場所と人にまつわる物語

時間と空間のはざまに浮き沈みする場所の記憶をたどる旅

戸隠山 ・・・農業神を祀る修験の霊地

2023-12-08 22:13:16 | 場所の記憶
 すでに11月のなかばである。戸隠高原は冬の気配であった。夏のシーズンには若者たちで賑わう高原も、今はひっそりとしていて、紅葉のピークをこえた色あせた黄葉をつけた雑木が、長く寒い冬を前にして、身をかたくしている様子であった。
 バスは、正面にひろがる戸隠宝光社の森を仰ぎつつ登り坂をゆくと、やがて門前の集落に着く。
 人影のない戸隠宝光社の社前に降り立った時には、鉛色のどんよりした空から、ちらほら小雪が舞い落ちてきた。
戸隠神社のひとつ宝光社は、山を背にした杉林のなかに鎮座している。古びた鳥居をくぐり、長い石段を踏みしめてのぼると、そこに古格の社殿が姿をあらわした。
 唐破風の張り出した本殿は、規模はさほどではないが、いかにも時をへた味わいがあり、森厳な雰囲気に満ちている。
 軒下をのぞいて見る。そこには華麗とも言える装飾が各部分に施されている。十拱(ときょう)、蟇股(かえるまた)、木鼻(きばな)部分にみる彫刻。それらはこの地方に伝わる伝統工芸品の類いを見る思いであった。さすがに宝光社の名にふさわしいつくりであると感心する。
 社伝によれば、宝光社の創建は康平元年(1058)、後冷泉天皇の御世であるという。戸隠山修験について詳述した『戸隠山顕光寺流記』によれば、その年、大樹の梢に光を放つ御正体が飛び移り来たった。そして、そこに庵が結ばれた。そんな怪異な伝承が残る神社である。 
 祭神は天表春命(あめのうわはるのみこと)といい、学問技芸裁縫、婦女子・子供にとって神徳のある神さまである。「春」という文字をあてているところなど、何やらかそけき色香ただよう神さまを想像させる。
 それにしても人影のない神社の境内というのは、妙に空虚感があって、そら恐ろしさが漂うものだ。神さびた気配がいっそう濃くなるのである。
 社殿わきにある神輿蔵に「文化元年、江戸神田職人」の銘の入った古風な神輿を見る。高さ八尺、重さ二百五十貫というから相当なものである。
 そこにいわくが書かれてあった。それによると、江戸期、その神輿は、七年に一度の大祭を迎えると、遠く江戸にまで繰り出したという。この出開帳ともいうべき興行で、多くの信者を集めることに成功、それによって神社も大いに潤ったという。
 社殿のわきから通じている神道に分け入ってみる。のどかな高原の自然林道のようなその参道は、林のなかをぬって中社に通じている。
 道の両側に冬枯れのクヌギやミズナラが林立し、明るい陽を浴びて、それらはどこか華やいでいる。幾日か前に降った雪で、参道がすっかり白くなっている。
 雪をかぶったクマ笹の葉が陽に輝いて目に痛い。ときおり、かん高い声をあげながら山鳥がすばやく飛び去ってゆく。
 遠い昔、こんな道をたどって、雪に埋もれた山里を訪ねたことがあったような気がする。
 どこまでもひろがる銀世界のなかをさ迷ううちに、やがて、畑地があらわれ、石塊のような小さな墓石がまじる屋敷墓が見え、こんもりとした茂みのなかに茅葺きの屋根があらわれた。
 それは、おぼろで、色あせた記憶のなかの、時がとまったような風景ではある。
 歩くほどに、遠くに黒いものが動くのを目撃した。一瞬、熊かと思って肝を冷やしたが、近づいてみると、それは、薪を集めにやって来た農夫であった
 黒い影を熊と思ったのは、参道の入口に「熊の出没あり注意」の看板を目にしていたからである。そのことを、件の農夫に告げると、「熊はこの時期はすでに冬眠しているわな」という返事でひと安心する。
 農夫と立ち話をしていた場所で、偶然にも、伏拝(ふしおがみ)と刻まれた碑をみつける。碑文によれば、かつて戸隠の奥社は女人禁制であり、また、冬の時期は、雪が深くて、奥社への参拝ができないために、ここから奥社を遥拝したのだという。
 農夫と別れ、さらに行くと、林が切れ、ぽつぽつと茅葺き屋根の民家が見えはじめる。畑があり、キャベツやネギ、大根が雪のなかで元気に育っている。
 大きな屋根をのせた入母屋づくりの宿坊風の家もあらわれる。そろそろ中社が近いことをうかがわせた。
 いわゆる宝光社、中社、奥社の戸隠三社と呼ばれる社のなかでも中社がその中心に位置する。その規模の点ばかりでなく、奥社と宝光社の中間に位置するという地の利からもうなずける。
 大門通りと呼ばれる中社に通じる参道を進んで行くと、道の左右に、トタンや茅で葺いた大きな屋根をのせた旅籠が目に入る。いずれも、かつて御師の家と呼ばれた建物で、豪壮なつくりである。
 昔ながらの、せまい参道を行くと、そのはてに、緑につつまれた、こんもりとした丘陵があらわれる。中社はその森のなかに鎮座しているのである。 
 今しも、観光バスで乗りつけた団体客が三々五々、大鳥居をくぐってゆく。
 社殿に至るには、その大鳥居から急勾配の石段をのぼらなければならないのだが、それにしても、どこの神社にもかならずと言っていいほど、石段というものがある。これも俗界と聖なる場所とをへだてるための空間構成なのだろう。
 石段を一歩一歩、踏みしめるようにのぼる。のぼるほどに、社殿の屋根が少しずつせりあがるように見えはじめる。少しずつ神域に近づいている実感がわきあがる。
 中社の本殿は、宝光社と比べると、全体のつくりが質朴な印象である。たとえば、間口は宝光社より広いが、唐破風の描く曲線がゆるやかであり、軒下の装飾もシンプルにつくられている。    
 この中社の創建は堀河天皇の治世の寛治元年(1087)のこととされ、宝光社と同じように奥社から分祠されたものである。
 創建の縁起は、戸隠山は本来三社であるべきであるという神のご託宣により造られたものという。したがって、三社のなかでもいちばん新しく、宝光社ができてから三十年後の創建である。
 祭神は天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)と何とも読みにくい名前であるが、あの天照大神が天の岩戸に隠れた時に、神楽を舞い、岩戸を開かせた神さまだと聞けば、急に親しみがわく。それもあってか、開運、商売繁盛に神徳があるとされる。
 さきほどまで止んでいた小雪がふたたび風に舞いはじめる。薄日が消えて、黒い雲がおおう。と急に寒気がます。
 杉は神社にはつきものだが、中社にはそのなかでも樹齢八百年に及ぶという、仰ぎ見るような巨大な杉が三本ある。古来より神木と讃えられているその三本の古木は、ちょうど三角形をなす空間の頂点に立っている。その間隔72メートルというのも何か意味があるのだろうか、とにかく大きいのである。古さと大きさがいやがうえにも神々しさをかもしだす。
 中社から奥社への道は、いかにもリゾート気分のあふれる明るいドライブウェイになっている。ミズナラや白樺、唐松の林をぬうその道をたどると、目の前に重畳たる山並みが見えてくる。
 あの山並みこそが、戸隠修験道の霊域として崇められた戸隠連峰だと思うと、思わず、厳粛な気分にとらわれる。
 雪におおわれているが、岩肌もあらわな峻厳な山塊であることが手にとるように分かる。巨岩が露出し、険阻な岩峰がそそり立っているのだろう。
 そうした山中こそが修験者にとっては業を積むにふさわしい場所であったのである。修行のための三十三もの霊窟や蟻の渡り、剣の渡りといった岩登りの難所もあると聞く。   
 雪模様の暗い雲が山の端にずっしりとはりついたようにたなびいている。時折、唐松林を、風がザワザワと音を立てながら吹きわたる。
 奥社入口の標識が立つところで道を折れ、鳥居川の清流をわたり、大鳥居をくぐる。
 奥社の参道はこんなにも長い参道があるものかと思うほどに長い参道がどこまでも延びている。それも真っ直ぐまっすぐに延びている。しかも、そこはすっかり雪におおわれていた。
 これから奥社に向かう人と、参拝を終えて戻る人とが、はるかにつづく白い参道に点々と見える。参道わきのミズナラの木々の枝には、凍りついたような雪がへばりついている。歩くほどに参道の雪が深くなる。
 薄日が射したかと思うと、またかき曇り、風が巻き起こる。すると、一瞬、地吹雪となって雪が舞い上がる。
 かすかに随身門が見えてくる。参道の中間点にある随身門は、すっかり雪のなかであった。朱色に塗られた古びた入母屋づくりの茅葺きの門が、神域らしさをいっそうかもしだしている。 
 この門は、またの名を仁王門とも呼ばれているところからすると、かつて、三間二面の門の左右には仁王像が立っていたのだろう。そこに現在は神像が安置されている。
 今歩いてきた随身門までが参道の外苑にあたるとすれば、そこから先は神域の内苑ともいうべき場所である。
 門をくぐり、奥深い参道をおし進む。随身門から先は杉の巨木が並木をなして連なっている。
 慶長17年(1612)、時の幕府より千石の朱印地を賜ったことで、奥社を中心に院坊が集められたといい、その時、参道にクマ杉が植林され、それ以後、一山の威容を備えたという。
 クマ杉と呼ばれるだけあって、その樹姿はそそり立つように大きく、威厳に満ちている。夏の季節には鬱蒼たる緑のトンネルになるのだろう。歩むほどに、しだいに参道はのぼり道になる。
 随身門から奥社までの参道沿いには、かつていくつもの院坊や大講堂が建ち並んでいたという。今でも草むらを分けると、石垣や礎石を見つけることができる。が、今やあたりの景観は自然そのものに帰っているのである。 
 そう言えば、奥社のある神域一帯は、モミ、イチイなどの針葉樹やブナ、ミズナラなどの広葉樹が森をなし、原始林的な植生が保たれている貴重な山域であるという。神域は、そうした場所でもあるのだ。
 参道に沿うように小さな流れがある。講堂川である。多宝塔や奥社までの距離を示した町石を目にすると、やはり歴史ある参道であることを知らされる。
 のぼりの道がさらに勾配をます。靴が雪のなかにすっぽり埋まってしまう。直進していた参道が大きなカーブを描くようになる。 
 聞くところによると、この辺の参道は、かつてはもっと曲がりくねっていたらしい。それを証明するように、古道の跡が草むらのなかに見つかるという。
 やがて、参道がつま先上がりののぼりになって、大きく屈曲する。さらに、最後の石段を上がると、鳥居があり、雪をいただいた蛾々たる戸隠山を背負うように奥社があらわれた。
 奥のその果てについにあらわれた奥社。古びた社を想像していたのに建物が案外新しい。崖崩れにも耐えられるように社殿が石垣でかためられている。
 この奥社の起源について、前出の『戸隠山顕光寺流記』は次のような伝承を書き記している。 
 この地の開山の祖である学門行者という人が、修行のため飯縄山にのぼった。艱難辛苦のすえ山頂に達すると、あたりには霊気が満ちていた。すでに日没の頃であった。
 そこで行者は、仏法の繁栄を祈願して金剛の杖を投げた。すると杖は光を放って、百余町離れた九頭竜神が棲む岩窟上に落ちたという。まるで流星の落下のようである。
 杖を求めて、件の岩窟に至ると、九頭竜神があらわれ、この地に仏法をひろめる根拠地をつくれ、というご託宣があった。そこで、一堂を設け、戸隠山顕光寺としたという。これが現在の奥社である。
 伝承が伝えるように、かつて戸隠山は仏法の修行地とされた場所であった。なかでも天台派山伏の道場として、つとに知られる場所であった。
 のちに真言派も入り、両派の対峙で中世期をとおして隆盛をきわめ、戸隠三千坊といわれるまでになった。
 その後、戦国時代になって武田、上杉の領地争奪の争いに巻きこまれ、三十年もの間、一山をあげて隣村に避難するという不幸に見舞われるが、江戸時代には天台寺院として位置づけられ存続したのである。
 このように明治維新の神仏分離によって神社となるまで戸隠山は仏教の霊地として栄えたのである。
 ところで、この奥社の祭神は天手力雄命(あめのたちからおのみこと)であるという。天の岩戸を無双の力で押し開けたというあの有名な怪力の神さまである。
 天手力雄命が、天の岩戸をこの地に隠し置いたことから、戸隠と呼ばれるようになったという地名由来説もあるくらいである。祭神にするにふさわしい神さまであったのだろう。 
 が、学門行者の伝承にもあるように、むしろ戸隠の土地神は、九頭竜神社に祀られている九頭竜神なのである。奥社本殿に隣接して建つ古格の風貌をたたえる九頭竜社の創建は年月不祥と言われるほどに古いという。
 九頭竜神は豪雨を呼ぶ神として水神の権化とみなされている。水は農耕生活には欠かせない貴重なもので、それが九頭竜神の信仰に結びついたといえる。
 戸隠山が古来から霊地とされ、地元の人々の信仰の対象になったのは、そうした民俗信仰に支えられた結果であった。 
 戸隠という山がもたらす豊かな自然の恵みを、人々は神話や伝説のかたちに創生し、のちのちの時代に言い伝えてきた。
 いっとき、明るい日差しが戸隠の山々を白く輝かしたかと思うと、すぐさま霧とも雲ともつかないものが山の姿を深くおおい隠してしまっていた。

画像は戸隠奥社への参道