場所と人にまつわる物語

時間と空間のはざまに浮き沈みする場所の記憶をたどる旅

旧千住宿探訪

2018-10-27 12:34:56 | 場所の記憶
 最近は大学の移転などで、かつてのイメージを払拭しつつある千住。江戸四宿の一つといわれる千住宿は、じつは三つの地域に分かれていた。
 隅田川の南側の旧小塚原町と中村町を含む千住南組(現在の南千住5、6、7丁目の一部)、それに隅田川の北側にある中組(現在の橋戸、河原、仲町)と北組(北千住1〜5丁目)とがそれである。中町と北組を総称して大千住と呼んだ。
 秋の一日、かつて大千住と呼ばれた、中組、北組の旧街道沿いを歩いてみた。
 千住宿には公用宿と一般宿があった。公用宿は本陣、脇本陣などを言い、一般宿には平旅籠屋(別名、百姓旅籠と呼ばれ、一丁目に多かった)と食売旅籠(飯盛女をかかえる宿で、2、3丁目に多く集まっていた)があった。明和2年(1765)の統計によれば、旅籠93軒で、飯盛女150人をかかえていたと言う。
 千住大橋を北に渡り、旧街道を右手に進むと、すぐに中央卸売市場(足立市場)が見えてくる。かつて、やっちゃ場(市場)と呼ばれた、主に野菜を扱った市場である。
 この市場の歴史を知るには、千住宿歴史プラテラスという、千住の歴史的建物(蔵)を移築した小さな展示館がすぐ近くにあるので訪ねるといい。
 旧街道は歩くほどになにやら和んだ雰囲気につつまれる。このあたり千住河原町という。ほどなく墨堤通りと名のつく広い通りと交差する。
 左手、この墨堤通り沿いに源長寺という由緒ある寺がある。
慶長3年(1598)当地を開拓した石出掃部亮吉胤が創建したと伝わる寺だ。石出掃部という人物は千住の開拓に尽くしたことで知られている。千住七福神の一つ寿老人を祀る。
 旧街道にもどり、さらに北上する。
 街道らしく通りがまっすぐに連なっている。しばらく行くと、区役所通りと名のつく通りとぶつかる。
かつてここに区役所が置かれていたのだろう。
 この通りとの交差する右角に一里塚跡が、そして左角には高札場跡がある。そこを越えると、しだいにブティックや飲食店などの店が多くなり、庶民的という言葉がぴったりの町の賑わいになる。
 ここで少し街道をはずれて、左手、現在の日光街道に近いところにある寺を訪ねてみる。
 慈眼寺と名のつくこの寺も創建が正和3年(1314)と古く、寺紋に葵の紋が使われている。というのも、この寺が江戸城の北方鬼門の寺としてされ、徳川将軍の休息所として使われた寺であるからだ。藤の咲く季節には4つの藤棚に見事な藤の花が咲く寺としても知られている。
 このほか、付近には、赤門の「おえんまさま」で親しまれる勝専寺、それと宿場女郎の投げ込み寺で知られる金蔵寺など、いずれも見落とせない寺がある。
 勝専寺には千住の名の起こりになったとされる千手観音が祀られている。本堂がレンガ造りであるのも珍しく、江戸時代には将軍の鷹狩りや日光参拝の休息所であったとも伝わる寺である。
 また、町の喧騒から離れたところにある、落ち着いた雰囲気の金蔵寺には幾つかの供養塔がある。千住の宿場で亡くなった飯盛女の供養塔、それに、天保飢饉の餓死者や行路不明者の供養塔などが並んでいる。
 旧街道も千住2、3丁目あたりに来ると、人の行き来が頻りになる。いわゆる商店街である。
 千住の本陣跡があったのは、2、3丁目の角にあたる(左手)ところで、現在、本陣跡の石碑が立つ。付近はかつて見番横丁と呼ばれ、千住宿の中心地だった。
 ちなみに、千住宿を利用した通行大名の数は60家にのぼったというから大変な賑わいであったに違いない。明治10年、奥州巡幸の際に明治天皇もここに宿泊している。
 櫛比する商店を見過ごしながらさらに行くと、右手、公園が見えてくる。ここはかつて高札場があったところで、由来の解説版がある。
 千住は蔵の多い町でもある。旧街道沿いには今も往時の蔵がそのまま残る。なかでも必見は横山家の蔵づくり。建物は江戸期のもので、昔のままの風情が残る。また、すぐ前にある「千住の絵馬屋」で知られる絵馬屋の建物も、街道の町家づくりの建物として一見の値がある。
 また、荒川の土手近くにある、骨つぎで有名な名倉家建築も見逃せない。長屋門を構えた、現役の整形外科医院には旧主屋、手入れの行き届いた庭、3つの蔵など、いずれも江戸期の歴史的建造物が残っている。
 時間があれば、足を延ばして、日光街道から分岐した旧水戸街道沿いにある清亮寺に立ち寄ってみたい。この寺にある「解剖人」の墓は、明治初年にここで解剖がおこなわれた事実を伝えている。
 帰りは、旧街道の東側に並行する瀟洒な建物が散見される閑静な裏通りをそぞろ歩きながら、千住のまた違った趣きを味わってみたい。
 
 

 

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