場所と人にまつわる物語

時間と空間のはざまに浮き沈みする場所の記憶をたどる旅

時雨のあと

2021-11-26 10:54:45 | 場所の記憶
みゆきには錺職人の安蔵というひとりの兄がいる。今は修業の身である兄は、いずれ独り立ちして、抱え女郎をいている妹を請け出そうと頑張っているのだ、と妹のみゆきは思いこんでいる。そんな兄がある日、みゆきの前に現れて、仕事のことで金が必要だ、ついては三両ほど用立ててもらえないか、と懇願した。みゆきはそんな兄のためなら、とあちこちから金を工面して兄に渡した。
実はその金は、賭場通いにのめりこんで、かさんだ借金を返すための金だった。借金が嵩むたびに、口実をつくって妹から金を巻き上げる兄に成り下がっていたのである。安蔵は仕事もせずに賭け事依存症なっていたのである。妹を早く身請けしようと思う焦りから、賭場通いしたのだが、途中から賭け事が面白くなって、のめりこんだのだった。
その安蔵が、自分の堕落した生活からきっぱり足を洗おうと決意する時が訪れたのである。風邪で寝込んだ妹を見舞った時のことだった。ふいに脳裏に幼い頃の兄思いの妹のことが思い出されたのである。「屋根を叩いていた時雨は、遠く去ったらしく、夜の静けさが家のまわりを取り巻いている気配がした」 「時雨のあと」より

・両国橋を渡って、安蔵は人気のない暗い広場を横切り、本町の家並みに入りかけたが、ふと足を駒止橋の方に向けた。橋を超えた藤代橋のあたりに、赤提灯を見つけたのである。

・安蔵は回向院南の相生町にある裏店に住んでいる。

・みゆきから金を引き出す口実を、必死に考え始めたのは、小名木川を渡ってからである。小名木川の川面に光る星屑の光をみながら安蔵は仕置場にI引かれてゆく罪人のようにしおれた。

・そこは両国橋の上で、川下の遥かに海と接するあたりの空が、一筋帯のように朱色に赤らみ、黒い雲が斜めにその空から垂れ下がっているのが見えた。雨は川上からやってきていた。大川橋のあたりが白く煙っている。

小説の舞台:深川  地図:国会図書館デジタルコレクション江戸切絵図「本所深川」 タイトル写真:両国橋(渓斎英泉)

冬の足音

2021-11-20 19:30:09 | 場所の記憶

お市は二十歳。そろそろ縁談話が持ち込まれる年頃である。現に叔母が嫁入り話を持ち込むことがしばしばあった。が、お市にはある思いがあった。数年前、父親の元で修業していた時次郎という男が忘れられなかった。そのため、持ち込まれた縁談話には気乗りしなかった。なぜ、時次郎は父の元を去ったのか。母親にそのことを尋ねると、悪い女に引っかかって、家の金を盗んだうえ蓄電したのだという。それを聞いてお市は思った。時次郎は悪い女にまつわりつかれて、逃れようもない場所に追い詰められていったのだと。
ある日、叔母が持ってきた話にお市は少し心を動かされた。が、その返事をする前に確かめたいことがあった。
時次郎に会って、彼の気持ちをたしかめたく思った。お市は、こんこんと身体の奥から噴き上がるものに衝き動かされていた。
久しぶりに時次郎に会うと、懐かしさがこみ上げてきた。思わず彼の胸のなかに飛び込んでいた。そして、「あのひとと別れて」と今の自分の気持ちを吐き出した。が、意外なことに、時次郎はそれはできないと泣いていた。聞けば、すでに子供が二人いるという。それを聞いて、お市はとんだ思い違いをしていたことを知った。「遠い空に血のような色に染まった雲が浮かんでいた。雲も、その雲を浮かべている暮れ色の空も冬を告げていた。風もないのに四方から寒気が押し寄せ、心の中までひびく冬の足音をお市は聞いた」   「夜の橋」より

・お市の家がある蔵前の森田町からここまで、何ほどの距離でもない。

・表通りの千住街道に出て、諏訪町の方に歩きながら、お市はそう思った。すぐにも黒江町の松ちゃんという家を訪ねたがったが、深川は遠く、町はたそがれ色に包まれていた。

・深川は橋が多い町である。お市はひとつの橋の上に立ちどまると、欄干に寄って、髪から抜き取った簪を、暗い川に投げこんだ。

小説の舞台:浅草 深川  地図:国会図書館デジタルコレクション江戸切絵図「深川」、「浅草」 タイトル写真:蔵前御蔵、首尾の松碑


  

裏切り

2021-11-15 19:10:12 | 場所の記憶
 
男女の心理の襞をさりげなく見事に描いている。
「人間てえやつは、思うようにいかねえもんだな」と幸吉は思った。幸吉はおつやという女と裏店に所帯を持っていたが、ある日、家に戻ると、女房の姿が消えていた。
数日後、殺されている女房を発見する。女房が自分の知らない世界に突然消えていってしまったと思った。それは深く朧な世界だった。おつやと過ごした、幸せな日々が終わった実感がどっと胸に流れこんできた。
後日、おつやには男がいて、その男に殺されたのだ、という噂が幸吉の耳に入ってきた。その男とはどんな男か、幸吉は突き止めたく思った。女房はその男に騙されて、こんなことになったのだ、と。その男の正体をつかみたい、幸吉はそう思い、あちこち探索した。するとひとりの男の姿が浮かび上がった。それは家にしばしば出入りしていた知り合いの長次郎という男だった。長次郎を疑うとすべてが合点できた。「ぎりぎりと歯を噛み締めながら、幸吉は夜の町を走った」長次郎の家に行き、事の顛末を聞きだすと、おつやの方が長次郎を好いていたということを知った。「そういうことだったのだ」と幸吉は思った。男と女って、いろいろなことがある、ということを今深く知ることになった。
「夜の橋」より 

・奥川町まで来て、そこから対岸の松村町にわたる橋の上に立つと、幸吉は茫然として橋の下を流れる暗い掘割を見おろした。

・二人は馬道通りを八幡宮の前を通りすぎ、三十三間堂の横に入って行った。

小説の舞台:深川 地図:国会図書館デジタルコレクション「江戸切絵図深川」 タイトル写真:黒江町モニュメント


夜の橋

2021-11-08 16:00:55 | 場所の記憶
  市井の片隅に住む男女の情を描いて妙。
 民次にはおきくという別れた女房がいる。ある日、そのおきくが民次の住まう裏店を訪ねてきたと、隣家のおかみが伝える。おきくは何か話があるらしい。数日して、民次はおきくが働いている飯屋を訪ねてみた。そこで民次は、おきくが嫁に行くという話を打ち明けられる。相手は表店の番頭だという。元の女房のおきくが、わざわざそんな話をするのは民次に未練があるからだった。
 ひと月ほどして、民次は、よく出入りする賭場で、おき くが付き合っているという男を目撃した。番頭にしてはやくざくもの顔をしていた。噂によればその賭場の常連であるという。民次はおきくにはふさわしくない男だと思えた。すぐにおきくにそのことを伝えた。さらに相手の男に直接会って、おきくから手を引くよう説得することにした。
 が、男は突然、凶暴化して民次に襲いかかってきた。格闘のすえ、男を打ちのめした。後日、男がおきくから手を引いたことを聞く。また前のよ うな平穏な日がもどっていた。出入りしていた賭場の胴元から頼まれた仕事も断って、民次はいままたおきくと縒りを戻したいと思っていた。

・民次は横綱町の裏店に戻ると、薄暗い井戸端から立ち上がった人影に、名前を呼ばれた。呼んだのは、隣の女房のおたきだった。

・二ノ橋を渡って、川ベリを少し西に歩いた松井町の裏店に、飯も喰わせ、酒も出す扇屋という店がある。

・店が閉まる前に、民次は外に出て、おきくを待った。あまり待たせないでおきくは出てきて、二人は町を抜けて五間堀にかかる山城橋に出た。橋には人の香が匂う。

・常盤町の角に、辻番所の高張提灯の灯がみえるばかりで、あたりは闇だった。それでも堀に映える星の光が水に揺れ、生き物のように蹲って動かない橋がみえた。

・左に俎板橋を渡れば、松井町の一丁目から弁天社の横を通り、石置場に突きあたって一ノ橋に出る。右に行けばニノ橋である。

・高橋を渡った三人連れの男は、森下町にくると、短い声をかけ合って二人が横丁にそれ、五間堀にかかる弥勒橋を渡るときに、謙吉一人になっていた。

小説の舞台;深川  地図:国会図書館デジタルコレクション「江戸切絵図深川」 タイトル写真:小名木川にかかる高椅




約束

2021-11-05 11:14:13 | 場所の記憶

やもお(寡男)である熊平は一男二女の子持ちである。妻が亡くなってからというもの大酒飲みのぐうたらな父親になった。三人の子供を抱える大変さに押しつぶされたのである。長女のおきちはまだ十歳だったが、二人の下の兄弟の母親がわりになって家事にあたっていた。ある日のことだった。父が呑んだくれて行き倒れになり、それが原因で数日後、息をひきとるという災難にあった。ところが、災難はそれで終わらなかった。こんどは父親があちこちに借りまくっていた借金がかさんでいることが判明、取立てが押し寄せた。周囲の人間がいろいろ手助けをしようとするが、おきちはきっぱりと言い放つ。「親の借金は子の借金ですから」と。尋常の働きでは返せない借金を帰すために、おきちは岡場所で働くことを決断する。そしてその日。「女衒の安蔵が来て、手に風呂敷包みを持つおきちが家を出て行くのを、人々が見送った。みなさん、おせわさまでした。おきちが一人前の大人のように言った。だが、言い終わると同時におきちは手で顔を覆って激しく泣き出した。・・やっと十の子供にもどったおきちを見たように思いながら、みんなは安心して泣き、口ぐちに元気でねと言った」  「本所しぐれ町物語」より

・裏店は静まり返って、どの家も、軒も黒々と寝静まっていた。おきちは木戸をあけて裏店を抜け出すと、表通りに出た。そして一丁目の方に向かって歩き出した。思ったとおり空は曇っていたが、どこかに月がのぼっているらしく町はぼんやりと明るかった

・表通りに出ると、遠く林町に近いあたりに、一丁目の自身番の灯がぽつりと見えるほかは、灯影と言うものがない町が、ふたたび恐怖をはこんで来たが、おきちはこらえて町家の軒下に眼をくばりながら、出来るだけゆっくりと歩いて行った。

小説の舞台:深川  地図:国会図書館デジタルコレクション「江戸切絵図深川」 タイトル写真:弥勒寺