
梶井基次郎が結核療養のため湯ヶ島を訪れたのは昭和元年12月31日のこと。落ち着き先は落合楼という湯宿だったが、その後、湯ヶ島滞在中の川端の紹介で、もっと谷奥の猫越川畔にある湯川屋に移ることになる。
梶井は以降、川端をしばしば訪ね、当時執筆中の『伊豆踊子』の校正を手伝ったり、囲碁の相手をしたりした。
この間、知友の、詩人三好達治、フランス文学者の淀野隆三などが梶井の病気見舞いに来る。さらにのちになって、川端に呼ばれて当地にやって来た尾崎士郎を通して宇野千代を知ることになる。そして、萩原朔太郎や広津和郎とも知り合いになった。
特に、宇野千代とはこの時が機縁になって「恋情に似た感
情が混じった友情」がつくられた。これがのちに宇野と尾崎士郎との離婚問題の引きがねになるのである。
昭和2年4月、川端が湯ヶ島を離れる。この秋に、梶井もいちじ湯ヶ島を離れるが、医者の薦めもあり、ふたたび湯ヶ島に戻り、療養しながら、そこで執筆活動に専念する。
谷川の瀬音を聞きながら、内省の生活が始まる。感覚の研ぎすまされた作品が次々と生まれることになる。作品『闇への書』、『蒼穹』、『筧の話』、『冬の蝿』などがその代表である。
これら作品群の中で、梶井は湯ヶ島の風景をこと細かく描写している。「ずっと以前から私は散歩の途中に一つのたのしみを持っていた。下の街道から深い溪の上に懸かった吊橋を渡ってその道は杉林のなかへはいってゆく。杉の梢が日光を遮っているので、その道はいつも冷たい湿っぽさがあった。」
(『闇への道』)。
この吊橋はいまは朽ち果てているが、暗い闇に通じる雰囲気は充分に伝えている。
「この径を知ってから間もなくの頃、ある期待のために心を緊張させながら、私はこの静けさのなかを殊に屢々歩いた。私が目ざしてゆくのは杉林の間からいつも氷室から来るやうな冷気が径へ通つているところだった。一本の古びた筧がその奥の木暗いなかからおりて来ていた。耳を澄まして聴くと、幽かなせせらぎの音がそのなかにきこえた。私の期待はその水音だった」(『筧の話』)
「夜になるとその谷間は真っ黒な闇に飲まれてしまふ。闇の底をごうごうと溪が流れている。私の毎夜下りてゆく浴場はその溪ぎわにあった。浴場は石とセメントで築きあげた、地下牢のやうな感じの共同湯であった。・・・その浴場は非常に広くて真中で二つに仕切られていた。一つは村の共同湯に、一つは旅館の客にあててあった。私がそのどちらかにはいっていると、きまってもう一つの方の湯に何かが来ている気がするのである」(『温泉』)
狩野川の支流・猫越川畔に立つ湯川屋に逗留すること一年有半、昭和3年9月、病勢が著しく悪化した梶井は大阪の実家に帰ることになる。
梶井が滞在した、今は廃業している湯川屋近くに「檸檬塚」と呼ばれている文学碑が立っている。碑文は川端康成の筆によるもの。梶井基次郎、昭和7年3月、死去。享年32歳。
梶井は以降、川端をしばしば訪ね、当時執筆中の『伊豆踊子』の校正を手伝ったり、囲碁の相手をしたりした。
この間、知友の、詩人三好達治、フランス文学者の淀野隆三などが梶井の病気見舞いに来る。さらにのちになって、川端に呼ばれて当地にやって来た尾崎士郎を通して宇野千代を知ることになる。そして、萩原朔太郎や広津和郎とも知り合いになった。
特に、宇野千代とはこの時が機縁になって「恋情に似た感
情が混じった友情」がつくられた。これがのちに宇野と尾崎士郎との離婚問題の引きがねになるのである。
昭和2年4月、川端が湯ヶ島を離れる。この秋に、梶井もいちじ湯ヶ島を離れるが、医者の薦めもあり、ふたたび湯ヶ島に戻り、療養しながら、そこで執筆活動に専念する。
谷川の瀬音を聞きながら、内省の生活が始まる。感覚の研ぎすまされた作品が次々と生まれることになる。作品『闇への書』、『蒼穹』、『筧の話』、『冬の蝿』などがその代表である。
これら作品群の中で、梶井は湯ヶ島の風景をこと細かく描写している。「ずっと以前から私は散歩の途中に一つのたのしみを持っていた。下の街道から深い溪の上に懸かった吊橋を渡ってその道は杉林のなかへはいってゆく。杉の梢が日光を遮っているので、その道はいつも冷たい湿っぽさがあった。」
(『闇への道』)。
この吊橋はいまは朽ち果てているが、暗い闇に通じる雰囲気は充分に伝えている。
「この径を知ってから間もなくの頃、ある期待のために心を緊張させながら、私はこの静けさのなかを殊に屢々歩いた。私が目ざしてゆくのは杉林の間からいつも氷室から来るやうな冷気が径へ通つているところだった。一本の古びた筧がその奥の木暗いなかからおりて来ていた。耳を澄まして聴くと、幽かなせせらぎの音がそのなかにきこえた。私の期待はその水音だった」(『筧の話』)
「夜になるとその谷間は真っ黒な闇に飲まれてしまふ。闇の底をごうごうと溪が流れている。私の毎夜下りてゆく浴場はその溪ぎわにあった。浴場は石とセメントで築きあげた、地下牢のやうな感じの共同湯であった。・・・その浴場は非常に広くて真中で二つに仕切られていた。一つは村の共同湯に、一つは旅館の客にあててあった。私がそのどちらかにはいっていると、きまってもう一つの方の湯に何かが来ている気がするのである」(『温泉』)
狩野川の支流・猫越川畔に立つ湯川屋に逗留すること一年有半、昭和3年9月、病勢が著しく悪化した梶井は大阪の実家に帰ることになる。
梶井が滞在した、今は廃業している湯川屋近くに「檸檬塚」と呼ばれている文学碑が立っている。碑文は川端康成の筆によるもの。梶井基次郎、昭和7年3月、死去。享年32歳。
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