場所と人にまつわる物語

時間と空間のはざまに浮き沈みする場所の記憶をたどる旅

善光寺・・・不思議を秘める万民の寺 

2023-11-26 11:28:16 | 場所の記憶
               
 何かのたとえに、「牛にひかれて善光寺参り」と言われることがあるが、これは「他人に誘われて、知らないうちによい方向に導かれる」というほどの意味である。
 ところで、この箴言のいわれには、次のような言い伝えが残っている。
 善光寺近くに、ひとりの強欲で不信心な老婆が住んでいたという。ある日、その老婆が家の軒先に長い布を晒しておくと、隣家の牛がそれを角にひっかけて持ち去った。それを見た、件の老婆は、その布を取り戻そうと、牛を追って善光寺に駆け込んだ。すると、そこで仏の光明を得るという幸運に恵まれたというのである。じつは牛は善光寺の本尊である如来の化身だったという。
 この言い伝えは、善光寺が万民にとっていかに霊験あらたかな寺院であるか、ということを伝える内容である。
 その霊験の一端に触れてみようと、晩秋のある日、「牛にひかれて善光寺参り」のひそみに倣い、善光寺さんを訪れてみた。
 長野駅を出て、駅前の広場を直進すると間もなく、「善光寺参道」の標識が目に入る。善光寺まで一・八キロの表示が見える。そこを右折すると、まっすぐに北に通じる商店街が開けている。
 中央通りと呼ばれるその商店街は、朝の光を浴びて、開店前のひとときをゆったりと憩っている様子であった。そこが門前町とは容易には想像できない。地方都市にある、ごくありふれた商店街の風情であるからだ。
 しばらく行くと右手に刈萱山西光寺という寺を見る。表通りから少し奥まって建つその寺は、いかにも格式のありそうな本堂を構えている。ここは刈萱道心石童丸物語の縁起のある寺で、門前に掲げられてある蛇の供養塔の説明がおもしろい。それは実話のようなつくり話のような内容で、供養塔に大蛇と小蛇の戒名が刻まれているところなどリアリティがある。
 寺をあとにして、さらに進む。歩道にはときおり、善光寺から何丁目かを記した道標が立っている。そして、そこには、「そば時や月のしなのの善光寺」のような一茶の句がそえられている。
 通りの左右を眺めやると、仏具店や骨董品、民芸品を商う店、ミニ博物館などが散見される。後町、大門町などゆかしい町名があらわれ、古町の雰囲気がしだいにあふれてくる。
 やや通りに勾配がつきはじめる。足裏に伝わる快い感触を味わいながら、ゆったりと、足を踏みしめながら歩く。通りに沿って建てられている昔ながらの土蔵づくりや大壁づくりの家々の屋根が、階段状に連続してリズム感をつくりだしていて何とも目に快い。「ああ昔の町だな」という感慨がわいてくる。
 ところで、この門前通りの町並み景観は、いま現在も日々つくられつつあるという。
 たとえば、アーケードを取り払って建物の正面を露出させる。通りと建物との間の流れを復活させる。さらに、土蔵づくりの家を店舗に改造して、町並みに賑わいをかもし出すといったようにである。
 通りの左手に北野文芸座なる建物を目にする。歌舞伎座風のその建物が、周囲の景観を引き立てる。アールデコ調の洋風建築の旅館、和風造りの郵便局もある。やはりそば処である。九一そばとか、戸隠そばなどの暖簾を下げたそば屋が目につく。
 さらに通りは勾配を強くする。今たどってきた道をふりかえると、そのことがよく分かる。坂が下方にまっすぐに心地よく連なっているのが分かる。歩いている時はあまり感じなかったことである。
 やがて、「善光寺参道」の標識を目にする。そこは大門と呼ばれるところで、善光寺の境内はそこから先である。
 大門からつぎの仁王門までの参道の右手に小庵風の建物が建ち並んでいる。それは宿坊で、何々講御一行様と書かれた旗や看板が入口に掲げられている。
 なかでも智栄講という名が目立つ。聞けばこの講は、善光寺講のなかでも最大の規模を誇る講であるらしく、おもに東京の下町の中年女性が講員であるという。
 今しも旗をかざした斡旋人が、参拝を終えた講員の女性たちに声をかけながら宿坊に呼び込んでいるところである。 
 左手に大きな伽藍を構えるのは大本願と呼ばれる本坊のひとつだ。大本願の境内はそれほど広くなく、真新しい本堂が、菊の御紋を染め抜いた垂れ幕で飾られている。
 その本堂から、「身はここに、心は信濃の善光寺、救はせたまへ弥陀の浄土へ」の「善光寺和讚」を唱和する女性の声がもれ聞こえてきた。
 石畳の敷かれた参道を進むと、目の前に唐破風を張り出した仁王門が現れる。銅板葺きの屋根をいただく門は、左右に迫力ある立体像の阿吽の仁王像を従えている。躍動感あふれる像である。
 御開帳は令和4年の秋におこなわれているので、つぎのご開帳は七年後である。
 仁王門をくぐると、参道は突然賑やかな仲見世に変身する。このあたり元善町といい、道の左右、軒並みに、民芸品を売る店、りんごやあんず、野沢菜などの地元の産物を売る店、湯気をあげながら名物のそばまんじゅうを商う店、門前町らしく仏具を売る店など、まさに店が櫛比する状態である。
 団体客がガイド嬢の旗のもと、ぞろぞろとつき従って通り過ぎる。声高な関西弁が飛び交う。みやげ物の大きな袋を手にする人もいる。これから本堂をめざす参拝客、すでに参拝を終えた人たちが、せまい仲見世を思い思いの態で行き来している。まさに目の前にくりひろげられる光景は、「伊勢参り大神宮へもちょっとより」の物見遊山の人々の雑踏である。
 かつて、この仲見世の商店街には、呉服屋とか床屋とか袋物屋などの生活に密着した店が集まっていたという。それがいつの間にか、参拝客や観光客向けの店に変わってきている。それだけ遠来の客が多く訪れるようになったということだろう。
 おもしろいことに、関東の客と関西の客とでは、みやげの好みがちがうらしい。趣向のちがいといえばそれまでだが、何やら生活文化のちがいがそこに現れているようでもある。 
 また、春から夏場にかけてと冬場とでは客層が異なるために店頭の品種を替えるという。スキー客の多い冬場は、若者向けに包装紙も改めるらしい。たいへんな気の使いようである。
 全般的に団体客の多い場所柄、商売は、はじめの五分間が勝負らしい。道理で客の呼びこみをする店が多いはずだ。積極的にうってでなければ客を引き留められないということか。「昔はもっとのんびりしていたもんだよ」と地元の古老は懐かしむ。
 仲見世が途切れるあたり、目の前にひときわ、きわだつ山門が立ちはだかる。堂々とした重量感のある入母屋づくりのその山門は、二層のつくりで、高さ二十メートルほどあるという。その前に立って、しばらく山門の雄姿を仰ぎ見る。
 山門の手前、左手奥、池に架かる橋の向こうに門構えの立派な堂宇がひかえる。それは大本願と並び称される本坊のひとつ大勧進である。
 石段を上り、山門をくぐり、いよいよ本堂の建つ広い境内に足を踏み入れる。本堂に向かってまっすぐに、四角に切った石畳が連なっている。
 正面に建つ入母屋づくりの本堂は、立棟の拝殿と横棟の内陣がちょうど丁字形をなして結合した格好になっている。これは善光寺独特の様式で、見る者に豪壮な印象を与えるとされる。
 広い境内を思い思いに参拝客がうごめいている。記念写真をとる人、ガイドの説明に耳を傾ける団体客。そのなかを、鳩のひと群れが、明るい空にむかって羽音をたてて舞いあがってゆく。
 かつて霊場はおおむね女人禁制であった。そうしたなかで、女性も含めた衆生にあまねく光明を与えると言われる善光寺が、じつは無住の寺であるということを知る人は案外少ない。そして、男女の区別なく誰でも受け入れるがゆえに無宗派の寺であることも。
 確かに善光寺という寺(本堂)はある。が、じっさいにこの寺を管理しているのは、大勧進と大本願と呼ばれる二寺である。天台宗を宗旨とする大勧進と浄土宗を宗旨とする尼寺の大本願。この両者の間には、江戸時代からいろいろと確執があったと聞くが、現在は、そういうこともなく、日々交替で善光寺の務めを果たしている。
 それは毎朝おこなわれるお朝事ではじまる。本堂で経をあげるこの勤行は、善光寺名物のひとつになっている。それを目当てにやって来る参拝客をあてにして仲見世商店街は、朝の六時頃にはいっせいに店を開ける。 
 この毎朝の勤行とは別に、七年に一度執りおこなわれる御開帳と呼ばれる秘仏公開も、今や善光寺にとっては欠かせない一大行事になっている。
 この御開帳の期間、ふだんは秘仏として公開されることのない本尊を模した一光三尊阿弥陀如来が開扉される。別名、前立本尊と呼ばれるこの仏像の御開帳は、初日の開闢大法要を皮切りに幕を開けるが、なかでも盛大なのは中日におこなわれる庭儀大法要である。
 これは前立本尊を讃える回向として知られるもので、この日、本堂正面に建てられた回向柱を前にして、参道には朱色の傘が整然と立ち並び、香煙が立ちのぼる。これを見ようと三十万人を越す観光客が集まるといい、行事はこの日ピークに達する。
 この御開帳が盛大におこなわれるようになるのは江戸時代になってからのことである。記録によると享保15年から幕末までの百三十六年間に十五回おこなわれたとある。弘化4年(1847)の御開帳の時には、善光寺平を震源とする大地震に見舞われるというハプニングもあった。
 その後、明治、大正、昭和、平成の時代へと引き継がれ、今日にいたるのであるが、御開帳も時代の変化の波にさらされているのが実情である。
 ところで、御開帳の期間に限って衆生の前に姿をあらわすという善光寺の本尊・一光三尊阿弥陀如来とは、前述したように本尊のいわばダミーである。それでは、本尊そのものは、いったいどんな仏さまなのだろうかという興味がわく。
 ひとつの光背のなかに、阿弥陀如来、観音菩薩、勢至観音の三体の仏像が配されているところからつけられたという一光三尊阿弥陀如来。一説にはインドから渡来し、我が国最古と言われる仏像である。その本尊は、白鳳時代に開扉されて以来、開かずのまま今日にいたっているという。
 その本尊の姿を模したというご本尊御影を掛軸にして、善光寺では参拝客に頒布している。それを見ると、前立本尊よりもふくよかな仏像として描かれているのが分かる。
 ところで、この仏さまには秘められた受難物語がある。それはありがたい仏さまであるがゆえの災いといえた。 
 時は戦国時代のことだ。武田信玄と上杉謙信の勢力争いは、この地にもおよび、善光寺は両者の争奪の場になった。
 その頃、善光寺は武田方に属していた。そのため信玄は善光寺を戦火から守るという名目で、甲斐の甲府にこれを移している。現在、甲府にある善光寺はその時のものである。その後、武田氏が滅び、織田信長の時代になると、善光寺は岐阜に移される。岐阜の善光寺がその跡である。
 さらに織田氏が滅亡し、豊臣秀吉の代になると、こんどは京都の方広寺の大仏殿に移される。この間、いちじ甲府に戻されることもあったが、流転の旅は終わらなかったのである。
 ところが、秀吉が善光寺の本尊を京都に持ちこんでから間もなく、秀吉の身体がおかしくなった。かえりみれば、武田氏も織田氏も、ともに本尊を移したことで滅びたではないか。秀吉の近辺の者に、そうした思いがよぎったとて不思議でない。
 彼らは皆一様に祟りを恐れ、本尊を善光寺に返すべきことを秀吉に進言。そして、ついに、慶長3年(1598)8月17日、秀吉は本尊を善光寺に返すことを決意する。 
 それは、奇しくも秀吉がこの世を去る前日のことであった。善光寺本尊は、こうして四十四年ぶりに、晴れて故郷に戻されたのである。
 うす暗がりの本堂のなかに足を踏み入れてみる。ゆったりとした本堂内部は、天井が高く、優に十メートルはありそうである。堂内は外陣、中陣、内陣、内々陣と幾つかの空間に仕切られていて、いかにも奥深い印象を与える。正面奥には祭壇。奥所を感じさせる内陣から先は一段高くなっていて、そこに巻き上げられた朱の簾がかけられている。
 しっきりなしに参拝客がお賽銭箱の前に立ち、手をあわせ、なにごとかを祈願しては立ち去ってゆく。
 この本堂参拝にはじつは極めつけのコースがつくられている。それは内々陣の地下につくられた戒壇めぐりというものである。この戒壇めぐりは、いわば冥土への旅が擬似体験できる場所であるとされている。
 明治26年に発行された『長野土産』という案内書には、戒壇めぐりについて「内陣板敷の下にあり、東に入り口ありて段を下り、三度廻りて元の口に出るなり。其中は暗くして闇夜の如し。俗間に放辟邪見なるものは壇中必ず怪異に逢ふと言ひ伝へり」と記してある。
 これによると、参拝客は、そこで俗世間での日頃の行いを問いただされたことになる。怪異に逢うとは、まさに地獄体験の一端に触れるということを意味しないか。怪異に触れた参拝者は、そこで改めておのれの生き方を反省させられたにちがいない。
 ところで、今はご本尊の真下にある「お錠前」(鍵)に触れることが戒壇めぐりの目的になっている。それに触れると、如来さまと結縁され、極楽往生が約束されるという。どうやら闇の意味が薄れてしまっているようである。
 本堂を出て、明るい境内をひと回りしてみる。大峰山を背後にした善光寺の敷地は、善光寺平のやや西寄りにひらけ、なかなかの立地であることが分かる。そこは四季おりおりの、自然の移りが見事に映し出される場所なのである。
 門前町の風情を味わってみようと、参道裏の小路に分け入ってみた。せまい通りに沿って古風な民家や土蔵づくりの家、白壁をめぐらした造り酒屋、和菓子屋などが軒を並べている。善光寺七小路と呼ばれるほどに小路が多い。
 どの小路を歩いてもゆったりとした時が流れていた。土地の香りに満ちていた。しっとりとした生活のぬくもりが漂っていた。
 それは長い歴史が醸し出す町の味わいというものなのである。

 画像提供:善光寺



身延山 ・・・日蓮が籠もった奥域 

2023-11-11 18:07:06 | 場所の記憶

不思議なもので、何がしか聖なる雰囲気が漂う場所というものがあるものである。
 その地に、一歩踏み入ることで、そこにただならぬ、神々しい空気が流れていることを感じるのだ。聖なる場所に聖なる雰囲気が醸し出されるのはどういう作用によるものなのかを実体験したい思いにかられて、秋のある日、身延山に登った。
 身延線の身延駅からバスに揺られること1時間ばかり。途中、ゆったり蛇行する富士川の広い川筋に沿う富士川街道を走る。やがて、富士川の本流と分かれ、その一支流、早川に付き従うように山中の崖道に沿ってバスは進む。進むほどに、いよいよ山深い地に入りこんだ感を濃くする。 
 赤沢の集落を谷あいに見たのは、すでに陽が山の端を離れ、冷気が身体を包みこむ時刻であった。
 赤沢は、ちょうど南アルプス南端の山あい、身延山を南に見る位置にある。古くから身延詣での基地として知られるところである。そうした理由で、そこには身延山参拝客向けの宿があり、現在も、三十軒ほどの宿が山の斜面に点々と建っている。古い建物だと鎌倉時代のものもあるという。 
 江戸屋、両国屋などの宿名から察するに、多分、江戸からやってきた参拝客を主にもてなした宿であったのだろう。何々構中と書かれた札が掛かるのは、そこがそれら講中の定宿であったことを伝えている。
 ざっと眺めわたすと、いずれの建物も、屋根を茶色の木羽葺きにし、外壁を板張りでおおっているのが分かる。それら二階建ての家々は一、二階が開放された板廊下でぐるりと巡らされている。手摺りのついた二階の造りがいかにも旅籠を感じさせる。
 このように、赤沢集落全体に現れ出ている景観の統一感は、聞くところによれば、歴史ある赤沢を残そうという住民の意思の表れであるという。
 これからはじまるお山登りの労苦を予感しながら赤沢の集落を後にする。めざすは、身延山の山頂近くにある奥之院である。
 つづら折りの、傾斜の強い山道を歩きだすと、すぐに身体中から汗が吹き出してくる。眼下の赤沢集落の家並みが次第に小さくなってゆく。
 こうして、秋の日盛りの中を歩いているだけであれば、ただのハイキングといった風情であるが、歩くほどに、そこが信仰の山であることをあらためて知らされる。
 それというのも、谷間のかなたこなたから、静寂を破るかのように「南無妙法蓮華経」を唱和する読経の声が響き渡ってくるからである。
 初めは耳慣れぬその声に驚かされたが、しばらくそれを耳にしているうちに、次第に快いモノトーンリズムとなってくる。やがて、それが身体に溶けこんで、山道を登る歩調とぴたりと重なってくる。
 思うに、「南無妙法蓮華経」を唱えながら、遊行僧が布教行脚の旅をしているのは、それが精神修養であるばかりでなく、身体的な歩行リズムをつくる効用があってのことではないかと、ひとり合点する。  
 山中では、なんども参拝団の白い集団に出会った。彼らは、いずれも何かの団体に属しているらしかった。手甲脚半に白装束、地下足袋を履き、鉢巻きをする者、饅頭笠をかぶる者などいろいろであった。
 なかには、明らかに都会からやって来たと思われる、にわか修行者の集まりもあった。彼らは皆、若者たちである。いかにも都会育ちの青年らしく、どこかたくましさに欠ける身体つきをしている。
 とはいえ、リーダーの指揮の下、「南無妙法蓮華経」を唱和しながら山を登り、谷を下って行く姿は、健気でさえあった。
 したたれ落ちる汗をふきながら、苦労しながら、いくつもの峰をこえ、谷を下った。
 それでも、ときおり、ぱっと視界が開け、はるか眼下にひろがる風景を眺め見た時などは、心から爽快な気分に満たされたものだった。高い山ではないのに、実に山深い印象があった。
 快い疲れを身体に感じながら、久遠寺の奥之院に到達した時には、すでに午後の陽が大きく西の空に傾きかかろうとする時刻になっていた。
 それにしても、日蓮はいかなる理由で身延の山を自らの修行の場として選びとったのだろうか。
 顧みれば、幾度かの迫害に遭い、佐渡に流罪にもなり、その度に、それらに耐えてきた日蓮であった。その日蓮が、佐渡流刑を赦免され、再び鎌倉の地を訪れることになるのである。
 それは鎌倉幕府の下問に答えるためであった。時の執権北条時宗は、その頃、蒙古襲来の恐れと不安をもっていた。そこで、日蓮を赦免してその可能性について問いただそうとしたのである。
 そのことを問われて日蓮は、蒙古の襲来は今年のうちに必ずあるであろうことを、真摯な態度で答える。だが、時宗は、その言葉を信じていないようであった。 
 日蓮は思ったことであろう。今また、国を憂えて直言したことが容れられなかった。となれば、もはや鎌倉を去り、山中に引き籠もるばかりであると。日蓮はひとつの決断をすることになるのである。
 甲斐の国、身延山の麓、波木井の里に赴くことを決意したのは文永11年(1274)5月12日、日蓮五十三歳の時である。
 この時の心境を、日蓮は『波木井殿御書』の中で語っている。
 「国の恩を報ぜんが為に国に留り、三度は諌むべし。用ひずんば山林に身を隠せという本文ありと、本より存知せり。何なる山中にも籠りて、命の程は、法華経を読誦し奉らばや、と思ふより外は他事なし」と。
 波木井の里に赴くことを思いたったのは、そこに旧知の波木井氏が居を構えていたからであった。当主の波木井実長は、甲斐源氏の流れをくむ家柄で、その頃は、波木井三郷の地頭の任にあった人物である。
 その実長の長子実継が、実は熱心な日蓮信徒であった。彼は以前から日蓮の教えに帰依していた。その縁で日蓮を身延山麓に招いたのである。
 その頃の身延の地は、人里離れた実に不便極まりないところであったにちがいない。その不便さをおして、日蓮の日常生活は、波木井氏の援助に支えられて営まれたことは想像にかたくない。
 日蓮が西谷と呼ばれる山中に草庵を結んだのが初夏の六月。庵とは名ばかりで、床には木葉を敷き、壁は木の皮を張りめぐらせた状態の苫屋であった。
 そこで日蓮は晩年の九年間を過ごすことになる。人生で最も静穏な時を過ごし、信仰生活の最終を飾ることができたのである。
 今、西谷の地には日蓮の遺骨を収める御廟が建っている。近くに身延川が流れ、川をはさんだ高台には久遠寺の巨大な本堂が望める。草庵の跡と伝わる場所には石で造られた玉垣が巡らされ、そこがひとつの歴史的事蹟であることを印象づけている。
 それにしても山の中である。
 自らの身を隠すそのような場所に草庵を結び、そこに潜むように住み続けた日蓮の心の内にあったものは、いったい何であったのだろうか、という思いがふとわき起こる。
 幾度かの試練に遭ったあと、ようやく静穏な生活に戻れる機会を得た日蓮は、いよいよ法華経に専心し、人材の育成に専念しようと考えたであろう。
 だが、それだけの理由であれば、険しい山中に分け入って、不便な生活を営む必然性はなかったといえる。
 許されて佐渡から戻った日蓮が、幕府に申し述べた蒙古来襲の予言は、結局受け入れられなかったが、日蓮みずからは、そのことを確信していたのである。
 いずれ日本国は、蒙古に征服される、その時こそ、法華経の教えを、生き残った民人に布教しよう
 そのためにも、蒙古軍の手が及ばない山中に身を潜め、たとえ亡国ののちも、そこに法華王国をうち建てるのだ、という考えがあったと思われる。山の奥は、精神の自立を確保するにふさわしい場所でもあった。  
 日蓮が身延の山中にこもったその年の十月、「蒙古来襲があるであろう」という日蓮の予言が見事に的中することになる。蒙古の大軍が北九州の海岸に押し寄せてきたのである。 
 幸にして、蒙古軍は秋の台風に遭遇し、壊滅してしまうのであるが、この一事によって、日蓮の声望はいちだんと高まることになった。
 日蓮はこの頃、たて続けに『撰時鈔』をはじめとする数多くの著作をものにしている。また、日蓮の徳を慕って身延の山中を訪れる人がますます増えるようになるのである。
 こうしたなか、弘安4年(1281)の11月24日、念願の十間四面の信仰道場、現在の久遠寺の前身、法華堂が落成する。
 落成式には多数の人々が山を訪れ、その賑わいは京、鎌倉の町中のようであったと、日蓮はのちに書き記している。身延山に入山してから七年後、日蓮六十歳の時である。
 工事は波木井氏の協力によって行われたといわれ、ここに初めて本格的な布教活動の拠点がつくられることになった。日蓮教団の本拠地の誕生である。
 この間、再度の蒙古来襲があったが、神風(台風)が吹いたおかげで、今また蒙古軍が大敗するという椿事が起こる。日蓮はどんな思いで、その出来事を聞いたことだろう。
 法華堂の完成をみた年の翌年の秋、日蓮は、持病となっていた下痢の症状をさらに悪化させる。そして、その療養のために、故郷である安房の国へ赴くことになる。九年間住み慣れた身延の里を後にして、衰えた身体を馬にゆだねて、旅立ったのである。 
 だが、日蓮の病状は、安房の国にたどり着く猶予を与えなかったのである。弘安5年(1282)10月13日、旅の途上の、武蔵の国、池上村の知人宅で、ついに病に倒れ、帰らぬ人となる。享年六十一であった。
 現在の池上本門寺は、その旧跡に建てられたものである。
 そして、遺骨は「たとえ、いずくにて死に候とも墓をば身延山に建て給え」の遺言に従って、身延山に帰ったのである。
 ところで、日蓮がその生涯をかけて信仰した法華経とはいかなる内容のものだったのだろうか。
 法華経とは、ひらたく言えば、釈迦の教えが口伝されたものだといわれる。法華経はそれを文字化、つまり経典にしたものである。法華経の思想は、そもそも大衆部仏教(大乗仏教)の流れをくむもので、それが中国を経由、中国僧三蔵法師羅什訳典『妙法蓮華経』として我が国にもたらされたものである。経典は二十八品から成っている。そのうち十四品には、歴史上の釈尊のことが語られている。そして、あとの十四品では、永遠の命をもつ仏の教えが説かれている。
 法華経は説く。仏教徒が理想の世界とすべきところはこの人間世界の中にあると。日蓮がよって立つ立場もそこにあった。人間は久遠本仏の存在を信じて行動すれば、おのずから事実として仏の道が体験されるであろうと説いて、布教した。「南無妙法蓮華教」と口で唱えることは、まさにその実践であった。
 その意味は、「心身を捧げ尽くして(南無)、法蓮華経を唱えよ」ということであった。この題目を唱えることによって、人は本来そなえている仏性を現わすことができると考えたのである。
 仏性とは今様の言い方でいえば、創造的利他心ということであろう。この題目を唱えること即修行であると見なした。
 日蓮は法華経こそが釈尊の本意をいちばんよく伝えるものであると了解していた。その信念は、断固とした確信に満ちたものであった。
 日蓮の教えが他宗派に対する妥協のない闘いとしてありつづけたのも、法華経こそが唯一絶対のものと見なした結果であった。主著『立正安国論』では、日蓮のこの考え方が如実に表されている。
 日蓮はまた、法華経が世に広まる時は、末法の世であるととらえた。布教の過程で、法難に遭うであろうことも予知した。だがそれに耐えて仏の教えを広めることこそが、真の仏教徒であるともみなした。
 奥の院を訪れた翌日、山を下り、久遠寺の大本堂を訪れる。
 三門を潜ると、そこにも白装束姿の参拝団の姿があった。昨日は、山中では見かけなかった女性の参拝者の姿も交じる。それが珍しい光景に映った。白装束に身を纏い、黄色い声で「南無妙法蓮華経」を唱和する姿に、不謹慎ながら、ふと妙な色気さえ感じたものだ。
 老杉の巨木が影を落とす、冷気の漂う参道を進むと、長い階段が見えてくる。
 本堂に参拝するには、菩提梯と呼ばれる287段のその急坂の石段を登らなければならない。名の通り、それは悟りへ至る階段を意味するが、悟りへの階段は実にきついものだった。
 ときおり、小休止をとりながら、息も絶え絶えに登る。頭の中が燃え尽きそうであった。足腰が萎えて、もうこれまでというところで、ようやく入母屋造りの本堂の屋根が姿を現した。
 本堂の建つ広い敷地には、玉砂利が一面に敷かれていて、そこには大本堂のほかに日蓮上人の尊像を祀る祖師堂や、上人の分骨を納める御真骨堂などが建ち並んでいる。
 私は大本堂の千鳥破風のついた入母屋造りの屋根を仰ぎ見ながら、この地が聖地としてありつづけた意味をあらためて考えてみた。
 そもそも日蓮がこの地を隠棲の場所として選びとったその時から、ここが意味ある、特別の場所になったのは確かである。が、それだけでは聖地誕生の必要充分条件にはならないように思える。
 思うに、この地の山深い地理的条件が聖地イメージをいやがうえにも、高めたといえないだろうか。
 日蓮は蒙古襲来を恐れ、その難を逃れるには、身延山の山中が適地であると判断した。その結果選びとられた場所であったとすれば、自ずと山深い、奥行きのあるところであったことは必然である。
 奥行きのある場所に人が抱く神秘な思いというものは、そこが宗教的雰囲気をもつところであればなおさら増幅されるものなのである。