場所と人にまつわる物語

時間と空間のはざまに浮き沈みする場所の記憶をたどる旅

千住のお化け煙突ー幻影

2018-09-20 12:37:37 | 場所の記憶
          
  それはずっしりとした存在感があった。子供心に恐ろしいものに見えた。お化け煙突と呼ばれた、高さ83メートルもある四本の黒い煙突は、町のどこからも遠望できた。その高さは尋常ではなかった。鉱物的なその煙突のかもしだす風貌は、つねに威圧的であった。
 お化け煙突と呼ばれる、その煙突は、じつは、火力発電所であった。
四本の煙突が、ちょうどひし形に立ち並んでいるために、眺める場所によって、その本数をさまざまに変えた。お化け煙突の名はそこから銘々されたものだと、最近まで思っていたら、本当はそうではないらしい。
お化けの真相は、それらの煙突から立ちのぼる煙が、ときおり出たり、出なかったりで、それが不思議に思えたためにつけられたというのが本当のところであるらしい。
 とはいえ、お化け煙突の銘々の由来は、今や俗説のほうが一般化している。
つねに煙をはかない煙突事情は、じつは、その火力発電所が電力不足の際の、臨時用として位置づけられていたためであった。
 この煙突が建造されたのは、大正15年のことだ。東京電力の前身、東京電灯が足立区千住桜木町の隅田川沿いにつくったものである。
 その煙突は東京名物であった。そのためか、いくつかの映画の舞台背景に使われている。なかでもこの煙突を有名にしたのは、昭和28年に上映された「煙突の見える場所」という映画であった。
 文字通り、煙突が題名になった、五所平之助監督、上原謙、田中絹代という有名俳優が出演したこの映画は、その頃の千住という下町の風景や生活を描いて好評であった。
 地元に住む人間にとって、この映画の舞台が、自分たちの住む町であり、そのロケが住まいの近くの路地裏で行われたことが話題になった。当時、小学生であった私は、やじ馬根性も手伝って撮影現場をのぞきに行ったものである。
映画のなかで、お化け煙突は、川の向こう側に見えていた。ということは、映画の舞台は荒川(放水路)の北側に設定されていたことになる。主人公たちの家の窓からは、広い川がひらけ、その向こうに三本の煙突が望見できた。
 その煙突は明るい空に屹立し、のどかで牧歌的でさえあった。映画のなかで、煙突はその本数を変えて幾度か登場している。
 が、私の記憶にあるお化け煙突は、もっと間近にあった。黒くそそり立つその煙突は、音もなく煙を吐き出し、不気味としか言いようがなかった。夜になると、黒い図体を闇にとかして、光さえ発していたのである。
お化け煙突は、その後も幾つかの映画に登場している。昭和33年には「一粒の麦」「大学の人気者」に、同35年には「女が階段を上がる時」に、同38年には「いつでも夢を」にとつづく。
 ところが、そのお化け煙突が消える時がやってきたのである。昭和39年11月のことである。石炭を燃料とするその火力発電所は採算性から難点があるということで廃止されることになったのだ。ちなみに、佃島の「佃の渡し」が消えたのもこの頃のことだ。
 国のエネルギー政策の転換がそこにはあった。ちょうど日本が高度経済成長を驀進している頃である。
私の記憶によると、それより数年前に、煙突は黒からシルバー色に化粧直ししている。時代の変遷のなかで、お化け煙突もこぎれいになる必要があったのだろうか。以来、煙突の印象がだいぶ変わったように思えたものである。
 が、私には、それはなじめなかった。黒々としたその風貌こそがお化け煙突にふさわしかったからである。
そこにあったものがなくなるという空虚感はたとえようもないものがある。いよいよ煙突が撤去されるその時のことをはっきり覚えている。
 煙突はいっきょにその姿を消さなかった。
それは生殺しのように、少しずつ削りとられ、その高さを失い、やがて、四本とも消えうせていったのである。あとには、そこにだだ広い空地が横たわった。
 煙突が撤去されると、今まで千住という町にあった重しのようなものがなくなり、求心性のない町になった。
それは私が大学を卒業して社会人になった年であった。毎日が忙しく、もはや、そこにあったであろう煙突を思うこともなくなっていた。


「切絵図」を歩く 本郷通り〜白山

2018-09-18 12:16:54 | 場所の記憶
  本郷三丁目の交差点から、さらに本郷通りを北上すると、右手通りの向こう側に、唐破風の番所を設けた薬医門形式の朱色の門が見えてくる。赤門である。
 赤門といえば東大の代名詞になっているが、ここはかつて加賀百万石、前田家の上屋敷があった場所である。
 この赤門は、徳川11代将軍、家斉の息女が前田家に輿入れする際につくられたもので、正式には御主殿門という。御主殿門というのは、将軍の娘が、三位以上の大名に嫁した時、御主殿と呼ばれたためである。
 ちなみに、この赤門界隈の風景を、歌川広重が『江戸土産』のなかで「本郷通り」と題して描いている。
 赤煉瓦塀に囲まれた広大な敷地は、今は東京大学であるが、「切絵図」を見ると、加賀中納言と水戸殿とある。大半は加賀藩の敷地で、水戸藩の中屋敷は、現在、農学部が置かれている敷地である。
 ところで、5代将軍、綱吉治世の元禄15年、藩邸の敷地八千坪を使って迎賓館ともいうべき御成御殿がつくられたことがあった。が、その豪華な建物も翌年には焼失。こうした、度々の火災や地震で、幕末の頃には、屋敷はまるで廃墟のように荒んでしまったという。その後、明治9年、東大の前身の建物がつくられ現在に至っている。

 東大正門前の一帯は、かつて森川町とよばれていたところである。「切絵図」を見ると岡崎藩主本多美濃守の屋敷地とある。今は本郷六丁目と町名変更しているが、この町に隣接する西方町とともに、一帯は近代文学の作家や学者が多く住んでいたところである。
 西方町の町名は現在も健在であるが、この町域は福山藩主阿部伊豫守の屋敷地(中屋敷)があったところだ。阿部家は代々の老中家で、11代正弘は日米和親条約を結んだ筆頭老中として歴史に名高い。
 かつてこの地に誠之館という藩校が置かれていたが、同町にある、明治8年開校の誠之小学校はこの藩校の名を引き継いだものだ。

煉瓦塀のつらなる東大前のイチョウ並木をさらに北に向かうと、やがて道は二股に分かれる。ちょうど、東大農学部があるあたりである。
 「切絵図」を見ると、追分と記されている。古くから本郷追分と呼ばれ、荷駄の往来で賑わったところである。ここに一里塚があった。
 右を行けば、日光御成街道(岩槻街道)、左を行けば中山道(国道17合線)だ。道が分かれるところに、森川金右ヱ門とあるが、森川町の名はこの人物の名をとったもの。
 金右ヱ門は、この地にあった御先手組の組頭で、中山道の警備の任についていた人物である。
 また、この地には、高崎屋という江戸で有名な現金安売りの酒店があった。
 右手の道、御成街道を行く。
 このあたり、「切絵図」では、大番組、御小人中間、御先手組の組屋敷が連なっている。いずれも幕府役人が居住していた地域である。
 しばらく行くと寺町になり、道の左右に幾つもの寺が現れる。通りの左側にあるのが西谷寺(現在は西善寺)、唐辛子地蔵がある正行寺、そして右側に經妙寺(現在は浩妙寺)、極彩色あふれる浄心寺。この寺には春日局がご愛祈したお地蔵さんがある。そして、長元寺、十方寺とつづく。
 やがて、左手に見える向ヶ丘高校を過ぎるあたりで繁華な商店街になる。向ヶ丘二丁目交差点に出たら左に折れる。一言寺(現在は一音寺)の前を過ぎ、中山道を南にもどる。このあたりかつては白山前町と呼ばれたところである。
 由来は、近くに白山権現(白山神社)があったからだが、その門前町として賑わった町人地である。
 左手に入ったところにあるのが大円寺。しばしば江戸の火事の火元になった寺である。この寺に八百屋お七にちなんだ地蔵が安置されている。この地蔵はほうろく地蔵の名で知られ、焙烙(素焼きの土鍋)を寄進すると、首から上の病気、特に眼病に効き目があるとされ、江戸時代には庶民の絶大な人気を集めたという。
 ついでながら、この寺には高島秋帆と斎藤緑雨の墓がある。
秋帆は幕末の洋学者。緑雨は明治期の気骨の文学者で知られている。
 大円寺の前の坂道を西に入る。「切絵図」では坂の途中に浄心寺、円乗寺の名が見える。この坂を浄心寺坂という。円乗寺には八百屋お七の墓がある。なぜか三基あるが、中央の墓に妙栄禅定尼の戒名と天和3年(1683)3月29日という処刑の日が刻まれている。
 お七の墓がここにあるのは、ここが彼女にとって因縁ある場所であるからだ。
 ある日、大円寺の火事で焼け出されたお七一家がここに避難していた時のことだった。そこでお七はその寺小姓と運命的な出逢いを果たすことになった。お七はのちに寺小姓に恋い焦がれ、ついに自分の家に放火するという大罪を犯すことになる。
 これが巷間知られる八百屋お七の物語であるが、史実はほとんど分かっていない。
 ちなみに、お七の家(八百屋)は本郷追分片町にあったというから、前述の高崎屋と同じ町域にあったことになる。追分を左に進んだ中山道の東側にあたる。
 坂を下りきったところで、こんどは傾斜のある通り(白山坂)を上る。「切絵図」を覗くと通りの左に寺社がかたまっている。白山権現(白山神社)を囲むようにして心光寺、妙清寺、竜雲寺などの名が見える。江戸期、このあたりは樹木が鬱蒼とした場所だったのだろう。
 白山神社は長い参道を上りつめた台地上にある。明治22年建立の大鳥居をくぐると、緑濃い境内がひろがる。唐破風を張り出した銅板葺き屋根の拝殿は見るからに堂々と古社の雰囲気をたたえている。
 神社は小石川を鎮守する古い社であるが、特に5代将軍綱吉とその生母桂昌院の厚い信仰を受けて栄えたという。背後にそそり立つ建物は東洋大学だ。都営三田線白山駅はすぐそばである。

「江戸切絵図」を携えて 本郷三丁目〜菊坂

2018-09-15 11:04:50 | 場所の記憶
  このコースの出発点は東京メトロ丸ノ内線本郷三丁目。駅正面の商店街を抜けるとそこは本郷通りだ。通りに沿って北方向にすすむと、すぐに広い交差点に出る。
 交差点の角に大きな文字で「かねやす」と書かれた店を目にする。今は7階建てのビルになっている洋品店だが、江戸時代、「かねやす」(兼安)は、蔵を備えた瓦屋根の町家だった。
 この店が「本郷も兼安までは江戸の内」と江戸川柳に詠われた小間物を扱う老舗である。
 「かねやす」が有名になったのは、ここで売り出されていた赤い歯磨粉が江戸庶民に人気を博したからであるが、それに貢献したのが、赤穂義士のひとり、堀部安兵衛。
 吉良邸討ち入りで有名になった安兵衛揮毫になる店の看となれば、おのずと客が集まるというものである。
 私ごとであるが、私の妻の祖父(銀座万久)が兼安10代目の婚礼時(昭和の初め)の仲人であった、という話を聞いたことがある。
 
 本郷三丁目交差点を渡り左折する。このあたり、かつて真砂丁と呼ばれていたところである。真砂丁は泉鏡花の『婦系図』の舞台になったところでもある。
 近くにあった真光寺(戦災で廃寺になった)の門前町として、寛永年間に開かれた町屋で、神霊を京都の北野天満宮から勧請したところから、地元では北の天神の名で親しまれているのが、現在の桜木神社である。今も付近には仕舞屋風の家や看板建築の商店が散見される。
 さらに春日通りを西に歩くと、「文京ふるさと歴史館」の標識が見えてくる。交通量の多い通りと別れて閑静な通りを右すると「ふるさと歴史館」の建物が見える。ここで文京区の歴史の概観を学び、これからの散策の参考にするとよい。
 ちなみに、「切絵図」を見ると、このあたり信州上田藩5万8千石の松平伊賀守の屋敷地であったことが知れる。歴史館に並びに古風な武者窓のついた屋敷があるが、なにやら往時を彷彿させる雰囲気がただよう。通りの右手は真砂町図書館だ。
 道はやや下りになり、その先に階段がある。階段左手の、現在は日立本郷ビルが立つ敷地に、明治の文豪、坪内逍遥が住んでいた。その家は春廼舎(はるのや)と呼ばれ、近代日本文学の狼煙があげられたところである。
 「春廼舎は、本郷真砂町の炭団坂の角屋敷崖淵にあった」と門人のひとりが回想文を残している。ここには俳人正岡子規も明治21年から三年あまり寄宿していたことがある。この敷地も先ほど記した松平屋敷の一部だった。
 炭団坂と呼ばれる急な坂を下るとそこは菊坂だ。このあたり菊を栽培する家が多かったところからその名がついたという。「切絵図」では緑地をはさんで二本の狭い道が屈折して延びている。二本の道の左側には下級武士の家が並び、右側には本妙寺と長泉寺の広い敷地がひろがっている。そして、その地続きに菊坂町の町家がある。菊坂はいわば、左右の台地にはさまれた谷の底というところだ。
 ちなみに、この本妙寺という寺、今は巣鴨に移転しているが、幾たびかの江戸大火のなかでも最大といわれる明暦の大火(明暦3年)の火元になった寺だ。この大火は振袖火事と呼ばれ、江戸城の天守閣をも焼失している。
 ところで、この大火が振袖火事と呼ばれたのには訳があって、それには因縁めいた振袖の話が伝わっている。
 明暦3年(1657)1月18日のことである。その日、本妙寺では大施餓鬼が催されることになっていた。そして、その際に一枚の振袖が供養のために焼かれることになっていた。
 そして、いよいよ施餓鬼の儀式が執り行われることになり、件の振袖が火の中に投じられた。すると、どうしたわけか、その振袖が一陣の風に煽られ燃え上がった。そして、あっという間に本堂に火が燃え広がったのである。これが明暦の大火の発端であった。

 時代は下るが、この付近に、大正3年開業の西洋風のモダンな菊富士ホテルがあった。現在、オルガノ社という会社の敷地に記念碑が建っているが、そのホテルは多くの文人や著名な学者が滞在したことで知られ、数々のエピソードが残されている。
 右に湾曲した二本の道は、現在もそのまま残り、左手には長屋風の家が狭い路地をはさんで肩を寄せあうように立っている。このあたり明治の雰囲気が多少なりとも残るところだ。
 樋口一葉が母と次兄と共に、明治23年から3年ほど住んだ旧宅跡が、そんな一角に残っている。軒下には植木鉢がたくさん並び、一葉が使ったという掘井戸が今も健在である。
 菊坂から上手の通り(右手)に出ると、すぐ先に古格な土蔵が目に入るが、それが、一葉が貧窮いよいよ迫り、古着を質入れするためによく通った質屋・伊勢屋である。現在、土日に限り一般公開されている。
 明治26年5月2日付の『一葉日記』にも「此月も伊勢屋がもとに走らねばことたらず。小袖四つ、羽織二つ、一風呂敷につつみて」と記されている。
 「切絵図」では一葉の旧宅から二つ目の左手に鐙坂(あぶみさか)という名の坂がある。その坂上に高崎藩主松平右京亮の中屋敷があった。鐙坂の名は、坂のかたちが鐙に似ているからとも、鐙をつくる職人が住んでいたからともいう。
 ここで菊坂は尽きて、広い通りの菊坂下交差点に出る。



『江戸切絵図本郷』 御茶ノ水〜湯島天神を歩く

2018-09-09 23:15:42 | 場所の記憶
 
 東京メトロ丸の内線、御茶ノ水駅駅の改札をぬけ、地上に出ると目の前に日本医科歯科大学の高い建物が目に入る。
 この敷地は、「江戸切絵図本郷」によれば、江川太郎左衛門掛鉄砲鋳造所とある。ここは江川太郎左衛門が所管する工場地であったことが知れる。
 その広い敷地をかこむ石垣に沿いながら聖橋の下をくぐる。この辺り石垣と石塀が長々とつづく。このやや下り勾配の坂を相生坂と呼ぶ。
 ほどなく左手に、こんもりとした木々に覆われた敷地があらわれ、古風な門に「湯島聖堂」の表札がかかる。
 さっそく表門(仰高門)をくぐり、うっそうとした緑につつまれた参道に足を踏み入れる。石畳の参道のつき辺りに楷(かい)の木の古木が立っている。いわれによると、その楷の木は、中国の孔子廟にあった原木の種を移植したものだという。
 ふいに、右手に何かの気配を感じる。目をやると、そこに巨大な孔子像が立っていて、驚かされた。
 参道をさらに奥へとすすむ。入徳門、杏壇門とくぐると、目の前に豪壮な建物があらわれた。それが聖堂の本殿にあたる大成殿であった。江戸幕府がここに昌平黌学問所を置いて、武士の子弟に儒学を教えたことは有名である。
 聖堂の裏門から外に出て、車の往来の激しい広い通り(本郷通り)に出ると、すぐ通りの向こう側に神田明神の明るい参道が見え、その奥に朱塗りも眩しい社殿が望まれる。
 参道入り口に天野屋という甘酒屋がある。江戸以来の歴史をもつ老舗で、何やら華やいだ気分になるのは、このあたりの雰囲気のせいだろうか。このところの麹ブームで人の出入りが多い。
 天野屋を見やりながら広い参道をすすむ。正面に青丹の屋根をのせた朱塗りの豪奢なかまえの建物が見える。正式には神田神社とよぶこの神社は、一般には神田明神の名で知られている。平将門が合祀されているこの神社は、江戸の総鎮守として江戸っ子に人気があった。江戸三大祭りの「神田祭り」でも知られている。
 神田明神といえば、銭形平次を思い出すが、境内に銭形平次の碑があった。架空の人物が、いまや実在の人物のようになっていておかしかった。
 参拝を終えてから、境内の東側に降りる男坂とよばれる急坂の石段を下る。銭形平次の住まいがあったとされる長屋は、この石段下の神田御台町にあった。
 坂を降りきり、新妻恋坂と名のつく広い通りに出る。
 何とも情趣あふれる通りの名前であるが、由来は、この通りのほとりに妻恋神社という名の社があるからだ。「切絵図」には妻恋稲荷と記されている。この界隈を題材にした、辻邦生の『江戸切絵図帖交屏風』という時代物短編があったことを思いだした。今しも、恋人らしきふたり連れが参拝していた。
 妻恋神社を後にして、さきほどのぼって来た清水坂をさらにゆく。この通りかつては湯島天神の門前通りであったところである。「切絵図」には御中間、御小人、御駕籠者の住む町と記されている。
 湯島天神に近づくほどに蕎麦屋や懐石を商う店があらわれる。昔も今も、神社仏閣の周囲には参詣客をあてこんだ食事処が集まることに変わりない。
 狭い境内だが湯島天神は何やら華やいだ雰囲気がただよう。泉鏡花の『婦系図』で、主税がお蔦に別れを告げる場面を想起するためだろうか。一場の舞台に立っているような気分になる。
 今は学問の神さまとして若い受験生に人気があり、受験期になると、絵馬にさまざまな願いごとを書いて奉納する学生であふれる。
 総檜の社殿は平成7年に再建されたもので、まだ真新しいたたずまいである。天神の名のつく神社の祭神はすべて菅原道真であるが、この神社の正式名は湯島神社という。
 境内に是非とも見たい史跡があった。その名も「奇縁永人石」とよばれる立ち石で、江戸時代迷子の伝言板(迷子石)として使われたものだ。石の右側面に「たづぬるかた」、左側面に「をしふるかた」とあり、尋ね人の特徴などを書いた紙を貼ったとされる。
 ここにも男坂があった。この38段の石段は、ちょうど上野広小路と本郷を結ぶ通り抜け道として、また、江戸時代にはこの男坂が天神さまの表門だったともされる。
 石段下に湯島聖天という名の小寺あった。神仏混淆の時代には湯島天神の末社として一体であったらしい。そこに柳の井という小さな湧き水があり、女性の髪に霊験がある聖水であるそうだ。
 劇作家で俳人の久保田万太郎が、この石段下の裏町が気に入って一時棲まったこともあったという。この寺にちなんだ、「きさらぎや亀の子寺の畳替」という一句がある。泉鏡花の『湯島詣』にも「かくれ里」として登場し、『婦系図』のお蔦が主税との別れの際に、この聖天でおみくじを引く場面が出てくる。いろいろ文学散歩に事欠かない界隈なのである。



















木彫りの里・井波を訪ねて

2018-09-01 16:13:58 | 場所の記憶
  砺波平野の南端にある井波という街は、「井波彫刻」で知られる木彫りの里である。その井波彫刻の粋を見たいと思い、1日そこを訪ねてみた。
 北陸新幹線、新高岡駅からJR城端線で城端駅下車。さらにバスに揺られること20分ほどで井波に着く。
 バスを降りると、どこからともなく木槌の音と木の香りがただよってきた。さっそく、古い街並みが左右に連なる八日町の通りへと歩を進める。まっすぐに連なる、風趣ある通りの尽きるところに、大伽藍を備えて控える大寺が見えた。それがこの街の発展の礎になった瑞泉寺であることはすぐに知れた。この街は門前町でもあるのだ。
 八日町の石畳の美しく敷かれた通りをゆっくりと歩いてゆく。古い町家が散見されるなか、酒林を下げた酒屋があったり、風格ある老舗旅館があったりする。
 家々の軒先に当主の干支を彫り込んだ表札がかかっている。それがいかにも彫刻の街らしい。歴史を感じさせる街並みは、歩くほどにわけもなく心がやすらぐのである。
 やはり、通りには彫刻師の工房が多い。中を覗いてみると、制作中の仏像や欄干、獅子頭、あるいはお土産用の木彫りの額や装飾品が木の香りを放って所狭しと置かれている。今まさに鑿さばきもあざやかに手仕事中の職人がいる。
 この井波の街が、「宮大工の鑿一丁から生まれた木彫彫刻美術館」として「日本遺産」に登録されたのは最近のことだ。
 八日町の通りが尽きると石垣(大楼閣)を廻らした瑞泉寺が現れた。石段をあがり、高岡門をくぐると禅宗様式からなる二層二階建て、総欅造り、入母屋屋根の豪壮な山門(大門)が立ちはだかった。その高さ17.4メートルと、まさに見上げるような威容なのである。
 この山門は幾たびかの火災により焼失したが、今見る山門は18世紀後半に再建されたものという。
 この地が彫刻の里になったのは、この再建時に、京都から派遣された御用彫刻師の技を、地元の宮大工たちが受け継いで以来のことだとされる。
 この山門に施された彫刻装飾は見るほどに精緻を極めていて、思わず感嘆の声をあげてしまう。この山門のほかにも、本堂、勅使門、太子堂などの建物の各部位に見る彫刻もどれも見事というほかない。いずれも歴史的名品ばかりである。
 井波彫刻の粋を堪能したあと、八日町通りの一角にある井波美術館に立ち寄ってみた。元北陸銀行のギリシャ建築風の建物を改造して美術館にしたものだが、そこには地元の井波彫刻作家たちによる版画、工芸、絵画などの作品が展示されていた。
 作品をひとつずつ鑑賞しながら、私は、井波彫刻の伝統の技というものが、現在もこうして脈々と引き継がれ生きていることを確認できたような気がしたのである。