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愛のカタチ 場所と人にまつわる物語  

愛の百態

時間と空間のはざまに浮き沈みする場所の記憶をたどる

谷中寺町巡り

2018-10-20 21:59:56 | 場所の記憶
 谷中の寺町をはじめて訪ねた時、東京にも京都のような雰囲気の場所があるあるのを発見して、意外の感があった。
 ところで、谷中という名はどこから生まれたものなのか。
 上野の山の麓には琵琶湖に見立てられた不忍池がある。市の不忍池は昔は今よりずっと広く、かつては雪見と月見の名所だった。この不忍池に注ぎこんでいた細流を藍染川と言った。この川が遡った谷が谷中であった。
 上野と本郷の二つの台地の間に入り込んだ、不忍池の奥にひっそり隠れたようなこの谷はかつては鶯と蛍の名所でもあった。
 この谷中に寺が集まるようになったのは、寛永年間(1648〜1651)の頃で、江戸の町の整備がすすむなか、上野の寛永寺の子院がつぎつぎとつくられたことによる。
 さらに後年になって、明暦の大火などにより、各所の寺がこの地に移って、現在見るように70以上の寺が集まる寺町になった。
 また、谷中は坂の多い町でもある。まさに谷の町なのである。御殿坂、三崎(さんさき)坂、あかじ坂、三浦坂、善光寺坂など趣きのある名のついた坂がある。
 坂を上り下りしながら、あてもなく寺町をそぞろ歩けば、朱色に染まった寺の門に出会ったり、入り組んだ路地の古塀沿いに季節の花や古木を発見したりする。ともかく谷中は歩くにはもってこいの町なのだ。
 アトランダムに、主な寺を紹介してみると。
 足、腰の病に効能があるとされる、韋駄天像がある西光寺(谷中6丁目2−20)。虫歯封じの寺で知られる妙雲寺(谷中6丁目2−39)、虫封じの蓮華寺(谷中4丁目3)、頭痛封じの躰仙院(谷中4丁目1−7)。この寺は「谷中の鬼子母神」の名で知られる寺で、無病息災を祈願する「ほうろく灸」がおこなわれている。変わったところでは、貧乏が去るとされる「貧乏が去る像」が安置されている妙泉寺(谷中1丁目5−34)などなど。
 この寺町の大晦日の夜の風情がまた捨てがたい。あちらこちらの寺から除夜の鐘の音が路地を流れ、寒気の中、しみじみ今や終らんとする年の感慨を味わうことができる。
瑞輪寺(ずいりんじ)、妙行寺、全生庵(ぜんしょうあん)、宗林寺(そうりんじ)などでは年越しの除夜の鐘をたたくこともできる。
 

谷中(五丁目)界隈散策

2018-10-16 12:12:18 | 場所の記憶
 JR日暮里駅の北改札口を出て、左手、西方向に歩くと、そこは御殿坂と呼ばれる傾斜の強くかかった通りになる。御殿坂というみやびた名前の由来は定かではないが、通り沿いには佃煮屋や和菓子屋など、昔からの店が散見される。
 すぐに、右手、緑に覆われた寺があらわれる。寺名は本行寺。別名を月見寺という。台地の縁に位置する寺だけに月見に絶好の場所であったのだろう。
 由来によれば太田道灌ゆかりの寺といい、狭い境内には一茶の「陽炎や道灌どのの物見塚」と山頭火の「ほっと月がある。東京に来てゐる」と詠んだ、この寺にちなんだ句碑がある。
 この本行寺の隣にあるのが経王寺。谷中七福神の一つ、大黒天を祀っている寺だ。ここは幕末の慶応4年(1868)の上野戦争のおり、彰義隊が立てこもって、官軍と攻防を繰り広げたことで知られている。今も山門に幾つかの弾痕が生々しく残されている。
 諏訪台通りを越えた辺りで、前方、長い階段(夕やけだんだん)を下った台地の下に、いかにも下町風の、賑やかな商店街が見下ろされる。そこが谷中銀座である。この階段を下りる前、右手に延命院という寺がある。境内に樹齢六百年とされる、都の天然記念物になる椎木がある。
 実はこの椎木も見ていたであろう、世に言う延命院事件という出来事が19世紀の初頭にこの寺で起きた。
 この事件は住職の日潤という僧が、大奥の女性など60人ほどをこの寺に連れ込んで密通を重ねたというものだ。のちに発覚し、死罪になるが、この人物、実は二代目尾上菊五郎で、彼は二代目襲名後、人を殺め、仏門に入ったとされる人物だった。現在、日潤の墓が本堂右側の植え込みの中に立っている。
 境内を出たら、左手、斜め向かいにある道に入り、南に歩く。すぐ左手に洋館風の建物が見えるが、そこが朝倉彫塑館だ。彫刻家朝倉文夫の旧宅兼アトリエだったところで、現在は博物館になっている。自然主義技法により造形化された、百点ほどの作品が展示されていて、どれもリアルな印象があってわかりやすい。これら作品群もさることながら、中庭をはじめとする建物のたたずまいがなんとも心和む。
 ちなみに、この建物の裏手に幸田露伴邸があった。
 彫塑館を出て、さらに南にすすみ、観音寺と長安寺の間を入ると、趣きのある築地塀があらわれる。江戸時代以来のものらしく、古色を帯びた色合いが実にいい。
 この辺り一帯は、谷中の寺町の雰囲気をよく醸し出していて、快い散策が楽しめる界隈である。かつては蛍が飛んだという蛍坂、岡倉天心の屋敷があった天心記念公園などがある。さきほど過ぎてきた長安寺は、谷中七福神の一つ、寿老人を祀る寺である。
 道なりに南に歩くと三崎坂(さんさきざか)にぶつかる。この坂の左右には大小の寺の甍が並ぶ。通りの向こう側、左手に、明治の戯作者・仮名垣魯文の墓、同じく天竜寺には幕末の蘭方医・伊東玄朴の墓がある。天龍寺の前にある全生庵(ぜんしょうあん)はあの山岡鉄舟が開基した寺だ。この寺には鉄舟の墓とともに三遊亭円朝の墓もある。
 その先にあるのが、笹森稲荷で知られる大円寺。ここには永井荷風の撰になる「笹森阿仙乃碑」と笹川臨風の撰になる「錦絵師開祖鈴木春信の碑」がある。ちなみに、笠森稲荷というのは瘡(かさ)の神さまのこと。
 坂を下り、「いせ辰」や「菊見せんべい」などの店を覗きながらあるくと、東京メトロ千代田線の千駄木駅はもうすぐだ。

江戸切絵図」を携えて 団子坂〜根津神社

2018-10-09 12:24:00 | 場所の記憶
 東京メトロ千代田線の千駄木駅を降り、目の前の交差点を左に曲がると、そこは千駄木の町である。
 さっそく、勾配のやや強い団子坂の坂道をまっすぐに上ってゆく。それにしても団子坂とは変わった名前である。
 昔、この坂の途中に団子屋があったところからその名がついたというが、これには異説があって、ここで転ぶと、団子のように転げ落ちるところからつけられた、という説もある。
 坂を上るほどに小体な古民芸の店や小料理屋があったりする。
 ところで、この団子坂、江戸時代には菊人形で知られたところであった。その時期になると人形見物の人で賑わったといい、その賑わいは明治の中頃までつづいた。木戸銭をとる小屋が沿道に軒を並べたという。
 坂を上り詰めた左手にあるのが森鴎外記念館。ここはかつて森鴎外邸があったところである。「切絵図」では世尊院とある。
 観潮楼という粋な名のついた屋敷は、木造二階建てで、ここに鴎外一家は明治30年から大正11年まで居を構えた。内部には鴎外資料としてあまり見かけない珍しい写真や原稿、書簡などが展示されていて、一見に値する。
 観潮楼の名は、この住まいから、かつて遠く東京湾が望めたところから命名されたものだ。鴎外は、ある著書のなかで、『小家の前に立って望めば、右手に上野の山の端が見え、この端と忍岡との間が劃然として開けて、そこに遠く地平線に接する人家の海である』と記している。
 旧鴎外邸の前に細長く連なる小道を藪下通りという。この道は中山道と根津谷の中間を走る、いわば本郷台の中腹にあり、自然にできた脇道であった。
 鴎外が住んでいた頃も、小道には笹や苔が生い茂り、雪の日には、その重みで垂れさがった雪が道をふさいだという。鴎外もよくこの道を散歩し、多くの文人がこの道を通って観潮楼を訪ねたのである。
 道の東側は「切絵図」では大名地、そして、西側の崖下は抱屋敷と記されている。抱屋敷というのは、大名の別宅があったところで、そこは百姓地を借り上げた土地だった。
 今は、東の高台は住宅地で、西の崖下は学校があったり、住宅が密集していて、往時の面影は少しもない。
 道をしばらく南に歩くと下り坂になり、やがて右手に日本医科大学の付属病院が見えて、根津権現裏手の交通量の多い通りにぶつかる。付属病院の敷地は「切絵図」では太田備中屋敷地と記されている。
 かつて、「曙の里」とも呼ばれていた根津神社の社域は今も緑が濃い。境内に足を踏み入れると、朱色の権現づくりの社殿が姿をあらわす。権現づくりといえば、江戸の初期に流行した建築様式で、日光の東照宮、上野の東照宮、浅草の浅草寺もこれと同じつくりである。
 権現づくりというのは、本殿の前に社殿があり、その間を幣殿と呼ばれる合の間でつないでいる様式を言う。
 また、ここの境内に植えられている樹木はその種類が多いことで知られている。「江戸名所図会」にも「草木の花四季を逐うて絶えず、実に遊覧の地なり」と記されているほどだ。今も、春のツツジは有名である。築山の一角に立つ、「つつじ苑の記」という碑がツツジの由来について述べている。
 根津神社の周辺は今は閑静な住宅街になっているが、かつて、そこは料理屋などが軒を並べる賑わいの絶えない場所だった。というのも、根津は不寝と書かれたように、明治21年まで遊郭があったからである。「切絵図」に根津門前町と記されているのがその辺りである。
 住宅街を縫って広い不忍通りに出れば地下鉄の根津駅はもうすぐである。
 









千住のお化け煙突ー幻影

2018-09-20 12:37:37 | 場所の記憶
          
  それはずっしりとした存在感があった。子供心に恐ろしいものに見えた。お化け煙突と呼ばれた、高さ83メートルもある四本の黒い煙突は、町のどこからも遠望できた。その高さは尋常ではなかった。鉱物的なその煙突のかもしだす風貌は、つねに威圧的であった。
 お化け煙突と呼ばれる、その煙突は、じつは、火力発電所であった。
四本の煙突が、ちょうどひし形に立ち並んでいるために、眺める場所によって、その本数をさまざまに変えた。お化け煙突の名はそこから銘々されたものだと、最近まで思っていたら、本当はそうではないらしい。
お化けの真相は、それらの煙突から立ちのぼる煙が、ときおり出たり、出なかったりで、それが不思議に思えたためにつけられたというのが本当のところであるらしい。
 とはいえ、お化け煙突の銘々の由来は、今や俗説のほうが一般化している。
つねに煙をはかない煙突事情は、じつは、その火力発電所が電力不足の際の、臨時用として位置づけられていたためであった。
 この煙突が建造されたのは、大正15年のことだ。東京電力の前身、東京電灯が足立区千住桜木町の隅田川沿いにつくったものである。
 その煙突は東京名物であった。そのためか、いくつかの映画の舞台背景に使われている。なかでもこの煙突を有名にしたのは、昭和28年に上映された「煙突の見える場所」という映画であった。
 文字通り、煙突が題名になった、五所平之助監督、上原謙、田中絹代という有名俳優が出演したこの映画は、その頃の千住という下町の風景や生活を描いて好評であった。
 地元に住む人間にとって、この映画の舞台が、自分たちの住む町であり、そのロケが住まいの近くの路地裏で行われたことが話題になった。当時、小学生であった私は、やじ馬根性も手伝って撮影現場をのぞきに行ったものである。
映画のなかで、お化け煙突は、川の向こう側に見えていた。ということは、映画の舞台は荒川(放水路)の北側に設定されていたことになる。主人公たちの家の窓からは、広い川がひらけ、その向こうに三本の煙突が望見できた。
 その煙突は明るい空に屹立し、のどかで牧歌的でさえあった。映画のなかで、煙突はその本数を変えて幾度か登場している。
 が、私の記憶にあるお化け煙突は、もっと間近にあった。黒くそそり立つその煙突は、音もなく煙を吐き出し、不気味としか言いようがなかった。夜になると、黒い図体を闇にとかして、光さえ発していたのである。
お化け煙突は、その後も幾つかの映画に登場している。昭和33年には「一粒の麦」「大学の人気者」に、同35年には「女が階段を上がる時」に、同38年には「いつでも夢を」にとつづく。
 ところが、そのお化け煙突が消える時がやってきたのである。昭和39年11月のことである。石炭を燃料とするその火力発電所は採算性から難点があるということで廃止されることになったのだ。ちなみに、佃島の「佃の渡し」が消えたのもこの頃のことだ。
 国のエネルギー政策の転換がそこにはあった。ちょうど日本が高度経済成長を驀進している頃である。
私の記憶によると、それより数年前に、煙突は黒からシルバー色に化粧直ししている。時代の変遷のなかで、お化け煙突もこぎれいになる必要があったのだろうか。以来、煙突の印象がだいぶ変わったように思えたものである。
 が、私には、それはなじめなかった。黒々としたその風貌こそがお化け煙突にふさわしかったからである。
そこにあったものがなくなるという空虚感はたとえようもないものがある。いよいよ煙突が撤去されるその時のことをはっきり覚えている。
 煙突はいっきょにその姿を消さなかった。
それは生殺しのように、少しずつ削りとられ、その高さを失い、やがて、四本とも消えうせていったのである。あとには、そこにだだ広い空地が横たわった。
 煙突が撤去されると、今まで千住という町にあった重しのようなものがなくなり、求心性のない町になった。
それは私が大学を卒業して社会人になった年であった。毎日が忙しく、もはや、そこにあったであろう煙突を思うこともなくなっていた。


「切絵図」を歩く 本郷通り〜白山

2018-09-18 12:16:54 | 場所の記憶
  本郷三丁目の交差点から、さらに本郷通りを北上すると、右手通りの向こう側に、唐破風の番所を設けた薬医門形式の朱色の門が見えてくる。赤門である。
 赤門といえば東大の代名詞になっているが、ここはかつて加賀百万石、前田家の上屋敷があった場所である。
 この赤門は、徳川11代将軍、家斉の息女が前田家に輿入れする際につくられたもので、正式には御主殿門という。御主殿門というのは、将軍の娘が、三位以上の大名に嫁した時、御主殿と呼ばれたためである。
 ちなみに、この赤門界隈の風景を、歌川広重が『江戸土産』のなかで「本郷通り」と題して描いている。
 赤煉瓦塀に囲まれた広大な敷地は、今は東京大学であるが、「切絵図」を見ると、加賀中納言と水戸殿とある。大半は加賀藩の敷地で、水戸藩の中屋敷は、現在、農学部が置かれている敷地である。
 ところで、5代将軍、綱吉治世の元禄15年、藩邸の敷地八千坪を使って迎賓館ともいうべき御成御殿がつくられたことがあった。が、その豪華な建物も翌年には焼失。こうした、度々の火災や地震で、幕末の頃には、屋敷はまるで廃墟のように荒んでしまったという。その後、明治9年、東大の前身の建物がつくられ現在に至っている。

 東大正門前の一帯は、かつて森川町とよばれていたところである。「切絵図」を見ると岡崎藩主本多美濃守の屋敷地とある。今は本郷六丁目と町名変更しているが、この町に隣接する西方町とともに、一帯は近代文学の作家や学者が多く住んでいたところである。
 西方町の町名は現在も健在であるが、この町域は福山藩主阿部伊豫守の屋敷地(中屋敷)があったところだ。阿部家は代々の老中家で、11代正弘は日米和親条約を結んだ筆頭老中として歴史に名高い。
 かつてこの地に誠之館という藩校が置かれていたが、同町にある、明治8年開校の誠之小学校はこの藩校の名を引き継いだものだ。

煉瓦塀のつらなる東大前のイチョウ並木をさらに北に向かうと、やがて道は二股に分かれる。ちょうど、東大農学部があるあたりである。
 「切絵図」を見ると、追分と記されている。古くから本郷追分と呼ばれ、荷駄の往来で賑わったところである。ここに一里塚があった。
 右を行けば、日光御成街道(岩槻街道)、左を行けば中山道(国道17合線)だ。道が分かれるところに、森川金右ヱ門とあるが、森川町の名はこの人物の名をとったもの。
 金右ヱ門は、この地にあった御先手組の組頭で、中山道の警備の任についていた人物である。
 また、この地には、高崎屋という江戸で有名な現金安売りの酒店があった。
 右手の道、御成街道を行く。
 このあたり、「切絵図」では、大番組、御小人中間、御先手組の組屋敷が連なっている。いずれも幕府役人が居住していた地域である。
 しばらく行くと寺町になり、道の左右に幾つもの寺が現れる。通りの左側にあるのが西谷寺(現在は西善寺)、唐辛子地蔵がある正行寺、そして右側に經妙寺(現在は浩妙寺)、極彩色あふれる浄心寺。この寺には春日局がご愛祈したお地蔵さんがある。そして、長元寺、十方寺とつづく。
 やがて、左手に見える向ヶ丘高校を過ぎるあたりで繁華な商店街になる。向ヶ丘二丁目交差点に出たら左に折れる。一言寺(現在は一音寺)の前を過ぎ、中山道を南にもどる。このあたりかつては白山前町と呼ばれたところである。
 由来は、近くに白山権現(白山神社)があったからだが、その門前町として賑わった町人地である。
 左手に入ったところにあるのが大円寺。しばしば江戸の火事の火元になった寺である。この寺に八百屋お七にちなんだ地蔵が安置されている。この地蔵はほうろく地蔵の名で知られ、焙烙(素焼きの土鍋)を寄進すると、首から上の病気、特に眼病に効き目があるとされ、江戸時代には庶民の絶大な人気を集めたという。
 ついでながら、この寺には高島秋帆と斎藤緑雨の墓がある。
秋帆は幕末の洋学者。緑雨は明治期の気骨の文学者で知られている。
 大円寺の前の坂道を西に入る。「切絵図」では坂の途中に浄心寺、円乗寺の名が見える。この坂を浄心寺坂という。円乗寺には八百屋お七の墓がある。なぜか三基あるが、中央の墓に妙栄禅定尼の戒名と天和3年(1683)3月29日という処刑の日が刻まれている。
 お七の墓がここにあるのは、ここが彼女にとって因縁ある場所であるからだ。
 ある日、大円寺の火事で焼け出されたお七一家がここに避難していた時のことだった。そこでお七はその寺小姓と運命的な出逢いを果たすことになった。お七はのちに寺小姓に恋い焦がれ、ついに自分の家に放火するという大罪を犯すことになる。
 これが巷間知られる八百屋お七の物語であるが、史実はほとんど分かっていない。
 ちなみに、お七の家(八百屋)は本郷追分片町にあったというから、前述の高崎屋と同じ町域にあったことになる。追分を左に進んだ中山道の東側にあたる。
 坂を下りきったところで、こんどは傾斜のある通り(白山坂)を上る。「切絵図」を覗くと通りの左に寺社がかたまっている。白山権現(白山神社)を囲むようにして心光寺、妙清寺、竜雲寺などの名が見える。江戸期、このあたりは樹木が鬱蒼とした場所だったのだろう。
 白山神社は長い参道を上りつめた台地上にある。明治22年建立の大鳥居をくぐると、緑濃い境内がひろがる。唐破風を張り出した銅板葺き屋根の拝殿は見るからに堂々と古社の雰囲気をたたえている。
 神社は小石川を鎮守する古い社であるが、特に5代将軍綱吉とその生母桂昌院の厚い信仰を受けて栄えたという。背後にそそり立つ建物は東洋大学だ。都営三田線白山駅はすぐそばである。

「江戸切絵図」を携えて 本郷三丁目〜菊坂

2018-09-15 11:04:50 | 場所の記憶
  このコースの出発点は東京メトロ丸ノ内線本郷三丁目。駅正面の商店街を抜けるとそこは本郷通りだ。通りに沿って北方向にすすむと、すぐに広い交差点に出る。
 交差点の角に大きな文字で「かねやす」と書かれた店を目にする。今は7階建てのビルになっている洋品店だが、江戸時代、「かねやす」(兼安)は、蔵を備えた瓦屋根の町家だった。
 この店が「本郷も兼安までは江戸の内」と江戸川柳に詠われた小間物を扱う老舗である。
 「かねやす」が有名になったのは、ここで売り出されていた赤い歯磨粉が江戸庶民に人気を博したからであるが、それに貢献したのが、赤穂義士のひとり、堀部安兵衛。
 吉良邸討ち入りで有名になった安兵衛揮毫になる店の看となれば、おのずと客が集まるというものである。
 私ごとであるが、私の妻の祖父(銀座万久)が兼安10代目の婚礼時(昭和の初め)の仲人であった、という話を聞いたことがある。
 
 本郷三丁目交差点を渡り左折する。このあたり、かつて真砂丁と呼ばれていたところである。真砂丁は泉鏡花の『婦系図』の舞台になったところでもある。
 近くにあった真光寺(戦災で廃寺になった)の門前町として、寛永年間に開かれた町屋で、神霊を京都の北野天満宮から勧請したところから、地元では北の天神の名で親しまれているのが、現在の桜木神社である。今も付近には仕舞屋風の家や看板建築の商店が散見される。
 さらに春日通りを西に歩くと、「文京ふるさと歴史館」の標識が見えてくる。交通量の多い通りと別れて閑静な通りを右すると「ふるさと歴史館」の建物が見える。ここで文京区の歴史の概観を学び、これからの散策の参考にするとよい。
 ちなみに、「切絵図」を見ると、このあたり信州上田藩5万8千石の松平伊賀守の屋敷地であったことが知れる。歴史館に並びに古風な武者窓のついた屋敷があるが、なにやら往時を彷彿させる雰囲気がただよう。通りの右手は真砂町図書館だ。
 道はやや下りになり、その先に階段がある。階段左手の、現在は日立本郷ビルが立つ敷地に、明治の文豪、坪内逍遥が住んでいた。その家は春廼舎(はるのや)と呼ばれ、近代日本文学の狼煙があげられたところである。
 「春廼舎は、本郷真砂町の炭団坂の角屋敷崖淵にあった」と門人のひとりが回想文を残している。ここには俳人正岡子規も明治21年から三年あまり寄宿していたことがある。この敷地も先ほど記した松平屋敷の一部だった。
 炭団坂と呼ばれる急な坂を下るとそこは菊坂だ。このあたり菊を栽培する家が多かったところからその名がついたという。「切絵図」では緑地をはさんで二本の狭い道が屈折して延びている。二本の道の左側には下級武士の家が並び、右側には本妙寺と長泉寺の広い敷地がひろがっている。そして、その地続きに菊坂町の町家がある。菊坂はいわば、左右の台地にはさまれた谷の底というところだ。
 ちなみに、この本妙寺という寺、今は巣鴨に移転しているが、幾たびかの江戸大火のなかでも最大といわれる明暦の大火(明暦3年)の火元になった寺だ。この大火は振袖火事と呼ばれ、江戸城の天守閣をも焼失している。
 ところで、この大火が振袖火事と呼ばれたのには訳があって、それには因縁めいた振袖の話が伝わっている。
 明暦3年(1657)1月18日のことである。その日、本妙寺では大施餓鬼が催されることになっていた。そして、その際に一枚の振袖が供養のために焼かれることになっていた。
 そして、いよいよ施餓鬼の儀式が執り行われることになり、件の振袖が火の中に投じられた。すると、どうしたわけか、その振袖が一陣の風に煽られ燃え上がった。そして、あっという間に本堂に火が燃え広がったのである。これが明暦の大火の発端であった。

 時代は下るが、この付近に、大正3年開業の西洋風のモダンな菊富士ホテルがあった。現在、オルガノ社という会社の敷地に記念碑が建っているが、そのホテルは多くの文人や著名な学者が滞在したことで知られ、数々のエピソードが残されている。
 右に湾曲した二本の道は、現在もそのまま残り、左手には長屋風の家が狭い路地をはさんで肩を寄せあうように立っている。このあたり明治の雰囲気が多少なりとも残るところだ。
 樋口一葉が母と次兄と共に、明治23年から3年ほど住んだ旧宅跡が、そんな一角に残っている。軒下には植木鉢がたくさん並び、一葉が使ったという掘井戸が今も健在である。
 菊坂から上手の通り(右手)に出ると、すぐ先に古格な土蔵が目に入るが、それが、一葉が貧窮いよいよ迫り、古着を質入れするためによく通った質屋・伊勢屋である。現在、土日に限り一般公開されている。
 明治26年5月2日付の『一葉日記』にも「此月も伊勢屋がもとに走らねばことたらず。小袖四つ、羽織二つ、一風呂敷につつみて」と記されている。
 「切絵図」では一葉の旧宅から二つ目の左手に鐙坂(あぶみさか)という名の坂がある。その坂上に高崎藩主松平右京亮の中屋敷があった。鐙坂の名は、坂のかたちが鐙に似ているからとも、鐙をつくる職人が住んでいたからともいう。
 ここで菊坂は尽きて、広い通りの菊坂下交差点に出る。



『江戸切絵図本郷』 御茶ノ水〜湯島天神を歩く

2018-09-09 23:15:42 | 場所の記憶
 
 東京メトロ丸の内線、御茶ノ水駅駅の改札をぬけ、地上に出ると目の前に日本医科歯科大学の高い建物が目に入る。
 この敷地は、「江戸切絵図本郷」によれば、江川太郎左衛門掛鉄砲鋳造所とある。ここは江川太郎左衛門が所管する工場地であったことが知れる。
 その広い敷地をかこむ石垣に沿いながら聖橋の下をくぐる。この辺り石垣と石塀が長々とつづく。このやや下り勾配の坂を相生坂と呼ぶ。
 ほどなく左手に、こんもりとした木々に覆われた敷地があらわれ、古風な門に「湯島聖堂」の表札がかかる。
 さっそく表門(仰高門)をくぐり、うっそうとした緑につつまれた参道に足を踏み入れる。石畳の参道のつき辺りに楷(かい)の木の古木が立っている。いわれによると、その楷の木は、中国の孔子廟にあった原木の種を移植したものだという。
 ふいに、右手に何かの気配を感じる。目をやると、そこに巨大な孔子像が立っていて、驚かされた。
 参道をさらに奥へとすすむ。入徳門、杏壇門とくぐると、目の前に豪壮な建物があらわれた。それが聖堂の本殿にあたる大成殿であった。江戸幕府がここに昌平黌学問所を置いて、武士の子弟に儒学を教えたことは有名である。
 聖堂の裏門から外に出て、車の往来の激しい広い通り(本郷通り)に出ると、すぐ通りの向こう側に神田明神の明るい参道が見え、その奥に朱塗りも眩しい社殿が望まれる。
 参道入り口に天野屋という甘酒屋がある。江戸以来の歴史をもつ老舗で、何やら華やいだ気分になるのは、このあたりの雰囲気のせいだろうか。このところの麹ブームで人の出入りが多い。
 天野屋を見やりながら広い参道をすすむ。正面に青丹の屋根をのせた朱塗りの豪奢なかまえの建物が見える。正式には神田神社とよぶこの神社は、一般には神田明神の名で知られている。平将門が合祀されているこの神社は、江戸の総鎮守として江戸っ子に人気があった。江戸三大祭りの「神田祭り」でも知られている。
 神田明神といえば、銭形平次を思い出すが、境内に銭形平次の碑があった。架空の人物が、いまや実在の人物のようになっていておかしかった。
 参拝を終えてから、境内の東側に降りる男坂とよばれる急坂の石段を下る。銭形平次の住まいがあったとされる長屋は、この石段下の神田御台町にあった。
 坂を降りきり、新妻恋坂と名のつく広い通りに出る。
 何とも情趣あふれる通りの名前であるが、由来は、この通りのほとりに妻恋神社という名の社があるからだ。「切絵図」には妻恋稲荷と記されている。この界隈を題材にした、辻邦生の『江戸切絵図帖交屏風』という時代物短編があったことを思いだした。今しも、恋人らしきふたり連れが参拝していた。
 妻恋神社を後にして、さきほどのぼって来た清水坂をさらにゆく。この通りかつては湯島天神の門前通りであったところである。「切絵図」には御中間、御小人、御駕籠者の住む町と記されている。
 湯島天神に近づくほどに蕎麦屋や懐石を商う店があらわれる。昔も今も、神社仏閣の周囲には参詣客をあてこんだ食事処が集まることに変わりない。
 狭い境内だが湯島天神は何やら華やいだ雰囲気がただよう。泉鏡花の『婦系図』で、主税がお蔦に別れを告げる場面を想起するためだろうか。一場の舞台に立っているような気分になる。
 今は学問の神さまとして若い受験生に人気があり、受験期になると、絵馬にさまざまな願いごとを書いて奉納する学生であふれる。
 総檜の社殿は平成7年に再建されたもので、まだ真新しいたたずまいである。天神の名のつく神社の祭神はすべて菅原道真であるが、この神社の正式名は湯島神社という。
 境内に是非とも見たい史跡があった。その名も「奇縁永人石」とよばれる立ち石で、江戸時代迷子の伝言板(迷子石)として使われたものだ。石の右側面に「たづぬるかた」、左側面に「をしふるかた」とあり、尋ね人の特徴などを書いた紙を貼ったとされる。
 ここにも男坂があった。この38段の石段は、ちょうど上野広小路と本郷を結ぶ通り抜け道として、また、江戸時代にはこの男坂が天神さまの表門だったともされる。
 石段下に湯島聖天という名の小寺あった。神仏混淆の時代には湯島天神の末社として一体であったらしい。そこに柳の井という小さな湧き水があり、女性の髪に霊験がある聖水であるそうだ。
 劇作家で俳人の久保田万太郎が、この石段下の裏町が気に入って一時棲まったこともあったという。この寺にちなんだ、「きさらぎや亀の子寺の畳替」という一句がある。泉鏡花の『湯島詣』にも「かくれ里」として登場し、『婦系図』のお蔦が主税との別れの際に、この聖天でおみくじを引く場面が出てくる。いろいろ文学散歩に事欠かない界隈なのである。



















木彫りの里・井波を訪ねて

2018-09-01 16:13:58 | 場所の記憶
  砺波平野の南端にある井波という街は、「井波彫刻」で知られる木彫りの里である。その井波彫刻の粋を見たいと思い、1日そこを訪ねてみた。
 北陸新幹線、新高岡駅からJR城端線で城端駅下車。さらにバスに揺られること20分ほどで井波に着く。
 バスを降りると、どこからともなく木槌の音と木の香りがただよってきた。さっそく、古い街並みが左右に連なる八日町の通りへと歩を進める。まっすぐに連なる、風趣ある通りの尽きるところに、大伽藍を備えて控える大寺が見えた。それがこの街の発展の礎になった瑞泉寺であることはすぐに知れた。この街は門前町でもあるのだ。
 八日町の石畳の美しく敷かれた通りをゆっくりと歩いてゆく。古い町家が散見されるなか、酒林を下げた酒屋があったり、風格ある老舗旅館があったりする。
 家々の軒先に当主の干支を彫り込んだ表札がかかっている。それがいかにも彫刻の街らしい。歴史を感じさせる街並みは、歩くほどにわけもなく心がやすらぐのである。
 やはり、通りには彫刻師の工房が多い。中を覗いてみると、制作中の仏像や欄干、獅子頭、あるいはお土産用の木彫りの額や装飾品が木の香りを放って所狭しと置かれている。今まさに鑿さばきもあざやかに手仕事中の職人がいる。
 この井波の街が、「宮大工の鑿一丁から生まれた木彫彫刻美術館」として「日本遺産」に登録されたのは最近のことだ。
 八日町の通りが尽きると石垣(大楼閣)を廻らした瑞泉寺が現れた。石段をあがり、高岡門をくぐると禅宗様式からなる二層二階建て、総欅造り、入母屋屋根の豪壮な山門(大門)が立ちはだかった。その高さ17.4メートルと、まさに見上げるような威容なのである。
 この山門は幾たびかの火災により焼失したが、今見る山門は18世紀後半に再建されたものという。
 この地が彫刻の里になったのは、この再建時に、京都から派遣された御用彫刻師の技を、地元の宮大工たちが受け継いで以来のことだとされる。
 この山門に施された彫刻装飾は見るほどに精緻を極めていて、思わず感嘆の声をあげてしまう。この山門のほかにも、本堂、勅使門、太子堂などの建物の各部位に見る彫刻もどれも見事というほかない。いずれも歴史的名品ばかりである。
 井波彫刻の粋を堪能したあと、八日町通りの一角にある井波美術館に立ち寄ってみた。元北陸銀行のギリシャ建築風の建物を改造して美術館にしたものだが、そこには地元の井波彫刻作家たちによる版画、工芸、絵画などの作品が展示されていた。
 作品をひとつずつ鑑賞しながら、私は、井波彫刻の伝統の技というものが、現在もこうして脈々と引き継がれ生きていることを確認できたような気がしたのである。




「江戸切絵図」を携えて、三ノ輪〜旧吉原〜浅草へ

2018-08-23 12:07:38 | 場所の記憶
 地下鉄日比谷線の三ノ輪駅で降り、まず、はじめに訪れたのは浄閑寺だった。
 町場の真ん中にそこだけ緑濃い一角があった。門をくぐり、あまり広くない境内に足を踏み入れると、そこはすでに異界のような雰囲気に満ちていた。投げ込み寺の名で知られるこの寺は、かつて新吉原に囲われていた遊女が死ぬと、引き取り手がない場合は、この寺に埋葬されたところからの名前である。それを伝える新吉原総霊塔なる記念碑が墓域の奥にひっそりと立っていた。この寺には、じつに2万人もの遊女の霊が祀られていると聞けば、尋常な気持ちではいられない思いがするが、総霊塔の地下室に骨壷が累々と積まれているのを目撃した時、その思いはいっそう現実感となってせまってきた。
 つぎに向かったのは、樋口一葉にゆかりある地、竜泉町。「切絵図」では、田畑のひろがる一帯になっているなかに、下谷滝泉寺町としるされた町人地の一角が見える。そこは吉原の遊郭地とは目と鼻のさきである。
 明治26年から1年ほどの間、この町に家族とともに住んで、吉原がよいの客を相手に雑貨屋をいとなんだ一葉は、この借家で「にごりえ」や「たけくらべ」の作品をつくりだしている。現在、その地には、旧居をしるした石碑が立っていて、付近には一葉記念館がある。記念館には一葉ゆかりの原稿、短冊、書籍、明治文献資料などが展示されている。
 そこをあとにして、しばらく行くと“おとりさま”で親しまれている鷲神社に出た。縁日でない境内は人影もなくひっそりとしていたが、毎年11月の酉の日ともなると開運、商売繁盛を祈願し、熊手を求める参拝客で黒山にひとだかりとなる場所である。
「切絵図」を覗いても、今やその頃の痕跡がほとんど失われているなかで、吉原遊郭があった道筋は、いまもほぼ原型をとどめているといってよい。“お歯黒どぶ”こそないが、その旧遊郭街に足を踏み入れる。
 まず、目にしたのは吉原弁天である。以前、この地にはひょうたん池とよばれる池があったが、いまやそれはあとかたもなく、せまい境内にはいくつもの記念碑が立っている。花吉原名残碑をはじめ、吉原の創始者庄司甚左衛門の記念碑、大門を模したという入口の石柱、遊女の慰霊観音堂などがある。
 旧吉原の中央通り、仲の町通りにあたる曲がりくねった道を北上すると吉原神社があらわれる。そこが旧吉原の南端、水道尻にあたる場所で、昔は遊郭街の四隅にあった神社で、遊女たちの信仰厚つかった神社という。
 道なりに仲の町通りを歩く。かつて引き手茶屋が立ち並んでいたといわれる紅燈の巷は、今はないが、かたちをかえてソープランド街になっている。客引きの男たちの前をすりぬけるようにして足ばやに進む。最近までオイランショーが催されていた松葉屋も店を閉じ、ひっそりとしている。そこが吉原大門跡であることは、知る人ぞ知るといったところか。
 ゆるやかなカーブをつくる、かつて五十軒ほどの外茶屋が並んでいたという衣紋坂をぬけ、ガソリンスタンド前の小さな見返りの柳を見たところで旧吉原探索は終了する。
 昼食後、旧日本堤(山谷堀)をたどって今戸、浅草へむかう。途中、2代目高尾大夫の墓がある春慶寺、江戸六地蔵のひとつがある東禅寺に寄り、今はない山谷堀(公園緑地になっている)に架かっていた橋の名が残るいくつかの橋を通りすぎて墨田川河畔に出る。そこが今戸で、そこからさらに、これも今や石碑のみに痕跡を残す芝居町をめぐり、墨田公園をぬけて浅草寺の境内にいたった。浅草寺は暮れの賑わいのなかにあり、江戸の時代もこのようであったのか、と思いをめぐらせた。

東海道と中山道が交差する宿場町、草津

2018-08-14 11:55:28 | 場所の記憶

 草津は江戸時代以来、東海道と中山道がまじわる宿場町として発展した。その宿場の状態が現在どうなっているのか以前から興味をもっていた。
 今では東海道のローカル線の一駅になってしまっているが、かつての街道筋は宿屋や茶店が並び立ち、さぞかし賑わっていたことであろう。
 そんな草津の駅に降り立ってみた。線路と交差するように、街の東西を走るメインストリートは、明るく閑静なたたずまいだった。街全体に高層ビルがないのがいい。空が広く、それだけに街が明るく感じられた。
 地方都市を訪れると、私はいつも、この街に住めるかどうかを私なりの基準で判断してみることにしている。買い物の便利さ、医療施設の充実、環境はどうか、気候はどうかなどを詮索してみるのだ。
 これらの基準からすると草津はとりあえず合格点を越えるだろうと思えた。駅内にある観光案内所のスタッフに、この街の住み心地について尋ねたところ、冬には雪も少なく、住み良いところですよ、という応えが返ってきた。
 東海道線の線路に並行するように中山道が南北に走るが、街中を通る部分は、今は一部、昭和のレトロな雰囲気の商店街になっていて、そこを抜けると、昔ながらの風情を漂わす店が散見される。
 かつての中山道の道幅は今も昔のままなのだろう。車のすれ違いままならぬほどに狭い。その昔ながらの通りに立てば何かが蘇ってくる。その感覚がたまらない。
 ところで、私はここで不思議な風景に出会った。中山道の上を川が流れていたからである。いわば、道は川底をくり抜いて、トンネルをなして通じているのだ。
 川はいわゆる天井川と呼ばれる川で、度々の洪水で川底に土砂がたまり、それが次第に川底を浅くしいった結果の姿らしい。
 聞けば、明治十九年に、今見るようなトンネルができるまで、中山道をたどって来た旅人は、川を渡っていたという。これから見ると、少しずつ堤防が高くなっていったさまが読み取れる。
 ところで、この草津川は数年前に廃川になり、細長い公園に変わり、現在は市民の憩いの場になっている。
 東海道と中山道が交わる、いわゆる追分には、常夜灯をそえた道標が立っている。そして、そこからすぐのところに、かつての本陣が残っている。
 道標には「右東海道いせみち、左中仙道」と刻まれている。その古色のたたずまいが、いかにも歴史を感じさせる。
 ここを通り抜けて行った旅人たちは皆この道標を横目にしながらこの先の旅の安堵を念じていたのかと思うと、取り残されたような道標が昔を語りかけているような気がした。
 格式のある門構えの本陣跡は、長い塀に囲まれていて、当時の威厳を残している。この本陣には忠臣蔵に関係する吉良上野介や浅野内匠頭、時代は下って皇女和宮やシーボルトなどが宿泊したと記録があるという。
 北から南下してきた中山道は、追分で東からの東海道に合することで尽き、東海道と合流する。
 私は街道から裏路地をたどってみた。決して綺麗とはいえないが、古い家並みが軒を並べる路地には、昔の風情があふれ出ていた。寺があり、格子のついた宿屋がある。
 大都会と比べてみて、この格差はどれほどのものだろうか、とふと考えさせられた。人間が生活するということの意味をこうした路地を歩いていると、あらためて考えさせられる。
風の音を聞きながら、草花を愛でながら、季節の移りを感じながら、そうして生きていることがいかに大事なことか、都会生活にどっぷり浸かっていると、皆、そんなことを忘れ去ってしまう。恐ろしいことだと思う。

哀愁漂う、おわら風の盆

2018-08-11 19:12:01 | 場所の記憶
                
 八尾の「おわら風の盆」を一度は見たいと思ってから、ひさしい時が流れていた。そして、その日がついにやってきた。
 9月1日からの3日間、いつもは静かな街は人であふれ、哀調をたたえた胡弓の音色と唄にのって、編み笠を目深にかぶった男女が踊りながらせまい街中を練り歩く。
                        
 夕刻6時過ぎ、JR富山駅から高山線に乗る。揺られること20分ほどで越中八尾駅に着いた。車内はおわら盆目当ての老若男女であふれていた。が、事前に乗車整理券が配られていたこともあって、ゆったり座ることができた。
 越中八尾駅を出てしばらく歩く。井田川を渡り、急勾配の坂をのぼると、もうそこは八尾の街中になる。八尾は坂の街なのである。
 坂の途中の、下新町にある八幡社の前では、すでに踊りがはじまっていた。ここで見た踊りの輪は、編み笠をかぶっていなかった。踊りはあくまで地元の人のためにおこなわれているようだった。一気に祭り気分が盛り上がる。
 そこを過ぎ坂をのぼりつめたところに聞名寺(もんみょうじ)という寺があった。八尾の街は、この聞名寺の門前町として発展したとされる。
 さらに、今町、西町と人であふれる狭い街中を行くほどに、幾組みもの町流しの踊りに出会った。地方(じかた)が奏でる胡弓や三味の音に乗せて、編み笠をかぶった法被姿の勇壮な男踊り、それと対照的に、同じく編み笠をかぶり、浴衣姿の華麗な仕草の女踊りがつづく。
 そして、渋い声で唄う、「二百十日に風さえ吹かにゃ 早稲の米食うて(オワラ) 踊ります 来る春風 氷が解ける うれしゃ気ままに (オワラ) 開く梅」の「正調おわら」がいやがうえにも情感を盛り立てる。
 町流しを探し求めるように歩き進んでいるうちに、いつの間にか、町の最奥部にある諏訪町に至った。そこは町流しのハイライトになる場所らしく、狭い通りの左右は、町流しを待つ見物客で埋め尽くされていた。
 私は通りの左右を見渡してみた。踊りばかりに気を取られていたために気づかなかったが、通りに面して、伝統的なつくりの、千本格子を備えた町家が建ち並んでいる。窓にはほの明るい灯りがゆれ、いかにも風の盆にふさわしい佇まいである。それが何とも懐かしく、快い。見ると、和紙を商う店、人形を扱う店、甘味屋があり、喫茶店がある。ここは「日本の道百選」に選ばれている通りなのである。
 ふと、見物客のなかに、清々しい浴衣姿の女性と、スーツ姿の男性が、ふたり寄り添って、なにやら語りあっているのが目に入る。その時、私は、ああ、『風の盆恋唄』(高橋治)の世界だな、と思った。空には弦月が、地上には虫の音がかさなりあいながら鳴いていた。
「逝く人も笠に隠れて風の盆」四万歩



かつて北前船交易で栄えた港町・岩瀬

2018-08-11 09:57:32 | 場所の記憶
 富山市の郊外、富山湾に注ぐ神通川の河口にある岩瀬という地区がある。この地は、幕末から明治にかけて北前船交易で栄えた港町だ。そこは富山駅北口から富山ライトレール富山港線という路面電車で約20分のところにある。
 東岩瀬駅という、瀟洒な駅に降りたち、少し歩くと、目の前に閑静な古町があらわれる。街道(旧北國街道)の両側に古風な商家風の建物が立ち並び、いかにも、ここがかって北前船で賑わった地であることをうかがわせる。
 ゆっくりと、通りの左右に注意を払いながら歩を進める。かつて、この通りには廻船問屋が立ち並んでいたというだけに、格式を感じさせる建物群が並んでいる。いずれも二階建ての町家で、東岩瀬廻船問屋型町家とよばれるものである。  
 なかに往時の廻船問屋の家屋をそのままに残している森家という建物があった。明治初年に建てられた、国の重要指定文化財になっている建物である。
 平入りの表構えは、屋根はむくりのついたコケラ葺き、一階はスムシコのはめられた出格子づくり。二階の卯建のついた壁にはこれまた横組みの竹製のスムシコ(格子)が設えられている。
 「むくり」というふくらみのある屋根は、雨水の流れをよくするようにつくられた日本の伝統的屋根のつくりのひとつである。そして、一、二階の窓のスムシコ。内側から外は見えるが、外からは内が見えない構造になっている。
 内部は前庭を備えた三列四段型で、家屋の裏手にある船着場に通じる通り庭(土間廊下)があり、それに沿って、表から順に母屋、道具蔵、米蔵、肥料蔵と続いていたが、今は、母屋と道具蔵だけが残る。オイとよばれる母屋(居間)は、吹き抜け天井にはむき出しの梁が行き交い、重厚な雰囲気を醸し出している。
 森家の家屋構造を見学して気づいたことがある。そこにつくられている独特の空間概念というものである。それは奥と隙間にあらわれている。人と物との関わりが合理的につながるような空間のつくりである。
 この森家だけでなく、馬場家、米田家、佐藤家、佐渡家、宮城家などといった旧家が今も残り、家の形を残したまま、カフェやギャラリー、土産物店などを営んでいる。
 時が止まったような界隈ではあるが、往時、この通りは人馬行き交う賑やかな通りであったのだろう。そんなことを想像しながら、店を覗きながら、そぞろ歩いていると、なんとも楽しい気分になってくるのである。
 街並みは町の歴史や文化を、そこを訪れる者に語りかけてくれる最良の表現体だ、ということをどこかで聞いたことがあるが、なるほど頷けることである。
 昔町はなぜか懐かしい。どこか床しい。











小京都、城端を歩く

2018-08-09 20:34:24 | 場所の記憶
   越中の小京都と呼ばれる城端(じょうはな)。その雅な響きの街が富山県下にある。地元の観光パンフレッドは「情華舞歩」と書いて城端を紹介している。
 あいの風鉄道、高岡駅から城端線に揺られること50分ほどで終点の城端駅に着く。
 駅から街中へは10分ほど歩くことになるが、街の北側を流れる山田川を渡り、御坊坂をのぼりつめたあたりから、町並がひらけてくる。
 すぐに右手に、いかにも荘厳なたたずまいの寺域が現れた。善徳寺と記された看板が見える。道を回り込んでから、さっそく山門から境内に足を踏み入れてみた。
 まず、目をひくのは、二階建ての山門(大門)である。浄土真宗の寺院によく見られる、豪壮なつくりで、二重門になっている。今から200年も前に建造された大門といわれ、城端のシンボル的存在になっている。
 この門については、つぎのような逸話が残っている。明治に起きた町の大火の際には、町衆が我が身も顧みず、この大門の防火につとめ、火災から守ったというのである
 大門をくぐると正面に本堂がそびえ立つ。入母屋造り、桟瓦葺きの大屋根が圧倒的である。本堂に連なって対面所、大納言の間などの建物が立ち並ぶが、いずれも由緒ある建物群だ。
 この善徳寺、正式な名称は、廓龍山城端別院善徳寺といい、蓮如上人が開基したものだという。
 次に訪れたのは、城端町史館蔵回廊だった。そこには見事な土蔵造りの建物群が残っていた。この土蔵群は、銀行家の野村利兵衛氏が自宅として建造したもので、のちに住宅は解体されたが、土蔵だけが展示施設として改修され、今に残る
 館内の見学ができ、伝統的な土蔵建築の様子が分かる。
 建物の裏側にあたる細道から眺める土蔵群の外観が実に風情があって心地よい。
 地図を眺めてみると分かるが、この地は、山田川と池川のふたつの川に挟まれた舌状段丘に展ける町であることが知れる。そこには、かつて城ケ鼻城という城があったという。
 さらに時代が下って、その城の跡地に浄土真宗派の善徳寺ができ、町は寺内町として発展する。
 寺内町というのは、敵の侵入を防ぐべく、防衛体制を整えた集落のことで、寺域の周囲に堀をめぐらせ、土塁をつくった。要害の地である城跡につくられたのも故なきことではなかったのである。
 この町にはまた、春と秋に行われる祭りがある。春は、5月14、15日の曳山祭。この祭りは城端神明宮の祭礼として行われる祭りで、情緒あふれる男衆の、「空ほの暗き東雲に木の間隠れの時鳥」と唄う、庵唄が流れる庵屋台の祭囃子に導かれて、華麗な曳山の行列が進む。春の到来を告げる祭にふさわしい祭りである。この曳山祭の様子は曳山会館という常設の施設で見物できる
 そして、秋のむぎや祭。これは毎年9月の14、15日の両日に行われるもので、哀愁を帯びた旋律にのったむぎや節と紋付袴に白襷の勇壮なむぎや踊りが披露される。
 ほかに、その向きの人には、芭蕉門人の八十村路通、各務支考などの句碑巡りや、町の南郊・水車の里での水車巡りが楽しめる

姉川古戦場を訪ねて

2018-08-07 12:12:41 | 場所の記憶
 時は元亀元年(1570)、織田信長率いる織田連合軍が浅井、朝倉連合軍と対峙し、その後激突した場所が姉川である。姉川は大河ではなく、東西に東から西に流れ落ち、琵琶湖に注いでいる。
 十一月中旬、私はこの合戦に関係する地を訪ねた。
 まず訪れたのが浅井家代々の居城があった小谷城。城は琵琶湖の東、伊吹山系が西に切れるその縁に位置する標高四九五メートルの小谷山の尾根沿いに築城された山城である。守りに堅固なことで知られ、日本五大山城に数えられている。
 私がこの城に関心を持ったのは、やはりこの城の悲劇の顛末である。織田信長による三年にわたる執拗な攻撃で、ついには落城し、城主は切腹自刃、妻子はかろうじて逃れるが、その顛末がまた数奇というほかない。
 今はただの山にしか過ぎないが、そこがかつての悲劇の山城となれば、眺めるこちらの眼差しも尋常ではない。かつての合戦の有様を想像し、そこでどれだけの人間たちが生死を争ったのかを思えば気分はおのずと重苦しくなるというものだ。
 雲に覆われた空の下、何か悲しみを背負ったような山の姿が痛々しい。
 戦国時代とはいえ、各大名が各々の領分に甘んじていれば何ごともないはずである。が、実際は、そうはいかなかった。誰かが天下統一の覇権を目指せば、まずはその隣国との争いとなる。覇権を押し出して攻める側と自国の領土を安堵させようと守る側。戦いは避けることができなかったといえる。
 織田信長は覇権を目指して湖東の地、浅井家の領土を狙っていた。これに対抗して浅井家は隣国朝倉家と同盟する。領土拡大の野望に走る信長を何とか食い止めなければならない。
 この争いには複雑な事情が絡んでいた。浅井家三代目当主・浅井長政の妻  そもそもこれは政略結婚であったが、こんな結果になるとは予期せぬことだった。政略結婚にあたり、浅井と織田は同盟を結び、その際、浅井の同盟者である朝倉への不戦を誓っていたのである。が、信長はそれを破り、三河の徳川家康と共に越前の朝倉方の城を攻め始めたのだ。
 近江を手中にしなければ天下を取れない。そのためには、まず朝倉氏の領土である越前を服従させ、それから浅井の領国を臣従させる。それが信長の戦略だった。
  長政は板挟みになった。縁戚を優先するか、同盟という義に従うか。長政は悩んだことだろう。が、信長に従えば、やがて自分の所領  かくて以後三年にわたる朝倉、浅井軍と信長連合軍との熾烈な戦いがつづく。そのなかで起きたのが姉川の合戦だった。
 元亀元年六月二十八日、太陽暦でいうと七月三十日。午前6時頃に戦闘開始。浅井軍は姉川の西から、織田軍は東から、姉川を挟んで対峙した。ほどなく、浅井・朝倉連合軍は姉川を渡渉して進撃するが、その陣形が伸びきっているのを見た信長配下の家康軍が側面からこれを攻撃。そのあたりで激戦が繰り広げられた。やがて
朝倉軍が敗走。続いて浅井軍も敗走した。結果的に織田・徳川側が千百余りの敵を討ち取って勝利。
 今も合戦場付近に残る「血原」(公園になっている)や「血川」という地名は往時の激戦ぶりをうかがわせ、背筋が引き締まる。今は広い田園地帯になっているその辺りを歩くと、姉川戦死者の供養碑や陣跡などを彼処に目にする。
 この姉川合戦ののち織田、浅井・朝倉の両勢力は拮抗を保ちながら年を経るが、三年後の一五七三年七月、織田軍に攻められた朝倉氏は越前の一乗谷の戦いで滅亡、同年八月、長政は小谷城が落城。自刃する。二十九歳の若さだった。
 信長の天下統一の野望に翻弄され、ついには命を落とした浅井長政、そしてその家族の離散と敗者の悲劇は今も大地に刻み込まれている。一方の勝者である信長も
十年もたたぬのち、みずからの命が断たれようとは神のみぞ知るである。
 それにしても古戦場跡は何故かこうも無常感を誘うものか。古戦場に立つと、芭蕉の「夏草や兵どもが夢の跡」ではないが、茫々とした寂寥感が迫ってくる。
 今は何ごともなかったような、ただの田園地帯であるが、往時、そこでおびただしい軍兵が血みどろになって戦い、ある者は倒れ、ある者は生き延びて、それぞれの人生を分けあったかと思うと、粛然たる気持ちになってくる。風の中に彼らの雄叫びが聞こえてくるようであった。