場所と人にまつわる物語

時間と空間のはざまに浮き沈みする場所の記憶をたどる旅

ニコライ堂

2022-06-16 11:13:22 | 場所の記憶
 お茶の水界隈にあるランドマークといえばまず、駿河台の台地上にあるニコライ堂をあげることができよう。駿河台下からJRお茶の水駅へ向かうゆったりした坂道を上って行くと、左手に緑色がかったドームを目にする。
 周囲の近代的な建物の間からひっそりと姿を覗かせている円屋根。そのさまは、東京の猥雑な町並みに絶妙に溶けあって気品ある美しさをたたえている。
 ニコライ堂の正式の名は、「日本ハリスト正正教会教団東京復活大聖堂」という。
 ニコライ堂の名で呼ばれているのは、この寺院の初代主教がニコライというミンスク(現・ベラルーシの首都)生まれのロシア人であったためである。
 建物の建立は明治24(1891)年。設計はロシア人美術家シチュルポフ、英国人コンドルがそれを修正し完成させたものだ。
 コンドルはロンドンで設計を学び、明治10年来日、その後東京に建築事務所を開設、日本の洋風建築に多大な影響を与えた人物だ。彼の作品にはこのほかにも、今は痕跡すらないが鹿鳴館がある。
 ニコライ堂に近づいて見ると分かるが、建物は煉瓦造りで、シンボルの中央ドームは高さ38m、正面はギリシア十字形をしたビザンチン様式からなる。この正堂のわきに尖頭状の鐘楼がそえられている。
 狭い敷地にこぢんまりと立つ建物ではあるが、じつに存在感がある。
 聖堂内に足を踏み入れると、中央奥に聖壇がしつらえてあるのが目にとまる。聖壇は真ん中に宝座、その左右に祭壇が配置されていて、異国臭と厳粛さに満ちあふれている。
 聖壇の左右には聖画(イコン)が分厚い煉瓦積みの壁に掲げられている。そして、鉄のサッシがはめ込まれた窓からは外の明かりが流れこみ、聖堂内に光と影の絶妙な空間をつくりだしている。
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 僧侶の頭を彷彿とさせる円屋根をもつニコライ堂を眺めていると、思いは、はるか北の国に馳せる。
 それはロシアの大地である。若い頃、仕事で冬のモスクワを訪れたことがあった。真っ白な銀世界を背景にして見た、幾つかのロシア正教会の異国情緒あふれるたたずまいが、今でも脳裏に焼きついている。
 それはまた、感銘深く心に刻まれたロシア映画の幾つかの場面とも結びついて、より一層、神秘的な建造物として私の記憶にこびりついている。
 銀世界のなかに佇む聖堂のイメージとしては、もうひとつ、函館のハリストス正教会を忘れることができない。
 あれはちょうど数年前の雪の降りしきる2月のことだった。雪の世界にひたりたいという思いに駆られて、わざわざ函館を訪れたことがあった。 
 幾つもの坂を登ったり、下ったりしながら、町の中を地図も持たずに歩き回った。それはまさしく、あてもないさ迷いであった。それだけに、予期せぬところで、ハリストス正教会に出会った時は、雪の中に楚々と立つ、気品あふれる貴夫人にでも出会った思いがして、一瞬はっとさせられた。深く積もった雪を踏みしめながら、建物の全体が視野におさめられる場所を探し、そこに立って、まじまじと眺め見たものである。    
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 幕末の一時期、函館のハリストス正教会の建つ地にロシアの領事館が置かれていたことがある。
 そして、その領事館付きの伝道師として赴任したのがニコライ大主教であった。万延2(1861)年のことである。
 当時、日本は開国か攘夷かで、国論が二分していた。
 幕府は、開国やむなしの考えで、安政元年(1854)日米和親条約を結び、次いで、ロシアとも日露和親条約を締結。それによって函館、下田、長崎の開港を認めたのである。函館にロシアの領事館が置かれたのも、そうした変動の時代であった。
 その後、ニコライは日本全国を北から伝道を開始し、東京のお茶の水に拠点を築いた。それがニコライ堂であった。
 ちなみに、函館のロシア領事館跡にハリストス正教会が建てられたのは大正5(1916)年。お茶の水のニコライ堂が造られてから25年後のことである。時あたかも、ロシア革命の前の年であった。