に通じる橋を通って郭内に足を踏み入れてみた。 
 雪をかぶった赤松が濠に沿う土塁伝いに気品ある風情で並んでいる。雪に埋もれた要塞跡は、まさに歴史が凍りついたように、ひっそりと息づいていた。
 郭内を歩きながら、五稜郭が五角形をしているのには、どんな意味があったのだろうかと、ふと考える。
 いわゆる将棋頭堡と呼ばれる、せり出した五つの堡塁のひとつの先端に立ってみる。視覚が左右にぐっと開ける。両隣の堡塁が雪交じりの灰色の空の下でもよく見通せる。
 なるほど、これであれば、ひとたび外部からの攻撃があっても、どこからでも対応できると合点する。そこには、大砲が備えられ、弾薬庫が置かれていたのである。 
 上空からはよく分からなかったが、要塞の周囲を取り巻くように高さ六メートルの土塁が組まれ、その土塁下の濠ふちにも盛り土されている。堅固な防壁がつくられていたことが分かる。計画ではさらに濠の外側にもぐるりと巡るように長斜堤が築かれる予定だったが、それはつくられなかった。
 未完成部分はほかにもある。南西側の凹部に現在も残る矢尻のように三角状に張り出す半月堡がある。大手門を潜る前に足を踏み入れることになる出城風のその堡塁は、計画では、五稜の凹部にそれぞれ五カ所造られるはずであったというが、これも一カ所にしかない。
 完成の暁には、陣地攻防に備えて、二重、三重にも手の込んだ工夫がなされるはずであった。が、結局、それは果たされることはなかったのである。     続く
 


おばさん

2021-12-03 11:40:16 | 場所の記憶
 
 およねは、一年前働き者の亭主を亡くした。無口だが頼りがいのある優しい男だった。二度流産して子供の産めない身体になっても、亭主の兼蔵はおよねを、羽根でかばうようにいたわるところがあった。間もなく四十になるおよねは一人ぽっちになった。
ある日、注文先に内職の仕上り物をを届けて帰ると、裏店の井戸端に倒れている人の影をみてゾッとした。男は、名を忠吉といい十九歳の桶職人だった。聞けば、仕事にありつくために、人を探しているという。空腹をごまかそうと、水を飲もうとして気を失ったと、顛末を話した。飯を出してやると見苦しいほどがつがつ食べたが、汚れた着物に似合わず、きっちり両膝を揃えて座り、言葉遣いも丁寧な、礼儀正しい好青年に見えた。聞けば、 今晩泊まるところが無いという。
 およねは気の毒に思い、仕事が見つかるまで忠吉を家に置いてやろうと思った。これまでは亭主に頼りきった生活をしていた自分が、誰かに頼られるということが気持ち良かった。亭主が死んで以来笑いを忘れていたおよねの顔に笑顔が蘇った。自分でも気づかない微かな笑いだった。
半月ほどたって、忠吉の仕事が見つかった。「当分おいてくれ」という忠吉のたのみを受け入れて、およねはまた忠吉と過ごすことになった。そのうち養子にとって、何処からか嫁をむかえてやろうとさえ夢想した。ある日、それを忠吉に告げると「少し考えさせてもらうよ」と答えるばかりだった。
 それからしばらくたって、夜中、およねは誰かに胸を押えられる感じがしで眼が覚めた。忠吉だった。「嫁なんかいらないよ、おばさんだけいればいいよ」と胸に顏を入れてきた。
 およねは、必死に抗った。だが男の力にかなわなかった。寝間着の紐がすべて抜き取られて、およねは力を抜いた。
およねの肌が見違えるように艶やかになった。当然、裏店の女房達の噂になった。だがおよねは幸せだった、それでいいと思っていた。
ところがある日、この裏店に若い女が現れた。尻軽女で知られる十九歳の大工の娘だった。その娘と忠吉が、暗がりの井戸端でこそこそと話をしているところをおよねは目撃した。時を同じくして忠吉のおよねに対する態度がぞんざいになった。そして、ついに喧嘩になって、忠吉は家を出て行った。およねはまた以前のような年老いた女になってしまっていた。 「時雨みち」より

・およねは、死んだ亭主が下駄職人だったので、鎌倉河岸にある履物屋羽生屋から下駄、草履の緒を作る内職をもらい、細ぼそと暮らしている。

・およねが三島町の裏店の近くまで来たのは、六ツ半(午後7時)ころだった。

・鍋町の通りを横切って、家に近くなると、およねは足どりをゆるめて、のろのろと歩いた。・・およんねは今度正月を迎えると四十になる。

・数日前に、深川の瓢箪堀のあたりで火事があったことは、およねも耳にしている。三間町から元町の一帯にかけて、30軒ほどの家が焼ける大火事であった。

小説の舞台:深川 地図:国会図書館デジタルコレクション江戸切絵図「日本橋内神田両国浜町」 タイトル写真:万世橋