場所と人にまつわる物語

時間と空間のはざまに浮き沈みする場所の記憶をたどる旅

恐山--霊気たちこめる岩原の地獄極楽ーその2

2022-12-09 20:22:52 | 場所の記憶

 慈覚大師がはじめてこの地を訪れて霊地として開山したと伝えられる恐山は、ひょっとすると、大師が発見する以前からそのような場所性をもちあわせた地であったのではないか。私にはそう思えたのである。
 岩原のなかにつくられた巡拝道は順路があってなきがごとしであった。あちらこちらで噴気がたちのぼり、硫黄の臭いがたちこめる中を右に曲がり左に曲がりながら歩んでゆく。ふいに、「ここはこの世のことならず、死出の山路の裾野なる」の「地蔵和讚」の一節が浮かびあがる。草木も見当たらない巡拝路はまさに冥界のなかをさまよう気分である。
 ひときわ大きな岩のかたまりには「無間地獄」という名がつけられていた。無限につづく地獄。それはどんな地獄なのか。現世にあるものなのか、はたまた来世にあるものなのか。
 慈覚大師坐禅石という場所があった。そこには大きな卒塔婆が二基立っていた。大師がそこで坐禅を組んだといわれる台状の石の上には大小の石が無数に積まれている。
 慈覚大師は恐山を開山した人物として知られている。開山のいわれについては、修行中の大師の夢枕に、ひとりの高僧が立ち、「汝、国に帰り、東方行程三十余日の所に至れば霊山あり。地蔵尊一体を刻し、その地に仏道をひろめよ」とご託宣したことによるという。大師がそのご託宣にしたがって、この地を開山したのは貞観4年(862)のことである。 
 あたりをカラスの群れが徘徊している。急に空がかき曇ったかと思うと、また風が起こった。いまたどって来た道をもどり、さらに先をゆくと、少し高くなったところに大師堂があらわれた。
 トタン屋根の小祠には、赤い帽子をかぶったお地蔵さまが安置されていた。お地蔵さまのかたわらに置かれた幾つもの風車が、風をうけてせわしなくカラカラとまわっている。そのカラカラとまわる音が妙に寂しく、悲しく感じられる。
 いましも賽銭をあげ、頭をたれる人がいる。そのそばで記念写真におさまる人がいる。すぐ前方に、大師説法之地と記された背の高い石の卒塔婆が見える。空、風、火、水、地の文字が鮮やかだ。
 その先に異形の地蔵尊が立っていた。それは明らかに兵士の姿をしている。そばに近づいてみると英霊地蔵尊とあった。
 軍服を着、脚にゲートルを巻いたお地蔵さんは手ぬぐいで頬かぶりしている。しかも、右手のこぶしを力強く握りしめている。
 この前の戦争の出征兵士の姿だろうか。いかにもこの地方を代表する農民兵らしく、土俗的な印象が強い。おびただしい数の戦病死者を供養するために建てられた地蔵なのだろう。
 宇曽利湖の湖岸に近づくほどに草地になり、紅葉した木立があらわれる。その中に血の池地獄と呼ぶ地獄があった。どんな血の池があるのか。興味をそそられてそちらの方に足をむける。
 が、その血の池地獄はただの池だった。しかも小さな池は静まりかえり、池の底にはたくさんの小銭が沈んでいた。血の池とはずいぶんおどろおどろしい名前をつけたものだと思う。
 ふいに鐘の音がひびきわたった。のどかなひびきである。ほっとする気分にさせてくれる鐘の音であった。
 それは近くにある八角堂の鐘であった。死者が集まるという八角堂の裏手にある鶏頭山が真っ赤に紅葉している。紅葉を背景にしたお堂はなつかしいふるさとのたたずまいである。
 血の池地獄をあとにして宇曽利湖岸に向かう。明るい陽があふれている。湖岸に近づくと賽の河原があった。
 あの世に至る一里塚である賽の河原。それに見立てた河原には小石が積まれ、それが小山になっている。「ひとつ積んでは父のため、ふたつ積んでは母のため」と幼な子が積んだとされる小石である。そこにもお地蔵さんが立っている。
 巡拝路のほとりにあった、「人はみなそれぞれ悲しき過去を持ちて賽の河原に小石を積みたり」(栄一)という石碑に刻まれた言葉をふと思い出す。
 見立てといえば、宇曽利湖をとりまくように連なる地蔵、鶏頭、剣、大尽、小尽、北国、屏風、釜伏などの山々はさしずめ蓮華八葉ということらしい。
臨死体験というものがある。死のふちをさまよった人が、その朦朧とした意識のなかで体験する世界である。
 夢のような現実のような、取りとめのない幻覚めいたものなのだが、それを体験した人は、みな同じような体験内容を告白する。暗く深いトンネルをぬけると、とつぜん、ぱっとまぶしい光の世界のなかに飛びこんだ。見ると、目の前に色とりどりの花が咲くお花畑がひろがっていた、というものである。
 いま、宇曽利湖の湖岸に立って、あたりの景色を眺めていると、花こそないが、この地こそ臨死体験者が見た世界に近いのではないか、とそう思えてきたのである。
 賽の河原に地続きの、湖岸にひろがる白砂の浜は極楽浜と呼ばれている。いままでたどって来た荒涼とした景観とは対照的な穏やかな風景がひろがる湖面が陽をうけてきらきらと輝いている。さきほどまで激しい霙に見“舞われていたのに、いまは、まるで嘘のように晴れわたっている。 
 八角堂の方角から、また鐘の音がひびきわたってくる。時の流れがとまったような一瞬である。遠く人影がゆっくりと動くのが見える。(極楽浄土とはこんなところかな)とふと想う。
 紅葉をまとった山々が陽に映えてひときわ彩りをましている。心に染みわたる風景というのは、こうした風景をいうのだろう。
 極楽世界を見たあとは、一転して地獄世界があらわれる。そこは、あたり一面、荒々しく岩が露出し、あちこちで音を立てながら噴気がある地で、硫黄の臭いがつんと鼻をつく地獄谷と呼ばれる一帯である。
 賭博地獄、重罪地獄、金掘地獄、女郎地獄、現世にあるありとあらゆる地獄を想起させるような小地獄の連続である。    
 危うくも地獄におちるのをまぬがれた人、ようやくはいあがった人、地獄の中で苦しみながらも光明を見いだそうとしている人。地獄に見立てた疑似地獄は、それを見る人に卒然と何かを訴えてくる。
 目をあげると、地獄谷から峰をのぼりつめた地点に一体の地蔵尊が立っていた。それは、この恐山の主体ともいうべき延命地蔵尊で、右手に錫杖をもって、すっくと立っている。 
 この恐山を夜な夜な歩きまわり、冥界をさまよう女や子供がいると救いの手をさしのべるというお地蔵さまである。
 いまにも動き出しそうな延命地蔵尊を見やりながら、硫黄の臭いのたちこめる地獄谷をあとにして、五智山と命名された小丘にのぼった。そこはこの地のオアシスともいうべき場所でシャクナゲの群落があった。花の季節にはシャクナゲが美しく咲きほこるのだろう。
 丘上にひょうきんな表情をした五体のお地蔵さんがならんでいた。細流が流れ草木が繁っている。
 眼下にひろがる宇曽利湖が暗鬱な紫紺色をおびて鈍く光ったいる。ときおり、降りそそぐ陽の光のかげんで、鮮やかなライトブルーに変じたりするが、いかにも北国の湖を想わせて寒々しい。
 波打ちぎわに白い波が立っている。波のくだける音が遠くから聞こえてくる。ぼんやりと浮きあがったように見える極楽浜の白い砂浜が陽をうけてきらきら光っている。湖面の青と、白い砂浜、そして、それをとりまく色とりどりに紅葉した山々。色彩のとりあわせが妙を得て、風景に深いあじわいをつくりだしている。
 ふいに、ぞくっとするような冷たい風が吹きあがってきた。(さきほど目にした霊泉に入ろう)私は境内の一角にあった霊泉を思い出していた。身体も冷えきっていた。冷え抜き湯と呼ばれるその簡単な板囲いの温泉には人影はなかった。冷えきっているだけに熱さが身にしみる。ほの暗い闇の中で、じっと湯船にひたっているとみるみる暖まってきた。ぬるりとした肌触りがなんとも心地よい。
 ときおり、吹きつける風が板戸をガタガタとゆらす。一瞬、立ちこめる湯気の中を、恐山の霊気がさっと吹きぬけたような気がした。



“恐山--霊気たちこめる岩原の地獄極楽ーその1

2022-12-02 21:46:08 | 場所の記憶

 野辺地からたった一輌の気動車にゆられ、いよいよ恐山に向かうことになった。以前から一度は訪ねたいと思っていた恐山である。
 下北半島は、よくマサカリの形をしていると形容される。そのマサカリの本体部分に向かって気動車は進む。
 この大湊線は、ほぼ海岸部にそって走る鉄道のように地図を眺めると思えるが、車窓から海を見わたせる箇所はじっさいはそれほど多くはない。
 そんななかでも、はるか海のかなたの水平線上に、たなびく雲かと見まがう陸地が連なるのを見ることがある。
 それにしても素朴な海岸風景である。人影のない砂浜にうち寄せる波。船小屋だろうか。苫屋がひっそりと建っている。そのそばに小さな船がつながれている。海辺といえば、このような風景が昔はよく見られたものであった。
 小一時間ほど走ったあと列車は下北駅に着いた。すでに、あたりに夕闇がただよう時刻になっていた。ホームのわきに、「JR東北の最北駅下北」の表示があった。はるばるやって来たな、という感慨がしきりにわきおこる。
       
 朝早く宿を発ってバスで恐山にむかった。十月の下旬ともなれば、朝の冷えこみはひとしおである。
 市街地をぬけると、すぐに山勝ちの道になった。しだいに勾配をあげてゆくのがわかる。
 車窓の左右に杉の叢林があらわれる。いかにも樹齢をへたと思われる老杉がなかにまじる。やがて、杉林は雑木林になり、そのうちヒバの林に変わる。ヒバの林はいずれも原生林である。
ヒバはヒノキの仲間であるが、北国の厳しい寒さのなかで育つためかヒノキよりも粗削りで、自然の植生のためか大柄に見える。
 長坂と呼ばれるだらだら坂をゆく頃には、これからいよいよ霊地に赴くのだという実感が強くわきあがる。
 赤い衣を着せられた地蔵や町塚と呼ばれる石の里程標を路傍に見かけたりするためだろうか。
 往時、この道を大勢の信者がかよったという。かれらは麓の宿を夜明け前に発つと、その足で、まだ暗い道を鈴を鳴らし、ご詠歌を唄いながら歩んだのである。
 車窓左手を望むと、すでにうっすらと冠雪した山が見える。釜臥山だろうか。
 風情のある赤松の林に入ったかと思うと、冷水(ひやみず)という地にたどり着いた。
 バスはここにやってくるとかならず停車し、そこにわき出る冷水を飲むらしい。
 ぞろぞろとみな車を降り、手勺をとって、筧から流れ出る水を神妙に口にそそぐ。その水を飲めば長命は間違いなし、とのご託宣を聞けば、誰もが一杯飲んでみたい衝動にかられるというものだ。それが人情というものだろう。
 ふたたび車中の人となる。やや下り勾配の七ツ七坂をゆき、湯坂というところを過ぎると、突然目の前に広い湖があらわれた。それが宇曽利湖であった。
 寒々しい宇曽利湖のほとりに出たバスは、ほどなく三途の川に架かる朱色の太鼓橋を左に見てから恐山の総門前に到着した。  
 
 バスを降りると硫黄の臭いが鼻をついた。それだけで異風の地にやって来たな、という実感を強くする。
 霧で白くかすんだ視界の先に恐山の総門が見え隠れしている。あたかもたちはだかる総門。その総門の前に立つと、いま自分は冥界を前にしている、これよりいまだ見ぬ世界に足を踏み入れるのだ、という思いがひしひしとわきあがる。
 砂利を敷いた参道が目の前にまっすぐに直進している。その途中に山門があり、その奥に地蔵堂が見える。
 参道をゆっくり歩んでゆく。参道の両側にうがたれた溝から湯気が立っている。湿り気をふくんだ硫黄の臭いがいちだんと強くなる。
 ふいに空がかき曇ったかと思うと、霙とも飃ともつかないものが落ちてきた。それとともに一陣の風が巻きおこった。恐山に似つかわしい臨場感が満ちる。
 私は、ここを訪れる前から恐山の風景をいろいろ思い描いていた。私にとって、恐山というところは、幽明の境にあるような輪郭のおぼろな場所でなければならなかった。いま目の前にする恐山それにふさわしかった。

 参道の両側に永代常夜燈がずらりと立ち並んでいる。さきほど前方にあった二層の山門が目の前に近づいてくる。それをくぐり、さらに奥へとつきすすむ。
 大きな黒い翼をひろげながらカラスが飛びかっている。ずっと以前からここの住民ででもあるかのようだ。
 巨大な卒塔婆がひとかたまりになって立っているのが見える。それが亡者の黙祷する姿のように思えて、そら恐ろしい気分になる。ここがただならぬ場所であることをあらためて知らされる。
 参道のはてに地蔵堂があった。恐山を訪れる参拝客がまず参拝する場所である。
 いましも、三々五々訪れた参拝客が思い思いにお賽銭をなげ、なにごとか願をかけ、無心に手をあわせている。
 この地蔵堂に安置されている本尊は延命地蔵尊である。地蔵尊とは母なる大地そのものの心をもち、衆生の痛みをわが痛みとして受けとめてくれる菩薩であるとされる。
 なかでも延命地蔵は、人々の命が永からんことを願い、短命や不幸の魔の手から防いでくれる菩薩であるという。
 ついでながら、本尊の唐胴の延命地蔵尊は竹内徳兵衛という船頭が江戸期に寄進したものと伝えられている。この徳兵衛という人物は、のちに嵐で船が難破しカムチャッカに漂着。その後ロシアで生きながらえたが、ふたたび日本に帰ることがなかったという。遭難したのは延享元年(1744)のことであった。
 裏山の地蔵山や剣の山が紅葉して鮮やかに陽に映えている。

 いよいよ地獄めぐりのはじまりである。ごつごつとした岩原の間をぬうように歩むと、ここかしこに石の地蔵があらわれる。恐山に集まった亡者が無事三途の川をわたり、極楽に行き着くように見守ってくれているというお地蔵さんたちである。
 死んだ者の霊魂がかならずこの恐山にやって来ると信じられている山。恐山は死の山なのである。あの世へ逝った者の霊を呼びもどすというイタコの口寄せもここならではのものなのである。
 恐山という名のそもそもの由来はアイヌ語のウソリからきているという。ウソリとは、窪地を意味し、宇曽利から恐山と転じたものらしい。
 以前に、恐山を上空から撮した写真を見たことがある。そこには緑につつまれた宇曽利湖があった。ところが、その湖のほとりの一角に、そこだけ緑を欠いた、灰白色の岩原がひろがる場所があった。それは見るからに特異な景観に思われた。
続く