場所と人にまつわる物語

時間と空間のはざまに浮き沈みする場所の記憶をたどる旅

弘前の寺院群を巡る

2019-06-27 11:22:48 | 場所の記憶
桜の名所になっている弘前城は、弘前駅からバスで10分ほどのところにある。この時期を選んでやって来た観光客でバスは満員状態だった。
 弘前城を中心に広がる弘前は、津軽氏が270年にわたって統治した、かつての城下町である。今も城を中心に藩政時代の面影を伝える武家屋敷が残っていて、いかにも城下町といった雰囲気が立ち込める。それに、古い町並みの中にいくつか明治の洋館が残っていて、それらが町並みと溶け合って不思議な魅力を醸し出している。
 城に向かう前に、私は津軽藩主の菩提寺である長勝寺をはじめとする寺々が集まる禅林街を訪れた。
 高麗門を潜ると、長い参道が連なり、その左右にいくつもの寺の堂宇が立ち並んでいた。領内の寺院33カ寺をここに集めてつくられた禅林街は、この城下町の防衛のためにつくられたものと言われるだけに、いずれの寺も質実剛健の気風がみなぎっているように思われた。禅林と呼ばれる所以は、ここに集められた寺院がみな禅宗であるところから、そう呼ばれているものである。
 長勝寺の三門は入母屋造りで寛永6(1629)年建立というから古い。飾り気のない剛毅な気風のみなぎる建造物だ。
 門をくぐり境内に入ると、目の前に入母屋造りの本堂、右手に切妻屋根が美しい庫裡、それに鐘楼、御影堂などが立ち並ぶ。全体の雰囲気は、いかにも北国の風土に見合った、質実剛健さを漂わせている。代々の藩主の御霊を祀る霊廟は境内左手奥にあった。
 ついでながら、この長勝寺とは別に、市内を南北に流れる土淵川のほとりの高台に立つ最勝院の五重の塔はぜひ訪ねたいところだ。この寺は、津軽藩統一後の戦さで戦死した、敵味方双方の将兵を慰霊するために江戸初期につくられた寺で、五重の塔は国の重要文化財になっている。
 その塔は、三間五層で高さ31・2メートルあり、均整のとれた美しい姿で知られている。高台にあるだけに、ひときわ大きく見える。五重の塔の少ない東北地方でも珍しい遺構で、本州最北にある寺として一見の値がある。
 

みちのくの小京都・角館

2019-06-17 10:56:21 | 場所の記憶

 枝垂れ桜が爛漫と咲き誇る姿を思い描きながら、角館駅に到着する。やはり花のシーズンである。たくさんの人が駅に溢れていた。駅近くにある観光案内所で散策地図を手に入れ、さっそく町歩きを開始する。
 まずは駅通りと呼ばれる広い通りを西に歩く。しばらく行くと、町を南北に貫く通りに突き当たる。その通りが武家屋敷通りだ。その通りの北側に位置するのが武家町(内町)で、深い木立に覆われた閑静な地域になっている。一方、南側は町人町(外町)で、たてつ家や西宮家などの幾つかの商家が今も残り、家並みが櫛比する地区になっている。
 この地に城下町がつくられたのは、元和6年(1620)と古い。この地を所領した芦名氏が現在見るような城下町をつくり、その後、秋田藩の所領となり佐竹家が入部した。以来400年近く城下町として栄えたのである。
 今は桜の名所として、観光宣伝されている場所であるが、この町が貴重なのは、当時の武家屋敷のただずまいが現在も残されていると言うことにある。
 武家屋敷通りをそぞろ歩くと、道の左右に今も武家屋敷が散見される。中級武士の屋敷である小野田家、藩政時代の建築様式を伝える譜代級の河原田家、同じく中級武士の典型的な間取りを残す岩橋家、さらに北上すると、現在角館歴史村として一般開放されている青柳家(有料)が見えてくる。そして、その先にあるのが角館最古とされている石黒家(有料)などがある。
 それら武家屋敷の残る通りを歩くほどに、満開の枝垂れ桜が、黒塀越しに、あるいは庭に眺められるのだ。樹齢300年を越す400本あまりの枝垂れ桜が華麗に咲き誇るさまは確かにここならではの景観である。この地が伝統的建造物保存地区に指定されているのも故ないことであると合点する。
 外国からの観光客もまじるなか、どの人の顔にもたおやかな面差しが見られ、そこには穏やかな時が流れていた。世界の人々が平和な世界に生きるとは、こうした雰囲気に浸ることができると言うことではないか、とつくづく感じたのである。
 武家屋敷通りを北に進み、その通りの尽きたところで左し、桧木内川添いの土手の桜を見物した。が、あいにくまだ三分咲きといった状態で、あの写真に見るような2キロにわたる花のトンネルは見られなかったのが残念だった。
 

 

作家三浦哲郎の故郷・岩手県二戸郡一戸町

2019-06-02 11:33:00 | 場所の記憶
 三浦哲郎といえば私小説作家として知られている。出世作『忍ぶ川』は芥川賞を受賞している。
 三浦の生まれ故郷は青森県の八戸であるが、本人が東京の大学に通うようになってからは、一家は岩手県二戸郡一戸町に移住している。以来、三浦はそこが帰省の地になったと述懐している。
 実際は結婚後、一時そこで暮らし、子供も設けている。氏の作品の中には、この地を題材にしたものも多い。
 桜の花が咲き誇る、五月のある日、(それは二〇一八年十月のことである)私は一戸を訪ねた。盛岡から「いわて銀河鉄道」のローカル線に揺られること一時間ほどで一戸に着いた。
 車窓からは、ようやく春を迎えたという初春の、まだ冬枯れの様相を呈している潅木の林や所々に蕗の薹が顔をだす畑が眺められた。車内を見渡すと、通学の学生やらいかにもこの地方特有の風貌をした年配の乗客が多いのに気づく。ローカル線とはいえ、乗客が多いのは、この鉄道が地元の人々の生活の足になっているためだろう。
 今回は一戸を目指しての小旅行であったこともあり、この沿線に石川啄木の生まれ故郷・渋民村(現玉山村)があることを知らなかった。岩手山を背にした渋民村の写真をかつてみたことがある。その岩手県のシンボルとも言える岩手山が車窓の左手に見えていた。
 三浦哲郎が「北上山地の北はずれの山間にあるこの古い町」と記した一戸の町は、すでに午後の日が傾き始める時刻になっていた。このまま歩いての文学散歩で、日が暮れないだろうかと少し心配になったが、タクシーも見当たらないし、ともかく歩くことにした。
 いつものことながら、文学散歩には胸の昂まりを覚える。その理由は、小説世界に描かれた舞台が目の前に開かれるという期待感である。
 駅からしばらく歩くと馬淵川にかかる橋に差しかかった。さっそく、橋の袂に三浦哲郎の筆跡による「しのぶ橋」と刻んだレリーフを発見する。眼下の馬淵川が勢いよく音を立てて流れている。河畔には辛夷の白い花が咲いていた。
 川を渡り、川沿いを歩くと、しのぶ橋の一つ下手にある岩瀬橋近くに小さな公園があった。隅に文学碑があり、そこに『忍ぶ川』の一文が刻まれていた。
 この岩瀬橋については、『妻の橋』の中で、「橋の上には朽ちてあちこち隙間だらけの橋板に重ねて、幅五十センチほどのいくらか増しな板の細道がつけてある」といったようなぼろ橋だったが、今は改装されてそれなりの橋になっている。
 駅から実家に帰るにはこの橋を渡るのがいちばん近道であることから、しばしば作品に登場する橋である。
 帰省する氏を出迎えるために、父がいつもそこで待っていた橋であり、下を流れる馬淵川は、父がよく打ち釣りをしていたことがある懐かしい川である。
 文学碑をすぎて、さらに川沿いの上り勾配の道を行くと、左手に氏の実家が見えてくる。家は二階建てで、今は無住の家になっているため、少し荒んだ印象があった。
 この家もしばしば小説に登場するし、今や史跡といっていい部類に入る。親族の意向もあるだろうが、いずれの日にか公共的な保存が必要ではないか、と思われた。
 無住の建物は日々風雨にさらされて、次第に朽ちて、あばら家のように成り果ててしまう。それが痛々しい。
 前述の小作品の中で、「家では二階にも階下にも、あかるく電燈をつけていて、窓々からあふれたひかりがサーチライトのように、降りしぶく雨脚をとらえていた。私は一瞬、立ちどまってわが家の夜景にみとれた」とあり、それは臨終近い父を見舞うために近親者が集まる家の光景であった。
 そして、この家は新しい妻を迎えて、家族だけの、ささやかな婚礼を執り行った場所でもある。
 その家の裏の崖下には馬淵川が流れていた。冬になると「凍った川が、雪の重みでひび割れる音」がする川である。
           *
 私はどうしても氏の菩提寺を訪ねたかった。氏が眠っている場所でもあり、この寺も小説の舞台にしばしば登場する寺であるからだ。
 川沿いの道から離れ、しばらく上りの道を歩くと、町の裏山の中腹に広全寺という名の寺の山門が現れた。寺の名を刻んだ石塔があり、長い石段を上ると、本堂の前に出た。
 寺域は広く、山の斜面に墓地がつくられてあった。三浦家の墓所を訊ねると、大黒さんと思われる人が案内してくれた。
 三浦家の墓は「先祖代々の墓」と刻まれていて、下に「三浦」とあるので、それが三浦家の代々の墓であることが知れる。
 墓の側面には、本人の名前の他に、親兄弟の名が刻まれていて、そこでまた氏の作品世界(『恥の譜』など)が思い出されたのである。しばし、墓前に手を合わせてからそこを離れた。
 大黒さんの、「奥様がときおり墓参に参ります。綺麗な方ですよ」というひと言がいつまでも心に残った。氏の妻は
志乃の名で『忍ぶ川』や『初夜』に登場する人その人である。