場所と人にまつわる物語

時間と空間のはざまに浮き沈みする場所の記憶をたどる旅

啄木ゆかりの地、盛岡

2019-05-18 11:48:08 | 場所の記憶
 盛岡はかつての城下町である。それを物語るように、町の中心地にある盛岡城のあたりには、旧城下町を思わせる古い街並みが残されている。
 市中を南北に流れる北上川と、雫下川と中津川とがそれに流れこむ、まさに水の都とであり、緑の多い杜の都でもある。
 やや冷たさを感じる駅を降り立ち、駅前から東に延びる広い通りを歩くと、すぐに開運橋という名の大きな鉄橋が見えてくる。橋の下を流れるのは北上川。瀬音を立てて勢いよく眼下を流れ下る。
 さらに行くとやがて前方に深い緑の森があらわれ、そこが盛岡城址であることが知れる。城壁を巡り北側の入口から城内へ。
 ちょうど桜の季節であったので、桜がかしこに眺められる。三の丸、二の丸、本丸と上り詰める。二の丸と本丸の間に空壕があった。かつては水をたたえていた内濠であろう。台座だけの銅像があったり、全体にがらんとした印象があるのは、城の建物があまり残っていないためだろうか。御多分におもれず、この城も明治のはじめ発令された「廃城令」によって破壊されたのである。
 本丸跡に立って盛岡市街を見渡して見た。北西方面に霞にかすんだ岩手山が見える。東側、眼下に流れるのは中津川である。
 ふとここで石川啄木が詠んだ「不来方( こずかた )のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心」を思い出した。この歌を刻んだ歌碑が城内にあることを知り、そこを訪ねて見る。碑はちょうど城の西北隅にあり、その奧に岩手山が望めるという場所であった。啄木の青春の気概を詠んだこの歌に、啄木の当時の心を想像して見たりする。
 そういえば、町の商店街の一角に啄木の少年時代の姿を模した銅像が立っていた。啄木がこの道を、こんな姿で、当時の盛岡高等中学校に通っていたのかと思えば、感慨しきりである。
 ところで、この盛岡城(不来方城)、かつてこの地方を治めた南部氏の居城であった。白い花崗岩の石垣が組まれているという珍しい城で、東北三名城のひとつに数えられている。
 もう20年近く前のことになるが、ある冬の季節にこの町を訪ねたことがあった。その時の印象は、町全体が雪に覆われ、寒々とした外観でしかなかったが、清冽に流れる北上川が、いかにも北国を思わせ、みちのくの遠い地にやって来たな、という思いがしきりだった。
 その時は、町中をどう歩き回ったのか、今や定かではないが、とある道をさまよっている時に、偶然にも、啄木が新婚時代にたったひと月だけ住まったという旧宅に出くわした。
 小体な木造平屋の建物で、「石川啄木」の表札が掲げられてあって、いまも啄木家族が居住しているような錯覚にとらわれたものである。当時の生活ぶりは啄木の『我が四畳半』に書かれている。聞けば、現在は内部の見物もできるという。

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